週刊雑記帳(ブログ) (original) (raw)

大学で授業をしていると、まず定義から見ていくということをよくやる。
これは、研究でも同じで、その用語をまず定義しておく、というのは論文でもよく見られる。
まあ、学術的な話だけではない。
法律・条約でもそうで、かなり初めの方で「定義」という条文があり、そこで細々とその法律・条約で使っている言葉の定義をしていることがある。

さて。
授業で定義を話すと、時々困ったことが出てくることがある。
それは、定義が複数ある、というもの。
例えば、発達とは谷中(2023)はこう定義するが、田中(1987)はちょっと違う定義をしていて、藪中(2020)は全然違う定義をしている、いった感じ。
人によって、分野によって、法律によって、国によって、それこそあらゆる文脈によって定義が全然違う場合がある。
で、大学生くらいだと、どうもこれが大変意味がわからない、となるらしいのである。
これは大学生に限らず、学校の先生など社会人とお話しするときにも同じようなことを言われるので、存外一般的なものなのかもしれない。
定義が複数ある、どういうことか。
イミガワカラナイ、統一しておいてよね。
そんなところだろうか。

では。
なぜそんなことが起こるのだろうか。
これは、定義とは目的に合わせてその都度行うものだから。
ある目的のためにその用語を使う必要がある。
そこで、その目的に最適化した形で、その用語をこの中でこう使うよ、と宣言するのが定義である。
もちろん、その用語が持つ、人々に共有された意味を無視して定義することはほとんどない。
ただ。
同じ用語が、構成員全員に全く同じ意味で共有されている、というのはほとんどあり得ない。
一人一人が、それぞれの持つ基礎的な知識と専門性などのバックグラウンドによって、意味を少しずつ異なる形で持っていることが多い。
これが、専門分野間によってもまた真、となる。
例えば、先に「発達」という用語を例に挙げたが、これを成長と捉えるのか、変化と捉えるのか、はそれぞれの立場によって異なる。
心理学者であれば変化として捉え、老化現象まで含めるだろうし、小児科医であれば成長として捉え大人になるまでを主眼として捉えるであろう。
心理学者にしても老化について研究する前の大昔であればやはり大人になるまでの変化として捉えていたと思う。
このように、その人や分野・コミュニティーによって、捉え方が大きく異なることはよくある。

さらに。
用語というのは、何らかの目的を用いて使うことになるのだが、その目的がまた使用する文脈によって異なる。
先の例の「発達」。
これを心理学の授業のために使うのか、何らかの法制度の整備のために使うのか、医学研究がしたくて使うのか。
元々、用語の持つ意味自体が多義的であるから、あらかじめその文脈上どういう意味で使うのかについて宣言をするということになるのだが、それは当然その文脈で使用する目的に対して、最適な定義がなされることになる。
そういったわけで、用語について異なる定義というものが出てきてしまう。

こういう話をすると、必ず出てくるのが、「そんなの全分野に共通する定義を作って使ってほしい」というもの。
学ばされる側からすると面倒だし、そうしておいてよね、ということだろう。
問題は、そんなことできるのだろうか、ということ。
これはおそらくかなり難しい。
再び登場、「発達」。
保育や小児医療の関係者は日常的に、発達を大人になることの意味で使っている。
この文脈で「発達」という用語を定義する場合、老化までを含めた変化を発達と捉えるという発想にならない。
そもそも子どもが大人になる何かを捉えた上で発達という言葉を使いたいに違いなく、その文脈では大人の老化までを含めた変化の意味で使う必要がない。
むしろ、老化までを含めた変化で定義してしまうと本来言いたいことがぼやけてしまい、目的が達成されないということも起こりうる。

目的のために定義を統一できない、というののわかりやすい例が障害。
障害児教育の文脈と医学の文脈で、定義自体が異なることがある。
医学では診断をして治療をしてできれば治したい、というのが定義を行う大きな動機。
そうすると、診断は厳密でなければならないし、病理的なメカニズムも踏まえて障害概念を作り定義づける必要がある。
一方で、教育では、教育を行う制度上の仕組みを整えるために定義をする。
治療まで念頭においた厳密な診断は必要なく、むしろ、グレーであっても教育上困っていれば支援・教育をした方がいい。
すると、医学分野の厳密な診断的定義だとむしろ目的を達成できない、ということも起こりうる。

では、同じ分野なら同じ定義でいけるか、というそうもならない。
再再登板、「発達」。
心理学では老化も含めた変化を指すことが多いが、これは研究が進めて概念に拡張があったから。
昔はやはり大人になる成長を意味して使っていて、変化の意味では使っていなかった。
つまり、昔の心理学系の文章では、今とは異なる定義で使われていることがある。
時代が変わって、概念や言葉の意味もまた変わっていく、ということを考えると、同じ定義を使用するというのが相当に難しいということがわかると思う。
これに、用語を使う個人の考えや思想がのる。
万能な定義というのは存在しない、ということ。

それゆえに。
定義が重要ということになる。
大学の授業や、専門書・論文、法律・制度なんかで必ず定義を載せているのはこのため。
用語の意味は文脈によって異なり、普遍的に通用する意味などなく、受け取られ方はさまざま。
なので、この文脈ではこういう意味で使うよ、と定義しておく必要がある。
それによって、その文脈上でやりたいことを達成することができる。
さらに、複数の文脈間における知識の統合や比較もまた可能になる。
僕の論文では「発達」をAの意味で使っているけど、こっちの論文ではBの意味で使っているよね、だから同じ用語だけど分けて考えなきゃいけない、とか。
そっちの論文では「成長」をAの意味で使っているから、この場合僕の定義上の「発達」と読み替えて使えるなぁ、とか。
こういったことが可能になる。

そんなわけで、大学に来ると、「〇〇の定義は?」ということをよく聞くようになる。
これは社会に出てからもずっと続くことになる。
社会人になるとさまざまな法制度を利用したり関わったりしながら生きていくことになる。
そして、その法制度も、その国や地域、分野の実情や制度史によって作られるのもの。
用語の定義はどうしても多様なものにならざるを得ない。
社会人になっても、そういうものだと思って定義というものと付き合っていく必要がある。
これを意識しておかないと、前提を間違えていろいろと誤解をしてしまうことになりかねない。

以上、定義のハナシ、でした。
ではまた。

皇居のあそこらへん。

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2024/08/27 16:59
仕事後に。
鳥駅ドトールにて。

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Update 2024/08/27
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研究計画のイントロが仕上がり、目的が出来上がる。
研究目的に対応した、方法に関する計画も上がってくる。
方法論については、質問紙なのか、面接なのか、実験なのか、といった大きなくくりから、どんな内容でどんなデータをとるかという細かいものまで書かれている。
と、ここまでは、計画段階で出来上がっていることが多い。
問題はこの先。

僕はこの段階の研究計画を見て、以下の2点を質問する。
(1)どんな分析をするのか
(2)その分析の結果、どんな結果が出てくるとうれしいのか
学部卒論生だと、ここでビシッと答えられない人も多いのではないだろうか。
本格に研究をするのが初めてな大学院生修士クラスでも答えられない人がいる印象。
(さすがに、博士院生クラスだと大丈夫なはず)

さて。
これらの質問にはどういう意味があるのか。
まず、(1)どんな分析をするのか。
そもそもこれは研究目的があっての方法であるはずだから、答えられないのがまずい。
研究目的を達成するためには、データをとるだけでは不完全。
取ったデータにどんな分析をかけるか、までがセットでなければならない。
これが答えられないということは、研究目的と方法論の対応がよくわかっていないということを意味する。
答えられない場合の多くはとりあえずデータを取って、取った後で考えようということなのだと思う。
特に卒論や修論等期限のある研究の場合、時間が迫っていて焦ってデータを取りたがる傾向がある。
データさえとればなんとかなる、と思いがち。

だが、しかし。
これは大いなる間違い。
確かになんらかのデータを取りさえすれば、何かは発表できてしまう。
が、それが研究目的にあったものになるか、というとそうなるとは限らない。
例えば、質問紙でデータを取ってきて、男女間で平均値に差があるか調べたいとする。
その場合、質問紙は平均値の計算をしてもいいような作りになっていないといけないし、男性と女性での人数も分析に耐えられるような人数でなければならない。
分析方法が、それ以前のデータの取得の仕方に縛られるのだ。
その質問紙の聞き方では平均値は出せない(出しても意味がない)よね、とか、その男女の人数では統計分析かけても何も出てこないのが普通だよね、とか、そういうことが発生する。
聡明なみなさまはお気付きのことと思うが、データを取り終わった段階でこういうことが出てきた場合、もうどうしようもない。
データというのは、その後の分析を見据えて取ってくるものなのである。
はい・いいえで聞くのか、とても当てはまる〜全く当てはまらないの5段階で聞くのか、はたまた、自由記述で聞くのか。
人数は何人くらい取るのか、グループに振り分けてデータをとるのか、一人の人が何パタンも質問に答えるのか。
これらはその後の分析によって決まる。
で、データ取得前であればこれらはいくらでも直すことができる。
繰り返しになるが、データ取得後に分析方法を考えても、それはできない、ということは往々にして起こる。
そして、その分析ができないがゆえに、研究目的が達成できない、ということになってしまう。

そういうわけだから。
研究計画の段階で、具体的な分析まで考えて、データ取得も含めた方法論をしっかりと固めてからデータ取得をスタートしたい。
どうしても具体的なデータがないとわからん、という人は、少人数の予備データを取って、一回分析をやってみて手直しをしてから本番のデータ取りにはいるようにする。
これを徹底するだけで、研究をまとめる段階でかなり楽になるし、研究全体がグッといいものになる。
なお、データを取った後で、これどう分析したらいいでしょうか、という質問を受けることがあるが、基本的にどうにもならないことが多い。
データは目的を達成するために最適なものを取得すべきで、そうじゃないものを後からなんとかするのは難しい。
このあたりは、研究をやったことない人にはわかりにくい部分かもしれない。

次に(2)の質問、どんな結果が出るとうれしいのか。
意図は2つ。
研究目的と分析を含めた方法論の対応関係を理解しているか。
これはここまでに書いたことと同じこと。
理解していれば、これはすんなり出てくるはず。
これが出てこない場合は、研究目的と方法論の対応関係を理解していないか、場合によっては研究目的が焦点化されていないことも。
データを取る前になんとかしたい。

2つ目の意図。
これは、他に考えられる分析の探索やそれに備えた方法論の練り直しを促すこと。
うれしい結果以外にも、目的を達成するための別の分析も考えられるかもしれない。
方法論によってはデータを取る前に工夫が必要になることもある。
うれしくない結果、予想外の結果が出た時に、あらかじめ方法論や文献調査で備えておく、ということもできる。
うれしい結果であろうが、そうでない結果であろうが、方法論の欠陥でそれが出た、というのは避けたい。
データを取る前に分析方法をしっかり詰めておく必要がある。
そのために、どんな分析でどんな結果を予想するのかは、あらかじめ考えておきたい。

ちなみに、どんな結果が出るとうれしいか、は研究の意義そのものでもある。
長い時間をかけて研究を作っているとわからなくなってしまうこともあるので、計画段階でこれをしっかりと把握しておきたい。

長くなった。
今日はこのへんで。
ではまた。

海芝浦という大変いい駅。

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2024/08/17 16:48
休暇だよ。
東京都内にて。

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Update 2024/08/17
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大学生になって、読むことと書くことの量と幅が格段に広がる。
読むものは、教科書や参考書にとどまらず、教養のための新書、専門書、論文といった学術に関係あるものから、新聞や小説など、本当に多岐にわたる。
読む量に関して言えば、高校までのそれとは比べ物にならないと思う。
書くこともそう。
調べた上で知識を頭の中で整理して、自分の言葉で書き直すということが増える。
もう少し学年が上がると、自分の考えを文章で表現する機会も多くなることだろう。

大学生と話していると、「書く力」を伸ばしたいのだけどなかなかいい方法が見つからない、と聞くことがある。
書く能力を上げるためには、いい文、いい文章をたくさん読んでおく必要がある。
それについては、別の記事に書いているので、詳しくはそちらを参考にしていただいて。
今日ちょっとそれとは角度変えて、辞書のハナシ。

書く力を伸ばしたい、というか、言語能力を伸ばしたのであれば、辞書をひくくせをつけよう。
特に、書く時に逐一辞書をひくようにしたい。
なぜか。
これは、語彙力と表現力を上げるから。
読む時に比べると、書く時のほうが辞書は効果的だと思っている。
もちろん、読む時にでこれをやってもいいけど、時間がかかるし、意味は推測しながら読むこともできる。
読みながらなんとなく意味をつかんで脳内語彙を増やす、というのは元々我々の基本的な能力として備わっていて、ちびっ子の時からこれを使って語彙力を増やしてきた。
読む時にわからないものをいちいち辞書をひかなくても文脈からなんとなく意味を取れるので、数をこなせば語彙力は勝手に伸びていく。
読む時に辞書を引くのは、どうしても正確な意味を押さえなくては先に進めない、全体を理解する上で重要な時、だけでもいいと思っている。
異論はあると思うが、何よりも読むことを楽しんで数をこなした方がいいという立場。

では書く時はどうか。
書くという行為は、頭の中に表現したい何かがあり、それを文字に落とし込む作業。
頭の中の何か、は、言語の形をとっていないので、自分の内にある語彙辞書を使って文字を当てていく。
ただ、読んで作った語彙辞書は推測で作っているものなので、間違いや曖昧なものが混ざっている。
そこで、当てた文字のうち、曖昧だなぁと思ったものについて、辞書を引く。
元々、頭の中に表現した何かがあるので、それと辞書を引いて得た情報を引き合わせて、その文字が表現したいことに当たるのか確かめることができる。
この作業は大きく2つの点からオススメしている。

1点目は、表現した文字、ひいては文章を自分の意図した通り他者に伝わる内容により近づけることができる点。
意外と、自分の語彙にいる言葉の意味が辞書に載っている意味とずれて勘違いしていることはある。
その歪みを正して文を綴ることができるので、間違って伝わる危険性が減る。
辞書には用例が載っているので、使い方、言い回しのおかしな部分を修正することもできる。
辞書を引いて、ああこれはちょっと言いたいことと違うな、と思って文字を当て直すことは僕もよくあること。

2点目は、その行為自体が、自分の語彙力と書く力を磨く点。
書く行為をする中で、自己の語彙辞書の歪みを直す行為を常にやるわけだから、語彙力が上がらないわけがない。
読書でふわっと語彙を増やして、書くときに語彙の正確性を磨く、というイメージ。

大学生の時にレポート課題や卒業論文などでこれを逐一実践すると書く力は結構磨かれると思う。
レポート課題なんかで、頭の中に書くもののイメージができていないのであれば、それは入力が足りない。
しっかり入力する、頭の中に書くもののイメージを作る、書く、をしっかりとやりたい。
参考文献やWeb、AIの引き写しに終始すると、語彙力や書く力は伸びない。
卒論で困るか、社会に出て自分の言葉で文章を綴れない人間ができあがってしまう。

ちなみに。
辞書をひく時はWebを利用するのではなく、ちゃんと編まれている辞書名のわかるものを利用したい。
これには理由がある。
まず、辞書に書かれているものは、言葉の定義ではない。
というか、言葉を定義なんかできない。
このあたりは、長くなるので別記事でいくつかにわけて書く。
では辞書に書いてあるものは何か。
簡単に書くと、世の中で共有されているその言葉の意味を、一つ一つ文字で表現したもの、といったところか。
その表現の方法には辞書の編集方針ごとに色があり、収録されている語やその意味、網羅範囲も違う。
この辞書には載っているけど、こっちには載っていない、辞書ごとに表現の仕方が違う、なんてことが起こる。
常用の辞書とサブの辞書を1つずつ買って使い分け、時には2つを引いて比べる、というのをおススメしている。
続けていると、辞書の色が何となくわかってきて、自分の好みや用途による使い分けができるようになる。
なお、辞書自体は紙のものでなくて、スマホのアプリ版でもいいと思う。
どこでも調べられるので、そっちの方がいいかもしれない。
Webでは辞書は選べないし、辞書以外の真偽のわからない何かが引っ掛かることも多く、全くオススメしない。

辞書を引く、は僕は日常やっていて、論文はおろか、ここに記事を書く時、Twitterにつぶやくときにも、辞書を引いて意味確認をすることがある。
辞書は、新明解を常用し、三省堂国語辞典をサブとして使っている。
新明解は、なんというか、表現・用例がおもしろい。
まあこれは完全に好みの問題。
どっちにも載っていなくて、でも、この意味あるよな、という時のみ大辞林広辞苑などの大辞典や、Webを使う。
心理学や医学、障害、教育学などは、その専門の辞書をそろえてあって、そっちを先に引くことが多い。
論文などで専門用語がわからない時、Webの情報に頼る学生は多いが、専門辞書という選択肢は覚えておいてほしい。

では、今回はこのへんで。
また。

たぶん、みなとみらい。

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2024/09/01 21:28
今日は誕生日だよ。
鳥駅ドトールにて。

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Update 2024/09/01
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大学生と話していると、英語が苦手、という声を聞くことがある。
英語の単位は取ったのだけど、漠然とした苦手感がある。
中高生の頃からどうも点数が取れない。
TOEICなんかもいいスコアにならない。
研究で英語の論文が出てきて、読まなきゃいけないんだけど避けてしまう。
大学院や就職で英語力が必要なのがネックで、その方面に進むのを躊躇する。
TOEICや英語の授業の成績はいいのだけど、実際に使用するのはちょっと、、、というタイプも聞くことがある。

何を隠そう、僕もこのタイプだった。
僕の場合は、英語に関しては点数も稼げず、能力としてもかなり劣る、というタイプの人間だった。
中高生くらいまではこのタイプで、公立中学のレベルで英語の成績は相当下の方。
大学受験では英語が足を引っ張りまくる実に厄介な教科だった。
嘘のように聞こえるが、Be動詞でつまずいて、それっきりもう全くダメだった。
本当にダメだったので、当時の僕は英語を捨てていたし、将来は英語とは無縁の世界で生きていくつもりだった。

しかし。
今は英語について得意ではないものの、そこまで苦手意識はない。
英語の本や論文は日常読むし、英語で情報を取ってくるのもさほど苦ではない。
論文は英語で書くこともあるし、学会発表も海外で英語で行うことがある。
どうやってこうなったか。
今回はそのことについて書いてみようと思う。
想定読者は、英語に対する態度が最悪だった中高生の頃の僕(と、同じような境遇の中高生、大学生、社会人たち)。
高校生までの英語への向き合い方と、大学生以降の体験談を書いていく。
なお、英語の大切さや、具体的な教材については、「英語(なぜ学ぶのか、何を学ぶのか 4 )」を読んでいただいて。

まず。
大学生になった時、英語への態度がガラッと変わった。
一番大きかったのは、受験を意識した「点数をとらなくてはならない」というノルマがなくなったこと。
TOEICの点数などにもなんの興味もなく、将来英語を使うお仕事に就く気もない。
そんな中で、ある日思った。
英語がしゃべれたら、英語の本が読めたら、かっこいいじゃないか。
実に不純な動機なのだが、外部評価から離れたからこそ出てきた発想ではあると思う。
できるようになるのは、おじいちゃんになった時でかまわない、という実にゆるい目標ができあがった。
で、いろいろな人(主には大学の教員や英語科の友人)にどうやったらできるようになるか聞きまくった。

最初の段階で重視したのは発音と継続。
どうも、発音は超大事で、なおかつ、継続することも超大事である、というのが識者の共通した意見だった。
さかのぼって、僕の中高時代。
英語については、発音を軽視していた。
しゃべれなくても、英文の意味が取れれば第二外国語としては十分。
点数は取れるし、受験でも困らないだろう、なんてことを考えていた。
大馬鹿野郎である。
言語の心理学から考えるとこれは大間違い。
言語の基本は音声である。
音声言語は文字が現れる以前からこの世界に存在していて、その音声言語に視覚的な記号をふったのが文字言語。
これは個人の発達でも同じで、音声言語を自然と身につけてしゃべれるようになった後で文字言語を身につける、というのが一般的。
発達障害なんかを見ても、音声言語は問題ないのに文字言語は難しい、というパタンはあるが、その逆はあまり聞かない。
しゃべれなくても意味がわかればいい、なんてのは、言語の本質を外した実に浅はかな考え。

高校生まではそんな感じだったのだが、大学生の英語は「しゃべれたらかっこいい」という不純な動機がスタート地点だったのがとてもよかった。
抵抗なく、発音を重視した英語学習に入れた。

語学においては継続も大事だ、というのも識者の意見。
よく考えたら、高校までは継続もしていない。
授業の予習復習は全くしない、試験前もほとんど何もしない、朝自習の英単語学習の時間は抜け出してドラム叩いてたし。
継続どころか、英語に時間をほとんど使っていない。
これも中高生の頃の僕を呼び出して説教をかましたいところ。
なんもしてないくせに、勝手にできない被害者ぶりやがって。

そんなわけで、大学1年生からスタートしたのは次の3点。
(1)NHKラジオ英語講座を毎日聞く
(2)英語の授業は必ず予習をして、テキストの英訳はやってから授業に挑む
(3)発音記号を覚えて、読む英単語はきちんとした発音も確認する
発音記号についてはよくわからないものもあったので、臆せず英語教員の部屋に押しかけて教えてもらった。
いい本を教えろ、というといくらでも出てくるのも大学教員のいいところで、これを大いに活用した。
これらを1年くらい続けたところ、発音記号はだいたいマスターし、テキストの長文も訳す時間が短くなった。

1年生で英語の授業が終わってしまったので、2年生以降は(2)を以下に変更した。
(2)英語の本を定期的に読む。
英語の本は、学習用に使用単語が制限されたやさしい読み物か、難しい英単語の意味が載っているやつ、児童文学なんかも使った(詳しくはコチラを)。
今だと、iPadを持っていればわからない単語はその場でひけるので、英語の本の選択肢は広いことと思う。

大学3、4年生になると、NHKラジオ英語講座のレベルを上げる。
読む英文も、論文や海外の大学教科書を混ぜるなど、ちょっと高度なものにも手を出すように。
当時は教育学部に所属していたので、英語科の学生に混ざってネイティブのコミュニケーション英語のような授業にも手を出した。
これらのおかげで、卒業時点では中の中くらいの英語力になっていた。
大学院に進学しようと思っていたため、英語の試験を受けなければならなかったのだけど、そんなに困った記憶はない。
得意じゃないけど、壊滅的にできない、というわけではない、というレベルだろうか。
大学時代はほぼ毎日英語ラジオを聴いたし、英文も多読した。
これが高校生までとは大きく異なった点で、これらのおかげだと思っている。

大学院に進学すると、そもそもが英語の論文を日常的に読む生活になる。
このため、英文を読む数は必然的に増えていった。
NHKラジオの英語講座は継続(なお、ラジオ講座については今も継続している)。
学会も英語で資料を作る、英語で発表が行われる、という感じだったので、英語に触れている時間が増えた。
たぶんこれらによってさらに鍛えられた。
修論は英語で書いたのだけど、そこまで大変な印象は残っていない。

この生活は、修士修了後、就職しても博士課程に進んでも続く。
英語で情報をとる、というのは専門の論文だけでなく、興味ある分野のWebページ、本、新聞なんかも使うように。
この時期になるとNHKラジオ講座だけでなく、海外のPodcastYouTubeなどにも手を出し始めた。
ただ、この時期に結構役に立ったな、と感じたのが、英会話。
大学院が英語教育プログラムとして英会話教室を週2回くらいやってくれていて、先生1対学生数人の少人数教室に行くことができた。
語学は恥をかいただけ身につく、というのを実感しつつ、毎回恥をかきながら瞬発力を鍛えられた。
これはとても役になったので、大学に勤めるようになってもオンライン英会話を受講するなどは時々する。

と、まあ、こんな感じで、現在に至る。
そんなに英語堪能なわけではないが、もう全くダメ、というわけでもないレベルまではもってこれた。
もう全然ダメ、という人も、だまされたと思って実践してみてはどうだろうか。
英語はつぶしがきく。
なお、僕の英語へのモチベーションは、「英語がしゃべれたら、英語の本が読めたら、かっこいい」という不純なものだった。
よって、TOEICや院試のための点数をとる勉強はほとんどしていない。
大昔にこの業界から他業種に転職を考えたことがあって、その時に自分の英語力を数値化するためにほんのちょっと過去問を解いたくらい。
目的を点数におかない、ただただ技術を磨くトレーニングというのもあって、勉強のため点数のための英語はキライだけどこういうのは好き、という人は結構いるのではないかと思っている。
これは英語に限った話ではない。

長くなった。
ではまた。

南町田の駅かな。

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2024/08/23 19:48
仕事後に。
自宅にて。

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Update 2024/08/23
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統合教育とインクルーシブ教育の違いがわかりません。
特別支援教育の授業受講生からよく出る質問である。
そこで、今回はこの用語の違いを解説する。
似ているこの2つの用語なのだが、意味はだいぶ違うため、しっかりと押さえておきたい。

簡単な用語解説から。
統合教育の「統合」はintegrationの訳語。
分離を示すsegregationの反対の用語である。
障害児教育が分離教育だったことに対して、全ての子どもが同じ場で教育を受ける教育を指すのが統合教育の意味するところ。
この考え方は、1950年前後から出てきた、Bank-Mikkelsenのノーマライゼーションに影響を受けたもの。
ノーマライゼーションとは、障害があっても可能かなぎり一般的な生活を送れるようにすることを指す。
障害があるから〇〇ができない、をなるべく無くして、障害がない人と同じような生活を送れるような社会を作ろうよ、という理念と言い換えてもいいか。
1970以降、各国の福祉・障害者政策に影響を与えた考え方である。

障害児教育の歴史を調べるとわかるのだけど、日本も含めて障害児教育は特別の場によって行われるというのがスタートだった。
日本だと、盲学校、聾学校養護学校特殊学級なんかがこれに当たる。
障害のない者と分離されている場で教育を受けているので、分離教育という。
これは地域の一般の学校に通える障害のない者と同じではない。
ノーマライゼーションの理念から考えると、障害のないものと同じ学校・教室で教育を受けられるのが理想的となる。
よって、障害のないものと同じ場で教育を受けられるようにすることを統合教育といい、1990年代前半まではよく使われる言葉だった。

一方で、インクルーシブ教育。
インクルーシブとは「包容する」といった意味で、障害者権利条約ではこう訳している。
Exclusive(排他的)の対義語で、日本語を当てづらいからか、そのままカタカナで使われることが多い。
この言葉が有名になったのは、1994年にユネスコとスペイン政府共催で開かれた「特別ニーズ教育に関する世界大会」の中で採択されたサラマンカ声明においてである。
サラマンカ声明を読むと、原則的には子どもがなんらかの困難・相違を持っていても可能な場合は共に学ぶべきで、それを達成するインクルーシブな学校の重要性を述べている。
子どもたち学校に通えない場合、そこにはなんらかの困難が存在するから通えない。
言い換えると、一般の学校に行くのになんらかの個別の支援や対応が必要ということ。
これを「特別な教育的ニーズ」と捉え、これに対応することで誰でも通えるようにした学校をインクルーシブな学校という。
サラマンカ声明の中では「万人のための学校」という言葉も出てくるが、インクルーシブな学校と同義だと思っていい。
このように「特別な教育的ニーズ」に対応する教育とその制度をインクルージブ教育という。
「特別な教育的ニーズ」がある子どもとして、障害のある子どもがあげられるのだが、それ以外にも、英才児、ストリート・チルドレン、マイノリティーの子どもたちなど、恵まれない子どもたち全員がここに入ることになる。
日本で言うと、いじめや家庭的な問題、個人的な特性で不登校になっている子ども、不適応を起こして学校で落ち着いて勉強できない子どもなんかも入るか。
なお、インクルーシブ教育では、インクルーシブな学校の中では子どもの特別な教育的ニーズ等に応ずることができない場合や、子どもの福祉にとってそれが必要なことが明白な稀なケースにおいては、特別支援学校や特別支援学級などの特別の場における教育も否定はしていない。

さて。
前置きはこのくらいにして、本題に入る。
両者の違いは何か。
2つを並べてみると、両方似たような考え方に見える。
どちらも、「障害がある者とない者ができる限り同じ場で学ぶ」という部分は同じ。
ではなにが違うのか。
僕は、以下の3点を違いとして認識している。

(1)最初に障害の有無で分けるか否か
統合教育という考え方のスタートから考えて仕方ないことなのだが、統合教育では特別な場で学ぶ障害児と障害のない子どもが最初の段階で分けられている。
で、両者が同じ場で学ぶ、と考える。
一方で、インクルーシブ教育は、みんなと同じ場で学ぶのが困難である可能性がすべての人にある、と考える。
そして、その困難の中に、障害からくる困難も含めて考える。
つまり,最初から障害児か否かで分けて考えているわけではない.
この考え方が、両者で大きく違うところ。

(2)特別な教育的ニーズという概念の導入
統合教育はの定義は、別の場で行われている障害児教育と一般の教育を統合すること。
そういう意味で同じ場で学ぶ、ということを指している。
もちろん、個人個人の障害に対応した教育が統合教育の中では必要、とは言われていたものの、理念として明示・共有されているわけではなかった。
一方で、インクルーシブ教育については、特別な教育的ニーズという概念を導入し、それを埋めることで万人のための学校を実現することを掲げている。
ただ同じ場で学べばいいわけではなく、1人1人の教育を中心に考えて、その上で共に学ぶことを謳っているところが大きく異なる点。

統合教育の文脈では、元々分離されて教育されていた障害児教育と一般教育の場の統合という意味合いが大きい。
しかし。
これだと元々分離教育をするほどの困り感ではないが、一般の教室で困っている障害児がおいていかれてしまう。
例えば、注意が散りやすい子ども、知的障害ではないのに文字だけが極端に読めない子どもなど、もともと分離教育の枠組みで対応されていなかった障害については,統合教育の枠組みでは目が向けられない。

ここに、特別な教育的ニーズという概念を登場させることで、従来分離教育で教育されていた障害のある子どもたち以外にも目が向くことになった。
これは統合教育とインクルーシブ教育の違いとして大きいところだと思う。

(3)障害児教育の枠を超えているところ
最後がこれ。
特別な教育的ニーズという概念を登場させ、それは一般の学校に通うことを困難とするあらゆる者を含めた。
こうすることで、インクルーシブ教育は単に障害児教育の枠組みを超えて、あらゆる困難を抱える子どもたちへの教育に理念を拡張させた。
もちろんメインでは障害児ということになるのだろうが、国や地域によってはマイノリティー、経済的困窮者など、あらゆる子どもが対象になる。
これは、障害児教育のことだけをいう統合教育とは全く違うところ。
我が国ではインクルーシブ教育は障害児教育の発展形として導入されているため、障害児教育としての制度の色が濃い。
しかし、理念的には学校との関係で困っているあらゆる子どもたちのための教育を指すため、そのうちそっちの方に発展してくのではないかと考えている。

他にもあるかもしれないので、参考文献等を読んで、自分でも勉強して違いや共通点を考えながら理念の理解を深めてほしい。

ではまた。

参考文献
[1] 布留川富雄.(2004).サラマンカ声明におけるインクルージョンの意義.佛教大学教育学部学会紀要,3,245-255
[2] 茂木俊彦(編).(2010).特別支援教育大辞典.東京:旬報社
[3] ユネスコ.(1994).サラマンカ声明
[4] 湯浅恭正(編).(2018).よくわかる特別支援教育 第2版.
[5] 吉岡伸.(1973).障害児の発達と統合教育.特殊教育学研究,11,24−32

誰もいないベンチシリーズat横浜

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2024/08/30 16:59
これはお仕事。
職場にて。

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Update 2024/08/30
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前回(修士前編)の続き。

大学院修士になって脳科学へと進出。
前半はニホンザル電気生理学、に入門した話を書いた。
ところが、急転直下、ヒトのしかも幼児の脳機能研究へと転向する。
まあ、転向というほどニホンザルに浸かっていたわけでもないケド。

で。
幼児の脳機能をとるにも、当時所属してた研究室は、計測装置を持っていなかった。
そこで、共同研究という形で、とある企業の研究所に出向くことに。
この研究所は、計測装置を作っていた会社の研究所で、民間にしてはめずらしく基礎研究を旨としているところだった。
当時この研究所には大学院生もいくらか来ていて、工学屋さんから社会医学脳科学まで幅広く在籍。
それぞれの立場で情報科学、装置開発から脳機能計測まで様々な研究をやっていた。

さて。
僕は何をやっていたか。
与えられたテーマは幼児で何か。
研究室のテーマと計測装置の制約から前頭葉の何か、というところまでは決まっている。
で、装置について勉強しつつ、何をしようかと考えるところからスタートした。

そもそも、幼児で脳機能を測れる装置というのがかなり特殊。
まずはこいつの勉強から入った。
そもそも、脳の機能を測るには、脳活動に伴うなんらかの信号を集めてこなくてはならない。
脳活動というのは、ニューロンという脳細胞が電気信号を発することがそもそもの根っこにある。
修士前半で書いたニホンザル電気生理学研究は、そのニューロンから直接電気信号を記録しようという方法。
ただ、この方法、手術が必要になるのでヒトではできない。
ヒトでは手術をせずに、計測装置を使って脳活動に伴うなんらかの信号を連れてくるということになる。
脳波やMRIなど、いくつか装置があるものの、どれも制約があり幼児の脳活動を測るというのには向かない。
で、唯一取れそうだったのが、光を使った計測装置だった。
簡単にいうと、以下の原理。
①脳が活動する
②栄養供給が必要になり、活動した場所の酸素を運んでいる血液と酸素を運び終わった血液の量が変わる
③酸素を持っているかどうかで血液の色が違う
④レーザー光を入れると、わずかにこの色の違いを反映した光が返ってくる
⑤計測した光の変化で、元々の脳活動を推測する
入れるレーザー光の強さは曇りの日に浴びている光の量よりもはるかに少ないので、安全で、かつ、幼児でも測れちゃうというわけ。
この計測装置のお勉強、集めてきた信号分析プログラムの開発などを進めた。

一方で、「何を」研究するのか、についても検討した。
結局、半年くらい考えた末に、がまんの脳機能発達、というところに落ち着く。
幼児はがまんの発達が急激に進む時期で、でも、まだまだ発達途上。
がまんを測る実験課題はわりと単純なものがあって、それを使えば何か見れるだろう、という単純な発想。
まだまだ、当時の僕の研究技能はあまく、研究デザインに関してはまだまだ詰めきれていなかったが、幼児の脳機能というのがあまりなく、そのままそれが修士論文となった。
そんなわけで、大学院修士了の時点で、がまんに関する幼児期の脳機能発達、というのが専門に。
ついでにこの計測装置を使える人というオマケもついてきた。
特におまけの方がその後の僕の研究変遷に影響するのだが、その話はまたいつか。

あれ、今、特別支援教育とか心理学とか全然違うことをやっているんじゃないか、と思われる方もいるかもしれない。
修士了後にさらにいろいろあった。
が、それもまた今度。

今回はこのへんで。
ではまた。

ずっと昔の甲子園。

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2024/08/26 18:11
仕事後、アイスティーなど飲みながら。
鳥駅ドトールにて。

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Update 2024/08/26
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このブログの開始は2016年4月。
お仕事のメインが教育になったとき。
最初は本の紹介やら、授業の話やら、役に立てようという意識が結構あった。
過去の記事を見返してみても、そういうものが多い。
ただ。
どこかの段階で、これはつまらん、となり、少しずつ役に立たない話を混ぜるようになる。
これはTwitterも同様で、だんだん仕事とは関係ない部分も出すように。
で、いつの間にか今のような運用になるに至った。

元々、本名でやるブログとTwitterには大きな目的があった。
それは、結構実利を伴ったもの。
何かというと、ビジネスのブログとTwitterを目立たせることで、プライベートなブログとTwitterを目立たせなくする、というもの。
どういう理由かは全くわからないのだが、Google先生は優秀で、僕のプライベートなブログとTwitter、本名で検索するとヒットしてしまう、ということが続いていた。
どこにも本名の文字列はないはずなのだけど、しっかりと学習されていて、「谷中久和」で検索をかけるとトップに出てきてしまう。
赴任先に赴任する前にHPとブログがバレていて、みんなに読まれていた、なんてこともあった。
「ヤナカさん、ブログやってるんですね!」を初日に言われて不意打ち食らったり、なんでそれを!ということを同僚が知っていて、聞いてみるとブログが原因、ということがしばしば発生。
別に変なことは発信していないのだけど、極めてプライベートなことがたくさん並んでいて、これが本名でひっかかることには少し抵抗があった。
特に、教えている学生がなんの役にも立たないバカ丸出しなブログ・Twitterを見るのは少々気まずい。
で、本名のブログとTwitterがあれば、Google先生のやつは学習して、プライベートな方は忘れてくれるんじゃないか、と。

この目論見は大きな成功に終わる。
プライベートな方は検索で一切ひっかからなくなり、本名のHP、ブログとTwitterだけが出てくるようになった。
これで、なんの役に立たないバカ記事は読まれないし、酔っ払ったTwitterのつぶやきも見られなくて済む。
めでたしめでたし。

聡明なみなさまは、もうお気づきのことと思う。
目論見自体は成功した。
成功したのだが、自分という人間をわかっていなかった。
オレは、2つの人格を使い分けるほど器用でなく。
だんだんと、ビジネスの方で仕事と関係ない記事やつぶやきが増え、Twitterでは酔っ払ってDJになる始末。
結局、本名のブログとTwitterになったものの、前のプライベート版と内容はあまり変わらなくなってしまってですね。
ええ、おバカでございます。

そんなこんなの、なんの役にも立たないバカ話。
あ、こんな僕も昨日(9/1)で44歳になりました。
歳をとるとわかるのだが、人の本質的な部分は二十歳くらいから大して成長しない。
バカな部分はいつまでもバカなまま、でございます。
でも、それでいい。

では、また。

神宮球場だよ。

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2024/08/31 19:46
そろそろお酒のお時間。
鳥駅スタバにて。

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Update 2024/08/31
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