「安心起行」と「人事を尽くして天命を待つ」 (original) (raw)

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上野の寛永寺周辺で見た梅です

数年前に上野の国立博物館へ行った後、寛永寺の周辺をぶらぶらしていた時に見た梅です。慈雲寺の梅も少しずつ笑い始めてくれています。

さて、一カ月以上前にコロナ禍の中での暮らし方について、「落ち着いて、今自分にできることを精一杯やったら、あとは阿弥陀様のおまかせ」ということを書いたところ、いつもこのブログにするどいコメントを下さるももはなさんから、「人事を尽くして天命を待つ」ということか?というご質問をいただきました。

これはとても興味深いことで、「阿弥陀様におまかせ」というのと、「天命にゆだねる」は同じなのか?と改めて考えてみました。

慈雲寺の属する、浄土宗西山派西山浄土宗)の教えでは、「安心の上の起行」という教えを大事にします。「安心」は「あんじん」と読みます。

さて、「人事を尽くして・・・」は、南宋の時代の儒学者胡寅の『読史管見』に出てくる言葉で、「人事を尽くして天命に聴(まか)す」とあるのに基づいているそうです。

全力を掛けて努力したら、その結果、事が成就するかどうかは天命次第ということでしょう。同じ行為、努力をしても、時が至らない、天命に沿わない場合は、失敗することも、成就しないこともある・・・・成果が出れば、天命に従っている証拠というでしょうか?

だとすると、「安心」とは根本的に違います。浄土教の教えでは、阿弥陀仏は一切の条件や制約を付けず、全ての衆生を極楽に迎え取ると誓って修行に入り、その誓い(誓願)が全て成就したので、今、阿弥陀仏になっておられるのです。このことを知らせてもらって、「ああ、そうだったのか!私は阿弥陀仏に願われている身の上だったのか」と気が付いた時、嬉しさのあまり口からこぼれ出るのがお念仏だと證空上人は教えています。この喜びの念仏がこぼれおち、極楽往生が確実であることを領解(りょうげ)したときの、生きることの根本にかかわる深い、大きな安らぎが「安心」(あんじん)なのです。

この安らぎを基盤にした暮らしは、人間にとって避けることのできない生老病死の「苦」に正面から向き合う勇気となり、今日を生きる喜びを十分に味わうことができるのです。極楽での修行を今すぐ、この世にあるうちに少しでもしようというのが、「起行」です。極楽へ行かせてもらうために功徳を積むための行ではないというところが肝心です。極楽往生はもうすでに成就されているのですから・・・

この世での「成功」や「成就」がなければ「天命」の可否を判断できないという生き方ではないのです。

人事を尽くして・・・は一種の成果主義かも?興味深いのは、キリスト教プロテスタントの教派の中にも成果主義を強調するものがあります。勤勉であることが、神に仕える者の義務であり、神がその行為を愛でれば成果が出るはずというのです。そんなに単純な教えではないでしょうが・・・

極楽往生という最高の成果(?)がすでに成就されている私たちは、この世での成果や成功は、得てして次の煩悩を呼び、苦しみのもとであることを忘れずに、のんびりと生きてまいりましょう。