未来社会の道しるべ (original) (raw)

アメリカに潰された政治家たち」(孫崎亨著、河出文庫)という本があります。「戦後史の正体」(孫崎享著、創元社)の「日本の首相が反米ならアメリカに潰される」説をより詳しくしたものです。

牽強付会(こじつけ)と私も考えますが、本では、ほぼ全ての日本の首相の退陣時期がアメリカの陰謀だけで見事に説明されています。首相の地位は、選挙、党内支持、世論、産業や税制や福祉や教育などの国内政策、外交など多くの要因で決まります。外交にしても、アメリカ以外に、中国、韓国、北朝鮮、ロシア、東南アジア、ヨーロッパ、オーストラリアなど、多くの関係国があります。それら他の要因を全て無視して、アメリカとの関係だけで首相の地位が説明できてしまう事実に、それなりに牽強付会だとしても、私は驚いてしまいます。

歴代首相のうち、表紙にもある岸信介田中角栄小沢一郎(小沢の場合は首相就任阻止)に関しては、十分な証拠提示から、アメリカの陰謀で潰されたのだろうと私も考えます。

この孫崎説が正しいなら、日米地位協定の改定を外交政策の目玉に据えている石破政権は、短命に終わることになります。もっともアメリカの陰謀と分からないように、アメリカは工作するでしょう。

それはともかく日米地位協定など、右翼だろうが左翼だろうが、日本人なら全員反対以外ありえません。にもかかわらず、「日米地位協定の改定を主張するなど、石破茂はけしからん」と批判する記事が右翼の読売新聞にも、左翼の朝日新聞にも、既にいくつも出ているのは確かに不思議です。

立花隆といえば、1974年10月10日に文芸春秋に載った「田中角栄研究 その金脈と人脈」が出世作です。この記事により、田中角栄首相が辞任に追い込まれて、その後、田中は首相再任を狙っていたものの、果たせることなく政治生命を終えています。「戦後史の正体」(孫崎享著、創元社)にある通り、立花隆は日本史上で政治を最も動かした記事を執筆したと言えるでしょう。

私も知らなかったのですが、この記事が出ても、当初、マスコミはなんら反応せず、田中角栄の権力基盤に大きな影響はなかったようです。しかし、10月22日に田中首相外国特派員協会に講演に出ると、アメリカ人記者を中心に徹底的に「田中角栄研究 その金脈と人脈」について追及されました。

当然ながら、その外国人記者たちの多くは日本語を読めません。日本の新聞がどこも取り上げていない記事を、5名もの外国人記者が次つぎに質問したのは奇妙としか言いようがありません。

この外国特派員協会の講演の翌日朝刊で、それまで無視していた朝日新聞と読売新聞がともに一面トップで立花隆の記事を取り上げたのです。「戦後史の正体」はこの動きを「なんのことはない。またもや朝日新聞と読売新聞が火をつけているのです」と表現しています。朝日と読売は、戦後かなりの時期まで(あるいは今も)アメリカの影響が大きかったようです。

この動きに反田中の自民党議員も足並みをそろえ、さらには木川田一隆・東電社長(元経済同友会代表幹事)、中山素平(元経済同友会代表幹事)の経済界も反田中に動きます。前回の記事に書いた通り、孫崎によると、経済同友会アメリカの言いなりの経済団体です。この反田中の動きに抗しきれず、翌月の11月26日、田中は首相を辞任します。

念のため付け加えておくと、この首相辞任時、後に田中が有罪判決を受けるロッキード事件はまだ発生していません。だから当然、立花隆の「田中角栄研究 その金脈と人脈」にもロッキード事件のロの字もありません。立花隆の記事に田中角栄の違法行為はなんら書かれておらず、当時の自民党有力議員で横行していた田中の悪質な金脈と人脈関係を暴いた程度です。

私が不思議でならないのは、こんな奇妙な経緯なら、誰もがアメリカの陰謀を疑います。ロッキード事件については、アメリカの陰謀だったと中曽根康弘が証言し、キッシンジャーも暗に認めています。アメリカが田中を嫌った理由は、中曽根は石油問題だと述べて、孫崎は中国問題と述べています。どちらにせよ、ロッキード事件アメリカの陰謀であるなら、必然的に、田中の首相辞任もアメリカの陰謀だろうと普通なら考えます。上記のように、日本のマスコミ全てが無視していた立花隆のゴシップ記事を、突如として、外国人記者が5名も取り上げるなんて異常事態が発生していたなら、なおのことです。

そのことの異常さに最も気づくべきなのは「知の巨人」とも称された立花隆本人でしょう。「なぜアメリカ人が自分の記事をこんな場で取り上げるんだ。いつ英語に翻訳されたんだ」と考えない訳がありません。しかし、立花隆本人は死ぬまで一度もその疑問を口に出していません。そうなると、当然、立花隆アメリカのスパイではないか、との疑惑が出るのに、そんな疑惑を聞いたことがあるでしょうか。

もし立花隆アメリカのスパイなら、立花隆の大きな謎の一つが説明できてしまいます。それは「アメリカ人ジャーナリストですら取材できていないアメリカ人宇宙飛行士たちに、なぜ日本人ジャーナリストの立花隆が取材できたのか」という謎です。

アメリカ人の何名もの宇宙飛行士への直接対話する機会なんて、NASAと強いコネでもなければ不可能です。いえ、NASAと強いコネがあるジャーナリストだってアメリカに確実にいたはずですが、ほぼ誰もインタビューできていません。ソ連もそうですが、アメリカも宇宙飛行士を国家機密にしていました。宇宙飛行士たちが秘密のベールに包まれたことも原因となって、「NASAの月面着陸は嘘だった。実際は地球上で撮影されていた」というトンデモ説が登場しています。

そんなアメリカの国家機密の宇宙飛行士に何名も、宇宙開発後進国日本(当時は日本人宇宙飛行士はゼロでした)で大手マスコミにも所属していない立花隆が、一体全体なぜインタビューできたのでしょうか。立花隆に独自のアメリカとのコネがあったことは間違いありませんが、どうやってそんなコネができたのでしょうか。

それはやはり、「田中角栄研究 その金脈と人脈」でしょう。この記事によって、立花隆に独自のアメリカとのコネができた可能性が最も高いはずです。

余談ですが、「宇宙からの帰還」(立花隆著、中公文庫)におさめられた宇宙飛行士のインタビュー集で、立花隆は突如として超科学を持ち出して、宇宙飛行士たちを返答に困らせています。もちろん、知的能力も性格も優れた宇宙飛行士たちなので、超科学の質問からうまく逃げて、心の中では立花隆を軽蔑していても、それを気づかせないように返答してはいます。それにしても、科学技術の偉業を成し遂げた人たちにインタビューする千載一遇の機会に、神だの神秘体験だのを聴くなんて、日本の恥です。

立花隆アメリカのスパイと気づかない日本人が多いのはまだしも、宇宙飛行士に超科学の話を持ち出す立花隆を「知の巨人」と崇める日本人が多いのは、残念でなりません。

「戦後史の正体」(孫崎享著、創元社)では、60年安保闘争アメリカの陰謀だと書いています。あの日本史上最大の国会デモがアメリカに仕組まれたものだと証明しています(あるいは証明しようとしています)。

「バカをいえ! なぜアメリカが日米安保条約の反対デモを手助けするのか。アメリカは日米安保条約を結びたくないと主張したいわけか?」

そう考えるのが普通でしょう。私もそう考えました。

当然ながら、アメリカは日米安保条約を結びたいに決まっています。一方で、アメリカは岸首相を退陣させたいと考えていました。だから、国会内で安保条約は成立させて、国会外で安保反対デモを応援することで、目的通り、岸首相を辞任に追い込みました。

「意味が分からない。なぜそんな遠回りの方法を使うのか。岸を退陣させたいなら、自民党内の権力闘争に陰謀を加える方法が普通だろう」

そんな反論もあるでしょう。孫崎は「確証なし」と認めながら、それについて以下のように推測しています。

1,岸首相の自主独立路線(孫崎によると岸は日米安保条約だけでなく、本命の日米地位協定の改定までするつもりだった)に危惧をもった米軍およびCIA関係者が工作を行って岸政権を倒そうとした

2,ところが岸の党内基盤および官界の掌握力は強く、政権内部から切り崩すという通常の手段が通じなかった

3,そこで経済同友会などから(アメリカが)資金提供をして、独裁国に対してよく用いられる反政府デモの手法を使うことになった

4,ところが6月15日のデモで女子東大生が死亡し、安保闘争が爆発的に盛り上がったため、岸首相の退陣の見通しが立ったこともあり、翌16日からはデモを押さえこむ方向で動いた

このうち「3」は説明が必要でしょう。

60年安保闘争で中心勢力となったのは全学連であり、全学連の中心勢力はブントです。ブントは1958年に民青(日本共産党の学生組織)から独立(ケンカ別れ)した新左翼であり、当初は一台の電話機の電話代さえ半年も未払いになるほど金がありませんでした。それが安保闘争の最盛期になると、ブントは何十台ものバスをチャーターして学生たちを国会議事堂前まで運んでいました。この資金源は、大衆からのカンパもあるものの、戦前の武装共産党時代を主導して、収監中に転向して右翼となった田中清玄でした。田中清玄は、他の財界人たちをブントに紹介しており、その中には経済同友会の中山素平と今里広記もいました。この経済同友会は、「戦後史の正体」によると、戦後の財閥解体後、「アメリカに協力することに全く抵抗のない人びとを日本の経済界の中止にすえる」ために創設されました。つまり、ブントは田中のようなCIA協力者や、中山や今里のようなアメリカの従僕たちから資金提供を受けることで、日本史上最大の国会デモを実現できていたのです。これら背後にアメリカのいる3人から資金提供を受けていたことは、後にブントの主導者たちが認めています。

ここで興味深い、というか矛盾することを「戦後史の正体」から引用しておくと、アメリカは自ら煽っておきながら、60年安保のデモの勢いに驚いてもいたそうです。デモ参加者たちが「アメリカのせいで日本が再び戦争に巻き込まれる」と抗議していたことをアメリカは熟知していました。あんな大規模デモを起こさせるほど、アメリカが日本人に嫌われているとは思っていなかったようです。1961年から駐日アメリカ大使となったライシャワーは日本の保守派だけでなく、進歩派とも交流を深めることを重視しましたが、それは60年安保のデモに脅威を感じていたからのようです。

このように、「戦後史の正体」を読んでいると、アメリカが日本を裏で操作していることが分かると同時に、アメリカの工作のちぐはぐさも見えてきます。60年安保がいい例ですが、一方で新安保条約にしても旧安保条約と実質的になにも変わらないように工作して、もう一方で安保反対運動に資金援助して、もう一方で安保反対運動の勢いに驚いています。これは米軍(国防総省)、国務省、CIAが十分に意思疎通をとっていないために生じた混乱でしょう。この戦後のアメリカの工作による混乱は、戦前の中国、特に1911年の辛亥革命から1937年の日中戦争までの日本人大陸浪人のたちの暗躍による混乱と似ている気がします。アメリカによるベトナム戦争と、日本による満州事変から日中戦争が似ているように、です。

話を60年安保に戻します。60年安保の国会デモがアメリカの工作によるものとの説は、当時の政治家、マスコミ、国民のどれくらいが知っていたのでしょうか。あるいは、今も日本人のどれくらいが知っているのでしょうか。日本史上最大の民衆デモ、まるで市民革命のような盛り上がりが、アメリカの手の平の上で踊らされていただけなのに、日本人の誰もがそれに気づかないままであった、なんてありえるのでしょうか。

もちろん、上記のアメリカの走狗の3人は資金提供しただけです。一番重要なのは民衆の怒りであり、それは自然発生したものだと思いたいです。

ただし、「戦後史の正体」によると、マスコミはしばしばアメリカの言いなりになっています。実際、孫崎は6月17日の異例の全国新聞七社共同宣言「その理由のいかんを問わず、暴力を用いて事を運ばんとすることは、断じて許されるべきではない」(実質的な国会デモの批判)がアメリカの指示によるものと断定しています。

確かに、あれほど安保反対運動を煽っていたマスコミが、突如として安保反対運動を一斉に非難するのは異常です。なんらかの陰謀があったことは間違いないと私も考えます。

しかし、それ以前のマスコミの安保条約反対は、記者たちの自由意思によるもののはずです。とはいえ、上記の通り、安保反対の国会デモもアメリカからの資金援助があったことも事実のようです。だから、七社共同宣言以前のマスコミの安保反対運動も、アメリカの陰謀の影響はあったのかもしれません。そして、マスコミの安保反対運動がなければ、民衆の安保反対運動は盛り上がらず、国会前にあれほど熱狂した大衆が集まらなかったのも、事実のはずです。

こうなってくると、日本史上最大のデモも、どこからか日本人の自由意思で、どこまでがアメリカの陰謀なのかも、もはや誰にも分らないはずです。あるいは、全てアメリカの陰謀に踊らされていただけなのかもしれません。

立花隆はCIA協力者である」の記事で「戦後史の正体」に書かれた衝撃の事実をさらに記録しておきます

アメリカは日本の防衛義務がある」

多くの日本人はそう考えています。外務省のHPにもそう書かれていますし、全ての日本の外交政策はそれを前提に進めています。

「日本にある米軍基地の7割は沖縄に集中している」

沖縄問題でよく出てくる事実です。鳩山由紀夫元首相が主張したように、これを解決するためには「沖縄の米軍基地を日本のどこかに移動する」か「沖縄の米軍基地を日本から撤去する」のどれかを選択することになります。このうち「沖縄の米軍基地を日本から撤去する」は論外と、ろくに検討すらされません。なぜなら「日本は世界最強の米軍が守ってくれている。米軍がいなくなれば、日本の安全保障は維持できない」からです。

米軍の抑止力がなくなれば、北朝鮮が遠慮なくミサイルを撃ち込むかもしれない、ロシアが攻めてくるかもしれない、最低でも中国は尖閣諸島を占領するに違いない、などと日本人は考えているようです。

しかし、実態は、アメリカは日本を防衛しないし、する気もありません。

多くの日本人はこれを戯言や陰謀論と考えるでしょう。10年以上前に「戦後史の正体」(孫崎享著、創元社)を読んだ私も半信半疑でした。しかし、それから10年たって、「日本が攻められた時、アメリカは日本を防衛しなければならない」は嘘だと確信したので、今回記事にしています。

アメリカの日本防衛義務は、新日米安保条約の第5条を根拠とされています。これは以下の文になります。

「各締約国(日本とアメリカ)は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宜言する」

一方、アメリカのNATO加盟国の防衛義務は以下のNATO条約第5条を根拠としています。

「条約締結国(1カ国に対してでも複数国に対してでも)に対する武力攻撃は、全締結国に対する攻撃と見なし、そのような武力攻撃が発生した場合、全締結国は国連憲章第51条に規定されている個別的自衛権または集団的自衛権を行使して、北大西洋地域の安全を回復し平和を維持するために必要と認められる軍事力の使用を含んだ行動を直ちに取って被攻撃国を援助する」

一読しただけで、なにが違うか分からないでしょう。最大の違いは、日米安保条約に「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」がある点です。つまり、たとえ日本が攻撃されても、アメリカ政府が拒否すれば、アメリカは日本を防衛しなくてもいいのです。

もっとも、それが本質でもないと私は考えます。本質は、アメリカはNATO加盟国を守る意思は強くても、日本を守る意思が弱いことです。もちろん、ほぼ全てのアメリカ人は日本を同盟国だと考えていますし、日本が北朝鮮や中国から攻撃されたら、激しい非難はします。しかし、そのためにアメリカが北朝鮮や中国に武力で報復するかどうかは、場合によるとしか言いようがありません。だから、義務ではないのです。

たとえば、「尖閣諸島で日中が戦争すれば」で書いたように、尖閣諸島に中国が攻めてきたら、日本は確実に負けます。ただし、かりに日本が負けても、日米安保条約により、アメリカが日本を助けてくれる、と考えている日本人は少なくないでしょう。あるいは、これが日本の公式見解なのかもしれません。

残念ながら、その可能性はほぼゼロだと断定します。確かに、2010年にもヒラリー国務長官が「尖閣諸島は安保条約の対象である」と明言していますし、外務省のHPにも尖閣諸島日米安保条約の対象である証拠がいくつか載っています。これについての反論も私は書けますが、そこは重要でないので省略します。

重要なのは、「尖閣諸島で日中が戦争すれば」にも書いたように、こんなアメリカ本土から遠く離れた無人島のために、アメリカが中国に武力攻撃するわけがないことです。もっと書けば、「アメリカは中国に負ける」(孫崎亨著、河出文庫)によると、尖閣諸島で中国とアメリカが戦争しても、アメリカが負けるとアメリカのランド研究所などが予想しています。

もっとも、「なぜアメリカは朝鮮戦争に参戦したのか」に書いたように、中国の共産主義化を見逃したアメリカがなぜか朝鮮半島共産主義化を全力で阻止したりしたので、論理的に、尖閣諸島のためにアメリカが中国と武力衝突する理由はないのですが、非論理的に、アメリカが中国と武力衝突する可能性はあります。ただし、その可能性は極めて低いと日本人は知っておくべきです

ところで、かりに中国が尖閣諸島を軍事占領して、アメリカがなにもしなかったとしたら、日本はアメリカに日米安保条約違反だと批判するのでしょうか。

その可能性は低いと推測します。十中八九、日本政府は「アメリカに日本の防衛義務はある。日米安保条約にある通り、アメリカの手続きに従って防衛義務は履行される」と真顔で言うでしょう。「なにを言っているんだ! 日米安保条約の対象範囲と明言されていた尖閣諸島が中国に攻撃されたのに、現にアメリカはなにもしてくれなかったじゃないか!」と批判する国会議員も必ず出てきますが、「日米安全保障条約はなんら変わっていないので、これまで通りにアメリカに日本の防衛義務はあると解釈しております」と言い逃れをするに違いありません。

「日本が攻撃されても、アメリカ政府が拒否すれば、アメリカは日本を守らなくていい」なら、「日本にアメリカの防衛義務はない」と普通なら解釈しますが、「陸海空軍その他の戦力を保持しない」憲法を持つ日本が、陸海空軍を持っているのですから、そんな解釈も成り立つのでしょう。

だから、尖閣諸島を中国が実行支配して、アメリカがなにもしなかったら、「アメリカには日本の防衛義務がある」は嘘だった、と日本人の多くが気づくかと問われたら、私は「気づかない可能性が高い」と答えざるを得ません。

そもそも、日米安全保障条約および日米地位協定は、本質的になんのためにあるかと言えば、GHQ時代の占領軍(米軍)に認めていた特権を継続させるために存在しています。では、占領軍はなんのために日本にいたのでしょうか。その理由は一つではありませんが、最大の理由といえるものが、日本が再びアメリカの敵国になることを防ぐためです。

だから、日米安保条約で「アメリカが日本を守ってくれる」というのは間違いで、「小沢一郎の『自衛隊の国連軍化』案」に書いたように、日米安保条約で「アメリカは日本の再軍備を防ぎたい」のです。在日米軍の仮想敵国は、中国やロシアや北朝鮮も含まれるにしろ、最大の敵は日本なのです。実質は「米軍は日本を攻撃するためにいる」のに、名目は「米軍は日本を守るためにいる」と大嘘をついています。その大嘘に占領統治終了後70年間も、上から下まで騙され続けている、世界史上稀にみるおめでたい国民が日本人です。

ここまで見事に騙され続けている国は、他にないでしょう。日本同様、アメリカが武力で攻め込んで、現地に親米政権を樹立させた国は、21世紀だとアフガニスタンイラクがありますが、どちらも日本人ほどうまく騙せていません。

孫崎によると、CIA不要論はこれまで何度も出てきましたが、そのたびにCIAは「日本を見ろ。あれこそCIAの傑作だ」と主張するそうです。全くその通りです。

陰謀論もいいかげんにしろ。孫崎に洗脳されすぎだ」

そんな反論が聞こえてきそうです。10年前、私も半信半疑でした。しかし、10年間、どんな本を読んでも、上記の孫崎説を覆せる証拠は見つけられず、むしろ、孫崎説が正しい証拠しか見つけられませんでした。

この仮説をすぐには信じられないにしろ、かりにこの仮説が事実であれば、この日米同盟の本質を日本が見抜けない限り、日本が「like a boy of twelve」から脱却できないことは同意してもらえるのではないでしょうか。

枝葉末節の反論はいくらでも出せることは知っています。このブログで無益な議論をするつもりもありません。それを知った上で、本質的な反論をしたい方は、下に書いてもらえると嬉しいです。

10年以上前、「戦後史の正体」(孫崎享著、創元社)を初めて読んだ時の衝撃は忘れられません。「60年安保のデモはアメリカが仕組んだものだ」、「立花隆の出世記事『田中角栄研究~その金脈と人脈』は当初誰も驚かなかった。アメリカが大ニュースに仕立てあげた」などを検証可能な証拠をあげながら、元外務官僚の孫崎が主張しています。さらには、戦後の歴代首相はほぼ全員、反米だとアメリカの陰謀で潰されていることを示しています。

その後、「知ってはいけない」(矢部宏治著、講談社現代新書)を読んで、日本が第二次大戦後の占領軍と同様の特権を今もアメリカ軍に認めていると知って、「戦後史の正体」のその部分は事実だったと改めて認識しました。

「戦後史の正体」には、寺崎太郎という元外務次官の次の言葉を引用しています。

「周知の通り、日本が置かれているサンフランシスコ体制は、時間的には平和条約(講和条約)―安保条約―行政協定(今の地位協定)の順序でできた。だが、それがもつ真の意義は、まさにその逆で、行政協定のための安保条約、安保条約のための平和条約でしかなかったことは、今日までに明らかになっている」

地位協定のための安保条約、安保条約のためのサンフランシスコ講和条約」は本質を突いているせいか、孫崎の他の本で何回も出てくる言葉です。

日本は今も不平等条約を結んでいる」にも書いた通り、日米安保条約日米地位協定と日米密約には、以下のような公式が成立します。

「古くて都合の悪い取り決め」=「新しく見かけのよい取り決め」+「密約」

この公式は、既に1951年には使われていました。たとえば、1951年の行政協定には「アメリカは駐留を希望する地点について、講和発効後90日以内に日本側と協議し、日本側の同意を得なければならない。ただし90日以内に協議が整わなければ、整うまで暫定的にその地点に留まってよい」という規定がありました。つまり「日米で話し合いがまとまらなければいつまでも米軍基地はあっていい」のです。これでは10年、20年、場合によっては50年後も、日本に米軍基地が駐留する可能性もあります(実際は50年どころか、70年以上駐留しています)。これでは独立する意味がありません。それに気づいた宮沢喜一(当時は大蔵官僚)などが外務省にこの規定を削るように要望しました。そのため、行政協定からこの規定は消えたものの、「岡崎・ラスク交換公文」に同じ規定が書き込まれていました。「交換公文」は公には発表しないが、ほとんど同じような効力を持つらしいので、実質的な密約です。つまり、米軍駐留権を吉田首相が認めたからこそ日本の独立を認めたので、本来はサンフランシスコ講和条約に明記すべきですが、こんなアメリカによる日本の主権侵害条項を48ヶ国も署名する書類に入れられるはずもなく、だとしたら日本とアメリカだけの日米安保条約に入れるべきですが、国会の批准時に大反発は必至なため、こっそり行政協定に入れましたが、それでも宮沢喜一らが反対したので、「交換文書」という非公式の約束にしたのです。

なお、この岡崎・ラスク交換文書で出てくる「岡崎」とは吉田内閣での外務大臣です。「戦後史の正体」によると、吉田は対米追従路線の創始者で、岡崎は吉田の腰ぎんちゃくです。

サンフランシスコ講和条約まで、日本はGHQに実質的に支配されていました。だから、当時の日本の主要政治家たちが、「売国奴的行為(戦後史の正体の表現)」をしたのは無理もないかもしれません。しかし、それから70年たった今も、「アメリカが望むだけの軍隊を、望む場所に(日本の全ての場所に)、望む期間だけ駐留させる権利を持つ」状態が続いているのはなぜでしょうか。

本によると、鳩山由紀夫元首相が辞任したのも、鳩山が「普天間基地最低でも県外」と主張したことが原因です。それだけが原因のわけがないと私も考えますが、普天間の県外移転案が他の多くの政治家やマスメディアから批判されたことは、私もよく覚えている事実です。「既に辺野古移転で日米合意している」「日米関係が損なわれる」「海兵隊は沖縄にいるからこそ抑止力になる」などが主な反対理由ですが、孫崎が言うように、説得力のある反論と思えません。むしろ、「普天間基地最低でも県外移転」との鳩山首相の意見に、同じ民主党の北沢防衛大臣や岡田外務大臣までが反対する方が異常です。たかが普天間基地の県外移転すらできないのなら、ましてそう主張するだけで首相のクビが飛ぶのなら、日本から全ての米軍基地をなくすなど、夢のまた夢なのも事実です。

日本は今も不平等条約を結んでいる」で書いたように、日本は米軍および米軍関係者に、米軍基地内だけでなく米軍基地外でも、治外法権を認めています。朝日新聞は「在日米軍人が、2008年1月から11年9月に日本国内で起こした公務中の交通遺事故28件(死亡したり全治4週間以上のケガ)のうち、軍法会議にかけられたケースはゼロ」と報じています。「戦後史の正体」によると、かりに米軍人がプライベートで交通死亡事故を起こしても、公務中の事故にすると推測しています。それでも本来なら、米軍内の軍法会議にかけられることになっていますが、実際はなにもしていないようです。

こんな米軍基地など、沖縄はもちろん、日本のどこにもあってはいけません。

それでも、「とはいえ、米軍基地の抑止力がなければ、中国、ロシア、北朝鮮が攻撃してくる。アメリカの理不尽に耐えるべきである」という反論はあるでしょう。

しかし、真実は「アメリカは日本を防衛しないし、する気もない」のです。次の記事に続きます。

朝鮮戦争の正体」(孫崎亨著、祥伝社)を読むと、アメリカが朝鮮戦争の虚偽発表をしいていたことがよく分かります。

1950年6月26日、つまり戦争勃発翌日の朝日新聞の記事です。

「解説・軍事力は伯仲」の見出しで、「戦局の発展は予断を許さないが、三十八度線南側に配置されている韓国軍は八カ師団中の大半といわれ、士気高くて武器も優秀とされる」と載せています。

続いて27日の朝日新聞です。

「ワシントンの反響を聴く、局的解決を希望。対策を秘めつつ冷静」の見出しで「真珠湾攻撃の日のようなあわただしさはあったといっても今度の場合、それが米国の戦争を意味するものではない」と載せています。

完全な嘘です。6月25日の北朝鮮軍の大攻勢で、韓国軍は総崩れになって、「伯仲」では全然ありません。北朝鮮の強さに驚嘆し、大攻勢のわずか2日後にアメリカは軍派遣を決めているので「対策を秘めつつ冷静」「局地的解決を希望」は実際のアメリカの動きと正反対です。

ウクライナ戦争の時も感じましたが、戦時発表は多かれ少なかれ「大本営発表」になりがちです。記者クラブ制度で官僚の言葉をそのまま掲載する能力しかない日本の記者たちは、アメリカ報道官の発表をうのみにして、大誤報を発することになってしまいました。

公式発表が信じられないとなると、口コミが幅を利かせることになりますが、当然ながら、口コミもとんでもない嘘があります。

たとえば、「人びとのなかの冷戦世界」(益田肇著、岩波書店)には1950年の秋頃(アメリカの仁川上陸作戦が成功した時期)、中国の北京で、ある人力車夫と、その乗客で東北訛りの40才すぎの女医との間で次のような会話が交わされた記録が残っているそうです。

女医「こんなポスター(アメリカと戦い北朝鮮を支援する絵)は、共産党が人を騙そうとしているものよ。蒋介石アメリカと手を組んで抗戦しているわ。ソ連は東北で女たちを漁って暴行したりするだけ。そのうえ発電所全て6つとも強奪してしまったのよ。東北では今、18才から50歳までの全ての男が徴兵されている。表面的には『志願兵』って呼ばれているけど、実際は無理強いで前線に送られていったのよ。ああ、こんな中国はどこにも辿り着けないわね。毛沢東スターリンが中国を台無しにしたがっているんだっていうことをちゃんと知っているのよ」

人力車夫がこの女医にその話は本当かと聞き返すと、彼女は「私は東北人よ。今言った全てのことは自分で経験したことなんだから」と答えたそうです。

もちろん、この女医の話は嘘八百です。しかし、意図的に事実を隠蔽する共産主義政権下で、地元出身の医者に「自分で経験したことだ」と断定されたら、私でも信じてしまうかもしれません。

なぜ情報に振り回されるのか」で多くの事実を収集すべき、と書きましたが、その事実がはっきりしない状況は、戦争時には頻出するようです。戦争ほどでないにしろ、福島原発事故の時も日本の公式発表に事実の隠蔽やごまかしが多かったことも私は覚えています。肝に銘じておくべきでしょう。

朝鮮戦争は双方に奇襲成功があり、戦局が大きく変わっています。そのどちらの奇襲作戦も、味方の大反対を覆して、実行しています。

一つ目は1950年9月15日、アメリカ軍の仁川上陸作戦です。マッカーサー自身も認めるように、失敗の可能性が高く、しかも失敗した時の損失も大きい作戦でしたが、幸運にも大成功します。

二つ目は1950年10月25日、中国軍の参戦です。「なぜ中国は朝鮮戦争に参戦したのか」に書いた通り、「かりに参戦しても中国軍の装備が貧弱なため、アメリカ軍は中国軍を完全に制圧する」とほとんどの中国軍首脳部は考えていました。つい5年前まで、中国軍を蹴散らしていた日本軍は、アメリカ軍の重装備に完膚なきまで破れていました。ここから理論的にアメリカ軍>日本軍>中国軍と強さが導かれます。中国軍がアメリカ軍に勝てるなど、理論的には考えられませんが、事実として、中国軍は参戦直後にアメリカ軍を圧倒します。全ての本に「人海戦術」でアメリカ軍の戦車部隊を怒涛の勢いで後退させた、と書いていますが、何百名いようが人が戦車に勝てる理屈がよく分かりません。ベトナム戦争時のテト攻勢と並んで、世界の戦史上、これほど装備に劣る側が勝った記録はないように思います。この時の中国軍の作戦から学べることは大きいと考えるので、もっと研究すべきでしょう。

このうちアメリカの仁川上陸作戦が失敗していたら、北朝鮮朝鮮半島統一するのは言うに及ばず、台湾も共産主義化されていたかもしれません。ベトナム全体の共産主義化も10年から20年は早まったでしょう。冷戦時代にソ連アメリカにより強気になったでしょうから、キューバ危機は米ソの核戦争に発展し、世界文明が滅亡したかもしれません。

逆に、蒋介石が期待したように、中国の人海戦術が失敗していたら、中国は国民党政府で再統一されていたかもしれません。そうなると、「一人一票の多数決が間違いを導く代表例がインドにあった」に書いたように、中国は現実より50年以上早く経済発展して、日本の高度経済成長は鈍化し、自動車産業も育たなかったかもしれません。

このように、どちらの奇襲も失敗していたら、世界史に大きな影響を与えていたと推測されます。とはいえ、中国の奇襲が失敗しても、世界中の誰もが「やはり中国が負けたか」と思ったでしょうが、アメリカの奇襲が失敗していたら、「あのアメリカが負けた!」と世界中が驚嘆していたことは間違いありません。

1950年6月25日からの北朝鮮の大攻勢でアメリカ軍が負けたことについて、北朝鮮の捕虜になったディーン少将はこう述べています。

「開戦直後の数日間の最初の驚きは、いかに北朝鮮軍が強く、いかに韓国軍が弱いかということだった。韓国軍はほとんどの前線でほぼ壊滅とみられる打撃をこうむった。次の驚きは、(日本から)派遣されてきた先陣の米軍部隊が緒戦でみせたさんざんなていたらくだった。それは驚きどころの騒ぎではなかった」

アメリカ軍が北朝鮮軍や中国軍に負けることなどありえない、とはアメリカ人自身が一番強く思っていました。そんな風に相手を見くびっていたからこそ、北朝鮮軍にも中国軍にも歴史的な大敗北を喫した、とどの本も書いています。

戦線は1951年1月以降、膠着状態に陥っていました。その1月から停戦に向けての会談が行われる7月まで、アメリカ軍は明らかに無駄な攻勢を何度もかけています。サンダーボルト(雷電)、ラウンドアップ(狩りこみ)、キラー(殺し屋)、リッパー(切り裂き)、ラッギド(のこぎりの歯状)などの大げさな作戦名をつけましたが、全て失敗しています。

「わかりやすい朝鮮戦争」(三野正洋著、光人社NF文庫)はこれらの作戦を「成功すると考える方がおかしい」「なんの成果もあげず、わずか5日間で中止された」「中国軍の一部は、アメリカ軍が攻勢をかけてきたことに気づかないほど、この作戦はみじめな失敗に終わっている」「なぜこのような新たな攻撃を矢継ぎ早に実行したのか、理解に苦しむところである」「なんら戦局に変化を与えることが不可能なこの種の作戦を立案し、実行する参謀の無能ぶりは信じがたい」と散々に批判しています。

アメリカが無駄な作戦を繰り返した最大の理由は、「アメリカ軍が中国軍や北朝鮮軍に負けるわけがない」とアメリカ人たちが信じていた、信じたがっていたからでしょう。「前回の相手側の勝利は奇跡だ。今回は普通にアメリカが勝つ」「たまたま〇〇だったから、負けただけだ。今回はそうでないからアメリカが勝つに決まっている」などとアメリカ軍参謀が考えてしまったのでしょう。

逆に言えば、アメリカが「原爆でも使わない限り、中国軍や北朝鮮軍には勝てない」と理解するまでに半年間は無駄な作戦で失敗し続ける必要があったと考えます。

もう一つ重要な点は、1950年代前半、あれほどアメリカと中国の経済力の差があった時代で、アメリカ軍は中国軍に勝てなかった、引き分けにするしかなかった事実です。この事実を「アメリカが本気を出していれば勝っていた」「朝鮮戦争は韓国と北朝鮮の戦いで、アメリカと中国はオマケ」「死者数だったらアメリカ軍が圧倒的に少なかった」などと捻じ曲げてとらえていたら、本質を見誤ることになるでしょう。

実際、アメリカがその本質を見誤っていたからこそ、ベトナム戦争があれほど長期化、泥沼化したと推測します。冷戦の力関係は1950年代より1960年代や1970年代が拮抗していました(共産圏が資本主義圏に軍事力で対等に近づいていました)。だから、ベトナム戦争は、アメリカが参戦しても、北ベトナムが勝つに決まっていました。朝鮮戦争を十分に研究していれば、それは導けたはずです。

最後に、朝鮮戦争トルーマンマッカーサーを解任してでも原爆使用に反対した理由を「朝鮮戦争」(赤木完爾編著、慶應義塾大学出版会)から引用しておきます。

マッカーサーたちは満州の飛行場への2,3発の原爆が鴨緑江に至る朝鮮半島の勝利をもたらします、と言うのだ。もしそうした攻撃を効果あらしめるには、北京、上海、広東、奉天、大連、ウラジオストックウラン・ウデも破壊しなければならなかっただろう。

ソ連のヨーロッパ正面ではソ連軍は北海と英仏海峡まで進撃したであろう。我々は手持ちの6個師団で、同盟国とともにその進撃に抵抗しただろう。だが彼らは地上軍で400万人以上を有していた。それを阻止することはできなかったであろう。

東方において、我々は中国の諸都市を一掃し、約2500万人の婦女子と非戦闘員を殺すことになったであろう。私は2500万人の非戦闘員の殺戮を命じることはできなかった」

「人びとのなかの冷戦世界」(益田肇著、岩波書店)によると、タイトルの答えは毛沢東の気まぐれとしか言いようがありません。

毛沢東が最初に参戦を要求されたのは、中華人民共和国の建国1周年の1950年10月1日です。その夜のうちに毛沢東は中国参戦の電報を作成しますが、それは打電されませんでした。翌日の10月2日、毛沢東以外の共産党の全幹部が中国参戦に反対したからです。林彪も、人民志願軍の司令官になる毛沢東の要請をすげなく断っています。10月2日夜、毛沢東は駐中ソビエト大使のロシチンに「第一に、かりに参戦しても中国軍の装備が貧弱なため、アメリカ軍は中国軍を完全に制圧すること」「第二に、中国参戦は米中全面戦争を引き起こしかねない」の理由とともに、参戦準備が整っていないと述べました。

しかし、毛沢東はそれで諦めず、10月4日から5日に中央政治局拡大会議を開き、参戦するよう主張します。4日はやはり参戦反対が会議を席巻していましたが、5日に彭徳懐西安から北京まで飛行機でかけつけて主戦論を主張すると、参戦で決まります。

しかしながら、その後2週間にわたって、この参戦決定が二転三転します。なぜなら、中国の参戦は、ソ連空軍が中国陸軍を支援する前提のもとに成り立っていたのに、ソ連空軍が支援するか曖昧だったからです。曖昧どころか、10月10日から11日、黒海沿岸まで訪問した周恩来林彪スターリンが「ただちにソ連空軍を朝鮮に送ることはできない」と明言までしました。これで周恩来林彪は、中国の朝鮮出兵は不可能だとみなしました。結果、スターリン周恩来は連名で毛沢東に「中国は参戦しないこと」「北朝鮮軍にはゲリラ戦の継続を勧めること」の二つの決定を10日に電報で知らせます。12日には、毛沢東は「その取り決めに賛同すること」「既に出兵計画の中止を指示したこと」と返電しました。それに加えて、山東省駐留の中国軍師団の東北部移動計画も毛沢東はキャンセルしています。

13日、スターリングは「中国は参戦しないこと」を金日成に打電し、今後は中国東北部でゲリラ戦術をとるように勧めます。

これらの事実から、10月25日の中国軍の大攻勢は導かれません。この流れなら、朝鮮戦争は国連軍・韓国軍の朝鮮半島統一で1950年に終わっていたはずです。この中ソの両最高権力者の決定を誰がいつ覆したのでしょうか。

その答えは「毛沢東が10月12日夜から13日早朝に覆した」になります。なんと毛沢東は12日に、出兵中止の連絡をスターリンに送る一方で、既に東北部に赴いていた彭徳懐と高崗を北京の緊急会議に召喚しています。その夜通しの会議で、参戦する他ないとの結論にたどり着いていたのです。13日、スターリン金日成に「中国は参戦しない」と打電した同じ日に、毛沢東は前日と正反対の内容、つまり「中国は参戦する」との決定をスターリン周恩来に打電します。

この打電を受け取ったスターリンの気持ちはどうだったのでしょうか。私なら、わずか1日で考えが正反対にブレる人と一緒に戦争する気にはなれません。今後、毛沢東の言葉をどこまで信用していいか、疑心暗鬼にもなるでしょう。

ともかく、上記の流れから、朝鮮戦争が韓国の統一で終わった可能性も十分あったと断定できます。12日、スターリンに打電した後、イライラした毛沢東が常用している睡眠薬をいつも以上に服用して、そのまま寝ていれば、中国の参戦はありませんでした。あるいは、スターリン周恩来、または彭徳懐と高崗が「もう参戦しないで決定したはずだ」と理を通せば、中国の参戦はなかったでしょう。

韓国が朝鮮戦争で勝利したなら、毛沢東が最も恐れたこと、国民党政府の反抗が勢いづき、中国共産党が中国から追い出される結果になったかもしれません。ベトナム戦争でも、ソ連北ベトナムが「どうせ負けるから」とろくに抵抗せず、南ベトナムによる統一で終わっていたかもしれません。また、現在の日本に拉致やミサイルなどの北朝鮮問題が存在しなかったことも間違いありません。

この事実を知ると、世界史もたった一人の気まぐれで、大きく変わることを実感します。同時に、未来は誰にも予想できないこともよく分かります。

次の記事で、朝鮮戦争を左右した二つの奇襲に注目します。

「人びとのなかの冷戦世界」(益田肇著、岩波書店)によると、朝鮮戦争が1950年6月25日から始まった、との認識は当時、誰も持っていませんでした。多くの韓国人は1945年からずっと内戦は継続していて、1950年6月25日の北からの大攻勢は、その内戦の一部として認識していたようです。韓国は朝鮮戦争を「6・25戦争」と呼んでいますが、その理由は「1950年6月25日からの戦争は、それ以前の内戦と全く違う(北朝鮮侵略戦争である)」と示したいからです。

ここで「朝鮮戦争の謎」の記事の訂正です。この記事では、国連の決定→アメリカの派兵決定との前提に立って記事を書いていますが、事実誤認です。正しくは、アメリカの派兵決定(6月27日)→国連安保理で国連軍の投入決定(7月7日)でした。だから、スターリンが国連安保理で拒否権発動しなかったのは、やはり「拒否権発動しても、アメリカ軍の参戦は変わらないから」で間違いありません。

このように、アメリカの派兵はこの戦争の名前もまだ確定しない早期に決定されました。ここまで早いと「1950年当時、北朝鮮が韓国に全面戦争を仕掛けてきたら、アメリカは即座に軍事介入する」と以前から決めていたと普通なら考えます。それが全くの間違いであることが「朝鮮戦争の正体」(孫崎亨著、祥伝社)で繰り返し述べられています。

たとえば、マッカーサーは1949年3月1日、韓国は軍事的に防衛不可能だから、米軍の撤退は当然である、と語っていました。その言葉通り、1949年6月29日、最後のアメリカの戦闘部隊1500名が仁川港から撤退します。残ったのは500名のアメリカ軍事顧問団と、金浦空港を運営するアメリカ空軍要員150名だけです。さらに、1950年1月12日、アチソン国務長官が「防衛境界線はアニューシャン列島に沿い、日本に行き、そして琉球に行く」と述べました。普通にこの線を結べば、朝鮮半島アメリカの防衛ラインに入っていません。

北朝鮮軍が韓国に全面侵攻すれば、アメリカ軍が介入してくる可能性をスターリンソ連)は危惧していましたが、金日成は上記のような観点から「アメリカの介入はない」と考えていました。毛沢東も同様です。

「中国でさえ見捨てたアメリカが、取るに足らない朝鮮半島の国内問題(内戦)に首を突っ込んでくることはない」と考えていた専門家は、西側にもいました。というより、上記の通り、マッカーサーやアチソンがそう証言していました。むしろ、現在でも「アメリカが何十年も前から莫大な資金と労力をかけた中国の共産主義化を見逃したのに、なぜアメリカが見捨てつつあった韓国の共産主義化を全力で止めようとしたのか」に論理的な答えはないでしょう。もっとはっきり言えば、論理的には間違っています。

だから、アメリカが朝鮮戦争に介入しない理由は十分ありましたし、可能性も十分ありました。

朝鮮戦争の軍事介入を最終決断したのは大統領のトルーマンですが、このトルーマンですら北朝鮮軍の全面侵攻を聞いた夜(アメリカ時間で6月24日夜)は、普通に寝ました。寝る前にわざわざ補佐官に、この侵攻で「(生まれ故郷インデペンデンスでの)休暇を短くするつもりはない」と伝えたほど、大した問題ではないと考えていました。

しかし、翌日、アチソンと電話会談して、ダレスからの電報を受け取ると、トルーマンは即座にワシントンに向かい、朝鮮半島台湾海峡の両方に米軍派遣を決定します。

つい半年前、朝鮮半島は防衛境界線外のような発言をしたばかりのアチソンが、なぜ朝鮮半島に米軍派遣するように要請したのでしょうか。私の管見の限りでは、明確には分かりませんでした。ダレスの影響かと推測するくらいです。

もし朝鮮戦争アメリカ軍が介入しなければ、1950年秋くらいに朝鮮半島は前年秋の中国同様、共産主義国として統一されていたでしょう。台湾も中華人民共和国に占領されていたかもしれません。そうなると、日本が共産主義の防波堤の最前線になるので、日本の再軍備がさらに強化され、場合によっては核を保有し、米軍基地もさらに強力な形で存在し続けたかもしれません。

もしそうであるなら、北朝鮮が1950年6月25日に全面侵攻した後、アメリカ軍の派遣決定は、日本にとって好ましかったと思います。

一方で、そもそもアチソンやマッカーサーが「アメリカは韓国をなにがなんでも守る」と明確に宣言していれば、金日成は韓国に大攻勢をしかけず、朝鮮戦争が起きなかった可能性が高いことも覚えておくべきでしょう。

次の記事で、「なぜ中国は朝鮮戦争に参戦したのか」を考察します。

朝鮮戦争は200万人以上の死者を出した大きな戦争でしたが、戦争前と戦争後で、国境は全く変わらず、両国の政治体制も変わらず、両国の最高権力者も変わりませんでした。一方で、近隣の国は現在まで続く多大な影響を与えています。

まず最も影響を受けたのは、台湾です。朝鮮戦争の勃発を世界で最も喜んだのは蒋介石でしょう。もし朝鮮戦争がなければ、1950年代前半のうちに、台湾は中華人民共和国の一部になっており、蒋介石アメリカに亡命して、余生を過ごしたはずです。

次に影響を与えたのは、やはり日本でしょう。

第二次大戦で完膚なきまで破れた日本人は、ほぼ全員、日本の再軍備を望んでいませんでした。「人びとのなかの冷戦世界」(益田肇著、岩波書店)に書いているように、自衛権を放棄した憲法第9条は、アメリカが押し付けた側面もありますが、日本人の多くがそれを望んでいた側面もあったはずです。保守派の吉田茂ですら、「これまで、ほとんどの戦争は自衛のためという名目で行われてきた。侵略のためといって始められた戦争はない」ので、「(日本国憲法は)直接には自衛権を否定しておりませぬが、第九条第二項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したのであります」と国会で述べています。

「軍事なんかに国費を使わず、生活や経済発展のために国費を使いたい」が当時のほとんどの日本人の本音だったはずです。アメリカを含む世界の全ての国も、日本の再軍備など望んでいませんでした。1950年の夏までは、「日本が再軍備するべきか」の問題の答えは「NO」で一致していたはずです。もっといえば、そんなバカな問題を提起する人すらいませんでした。

しかし、朝鮮戦争の衝撃は、その全会一致の結論を覆してしまいました。

もっとも、それを覆したアメリカですら、日本の再軍備で一致していたわけではありません。

日本の再軍備、換言すれば自衛隊の創設は、GHQ統治下の非常事態でなければ、不可能だったでしょう。日本国憲法9条で陸海空軍の戦力の保持を明確に禁止した以上、日本政府が自衛隊を創ることは憲法改正しない限り、無理でした。自衛隊が定着した現在ですら、自衛隊を認めるための憲法改正はできていません。自衛隊のいない日本が、自衛隊を創るための憲法改正ができるとは考えられません。日本国憲法に反する自衛隊を創れる唯一の例外が、日本国憲法を制定させたGHQだったと私は確信します。

ここでは深く考察しませんが、朝鮮戦争がなければ、日米安保条約日米地位協定、さらには在日米軍の質と量も大きく変わっていたことでしょう。少なくとも、それらが今と全く同じことはまずありませんでした。

これらは歴史を勉強すれば、自然と導かれる道理なのですが、こんな当たり前のことすら十分に認識していない日本人が少なくないので、あえて上に書いておきます。

朝鮮戦争が起きなければ、日本に特需が生まれず、日本の経済復興は遅れました。そうなると、経済主導の保守政権は人気が出ず、社会党共産党が選挙で躍進して、自民党の長期政権も生まれなかったかもしれません。その場合、日本は一体どうなったのか、と想像しますが、日本の政治は官僚主導なので、政権与党が変わったくらいだと、政治に大きな影響はなかったと私は想像します。共産党が計画経済を大規模に長期間実施した、などの極端な政策をしたら話は違いますが、そうでない限り、1960年代や1970年代に若者が多い日本が高度経済成長したことは確実でしょう。

ところで、陸海空軍を保持しない日本に自衛隊を創らせたほどの影響を与えた朝鮮戦争ですが、実は朝鮮戦争が起こらなかった可能性もありました。「中国の共産主義化を止めなかったのに、なぜ遥かに価値のない朝鮮の共産主義化をアメリカは3万人以上の死者を出してまで止めたのか」の問について誰も答えられないことを最近、私も知りました。

次の記事に続きます。

このブログの最初の記事「like a boy of twelveの国から脱却できたのか」で掲げた問に「マッカーサーのような人格破綻者がどうして日本で20世紀の最大の改革を成し遂げられたのか?」があります。

「人びとのなかの冷戦世界」(益田肇著、岩波書店)によると、その答えは「マッカーサーの部下の実働部隊、GHQ職員たちが優秀だったから」になるようです。本によると、日本のGHQ改革を主導したアメリカ人たちの多くは20代から30代の若手でした。理想に燃える若者たちが日本を世界史上に輝く民主国家につくりあげるつもりだったのかもしれません。

他のGHQ改革の謎に、民政局主導のリベラル路線からG2主導の保守路線に転換(逆コースに)したことがあります。上記の本では、その理由として、1946年のアメリ中間選挙共和党の勝利があったと述べています。それまでマッカーサーは当時人気と思われたニューディール路線、つまりはリベラル路線を部下に進ませていましたが、この中間選挙で保守路線が大衆に支持されていると知り、保守路線に戻したようです。結果、1947年を境に多くの者がGHQを去りました。GHQの路線転換は、冷戦の激化という見解が一般的のようですが、それだけではない、と当時のGHQ職員の証言を元に断定しています。

ただし、本ではアメリ中間選挙の結果がGHQを方針転換させたと強調しておきながら、「アメリカ国内政治潮流、中間選挙結果、GHQ内部抗争、マッカーサーの政治的野心、GHQスタッフの不安と保身など複雑に絡み合う多様な要因だった」とも述べています。さらに、もっと根本的で重要な要因として、日本人自身がそれを望んでいたから、とも書いています。つまり、GHQのリベラル路線は、敗戦後の日本人がリベラル改革を望んでいたから実現でき、一方でGHQの保守路線転換は、日本国内の保守勢力が巻き返しを計ったため生じた、という見解です。

この見解がどれくらい妥当かは分かりませんが、1946年の中間選挙民主党が勝っていれば、日本のGHQ改革がリベラル路線のままになっていた可能性は高そうです。GHQ改革が最後まで民政局主導なら、今の日本や東アジアの姿はまた大きく変わったものになったことでしょう。

「大きく変わった」というのは決して誇張ではなく、自民党の長期政権もなく、自衛隊もなく、日米安保条約日米地位協定もなく、もちろん日本に米軍基地も一切なく、朝鮮が南北に分断されていないほどの影響があったかもしれません。

そんな日本、東アジアなど想像しづらいでしょう。朝鮮戦争がなければ、日本に自衛隊など存在していなかった、という自明の理すら日本人はあまり認識していませんから。

朝鮮戦争が日本に与えた甚大なる影響(逆コースの影響)を次からの記事に書きます。

「日米開戦の正体」(孫崎亨著、祥伝社)は素晴らしい本でした。

太平洋戦争はアメリカによって起こされたことを「日米開戦の正体」で示した、と著者が「アメリカに潰された政治家たち 」(孫崎亨著、河出文庫)に書いています。だから、「孫崎がまた陰謀論を書いたのか」と呆れていましたが、「日米開戦の正体」ではアメリカの陰謀についてはほとんど書かれていません。日本による奇襲をルーズベルト大統領は事前に知っていながら、国民や現場の軍隊に知らせず、真珠湾が攻撃された後、「日本による騙し討ちだ」と痛烈に批判した、というよく知られた事実が書かれているだけです。

上記の本ほど、日露戦争から太平洋戦争につながるまでの流れが分かりやすく書かれた本はないと思います。それぞれの人物の思想の立ち位置を整理して示し、私のように20年前から郭松齢を知っている人からすると、くどいほど同じ情報を書いていますが、その分、あまり詳しくない人でも読みやすいでしょう。

いまだに明確に知らない日本人も多いですが、太平洋戦争は、日中戦争と継続しています。日本が石油欲しかったからとか、北進論と南進論の対立とかなどは些末な問題で、日米が戦争するほど関係が悪化した根本原因は、日中戦争にあります。

これは多くの日本人が認識していることですが、日中戦争の原因には満州事変があります。その満州事変の原因には、日本人が満州に対して特殊権益を持っているとの強い意識があります。その意識は、日露戦争の勝利によって生まれたことも歴史的事実です。

だから、太平洋戦争が起こった理由を考えれば、日露戦争まで戻るのは自然な流れです。さらにいえば、「戦争は勝っても損をする」に書いたように、太平洋戦争の勃発について、日清戦争まで戻って考えることも十分可能です。もっと書けば、「日本最高」の水戸学の影響を受けた幕末の尊王攘夷思想まで遡ることもできるでしょう。

「日米開戦の正体」を読めば、特に戦間期満州と中国情勢が日本外交の中心であったことがよく分かります。当時も今も、外交官は欧米派遣が出世コースのはずなのですが、現実には吉田茂のように、関東軍に近い外交官が例外的に大抜擢されています。

興味深かった見解として、幣原喜重郎が自著の「外交50年」で「太平洋戦争は日中戦争に原因があり、日中戦争満州事変に原因がある。そして、満州事変の直接的原因は、軍人に対する整理首切り、俸給の減額、それらに伴う不平不満だろう」と書いている点です。以後、「外交50年」からの抜粋です。

日本は第一次世界大戦まで輸入超過の債務国だったが、大戦景気で一気に輸出超過となり債権国となった。外国要因による好景気なのだが、あたかも自力で一等国に成りあがったかのように日本は錯覚した。大戦が終わると、当然ながら海外市場は西洋列強に奪還された。早くも1920年には経済恐慌が起き、日本で倒産者は続出した。1923年の関東大震災で、戦争中に貯めたお金は全て吐き出して、さらに赤字に転落した。

特に1929年の世界大恐慌下の浜口内閣の井上準之助大蔵大臣が、あらゆる苦情を排して、徹底した緊縮財政を断行した。陸軍は二個師団が廃止になり、何千という将校がクビになり、将官もかなり辞めた。血気の青年将校たちの間では、憤慨が過激になり、「桜会」という秘密結社を組織し、政党も叩き潰して新秩序を立てよう、議会に爆弾を投じて焼き討ちしようなどと、とんでもない計画まで立てた。それでも、宇垣大将が陸軍大臣の頃まではまだ統制が保たれて、彼らに爆発の機会を与えなかった。そこで彼らは国内の秩序をひっくりかえすことを思いとどまり、国外といっても、一番手近な満州での鬱憤を晴らそうとなったのだろう。

井上準之助は個人としての能力は高かったのですが、事実として、金解禁政策は日本の富を莫大に流出させ、緊縮財政は戦前最悪の不況を引き起こしています。戦後、井上の財政政策はメリットがあるものの、それよりもデメリットが遥かに大きかったとの評価が定着しています。

満州事変の原因に昭和恐慌はよくあげられますが、具体的に井上蔵相の政策のせい(陸軍二個師団を廃止したから)とまで言及しているのは珍しい気がします。

この幣原の「満州事変の直接原因は井上の緊縮財政にある仮説」は間違っている部分が大きいと私は考えます。

井上の金解禁政策は誰が考えても失敗でしたが、陸軍二個師団廃止は、本来であれば、民衆にとって好ましい政策ですし、当時の新聞も概ね称賛していました。陸軍二個師団廃止により、青年将校の不満を高め、満州事変という日本として取返しのつかない失敗に繋がった理由は、井上蔵相や浜口首相、あるいは幣原外相を含めた閣僚たちが陸軍を制御できなかったからです。そして、陸軍を制御できなかったのは、統帥権問題に加えて、下剋上の気風みなぎる青年将校を陸軍上層部が抑えられなかったからです。

しかし、軍上層部が部下を抑えられないなど、世界中のどの軍隊でもあってはなりません。特に「上官の命令は朕の命令」である戦前の日本の軍隊では、なおさらありえません。にもかかわらず、戦前の陸軍で「日本史上最低の人物・辻政信」の下剋上などをなぜ許してしまったのでしょうか。

陸軍内の下剋上満州事変を起こした原因でもありますが、満州事変の最中に止められなかった原因でもあり、満州事変後の北支事変から日中戦争を止められなかった原因でもあり、究極的には日本が第二次世界大戦で大敗する原因でもあります。

陸軍内の下剋上の横行がなぜ許されたか、なぜ止められなかったかは、私にとって10年以上解けない日本の謎の一つです。陸軍の上層部も、部下の暴走に共感している部分が大きかったからなのか、と推測するくらいです。

水戸学、および明治維新から第二次大戦敗戦までの政府は日本の崇高さや偉大さを誇っていました。

しかし、古事記にみられる日本建国神話から、「日本は崇高で偉大だ」と導くのはかなり無理があります。

神道は他の多くの多神教同様、それぞれの神が個性豊かで、感情的です。

古事記によると、最も崇高な神は天照大神(あまてらすおおみかみ)とされていますが、怒ったり、拗ねたり、隠れたりします。古事記の主人公は素戔嗚尊(すさのおのみこと)と大国主命(おおくにぬしのみこと)ですが、この2人もウンチをまき散らしたり、兄弟イジメにあったりします。崇高さや偉大さからはほど遠いです。古事記の物語を制作した人は、この日本建国神話で日本や天皇家の崇高さや偉大さを示したいとは微塵も考えていなかったはずです。

水戸学者が日本の崇高さを示すために日本建国神話は不適切と気づいていたかは分かりませんが、明治時代以降の何名かの学者はそれに気づいていました。第二次大戦中までは教科書に日本建国神話が載っていましたが、あまりに低俗で下品な部分は削除したりしていました。場合によっては、古事記などの日本建国神話は無視して、楠木正成七生報国の話ばかり注目していたりしました。

戦後になって、神国日本思想は天皇により否定されましたが、いまだ日本は崇高で偉大と考えたがる国粋主義者はいます。その人たちは今後も、日本建国神話の滑稽さや下品さと戦い続けていくことでしょう。

前回の記事の続きです。

楠木正成忠君神話の矛盾を気にしない日本人」に書いたことは間違いでした。徳川光圀などの日本史をある程度研究した人は、やはり現天皇家と敵対した南朝側の楠木正成を称賛することに矛盾を感じていました。

そもそも天皇家が二つに分かれた南北朝時代は、日本史を記述する上で、やっかいです。どちらを正統にするかで、元号が変わってくるからです。江戸時代に儒学者の林家が公式に作成した歴史書では、南北朝時代について、両朝の元号を併記するなどの工夫をしています。

しかし、水戸学に沿った「大日本史」では元号併記を認めませんでした。なぜなら万世一系であるからこそ天皇家は神聖であり、その天皇が治める日本も神聖という理屈を水戸学は採用しているからです。一系統のはずの天皇家が二つに分かれた事実は、都合が悪いのです。

それを解決するために編み出したのが、三種の神器を持つ方が正統との解釈です。これで南朝が正統だが、足利義満の命令で三種の神器北朝に戻ったので、以後は北朝が正統との解釈が成り立ち、一系統になります。

しかし、「尊皇攘夷」(片山杜秀著、新潮選書)には書いていませんが、これも矛盾をはらみます。なぜなら三種の神器のうち少なくとも草薙の剣は、1185年、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈んでしまったからです。もっとも、それは熱田神宮から形代(かたしろ)が作られたから構わない、という主張もあるでしょう。それを認めたとしても、南北朝時代、何度も三種の神器南朝側から北朝側に渡っている事実の弁明は厳しいでしょう。そのたびに「こんなこともあろうかと、南朝側は偽物の三種の神器を作っており、それら偽物を渡した」とされてはいますが、こんな話、誰が信じるでしょう。普通に考えて、嘘です。「本物を渡したが、偽物ということにした」に違いありません。なんにしろ、三種の神器を所有するから、正統な天皇家との解釈はかなり無理があります。

ともかく、南朝を正統とするから、どうしても矛盾が生じるのです。現天皇家北朝の子孫なのですから、北朝を正統とすれば理論的に矛盾は生じないのに、全ての水戸学者(と明治政府の学者)は天皇家では公式だった北朝単独正統論をとりません。では、それほど南朝側が正しいと主張するのか、と問えば、必ずしもそうではないので、ややこしいです。たとえば、南朝の開祖である後醍醐天皇を、水戸学の創設者の一人とも言える安積澹泊は「適切に賞罰ができず、忠臣(万里小路藤房など)の諫言に耳を傾けられなかった。それはやはり後醍醐天皇の能力の問題に帰するだろう」と批判しています。

では、どうして水戸学や明治政府が南朝びいきかといえば、やはり楠木正成になります。楠木正成の「七生報国(七生滅賊)」の自害は、神国日本思想にとって極めて都合のいい美談です。この美談に水戸学者たちが感動したため、あるいは、この美談を利用したいがために、南朝びいきになったのでしょう。しかし、七生報国は史実というより創作であることは、理性的な思考の持ち主なら誰でも分かるはずです。

そもそも、いくら部下(楠木正成)が優秀で忠実だとしても、その部下が仕える上司(後醍醐天皇)の統治能力に問題があれば、部下は間違った統治を助けることになるだけです。これは小学生でも分かる理屈ですが、それについて水戸学や明治政府の学者はろくに考察しません。水戸学の背景である儒教が「上司が間違っていれば部下は諫言すべきであるが、上司への裏切りはいけない」と厳しく決めているからです。

結局のところ、太平記(史実をおもしろおかしくした物語)に感動した12歳の少年(like a boy of twelve)から、日本人はまだ脱却できていないのかもしれません。

尊皇攘夷」(片山杜秀著、新潮選書)を読んで、日本の国粋主義の源流の一つに徳川光圀、つまり水戸黄門がいると分かりました。

幕末に盛んになった尊皇攘夷思想は、徳川光圀が創り上げた水戸学をほぼ踏襲しています。たとえば、「楠木正成忠君神話の矛盾を気にしない日本人」にも書いたように、現代まで続く右翼(国粋主義)の南北朝時代南朝びいきや楠木正成神話は、徳川光圀から始まっています。なぜ徳川光圀南朝びいきかといえば、当時、江戸で流行っていた太平記に感動したからです。太平記が史実と限らないことは一読すれば分かるので、バカみたいにくだらない理由です。

ともかく、これで長年の謎は一つ解けました。徳川光圀南朝びいきの太平記に感動したから、光圀創設の水戸学の思想を受け継いだ幕末の尊王攘夷志士たちも現天皇家と敵対した南朝びいきになり、その志士たちが成立させた明治以降の政府も太平記最大の英雄である楠木正成を称え、皇居前にその銅像を造ったのです。

徳川光圀は、いかに日本が偉大な国であるか、いかに崇高であるかを示したいがために、水戸学を創りだしました。その根拠を、当時の最高権力者の将軍に求めず、世界史上最長の王朝である天皇家に求めました。将軍の権威は、万世一系天皇家征夷大将軍と認めているからであり、将軍は天皇家の権威の前に平伏せざるを得ないと考えました。

しかし、その理想は徳川御三家としての水戸家である現実と、どうしても矛盾が生じます。それが最もよく現れたのが、1858年、天皇が将軍を介さず、直接水戸藩に文書指示(戊午の密勅)を出した事件です。天皇が将軍(幕府)に意見を言っても、将軍が聞いてくれないから、意見を聞いてくれそうな水戸藩徳川斉昭)に直接、天皇が命令したのです。

水戸学の理論からすれば、将軍より天皇が上で、将軍が天皇の意見を聞かないのは間違いです。だから、水戸藩天皇の指示通り、将軍を諫めて、攘夷を実行すればいいはずです。しかし、現実には、戊午の密勅を受け取って、水戸藩は大混乱になります。徳川幕府があってこその水戸藩、将軍がいてこその御三家です。天皇に好かれようが嫌われようが、幕府に認められていれば水戸藩は存続できますが、その逆はありません。事実、1844年、幕府の命令で藩主の徳川斉昭でさえ引退させられ、藩主交代しています。バカみたいな話ですが、水戸学は天皇と将軍の意見が一致しない状態を想定していなかったのです。

水戸学の正統継承者である徳川斉昭や会沢正志斎などは、幕府を恐れ、戊午の密勅の返納を訴えます。しかし、後に天狗党となる一派は天皇をこの上なく敬い、戊午の密勅を言葉通りに実行すべきと訴えます。数としては返納派が多かったようですが、天狗党の連中は水戸藩内で抑えきれず、結局、幕府の最高権力者である大老井伊直弼が登場し、「安政の大獄」で密勅返納が決まります。

天狗党となる一派は井伊直弼桜田門外の変で暗殺しますが、後の天狗党の乱は幕府軍に鎮圧されます。尊皇攘夷の本家本元である水戸藩は、日本の夜明け前に、尊皇攘夷派がほぼ壊滅しており、明治政府でも重要な地位を占めることはできませんでした。

ただし、水戸学の思想は明治政府が継承します。

水戸学の正統継承者である徳川斉昭は当代随一の熱烈な攘夷論者ですが、開国に絶対反対ではありませんでした。特に黒船来航後は、鎖国の非現実性を認め、他国との交易を推奨しているほどでした。徳川斉昭は交易を活発化させ、富国強兵してから、攘夷を実行する計画を立てていたのです。

その観点からすると、富国強兵した日本がついに実行した攘夷こそが、太平洋戦争だったといえるのかもしれません。明治になって水戸藩がなくなってからも水戸学は第二次大戦までは生き残っていたと言えるでしょう。現在も国粋主義者南朝びいきは続いているので、今も水戸学は生き残っていると言えるかもしれません。

ただし、水戸学や水戸学と関連する神国日本思想の矛盾や稚拙さを指摘した知識人は明治以降、第二次大戦前までに確実にいました。しかし、現実に第二次大戦ではありとあらゆる場面で神国日本思想が利用され、特攻隊や玉砕の思想背景になっています。

戦後になり、天皇自身が神国日本思想を否定したため、水戸学および神国日本思想は下火になりますが、いまだ楠木正成銅像が皇居に建つなどの矛盾は残っています。

水戸学あるいは神国日本思想の矛盾について、次から2つの記事に書きます。