世界は「関係」で出来ている:美しくも過激な量子論を読みました (original) (raw)

本について

イタリアの著名な理論物理学者であるカルロ・ロヴェッリによって書かれた、量子力学についての歴史とかその考え方、捉え方について書かれた本です。原題は「Helgoland」。

世界は「関係」でできている: 美しくも過激な量子論

きっかけ

本屋で見かけて、親にこれは昔読んだ。おすすめ、と言われたので、借りて読みました。量子力学には大学時代に井戸型ポテンシャルの波動方程式を解くくらいまではやりましたが正直考え方についてはほぼ理解できなかったのと、この前Outer Wildsをプレイして、量子のふるまいに興味もあったので、どんなもんじゃいと思って読んでみました。

感想

全体通しての結論は、日本語版タイトルにあるように、この世の中のものはすべて相対的、あるものとあるものの関係性でできており、そのもの一つで定義できるものは一つもないのだ、ということなのかな、と思いました。

以下、トピック別に記載。

科学的な思考について

作中で、科学的な思考について語られる箇所がいくつかあります。

科学的な思考は、すでに得られた確かなものでできているわけではない。それは、絶えず動き続ける思索なのであって、その強みはまさに、あらゆるものを絶えず疑い、論じ直すという点にある。この世界の秩序を大胆に覆し、より有効な秩序を探って、そこから更にあらゆるものを疑い、再度全てをひっくり返す。ためらうことなくこの世界について考え直すこと、それが科学の力なのだ。

なにか新しいことを学んだら、即座に自分たちの偏狭な形而上学的視野を変えなくてはならない。この世界に関して新たに知った事柄を、真剣に受け止める必要があるのだ。たとえそれが、現実の構成に関する自分たちの思い込みと衝突したとしても。思うにこれこそが、持っている知識に驕ることなく、自身の学力と道理を信じる姿勢なのだろう。科学は、真理の宝庫ではない。科学の根っこには、真理の宝庫など存在しないという意識がある。何かを知るための最善の方法、それは、この世界を理解しようと努めながら世界と相互に作用して、自分たちが出会うもの、見つけたものに合わせて己の精神的な枠組みを調整し続けることだ。

何かを理解しようとするときに確かさを求めるのは、人間が犯す最大の過ちの一つだ、と作者はいう。知の探求を育むのは確かさではなく、根源的な確かさの不在なのである。自分たちが無知であることを鋭く意識するからこそ、疑いに心を開いて学び続け、よりよく学ぶことができる。

この、「あらゆるものについて思い込み、前提を廃し、疑い」「とにかく外界を柔軟に、素直に受け入れ」「なにかに落ち着くことなく、精神や考え方を更新し続ける」という姿勢は、以前「幸せになる勇気」で読んだ、哲学の話とおんなじだなと思いました。「幸せになる勇気」では

哲学の語源であるギリシア語は、知を愛するという意味を持つ。すなわち、哲学とは愛知学であり、哲学者とは愛知者なのである。…哲学は学問というより、生きる「態度」なのです。…私はいつまでも自分を考え、他社を考え、世界を考え続けます。ゆえに私は、永遠に「知らない」のです。

というふうに、哲学について哲人は語っています。これと全く一緒だな~と。この本、物理の本といいながら、半分くらい哲学の本って感じなんですけど、こういうところで生きる姿勢が同じだから、物理も哲学もこの作者にとっては地続きなものなんだろうな、と感じましたし、実際に読んでいても物理と哲学の親和性は高いというか根っこは同じなんだなと思いました。ただ、私からしたら物理学者は工学とかと比べて、実用ではなく理論というか哲学寄りの人だよなと感じるのですが、この作者自身は、自分は作中に自身が引用しているような偉大な哲学者ではなく卑しい物理学者である…みたいなことをいうところがあって、意外でした。まあ確かに、物理も"道具"感は哲学と比べるとまだちょっとあるっちゃあるかな…?

この哲学的な姿勢は、「幸せになる勇気」を読んでから私が大事にしたいなと思っているものなので、偉大な理論物理学者である作者も同じ考え方をしているのがなんだか嬉しかったし身近に感じられて良かったです。

あと、こういう"無知の知"的トピックで好きなのが、これです。

「私たちが、重力ポテンシャルの深い井戸のそこで、九千万マイル以上離れた核の火の玉の周りを回る、気体に覆われた惑星の表面で暮らしているという事実。そしてそのことを普通だと考えていることを考えれば、自分達の視野がどれほど歪みがちなのかは歴然としている」 (作中で、イギリスの作家ダグラス・アダムズによる発言、と引用されている)

今生きているこの状況を、普通だと思っているのが普通じゃない、という視点をもって生きるのは楽しいですよね。私がSF映画を見るのが好きな理由の一つに、自分と全く違う常識、生態を持つ異世界において、そこに生きる者たちがそれを当たり前に受け入れている様子や私達と異なる日常をみるのが好き(例えば指が10本ないから10進数じゃないとか、猛毒の気体の中で生きているとか、太陽が2つある、とか)というのがあるのですが…この、フィクションを見ている時の興奮、そして自分たちの状況の異常性を、日常でも自覚していきたいな~と思いました。

幸せになる勇気

存在の相対性について

この本で語られる、個人的には最も大きいと思われるトピック。作中の、これについての印象的な箇所を以下にいくつか。

ある対象物が「存在する」、とは、その対象物が他の何かと相互作用することであり、その相互作用のありようそのものである。すなわち、そのもの単独で存在が定義されるものは存在せず、この世の中のありとあらゆるものすべてが相互作用し合っており、その互いに作用し合う存在の広大な網目が現実世界なのである。もちろん、我々もその網目の結び目の一つであり、けして傍観者などではなく、俯瞰的な視点で物事を観察することなどできない。絶対にどんなものであっても、その存在は網目の一つであり、「外側」は存在し得ないのである。

例えば、地球は球だから、上と下は絶対的な概念ではなく、地球のどこにいるかによって変わる相対的な属性である。速度も、ある対象が別の対象に対して示す属性で、私が動いているとき、地面に対してと、太陽に対しては違う速度で歩いていることになる。つまり、2つの対象物の間だけで成り立つ関係=属性である。石には位置はなく、なにかとぶつかったときにだけ、その相手に対して位置がある。空自体はいかなる色も持たないが、空を見上げた私の目に対しては色を持つ。このように、物体は孤立した明確な自分自身の属性を持っているわけではなく、他との関係において、更にそれが相互作用したときに限って属性や特徴をもつのである。

すなわち、属性は対象物のうちにあるのではなく、対象物と対象物の間に掛かる橋で、対象物は他の対象物との関係においてのみその属性を有する。この世界は、互いが互いの反射としてしか存在しない、鏡の戯れなのである。

つまり、あらゆるものは関係という観点でしか捉えられず、考えられない。

なんとなく日々、"人間は"、相対値でしか物事を知覚できないよな、と思うことが個人的にもこれまでちょこちょこありましたが、この本では、もう"この世の全体が"、相対、関係でしか取り扱えず、考えられないというところまでいっており、初めはびっくりしました。でも考えてみれば、確かに、独立して、何とも関係を持たず、その在り方を決められるようなものはないのかも。ただそれが、冒頭のシュレディンガーの猫の解釈の仕方とか、二重スリット実験みたいなやつの解釈の仕方とか、そこに直接はまだ繋げられるほど理解はできてないです...悔しいッ

また、この考え方の根幹にもつながるとして、途中でナーガルージュナの名前とその理論がでてきます。読んでいる間は勉強不足で知らなかったのですが、この感想を書くために、そういえば似たような話がなんかあったような、と思って、この本を取り出したところ、思い切り書いてあって、しかも大乗仏教の始祖だと知り(世界は関係でできている、には多分そこは直接書いていなくて、空の理論の話が主だった)、量子力学から仏教の般若心経、色即是空の話に繋がるとはなかなか面白いなぁ〜と思うと同時に、そのつながりの違和感のなさに驚きました。

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (河出文庫)

(この史上最強の哲学入門には空の理論がより身近に分かりやすく書いてあり、理解が深まりました)

この世界は独立した実態にわかれているわけではなく、私達が、自分たちの都合でさまざまな対象物に分けているだけである。山脈は個々の山に分かれているわけではなく、私達が、何らかの意味で分かれていると感じた部分に分けているだけ。私達の行うものの行為の多くが、関係を基盤としたものだ。母親は子供がいるから母親で、惑星は厚生の周りを回るから惑星、空間の中の位置はなにか別のものとの関係によってのみ定まる。時間すら、一組の関係として存在している(過去と未来という相対的なふうにしか定義できない)

物事の認知の仕方、名付け方って、人間の価値観が出るよな(言語によって分け方が違ったりする。例えば日本語で復讐という一言ですまされる概念は、英語ではその意味づけで複数の単語に別れていたりするし、侘び寂びみたいな、その言語にしかない概念があったりする)と思うことは多々あり、その延長としてこの理論はすんなり理解することができました。この考え方面白くて好きなんですよね。普段何にも考えず名前をつけて認識しているものについて改めてその定義や何を持ってそう言っているのかとか、言葉の根源みたいなのを考えていくと、究極は昔々の人々の考えに行き着く気がして、そこに思いを馳せるのが好きです。当時の人はこれにそう名付ける価値があるから、必要があるから名前をつけたんだろうな、っていう。

ナーガルージュナによると、究極の実体や本質は存在せず、空である。他のものと無関係にそれ自体で存在するものはない。何ものもそれ自体では存在せず、あらゆるものは別のなにかに依存する形で、別の何かとの関係においてのみ存在する。事物は、ほかのもののおかげで、他のものの働きとして、ほかのもののとの関係で、他のものの視点から、存在する。この世には絶対的な存在はなく、相互依存と偶発的な出来事の世界である。

自分が自立的な実体として存在しているのではないという悟りは、自身を愛着や苦しみから解き放つ助けとなる。人生は永久に続かず、いかなる絶対も存在しないからこそ、意味があり、貴重なのだ。ナーガルージュナは人としての私に、この世界なのどかで軽く、光り輝く美しいものだと教えてくれる。わたしたちは、イメージのイメージでしかない。自分たちを含む現実は薄く脆いベールでしかなく、その向こうには…なにもないのである。

"空"という概念についての、この本での、"現実は相互作用の網目であり、薄いベールでしかない"、というたとえがすごく分かりやすく、そして芸術的、詩的な表現で、とても好きです。空って思うとなんだか虚無的な思考に陥りがちそうですが、そこに、輝く光がもれるベール、という例えを持ってくることにより、なんだか救われるような、心が軽くなるような気持ちにさせてくれます。この作者さん、学者さんで理論的でありながらも、こういう詩的な言い回しがすごくうまくて、感銘を受けます。

あとこれは完全に偏見ですが、西洋の人、東洋の学問に驚きがち、とちょっと思いました(いい意味で)。なんかこう、西洋哲学は歴史として当たり前のように前提知識になっているが、東洋哲学は秘められし知られざるものみたいな感じで扱われているような感じがなんとなくしました。でもお互いに、住んでいるところのあたりの考えにデフォルトがセットされるのは当たり前で仕方ないし、そもそも地理的に、互いに独自に発展してきたものであり、西洋哲学と東洋哲学が混じることができるようになったのも、地理を関係なく知識を入れられるようになってきた最近だと思うので、逆に西洋の人がこうやって外の視点から東洋哲学を取り上げてくれることで、私たちも改めてその考えに触れる機会を作ってくれるのは良いなと思いました。

あと完全に個人的なところで、"存在は、作用(デュナミス)なくして成立し得ない"っていう話が出てきて、デュナミスだ!!(FF14脳)ってなった。笑

組織化

ボグダーノフの組織化という概念が結構面白かったです。

社会生活は集団としての労働の組織化であり、知識は、経験と概念の組織化である。科学的な知識とは集団的に組織化された経験なのだ。

"知識"を分解して考えたことがなかったので、経験がまずあり、それを何かしらの観点で体系化、概念化して理解したものが知識なのだという説明はすごくすっきりしていて、驚くとともに納得しました。確かに、知識の根源には絶対に経験があるし、それを、ばらばらの経験として貯めておくのでは経験のままで、そこから概念を抽出することで知識になりうるな、と。何かを考えるとき、ぼんやりと捉えがちですが、こうやって、いろいろな捉え方で、その観点で構成要素を分解してみると、新たな側面みたいなのが見えてきて良いですね。

因果関係

ある構造がなぜ存在するのかを理解するには、その構造の効果と存在の因果関係を逆転させればよい。機能は、それらの構造の目的ではなく、それらの構造が存在するからこそ、生命体が生き延びられる。

なんでこんな奴が生きてるんだ、じゃなくて、こんな奴だから生きているんだ、ということですね。なんか、嫌われる勇気で、目的論の話をしているときを思い出しました。

嫌われる勇気

この本では、"引きこもりは何か原因があって引きこもっているのではなく、目的があって引きこもっているのだ"とか、"人間が怒るのは、怒ることをされたからではなく、怒りたいという目的があるから怒っているのだ"みたいな、原因と目的を逆に捉える話が出てきます。なんかこれにちょっと似てるなーと思いました。普通考える順序とは逆に考えることによって、その理屈が理解できる、みたいな。

「意味」の最も原始的な意味

"意味"について、考察する箇所がありましたが、そこがとても興味深かったです。いろんなことの意義や意味について日々考えることがありますが、意味の意味についてはなかなか考えたことなかったなぁ〜と(意味がゲシュタルト崩壊してきた)。今はかなり幅広い概念をカバーしてしまっている"意味"というものの、原始的な、根源的な意味(別の単語を使いたいが、逃れられない笑)を、生物、物理的に、生存という生き物として不可欠な観点から考えることで確定していくプロセスが面白かったし、とても納得できました。

意味は、妥当な相対情報である。例えば、バクテニアには、餌となるブドウ糖の濃度勾配を探知できる細胞膜と、泳ぐのに使える鞭毛と、最もブドウ糖が多い方向を示す生化学的なメカニズムがある。細胞膜の生化学プロセスによって、ブドウ糖の分布とバクテリアの内部の生化学的状態の相関が決まり、そこからバクテリアが泳ぐ方向が決まる。この相関には、意義がある。この相関が崩れると、バクテリアは死んでしまう。生存上の価値がある物理的相関が、バクテリアには存在する。それが、バクテリアにとって、糖の濃度に関する情報は、意味があるという状態である。もっと身近な例で言えば、たとえば私に頭上から岩が落ちてくるとき、避けなければ死んでしまうので、人間の網膜に映る情報は、外界の情報を取得しており、そこには相関が存在する。すなわち、岩の状態と自分の脳のニューロンを結ぶ内と外には相関がある。わたしたちにとって、視界に映る情報は、意味があるという状態である。

そう考えると、世の中本当に全部相関でできているというか、私たちが認識して考えてる事柄って相関ばかりなんだなと思いました。何かを絶対値で捉えることってできないんじゃないかな。

あと、ここのあたりで一個ギョッとなったのがこれ。

脳は、外界の情報を取得するとき、目から脳にではなく、逆に目から脳に信号を送っている。脳は、すでに知っていることや以前起きたことに基づいて、見えそうなものを予測し、目に映るはずのものを予測してその像を作り、その情報が脳から目に送られる。そして、脳が予見したものと目に届いている光に違いがあると、その場合に限って、ニューロンの回路が脳に向けて信号を送る。脳の予測と違っていたものだけが脳に知らされる。わたしたちは、外界を再構成した像を見ているのではなく、自分が予期し、把握した情報に基づいて修正を施した像を見ているのだ。

映像圧縮技術みたいなこと(前フレームとの差分しか記録しない)常日頃からしてるんだって思ったし、えっ、現実見てないってこと?って思って怖かったです(今も怖い)。しかしまあ、この本はこういう直感に反する現実をいろいろと突きつけてくれて、本当人間ってほとんど思い込みで生きてるんだな〜ってつくづく思いました。

まとめ

量子力学の本かと思いきや、半分くらいは哲学の本でした。世界のあり方とその考え方について、量子力学と、ロシアの革命期の話と、仏教の教えを交えて理解することができ、物理学の話と哲学の話の親和性に驚き、そして楽しく、興味深く読むことができました。正直特にロシアのあたりは半分も理解できてる気はしませんが笑

また、現在も科学は発展途上であり、まだまだ分からないことがある、ということが分かり、なんだか不思議な気持ちになりました。高校の物理とかで学ぶことって、もう人によって正解がわかりました、みたいなノリで捉えていたので、そもそもその根幹からしてまだまだ分からんところが今もあるんだよというのには驚き、そして、自分もまた歴史の一部なんだなという気持ちになりました。未来にはもっと量子力学の話が解明されて、物理定数とかも変わってるかもなぁ。物理という学問自体、どうなってるのかな〜。

読んでよかった!著者、翻訳者さん、お薦めしてくれた親に感謝!