深き海より蒼き樹々のつぶやき (original) (raw)
「芙蓉の花が咲いたわよ」
と、庭の手入れを受けもっている女将からうれしそうに声をかけられたのは一昨日のことだった。
「芙蓉ですか」
と、その花の姿かたちをすぐに頭に浮かべられないぼくは、間の抜けた慎重な返事をする。
撫子の花が咲きました
芙蓉の花は枯れたけど
芙蓉の花と聞いてまっさきに頭に浮かんだのは、かなり古いさだまさしさんがまだクレープで活動していたときの「追伸」の歌詞だった。よくよく考えれば、芙蓉もそうだけれど撫子の花もよくは知らない。
「そう、真っ白な花が咲いているから見てきなさいよ」
女将に催促されて、ぼくはその花を見た。思ったよりも大きな花だった。こぶし大とでも言うべきだろうか。これが芙蓉の花なんだ。
そして事件とでもいうべき出来事は起こった。
「昨日はいい休日でしたか?」
と、部下からの問いに笑顔で答えたぼくが視線を送った庭の一隅に、見慣れない花が咲いていた。
(ん?あれはなんの花だろう?)
(ところで白い花が見えないけれど、芙蓉の花はもう枯れてしまったんだろうか?)
一昨日芙蓉の花が咲いていたところ、つまりは見慣れない赤い花を求めてぼくは庭に出てみた。
「えっ?」
近づいてその花をじっくり見ると、思わず声が漏れた。
そんなことがあるんだろうかと半信半疑ではあるけれど、その赤い花は新しく咲いた花ではなくて、どう見てもこの前咲いたばかりの芙蓉の花なのだ。一昨日、白く大きく咲いていた花。まるで、その花が赤く変化したとしか思えない。しかし、ぼくはそんな花を知らないし、何度も言うようにまるで別物のように赤いのだ。
酔芙蓉。その花は、芙蓉のなかでもそう呼ばれる花らしい。
調べたところでは、朝に咲いて午後から徐々に色づいて赤く変色し、その日のうちにしぼんでそのまま落ちてしまうらしい。まさしく酔って顔が赤くなるさまと似ていることから、その名がついたとのこと。
ただ、旅館の芙蓉はもう少し時間がゆるやかというか、長生きというか、二日ほどかけて赤く変色し、その後もまた二日ほど赤いまま咲いていた。
ご存知の方からしたらなにを大騒ぎしているんだと思うかもしれないけれど、ぼくは生まれて初めて酔芙蓉なる花を知って感動している。前知識もなく出合頭のように酔芙蓉と遭遇できたのも幸運だったのかもしれない。白く咲いた花が知らない間に赤く変色して驚かされたのが楽しかった。
聞かれもしないのに、
「あの花はですね、酔芙蓉と言いまして…」
と、説明しがちだったりする。
あなたが見た白い花、ひょっとすると次に見たときは赤いかもしれませんよ。
ものの本によると、いまスペシャルティーコーヒーというのがブームらしい。そしてその一杯を求めて、世界中の人々が日本にやってきているという。それは外国観光客人気ナンバーワンの京都でも起きている現象らしく、%みたいな独特なマークを目にしたのはどれくらい前のことだろう?やたらと白くて清潔で窓が大きくて店内も丸見えなんだけれど、一見しても何のお店か判然としない。どうやらコーヒーを売っているようではあるが、店内にはくつろげるような椅子やテーブルも見当たらなくて、やっぱり店の正体がいまいちわからないままその前を通った記憶がある。
2024年の9月、人生で初めて狩野派の絵を見たいと思ったぼくは、JR二条駅から二条城を目指していた。時刻は9時より少し早い時間だった。車線の多い二条通りではなく御池通りを歩いていると、運よく看板に気付いた。
CLAMP COFFEE SARASA
確か、二条城近くのコーヒー店をググったときに見た覚えのある名前だ。スマホを操作して営業時間を確認すると9時開店となっていた。少しばかり早いけれどぼくはその敷地の奥まったところ、お店があるであろう方向に足を踏み入れた。鞄の中にはさっき駅前の志津屋で買った朝ごはんがわりのサンドイッチが入っているけれど、お昼ごはんにまわしてもいい。
開店5分前、店内に人影が見える。店の扉につづく細い通路にちょうど腰掛けるスペースがあったので座った。店のスタッフは時間を厳守する人たちのようだ。早く入れてくれとは思わない。同じサービス業としてそんなことには頓着しないし、そんなことで評価もしない。ほかに女性のひとり客がいらした。人気店だと聞いていたので行列がなくて安心した。
時間きっかりに店の扉が開いた。店の中は想像していたよりもこぢんまりとしていた。とりあえず席につこうとすると、「ご注文とお会計を先にお願いします」と声をかけられた。そういうシステムらしい。もちろん、それならそうと言っておいてくれ、なんて思わない。だって、たったいまそう説明してくれたのだから。
ただ少しだけ困ったのが、オーダーの第一声が「どの豆にしますか?」だったことだ。そんな心の準備はできていなかった。いま、この豆のコーヒーが飲みたいという明白な欲求もなかったし、元々そんなにコーヒーに詳しいというわけでもない。
なにがありますか?と、還暦になるまでに身についた処世術を活用しながら、ぼくは尋ねる。
「エチオピアがあります」
「エチオピアいいですね。それでお願いします」
「浅煎りにしますか、深煎りにしますか?」
「浅煎りで」と、当然のように答えた。まさか浅煎りか深煎りかまで尋ねられるとは思ってなかったけれど、かなりうまく内心の焦りを隠して答えられた気がする。
そして、朝ごはんがわりのトーストをつけ加えた。
会計を済ませて、「お好きな席へどうぞ」と言われるままぼくは窓際の席につく。しばらく今日の予定のおさらいでもしていよう。
「ほかのお客様は写さないようにしてくださいね」
スタッフがひとり客の女性に声をかけた。店内の写真を撮っていたようだ。呑気にもそんなにお客さんいたっけ?と店内を振り返ると、いつの間にか店内は賑わっていた。
いつの間に?
髭面の白人男性が、こちらを見てニコッと笑っている。ぼくの後ろには窓があるだけだ。ぼく以外には誰も見えないはずなんで、ぼくに笑ったんだと思う。まるで、「いいな、もうコーヒー注文しのかよ」って感じで。
エチオピア豆の浅煎りコーヒーとバタートースト。
どう考えても、今日はいい一日になる。
あなたにとってぼくの好きが重荷であったり、嫌悪の対象であるなら、ぼくはあなたを好きでいてはいけない。
あなたが好きだから、あなたを好きではいられない。
あなたを好きでないのは、あなたが好きだから。
いったいぼくの好きはどこへ行ってしまうのだろう?
離れてしまえばいいのに、離れられない。
あきらめてしまえばいいのに、あきらめられない。
傷つくのがイヤなら、なかったことにして忘れてしまえばラクなのに。
連日というわけではないけれど、今日もまた真夜中3時過ぎに目を覚ました。眠ったのは夜中過ぎだったので3時間足らずの睡眠だ。十分な睡眠時間とは言えない。もう一度眠りにつこうかと理性的なぼくの一部は考える。そして今日は理性的ではないぼくの一部が起きることを選択した。台所でインスタントのあたたかい飲み物を用意して戻り、ワイヤレスイヤホンを耳に装着して古いiPadを起動する。物音に反応したのか、隣室で眠る妻の大きな寝返りが聞こえてくる。
若い頃、特に時間がたっぷりあった学生の頃なら、こんな勝手気ままな振る舞いが当たり前だった。自分で金を稼いでもないのに、家の中で傍若無人に好き勝手に過ごしていた。それが傍若無人だとは微塵も思わずに。
けれど、いまぼくは60歳を過ぎている。加齢によって早起きになったとは言え、定年退職後も勤めているわけで、決して起き出して何かをはじめていいような時刻ではない。なのにぼくはこうして隣室に一応は気を使いながらもキーボードを叩いている。まったくもって厄介だろうなと、妻の立場に立って思いもする。
すでに映画化もされたものの脚本を娘が書いていると知ったとき、彼女と父娘になって30年足らずのあいだでもっとも「血」を意識した。そして暗い部屋のなか、そこだけ明るいモニタを見ながらキーボードを叩く娘の姿が思い浮かんで、ぼくの心臓を鷲掴みにした。
もう少しすれば夜が明けていく。こんな夜を数えきれないほど越えてきて、こんな朝を数えきれないほど迎えてきた。だからなんだってことなんだけど、いつまでこんなことを繰り返すんだろう。そんなことを思ったということが、終わりの予兆であるような気もするし、この先がどれだけあるかわからないけれど、ずっとこんな暮らしをつづけていくような気もする。
2024年10月9日午前5時すぎ。ぼくはこんなふうに生きている。
先週の「情熱大陸」だったろうか、作家の北方謙三氏がとりあげられていた。
作家としての努力みたいなことを尋ねられて、
「結局は、継続する力なんだよ。才能がなくても、つづけられるってことが大事」
みたいな趣旨のことを答えていたと思う。
やっぱり、そうなんだよな、というのが還暦も過ぎた人間が感じるところだ。
それは作家とか、書くことを生業にするってこと以外にも当てはまるんだろうし、誰もが思うことでもあるかもしれない。ただ、つづけられないんだよ。それをつづけられることも才能なんだよ。とも、思う。
二条城に行ってみようと思ったきっかけは、辻惟雄さんの「最後に、絵を語る。」という本だった。恥ずかしながら、還暦を過ぎる歳まで一度も二条城に行ったことがなかった。茨木市という比較的京都寄りの大阪で育ち、京都は行き慣れた場所でもあったはずなのに。さらに言えば社会人の頃には京都エリアを担当して城の横はよく通っていたし、その駐車場に止まるたくさんの観光バスや人の列を見ていたはずなのに。
二条城になにがあるのかをすっかり忘れていたぼくは、辻さんの本でやっとそこには狩野派の障壁画がたくさんあることを思い出した。「そうか、狩野派か」と、日本史の授業で狩野正信だ、元信だ、永徳だ、探幽だと習い、試験ではずいぶん苦しめられたことを思い出す。けれどそれは試験のための棒読みと暗記だけのことで、いまいち狩野派の作品を見たことがあるのかと考えると思い浮かぶものがなかった。
というわけで、二条城に出かけてみることにした。
とにかく、二条城はその大きさに驚かされる。ひとつひとつの広間が大きい。数えきれないほどの畳の波。見上げれば頭上高くに設けられた天井にも絵が描かれている。続き間においては、襖とその高い天井の隙間を埋めるために不釣り合いなほどに大きくならざるをえない壮大な欄間。夥しい数の障壁画。夥しい数の襖絵。広い板の間の廊下。
圧巻、という言葉が一番ふさわしいだろうか。
しかしながら、なにかが腑に落ちない。その荘厳さに圧倒されながらも、どこか違和感を感じるというか、納得いかない自分がいる。それなりに感動はした。感動はしたけれど、つまらないのだ。なぜなんだろう?
今月から公開されている本丸御殿に向かって二の丸庭園を歩きながら、ぼくはこのつまらなさについて考えていた。そしてふと頭に浮かんだのが、はるか30年ほど前、わが家から車で20分ほどの距離にある大乗寺(通称応挙寺)で応挙(丸山一派)の絵を見た時の記憶だ。あの時はまだ日本画に露ほども興味がなく、義父に勧められるまま仕方なくその寺を訪ねたのだった。そしてやはり応挙もつまらなかった。ただそこに上手な絵が(その頃はそのうまさもまったくわからなかったけれど)、あっただけのことだった。
狩野探幽と円山応挙、もしくは狩野派と円山派。両者に共通するものについて考えていたら、辻惟雄氏の本の一節を思い出した。
・・・(狩野)元信と応挙は、それ以前の画法や様式を総合して新しい「型」を確立し、それを後世に継承させたという点で共通します。応挙が一代で作り上げた画風も、円山四条派によって近代まで受け継がれていきました。巨匠というのはそういう大先生のことで、今になっていくら人気が出たといっても、若冲や蕭白を巨匠とは呼べないんですね。弟子の数もまるで違います。(辻惟雄「最後に、絵を語る。」第3章応挙と蘆雪 p.106)
そうだ、彼ら(もしくは彼らの属している一派)は、模範なり正解となる「型」をもつ正統派なのだ。つまらないとかおもしろというのではなく、それは「型」にまで昇華されたものなのだ。そしてその「型」は、400年にもわたって受け継がれていったのだから、その素晴らしさは歴史が実証していると言っていい。
おそらく、つまらないなんていうぼくの感想の方がよっぽどつまらない。
けれど、やっぱりつまらないのだ。
それは狩野派が悪いわけではないし、応挙が悪いわけでもない。おそらくは日本人であるぼくのなかには、これまでのあいだに知らず知らずのうちに狩野派も円山派も内在していたのだ。狩野的なもの、応挙的なもの、城の障壁画的なもの、桃山とか室町とか江戸的なものなどなど、それはあまりにも強固で巨大であるがために、不勉強なぼくのなかにもしっかりと巣食っていたというわけだ。
つまり、すでに知っているからつまらないのだ。
ーーーそれにしても、探幽以降の江戸狩野の作品はさほど評価されていませんね。
探幽様式は新たな「型」として町狩野のレベルまで浸透しましたが、江戸時代を通じて狩野派自体が「型」の模倣に終始し、その絵が形骸化してしまったという面を持っています。(同書 第2章狩野派 p,94)
これは探幽よりももっと先の話だ。ただ、いくら「型」のできがよくて強固で強大であったとしても、縮小再生産を繰り返していてはいつか見向きもされなくなっていく。少なくとも400年もの長きにわたって狩野派が存続したということは、その節々において新たな「型」への変形なり、より強固で巨大な「型」への置き換えがあったからにほかならない。
たぶん、こうだ。つまらないと言われるほどに正統派であるからこそ、狩野派であり円山派なのだ。ぼくがつまらないと呟こうが、狩野派も円山派も微塵も揺るがない。繰り返しになるが、だから正統派なのだ。彼らは、若冲でも蕭白でも、久隅守景でもなければ英一蝶でもなければ、歌麿でもない。(もっと破壊的なまでの「型」の強化という意味では、長沢芦雪はもっと可能性があった気もしてもったいない)