第1495回 古事記の冒頭の神々が意味するのは、宇宙の根本原理(続き)。 (original) (raw)

クラゲの話から広がって、さらなる続きを。
地域ごとに異なる神々を信仰していた古代日本において、一つの国としてまとまる時代的必然性が生じた時、普遍的宗教の仏教の理念が取り入れられた。
古事記の冒頭、アメツチはじめの時に登場するアメノミナカヌシは、仏教における「空の思想」を象徴し、その後に続くタカミムスビカミムスビは、同じく仏教の「因と縁」を象徴する。この3柱の神が造化三神、すなわち、宇宙における万物生成の原理を示している。
そしてこの3神の後に、葦の若芽が成長するような勢いで、ウマシ・アシカビ・ヒコヂの神、次にアメノ・トコタチの神が成ったと記述されている。
ウマシ・アシカビ・ヒコヂとアメノ・トコタチが何を意味するのかというと、これもまた仏教思想における宇宙の根本原理である「有為」と「無為」を示しているのではないかと思われる。
有為というのは、因と縁が合わさって造作された無常なる現象的存在を意味する。因を象徴するタカミムスビと、縁を象徴するカミムスビの後に、敢えて「葦の若芽が成長するような勢い」と形容されて現れたウマシ・アシカビ・ヒコヂというのは、現象世界の「有為」を象徴していると考えられる。
それに対して、アメノ・トコタチというのは、「常立」という言葉が示しているように、永久すなわち不変性を表しており、仏教においては、それは「無為」である。 無為とは、因縁によって作りだされたものではなく、不生不滅のものである。
われわれが生きている世界は、因縁によって生じ、すべては変化 し、やがて滅していく諸現象であるが、この有為の世界に陰で働きかけているのが無為の世界であると言える。
たとえば、仏教において、物の存在する場所としての空間は、虚空とされ、無為に属している。
また、生命の個体は有為であるが、生命を今日まで連続させてきている目に見えない働きは無為である。
古事記においては、冒頭の別天つ神(コトアマツカミ)の五柱で示されているのは、仏教における宇宙の根本原理であろう。
五柱の別天つ神に次いて登場するのは、イザナギイザナミへとつながる神世七代であるが、最初の二柱の神は独神であるのに対して、その後の五代は、すべて二柱の神が対になっているという特徴がある。
神世七代の最後に成るイザナギイザナミは、「漂っている国をつくり固める」という具体的な活動が示されている、国生み、神生みの二柱神である。
すなわち、神世七代というのは、宇宙の根本原理を具体的な地上の現実に対応させる意味合いを持っている。
古代日本において、国を一つにまとめあげるための理念として仏教が大きな役割を果たしたと上述したが、その仏教が伝来した飛鳥時代において、国の進むべき具体的な指針を構築するために、中国で生まれた「陰陽五行説」が取り入れられるようになった。
律令制度の始まりに大きな役割を担った天武天皇は、陰陽道に通じていたと日本書紀に記述されているが、陰陽師が政治的な役割を果たすことになる官僚組織としての陰陽寮も、この時に作られた。
そして、古事記における神世七代は、この陰陽五行の思想を表していると考えられる。
最初の二柱の独神は、クニノトコタチとトヨクモノだが、日本書紀においてクニノトコタチは、「全く陰気を受けない」と敢えて記述されている。五柱の別天つ神であるアメノ・トコタチと同じ永久という意味の「常立」を名に持つこの神は、太陽の熱を永久に浴び続ける大地そのものであろう。
それに対してトヨクモノは、雲を神格化した存在とされる。
地上の水分は陽の気(太陽熱)によって熱せられて上に上がって気化する。上に上がることは「陽」である。
水分は、上がっていくと徐々に冷やされていくが、その極点が雲であり、そこから水分は雨となって地上に下りてくる。下ることは陰である。
陽極まって陰になり陰極まって陽に転嫁する。クニノトコタチと、トヨクモノのあいだで、陰陽の原理が示されているのだ。
その後のイザナギイザナミへと連なる五代の神々は、全て二神のペアであるが、この5世代の神々について、中世の頃より、陰陽五行説で解釈しようとする動きはあった。
それらの中でも有名なのは14世紀の南北朝時代北畠親房が著した『神皇正統記』だが、それ以外の議論でも、陰陽五行説の五行を構成する火・水・木・金・土という5種類の元素が、それぞれどの神々に当てはまるかのかと議論が行われていた。
神世七代の神々と陰陽五行説との関連に注目しているところはいいのだが、5種類の元素に神々を当てはめようとしたことが間違っている。
なぜなら、神世七代の最初の2柱は独神であるが、その後の5代は二神がペアとなって10柱の神々がいるからだ。
これが意味しているところは、五行を構成する5種類の元素ではなく、5種類の元素の互いの関係性によって生じる「相生」「相剋」「比和」「相乗」「相侮」という5つの性質であろうと思われる。
相剋は、相手を打ち滅ぼして行く関係。相乗は、相剋が度を過ぎて過剰になったもの。相侮は、逆相克で、力が弱いために克制することができず、逆に侮られる。
そして相生は、木は燃えて火を生み、木は水によって養われるなど、相手を生み出す力である。
しかしながら、相生のなかにも、相克がある。木は燃えて火を生むが、燃え続けると火は消える。その逆に、相克のなかにも相生がある。金は火に熔かされることで、金属製品となる。
5代の最後に現れるイザナギイザナミは、おそらく五行思想の「相生」を象徴し、次々と国や神々を産んでいくことになるが、カグツチを産んだイザナミが死んでしまうように、相生の関係が相克の関係に転換する。
神世7代のうち、イザナミイザナギに至るぺア神の5代は、五行を構成する5つの元素ではなく、五元素の関係性における5つの状態を示しており、この5つの状態は、絶えず流動し、循環し、転換する。そのことによって森羅万象の永遠性が保証されている。
古事記というのは、我々が生きている地上の現実とは関係ない空想物語ではない。
あくまでも地上の現実を、観念的にも政治的にも、どう秩序づけていくかを考えるために、その当時、獲得できた叡智を総動員して創造された物語だと思われる。
ましてや、藤原不比等など、その当時の実力者が自らの権力を正当化するために作り上げたという薄っぺらい内容ではない。
一部の実力者が、広い日本の隅々を自らの陰謀で自由に操ろうとしたなどと考えるのは、物事を単純化しすぎていて、思慮が浅すぎる。
人間が、自分が生きている現実と、自分の五感で感受できる世界とのあいだに、どういう関係を見出して、その原理がどうなっているのかを探り、それに基づいて、どのように世の中を秩序づけて、どう生きていくことが適切で望ましいのかを考えざるを得ない生物であることは、古今東西、同じである。
生きている現実世界の環境、歴史、風土などによって、得られる情報も異なってくるから、その考え方が違ってくるのは仕方がない。
それでも、目の前の現実から目を逸らさず、同時に、目先のことだけを追わず、大きな時間の流れの中で本質的なことを求めていけば、次のリルケの言葉のように、普遍的な心理に至るだろう。
「彼岸に目を向けることなく、すべてを、神に関することも、死も、すべてこの地上のこととして考え、すべてをこの地上の生のうちに見ること。
すべてのものを、神秘的なものも、死も、すべて生のうちに見ること。
すべてのものを価値に上下のないものとしてこの生のうちに見るとき、そのとき、ひとつひとつのものがそれぞれ意味を持つようになる。」
ライナー・マリア・リルケ

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