足跡(寺社)205・宗圓寺……2020.6.15 (original) (raw)
世田谷三十三ヶ所観音霊場の二カ寺を求め、西澄寺を皮切りに歩いた2020年6月15日のこと……
石橋地蔵尊と正蓮寺から旧鎌倉街道を歩いて環七と246の交差点……目指すは横断歩道を渡ったビルのすぐ後ろ。
いつも極力幹線道路を避けて歩くから初めて目にしたが、なぜ寺号碑が道路のこちらにあるのか。
旭小学校発祥の地……以前訪問した「金蔵院」や「医王寺」も小学校発祥の地だったが、文字通り寺子屋だったのだろう。
前の写真の寺号碑は、右の通りの向こうにある。勝手な想像だが、昔々は地続きであったのかもしれない。同寺の墓地は右側のエリアにあるし……
宗圓寺山門(世田谷区上馬3-6-8)……山門扁額が示すように、山号を八幡山と号す曹洞宗の寺院。重厚な瓦屋根だった。世田谷三十三ヶ所観音霊場第18番札所
お決まりのショット……開基は心覚宗円大庵主北条左近太郎入道成願方で、天保元年(1317年)10月23日に寂した。創立当時は小さな草庵であったが、寛永10年(1633年)喜山正存和尚が中興したと。ご本尊は釈迦如来坐像とのこと。
本堂から右の書院・庫裏へ続く……世田谷区教委の説明に『若宮八幡宮の別当寺であった』とあたが、現在の「駒留八幡」と思われる。駒留陸橋の近くなのに、当時は「なんで寄らずにいたのか」と思っていたが、その後に訪問した。
他の方のブログによると「明暦の大火(1657年)後に浜町から築地に移転し、関東大震災(1923年)による被災をうけ、昭和4年(1929年)に当地にやってきたような記述もあったが詳細は不明だ。但、西澄寺同様に、第二次世界大戦による被災はなかったのだろう。
本堂前から山門……右手に祠が見える。
表からは、山門をくぐってすぐ左に……
中央が世田谷区教委の言うところの『しょうづかの婆様』のお堂だろうか。疫病よけに霊験あらたからしい。まったく覗けなかったが、お賽銭入れて手を合わせてきた。
蛇足ながらウィキペディアによると「正塚婆(しょうづかのばば)」「葬頭河婆(そうづかば)」「姥神(うばがみ)」「優婆尊(うばそん)とも呼ばれる「奪衣婆(だつえば)」とは、三途川で亡者の衣服をはぎ取る老婆の鬼らしい。怖い顔をした老婆の木像が祀られているのかもしれない。老婆の追いはぎには会いたくない。
左の、錫杖(しゃくじょう)と宝珠をお持ちの「地蔵菩薩」は延享元年(1744年)の造立だった。台座に「地蔵講中為二世安楽 世田谷上馬引沢村願主西念」とあるが、上馬の地名は今もなお健在だ。同寺が他所から移転されてきた情報とはつじつまが合わないが、徳川吉宗の時代からこの地域を見守ってきた地蔵尊だろう。
山門をくぐって右側……
二体の石像は、いかにも武神っぽい毘沙門天と恵比寿さんだろう。全て撮ってこなかったが、七福神が点在していたようだ。
それより気になったのが手前の水盆風……
仏足石だろう……仏陀は手の指も足の指も長かったと云われるように、この足跡の指も長い。私は手も足も指は短い。九品仏浄真寺の仏足石は凸型だったが、指は長かった。どちらも土踏まずはないようだ。
恵比寿さんの奥に石仏が並んでいた。
板状駒型の「庚申塔」……手足の線もしっかりしている三猿だけの図柄の庚申塔。造立は明暦4年(1658年)と古いが、三猿上部の色変わりが気になる。青面金剛、あるいは南無妙法蓮華経が描かれていたのかもしれないと想像する私。
寛文2年(1662年)の聖観音もおいでだったが、貴重なものが何気なく置かれている同寺……
書院・庫裏の脇に「十三重塔」……奈良県宇陀市大宇陀牧字垣内には室町時代前期と思われる塔高4.15mの国・重要文化財である十三重塔があるらしい。連れ合いは見たことがあるだろう。
小さい門がある。手前に「不老」と彫られた石碑があるので、さしずめ「不老門」というところだろう。
不老門の向こうには福禄寿がお出迎え……奥には大黒天がおられた。
「不老門をくぐったものは老いることがない(長生きする)」というので長寿を願ってくぐってみたが、あれから4年。すっかり年老いてしまった。
不老門の奥は方丈(ほうじょう・寺の中にある住職の居所)玄関に通じているようだったので引き返した。
コンパクトな境内だが心が洗われる気がした宗圓寺でした。南無釈迦牟尼仏……
表通りの高層マンションの足元だった。
帰路についたが、写真正面の建物の裏側一帯が同寺の墓地となっているようだ。