ガイウス・ユリウス・カエサルの著作/ラテン語の紀年法 - Wikibooks (original) (raw)

ガイウス・ユリウス・カエサルの著作/ラテン語の紀年法

出典: フリー教科書『ウィキブックス(Wikibooks)』

下表に、『ガリア戦記』『内乱記』前後の年号を、西暦(キリスト紀元)、AUC(ローマ建国紀元)、および当時用いられていた執政官による表記(ラテン語と和訳)で示す。年号の紀年法については、次項で説明する。

西暦 AUC 執政官による表記 和訳 備考
BC61 693 M. Messala M. Pisone consulibus マールクス・メッサラとマールクス・ピーソーが執政官のとき 『ガリア戦記』第1巻2節参照
BC60 694 L. Afranio Q. Metello consulibus ルーキウス・アフラニウスとクィーントゥス・メテッルスが執政官のとき
BC59 695 C. Iulio Caesare, M. Bibulo consulibus **ガーイウス・ユリウス・カエサル**とマールクス・ビブルスが執政官のとき
BC58 696 L. Pisone A. Gabinio consulibus ルーキウス・ピーソーと**アウルス・ガビニウス**が執政官のとき 第1巻6節参照(第1巻の年)
BC57 697 P. Lentulo Q. Metello consulibus プーブリウス・レントゥルスとクィーントゥス・メテッルスが執政官のとき (第2巻の年)
BC56 698 Cn. Lentulo L. Philippo consulibus グナエウス・レントゥルスとルーキウス・ピリップスが執政官のとき (第3巻の年)
BC55 699 Cn. Pompeio M. Crasso consulibus **グナエウス・ポンペイウスマールクス・クラッスス**が執政官のとき 第4巻1節 参照(第4巻の年)
BC54 700 L. Domitiō Appiō Claudiō consulibus **ルーキウス・ドミティウス**とアッピウス・クラウディウスが執政官のときに 第5巻1節(第5巻の年)
BC53 701 M. Messala Cn. Calvino consulibus マールクス・メッサラとグナエウス・カルウィヌスが執政官のとき (第6巻の年)
BC52 702 Cn. Pompeio Q. Metello consulibus グナエウス・ポンペイウスとクィーントゥス・メテッルスが執政官のときに (第7巻の年)
BC51 703 M. Marcello Ser. Rufo consulibus マールクス・マルッケルスとセルウィウス・ルーフスが執政官のときに (第8巻の年)
BC50 704 L. Paulo C. Marcello consulibus ルーキウス・パウッルスとクラウディウス・マルッケルスが執政官のときに 第8巻49節の前を参照
BC49 704 L. Lentulo et C. Marcello consulibus ルーキウス・レントゥルスクラウディウス・マルケッルスが執政官のとき 内乱記 第1巻~第2巻の年(ローマ内乱が勃発)
BC48 705 C. Iulio Caesare P. Servilio consulibus **ガーイウス・ユリウス・カエサル**とプーブリウス・セルウィリウスが執政官のとき 内乱記 第3巻の年)

古典ラテン語の叙述において最も一般的に用いられる紀年法は、当該年の執政官(コンスル)2人の名を並べて絶対奪格(ablativus absolutus)で示すものである。例えば、西暦のBC54年は『ガリア戦記』第5巻の1節に出てくるように、次のようになる。

L. Domitio Ap. Claudio consulibusルキウス・ドミティウスアッピウス・クラウディウスが執政官のとき(年)に

このとき、個人名は頭文字で記すのが正式で、2人の名前を併記するときに接続詞やコンマはなくてもよい。氏族名や添え名はしばしば省かれる。

『ガリア戦記』で用いられている紀年法は上記のみであるが、参考のため、以下にラテン語の他の紀年法も示す。

共和制末期の著作家マルクス・テレンティウス・ウァロ (BC116–BC27年:『内乱記』にはカエサルの敵将として登場する) が考案した、BC753年をローマ建国の年と推定して各年を表示するローマ建国紀元(Anno Urbis Conditae, A.U.C.)を用いる場合もある。BC54年は次のように表記される。

Septingentēsimus annus ab urbe conditā または DCC ab urbe condita :都(ローマ市)が建設されてから第700年

6世紀(AD525年)以降には、ローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスの算定によるキリスト紀元の西暦が使われるようになった。紀元前については Ante Christum と表記され、あるいは次のように表記される。

Annus quārtus quīnquāgēsimus ante Christī nātum あるいは LIV a.C.n. (キリスト生誕前の第54年)

(参考:w:la:Calendarium

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