『歎異抄』を意訳する 8 (original) (raw)
今回はこのシリーズの続き。
以前、『痩せ我慢の説』を意訳したように、今回は『歎異抄』を意訳してみる。
16 第十四条を意訳する
今回は、第十四条を(私釈三国志風に)意訳する。
まずは、冒頭部分から。
(以下、『歎異抄』の第十四条の意訳、意訳であって直訳ではないことに注意、なお、強調は私の手による)
「たった1回の念仏を唱えることによって、その人にまとわりついている数えきれない罪業が浄化される」と信じている人がいるらしい。
具体的にその主張を見ていくと、「死ぬまでに悪行の限りを尽くし、または、十悪・五逆の大罪を犯し、それに加えて『念仏の教え』を鼻で笑っていた極悪人であっても、臨終に際して『念仏の教え』に感銘を受けて改心し、念仏を1回唱えるだけでその人の悪行が浄化される。
しかも、念仏を10回唱えれば、その10倍分の悪行が浄化されて救済される」というものらしい。
つまり、個々の1回の念仏に罪業を浄化させる具体的な効果があるということらしい。
言うまでもなく、このような主張は我々が信じるものではない。
以下、この主張が「念仏の教え」といかにかけ離れているかを見ていきたい。
(意訳終了)
親鸞聖人の愛弟子であれば、本条の冒頭にある主張など採用するはずがない。
もっとも、「この主張にどのように反論するか」は「念仏の教えの理解」にとって重要ではないかと考えられる。
ここで、上の仏教用語の定義を確認しておく。
なお、定義の確認に際しては次の記事などを参考にした。
まずは、十悪というのは次の行いを指すらしい。
・殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、悪口、両舌、慳貪、瞋恚、邪見
また、五逆とは次の行いを指すらしい。
・殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒
以上、基礎知識を踏まえたところで、本条について意訳を続けていく。
(以下、『歎異抄』の第十四条の意訳、なお、強調は私の手による)
そもそも、念仏を唱えるのは偉大なる阿弥陀仏の誓いのおかげである。
だから、念仏を唱えようと思った時点で、阿弥陀仏の慈悲の心がその人に宿っているのである。
そして、その人の命の灯が消えたときに、生前の煩悩や悪行が消し飛んで、「無生忍」という悟りを開くことができるのである。
このように、「阿弥陀仏の誓い」なくして、私たちのような罪人は悟りを得ることができないのである。
そして、人々が一生の間に唱える念仏は、自分に慈悲を施してくれた阿弥陀仏の御恩に感謝するものに過ぎない。
ところで、「念仏によって、自分の罪業が消える」という考え方は、つまるところ「自分の力で念仏を唱え、罪業を消すことによって極楽浄土へ行こう」と考えているに等しい。
そう考えたいなら勝手になされればよろしいであろうが、その人の持っている罪業の重さ・大きさを考えたら、一生の間、念仏を唱え続けても往生することはできないだろう。
それに、人生とは不思議なものである。
突然の発病、負傷により意識を失い、そのまま臨終を迎えることもあろう。
この場合、念仏を唱えられないまま命の灯が消えることになり、罪業が消滅せず往生できないということになるわけだが、それでいいのだろうか。
阿弥陀仏の「煩悩に塗れた凡人を救済する」という摂取不捨の誓いを信じているのであれば、たとえ、罪業を重ねに重ね、あるいは、念仏を唱えることができなかったとしても、その人は往生することができる。
人の世界から見れば、これほど不思議なこともないかもしれないが。
また、念仏を唱える場合であっても自分の意志によって念仏を唱えるのではない。
阿弥陀仏の誓いにより念仏を信じるようになり、悟りを開ける道を歩けるようになったので、ますます阿弥陀仏の誓いを信じ、阿弥陀仏に感謝するために念仏を唱えているだけなのである。
このように、念仏によって罪業が消滅すると考えるのは、聖道門の類似した自力の発想である。
また、臨終に際して念仏を唱えさえすればいいというのも自力の発想である。
いずれも、他力を旨とする「念仏の教え」を信仰する者の考え方ではない。
(意訳終了)
特に、追加すべきことはないだろう。
他力たる「念仏の教え」においては、念仏を唱えるようになるのは「阿弥陀仏の慈悲」によるのであって、自分の意志は関係ない。
また、「生前に悪業の限りを尽くした人が臨終の直前に念仏を唱え往生できるかどうか」は、ひとえに「阿弥陀仏の慈悲」がその人に及ぶか否かによる。
阿弥陀仏がそのような慈悲を下し、かつ、その慈悲がその人に届けば、冒頭の主張も正しいことにはなるだろう。
もちろん、その救済はその者の意志によるわけではない点はもちろんである。
ところで、このように見ていると、『歎異抄』の教えはパウロの『ローマ人への手紙』と似ているように見える。
しかし、1つ、大きな違いがあるようだ。
これは、啓典宗教における「神前法後」と仏教における「法前仏後」の違いからくるものだろうか。
この点、パウロの見方から見れば、冒頭のような主張をする人間は、神(イエス・キリスト)によってそのような発言をさせられていると考えることになる。
これは、パウロの「ローマ人の手紙」の第9章第18節の記載が参考になろう。
もちろん、そのような発言をしたからといってその人間が救済されるかどうかは分からない。
たとえ、浅はかな人間が「そのような発言をしたのであれば、救済される可能性はないだろう」と想像しても。
これに対して、念仏の教えから見た場合、冒頭のような主張をする人間は、阿弥陀仏の意志によってなされたとは限らない。
阿弥陀仏は創造者ではないから。
その結果、冒頭のような主張をしていても阿弥陀仏の慈悲によって救済されるのではないか、という気がしないではない。
あくまで「気がする」だけだが。
以上、第十四条の意訳をしてみた。
続きは次回にて。