後鳥羽院 第二版 Ⅱ (original) (raw)

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しぐれの雲

五音ないし七音を六音あるいは八音にする工夫は、一つ調子をはずした、ゆったりした節回しをもたらしているようだ

それはいかにも帝王調にふさわしい仕掛けで、哀愁も、悲壮美も、そして場合によってはユーモアと呼んで差し支えないような何かも、それゆえに一層高まるのである。

隠岐を夢見る

折口信夫が自分を後鳥羽院に見立てたくなった動機

・この帝が和歌に長けていた。

後鳥羽院が豪奢な宮廷にあって宴遊を楽しみ歓楽にふけった。

・国王から囚人への没落、孤島に配流されてついに都に帰ることのなかった悲劇的境遇

折口が北原白秋の歌集『桐の花』に対するにおいて大事なこと

・白秋が古代、中世の歌謡集およびその用語から刺激を受けたという指摘

・若い折口がパンの会(若い文学者たちを主とした都市的な芸術運動)に切ないほどの関心を寄せていたという回想

王朝和歌とモダニズム

日本文学は歴史がむやみに長い。八世紀の古事記の中の素朴な歌謡から現在の村上春樹までとぎれることなく続いてきた。

ギリシャ文学は前八世紀のホメロス叙事詩で始まるが、二世紀のルキアノスの諷刺文学のへんで中絶して、次はいきなり19世紀の現代ギリシャ文学になる。

イギリス文学は八世紀のベオウルフに始まるが、そこから十四世紀のチョーサーに飛ぶしかない。

中国文学は古代からの歴史は長いが、西洋の影響を受けた現代文学への切り替えに手間取った。

日本文学は長いだけでなく、ずっと恋愛に対して肯定的だった。

どこの国でも大昔は母系社会だったが、日本はそれが長く続いて、十五世紀頃に父系社会になった。応仁の乱以前の日本はまるで外国のようだった。

婿入りする帝という考え方は高群逸枝の説

天皇と和歌の関係

・まず自分で和歌を詠む。代作者がいても、とにかく詠む格好にする。

・宮廷和歌のパトロン

・勅撰集を編集させた

後鳥羽院を論じた最高の評論は折口信夫の『女房文学から隠者文学へ』

今様

十世紀の末頃からはじまって、十一世紀の中頃からはやりだした。

神楽歌、催馬楽、風俗歌などが古い唄で、今様は新しい様式の唄。

はじめは民謡であったものが職業的な歌い手、遊女や傀儡によって磨き上げられ、次いで貴族のサロンにおいて洗練された。