てきとうに駄弁る (original) (raw)
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お久しぶりです。
とにかく忙しくて投稿がまさか四ヶ月ぶりくらいになるとは思いませんでした笑
というわけで今回は今話題のサラリーマン増税とやらについてテキトーに話して行こうと思います。
皆さん、**サラリーマン増税**についてどう思いますか?
「ロシアのウクライナ侵略等の影響で物価は上昇し続けてるのに、給料は上がらずただでさえ生活が苦しい、その上度重なる増税で今度は退職金にまで増税して岸田は国民を殺す気か!」
「サラリーマン増税は考えてない、って言ってるけど、どうせ選挙が終わったら掌返すに決まってる」
「岸田総理を下ろせ、日本が滅びる」
全くもって許せないですね、国民から搾取することしか考えてない首相は早く辞めるべきですよね!
まあ、おおよそ世論はこんな感じで現在加熱しておりますが、そう言ってる人たちにまず聞いてみたいです。
これ↓ 全部読みましたか?
https://www.cao.go.jp/zei-cho/shimon/5zen27kai_toshin.pdf
というわけでサラリーマン増税の話の出処や、政府税制調査会というものについて調べてみたので良かったら読んでって下さい。
どうもお久しぶりです。
パソコンは相変わらず壊れたまま放置していて、全然ブログ書く気力が湧かなかったので、期間がとても空いてしまいました。
仕方ないので暫くはスマホで書くしかありませんね…笑
ということで、今回は「信念」って言葉について考えてみたいと思います。
今まで僕が書いてきたブログの傾向的に、タイトルにしてる時点で「信念」について批判的であろうと想像つく人もいると思います。
そして、この「信念」が盲目的に礼賛される風潮も個人的に嫌いです。
まぁ、「信念」ってものが嫌いだっていう信念でブログ書いてる時点で矛盾も甚だしいですが、そこはまあ、ご容赦ください。
ということで、つらつらと書いていこうと思うので良かったら読んでやって下さい。
目次
信念とは
コトバンク 信念
日本大百科全書(ニッポニカ) 「信念」の意味・わかりやすい解説より引用
日常会話において「信念の人」とか「あの人は信念がない」といったように使われるとおり、ある事柄についてもたれる確固として動揺しない認識ないし考えをいう。心理学では、個人が接触している世界のある側面に対する感情、知覚、認識、評価、動機、行動傾向などの心理作用の総合的で持続的な構えを「態度」という概念で考えるが、信念はその認知的要素の部分ないし側面を形成しているといえよう。知覚や認識は、いろいろな経験の構造化、再構造化に基づくものであるから、その持続的に安定した産物である信念もまた構造化されており、信念の対象である事物や存在の種々な側面についての認知が首尾一貫して組み込まれている。したがって、これに矛盾する情報や経験に対しては、強い反発や抵抗を示すことがある。客観的な裏づけがなく保持される信念の極端なものは、固定観念や迷信につながるおそれがある。
すごい、コトバンクに言いたいことが大体書いてあった笑
まあ要するに、自分の中でこれが正しいと信じて揺るがない理念、考えや正義ってところですね。
前にも話した通り、事実認識において理論負荷性というものが存在し、知覚または理解に影響を及ぼすというものがありましたが、これは理論のみならず信念の影響も受けることがあります。
信念というものを軸に、認識・解釈・行動が一貫しており、矛盾が存在してないように見えるため世間では素晴らしいものとされることが多いように感じます。
しかし、コトバンクにも書いてある通り、
「**固定観念や迷信に繫がるおそれがある。**」
こういったリスクを孕んでいます。
信念の危険性
先にも書いた通り、
「固定観念や迷信に繫がるおそれがある。」
これに尽きると思いますが、もう少し噛み砕いて考えていこうと思います。
信念というのは、自分の中の思考や行動の軸であり、信念に基づいて様々な判断を下します。
信念という軸があるおかげで、自分の行動に一貫性を持たせる事ができ、周りから信用を得ることに繋がります。
しかし、本当にその信念はあらゆる場面で適切なのでしょうか?
人間には、"認知的不協和"というものが存在する為、信念にそぐわない情報は無視、又は攻撃してしまう可能性があります。
また、"確証バイアス"というものが存在し、自分の信念にとって都合のいい情報ばかりを集めてしまう危険性があります。
その信念が正しい場合はこれらは問題にはなりませんが、もし間違っていた場合は後戻り出来なくなってしまい、拳を振り上げてしまう可能性かあります。
信念とは、強い意志と感情によって強固に維持されている為、もし間違っていたとしても簡単には曲げられませんし、信念の否定は"認知的不協和"に直接繫がるため、理性的に自分の間違いを認めるよりも先に、激情に押し流されて詭弁を振り撒き他者を攻撃してしまうことが起こり得るわけです。
また、信念による"確証バイアス"によって集まるのは都合いい「情報」のみならず、都合のいい「人間」までも集めてしまいます。
同じ信念を持つもの同士で集まり、やがて集団を形成し、その集団内で更に信念を強化し反対意見を排外していくことで、先鋭化された集団が出来上がる可能性があります。
そして、その中で意思決定を行うことより、極端な結論に行き着き易くなる(集団極性化)事が起こり、犯罪・テロを犯すリスクがあります。(リスキーシフト)
この話は、仮定に仮定を重ねていくようなものなので極端に思えるかもしれませんが、マルチやカルト宗教、過激な活動家などはこういった構造を持っている事もまた事実です。
目的を果たすために信念が必要な場面もあると思いますが、固執すると間違ったまま突っ走る危険性があるということです。
信念が好まれる理由についての推測
先程も少し触れましたが、信念を軸に行動してる人間は矛盾が少なく信用されやすい特徴があります。
矛盾が少ないと、一度口にした約束を守るであろうと人は思うので、そこに安心感を覚えるからです。
また、"認知的不協和"理論が示す通り、人は矛盾やダブルスタンダードを嫌います。
二分法的に考えると、矛盾が少ないと好まれるということになります。
これが僕の考える、信念が好まれる理由です。
それを前提に考えると、
・信念がある人間は約束はしっかりと守り
・仕事に妥協を許さずキッチリとこなし
・間違ってると思ったことはハッキリと口に出す
こういった明瞭な人間性が想起され、信念は素晴らしいものというイメージが出来上がります。
そうした人間には確かに憧れる部分もありますが、人間である以上間違いを犯すのは当たり前であり、その間違いが信念そのものを指している場合も多く存在するため、"過信"する気にはなれないというのが僕の感想です。
一貫性を求め過ぎない
信念が礼賛される一方で、矛盾やダブスタはやたら嫌われる傾向があります。
何度も言うように、人間である以上間違いを犯すのは当たり前であり、その度に考えを改めて無ければいけない事が多々あります。
また、昔の自分と今の自分では得てる知識も経験値も異なり、違ったより多くの視点で物事を考える為、この時にも矛盾は生じます。
更に言うと、日常の中でだって気付かない様な小さな矛盾だってありますし、自分自身が気づかないだでダブスタも存在し得ると思います。
人間は完璧でも完全無欠でも何でもない、それが当たり前であり、この先に完成されることもありません。
なので、他者にも自分にも一貫性を求め過ぎない事が重要だと思います。
勿論、ご都合主義のダブスタによって他人に迷惑を掛ける
"他人に厳しく、自分に甘く"
みたいな都合のいいダブスタは論外です。
しかし、他者の矛盾を指摘している自分自身は、果たしてそんなに立派な人間なのか?
こういった批判的目線を自分自身に向けることが大事になってくると思います。
結局、過信と鵜呑みは禁物に
行き着く落し所はここになります。
まとめ
ということで信念について色々と考えてみました。
何故こんなテーマにしたかと言うと、信念を礼賛し矛盾を過度に嫌う不寛容な空気に、嫌気を感じたからです。
というより、不寛容な連中はそんなに清廉潔白な素晴らしい人たちなのか、と不満を覚えたからです。
だからこそ、盲目的に「信念」って言葉を礼賛する風潮も嫌いなのです。
矛盾を受け入れる心構えが、寛容な社会へと繋がるのでは?と僕は考えます。
勿論、何かを遂げる為に目標を掲げ、そこに向けて努力する、そういった信念は必要だと思います。
僕の"信念"に賛同してくださる方はコメント下さい何でもします。
というわけで以上、またね!!
こんにちは。
はい、まあタイトルから察するに事実というものも、揺らぐものです。
というより、事実という情報は人間というフィルターを通じて伝達される為、そのフィルターのさじ加減によって揺らぎが生じます。
以前書いたこの話
真実は事実という客観的で揺らがない事象を解釈したものだ、みたいな事を書きましたが、要は何かを考えるときにはまず事実をベースにする必要があります。
しかし、実際には事実は揺らがないものではないので、そこを忘れて前提に据えると間違いを起こす場合もあります。
なので、今回は事実という言葉について改めて考えていきたいと思うので、是非最後まで読んでいって下さい。
目次
事実とは
wikipedia事実より引用
事実(じじつ、ラテン語: factum、フランス語: fait、英: fact)とは、
・ことの真実。真実のことがら。本当にあったことがら。
・(哲学用語)もともと神によってなされたことを意味し、時間と空間の中に見出される実在的なできごとや存在のこと。
概説より
もともとは、神がしたこと、という意味である。まずラテン語のfacere(あるいはfacio)「する」「行う」という意味の動詞 があり、その過去分詞形factumが「(神によって)行われた」と形容詞的に用いられ、それが名詞化し「(神によって)行われたこと」を意味するようになったものである。フランス語のfaitも同様で、faire(する、行う)という動詞があり、その過去分詞形のfaitが名詞化したものである。英語のfactも15世紀にラテン語のfactumを語源として使われるようになったものである。「実在的なもの」とされるのであるため、幻想・虚構・可能性などと対立する
だそうです。
哲学的な説明まで入ってきてとてもややこしいですが、基本的には憶測や解釈を除いた客観的で揺らがない事象と捉えたのでいいと思います。
哲学用語の方の事実の説明から、神という究極的な第三者によって行われた揺らがないと信じられているもの、なんて言う風にも解釈できる気がします。
物事を考えるとき、揺らがないものをベースとする必要があるため、その揺らがないを神という存在を用いて保証したのではないか、なんて推測してしまいます。
ということは、逆説的に神を用いず論理的に事実の客観性や絶対性を保証する事は出来ないのではないか、という風に思ってしまいます。
事実の理論負荷性
事実の理論負荷性。ノーウッド・ラッセル・ハンソンによって提示された。その事実の成立を可能とする理論的文脈や社会的背景なしに、事実は存在し得ない。「思い込みや先入観のない事実」は存在しない、絶対的客観性はあり得ない、ということである。帰納の前提となる事実は、完全には信頼できないものである。
事象を観測する時、その事象を理解する為には何かしらの理論に当てはめて考えるため、その事実は観察者のバイアスを受けることになります。
事実が理論に先立つのではなく、理論や経験則、更には思い込みが前提にあり、その上に観測事実を積み上げるので、事実とは絶対的に揺らがないものとは言えないのです。
更には、そのバイアスを受けた事実を他者に伝達する際には、
- 説明者のバイアス
- 説明者の言語化能力
- 受け手の理解力
- 受け手のバイアス
この様に何重にもフィルターを通すことになる為、事実とされる情報に客観性なんてものは担保されていません。
だからこそ、過信と鵜呑みが禁物に
しかし、この理論を確立するおいても事実の観測を行っているはずですが、その事実は観測者のバイアスに影響されているという言うのが理論負荷性の為、この理論を確立するための事実には観測者のバイアスが掛かっている事になるので、理論負荷性は正しくないという矛盾が生じます。
まあ、結論としてはよく分からないってところにしか行き着かないですが、そういう見方もあるよね程度に留めておくのがいいと思います。
逆転クオリア
逆転クオリア(ぎゃくてんクオリア、英:Inverted qualia)は心の哲学で議論される思考実験の一つ。同じ物理的刺激に対し、異なる質的経験(クオリア)が体験されている可能性を考える思考実験である。逆転スペクトル(ぎゃくてんスペクトル、英:Inverted spectrum)とも呼ばれる。色覚の赤と緑が入れ替わっている例が代表的例として論じられるが、他の感覚様相(聴覚や痛覚)の場合でも論じられる。
全員が赤と呼ぶ色を人それぞれ観測したとき、ある人にとっては緑に相当する色(そう見える)を、自分は赤と思い込んでいる、逆に他者は自分にとっての青を赤と呼称しているのではないか?
こういった哲学的な問いが逆転クオリアとなります。
人によって感覚機能に個体差がある為、質的経験(クオリア)は人それぞれ異なると考えているわけです。
同じ赤色を観測する時、それぞれ皆違ったように知覚しているのにも関わらず、それが赤だと刷り込まれた為に皆が赤だと言う、こんな仮説が前提にあります。
勿論この議論に答えはなく、確かめようもない話ではありますが、否定出来ないのも事実であり、事実の客観性などを揺るがすものにもなり得ます。
これをもう少し科学的な話に落とし込むなら、
「色覚異常の人とそうでない人が観測する赤は違う」
これに関しては哲学的な問いでは無く、科学的に正しい話であるため、確実に事実の客観性を揺るがす話になります。
色覚異常の人がパイロットになろうと必死に努力し、いざ身体検査に臨んだとき、初めて自分が色覚異常だと発覚した。
こういった話は枚挙にいとまがない為、逆転クオリアは余計に否定しづらい話になります。
こうして考えると、純真無垢な事実なんて存在しない、少なくとも人間には観測できない、そう捉えることが出来てしまいます。
まとめ
とまあ事実について色々と疑いを掛けてみると、最終的には哲学的な話になってしまいますね。
哲学なんて知らん、そんな状態でこのテーマは正直キツかったので、安直にテーマにしたことを後悔してます。
ただまあ、当たり前とされていることや、目の前に見えるもの全て正しいとは限らない、そういう事が言いたいわけです。
疑い出したらきりが無いだろ、って思うかもしれませんが、疑った先に答えを求めるのでは無く、様々な可能性を考えておく、これが多角的にモノを見ることに繋がり、疑う事そのものが自ら考えることに繋がるのです。
結局のところ、過信と鵜呑みは禁物に
自分で考えトライ・アンド・エラーを繰り返す、今の時代こそこれが必要なのではと思います。
後、パソコンがぶっ壊れたので今回はいつも以上に編集が雑ですが許して下さい何でもします。
そんな訳で、以上!!
お疲れ様でした!
どーもこんにちは
今回は、**報連相**について考えていきたいと思います。
???
いつものテーマと大分趣旨が違う気がしますが、これにはきっかけがありました。
というのも僕が勤めている会社はしがない中小企業であり、まともに社員教育なんかするような会社じゃありません。
それ故、社員研修もろくに実施されておらず、今まで報連相についてすらまともに教育されてきませんでした。
しかしコロナ等色々あり、売上が芳しく無くなった現在、社長の野郎や役員の連中は危機感を抱いたのかそれともポーズだけなのか知らんけど、色々とテコ入れをするようになり、その一環として全社員が報連相の研修を受けることになりました。
入社4年にして、今更ながら報連相の研修を受けることになったのです笑
全社員対象なので僕みたいな若手のみならず、勤務歴20年とかの大ベテランもローテーションが回って来たら受けることになります笑
なので事前学習ということで、色々と調べていたら知らないことや勘違いしていたことが多くあり、思ったより奥が深かったので、今回ブログにまとめてみることにしました。
前置きが長くなりましたが、そんな訳なんで読んでって貰えると嬉しいです。
[目次]
報連相とは
wikipedia(報・連・相)より引用
報・連・相(ほう・れん・そう)は、「報告」「連絡」「相談」を分かりやすくほうれん草と掛けた略語。主としてビジネス(職場)において使われる。
(概要)
一般に、1982年に山種証券社長の山崎富治が社内キャンペーンで始めたことが広く知られている(著書『ほうれんそうが会社を強くする』がベストセラーとなり広まった)。
なお、発案については諸説あり、風呂で思いついたとか、ぼんやりしてるときに思いついたとか、あるいは福島中央テレビ元社長の今泉正顕による、元々提唱したのは日本青年会議所会頭をしていた若き日の山崎種二であるという説まである。
またまるは食堂では1960年頃より経営理念としてほう・れん・そうを制定しており元祖では無いかと言われてもいる
引用終了
まあということです。報告・連絡・相談を合体させて報連相です。
更に続きを引用。
wikipedia(報・連・相 使用用途)より引用
報告
部下が上司の指示に取り組みつつ、途中経過を報告すること。
連絡
自分の意見や憶測を含めない関係者への状況報告。
相談
自分だけで業務上の判断が困難なとき、上司に意見をきくこと。
引用終了
ざっくり言うとこんな所ですが、報告・連絡・相談についてもう少し詳しく見ていきましょう。
・報告とは
依頼された業務の進捗状況、また完了した場合はその結果を、依頼者や上司などに伝えることです。(ミスなども含まれる)
出来事や経緯を整理して最終的な結果、または状況を伝えることが報告にあたります。
その目的は、上司やリーダーなどが、チーム内の仕事とその進捗の全体像を把握し、調整を図ったりトラブルを未然防止したりすることです。
情報を集約し、仕事を円滑に進めることが主な目的です。
・連絡とは
必要事項や事実を、関わる人間に周知させることです。
報告との違いは、事実や要件のみを伝達することであり、情報が整理されている必要はありません。
また、報告とは違い立場上の上下関係に関わらず関係者に周知させるものとなっています。
目的としては報告と同じで、必要な情報を必要な人間に共有し、仕事を円滑に進める様にすることですが、内容やタイミングは報告と異なります。
・相談とは
物事の判断やトラブルの際、一人では決められない時に上司や関係者に意見を求めたり話あったりすることです。
目的としては、判断やトラブルシューティングを素早く的確に行うことです。
また、責任を分散させる効果もあります。
報連相の誤解
世間一般に伝わってる報連相と、提唱者とされてる山崎富治氏の著書の記述とは乖離が存在します。
wikipedia(報・連・相 誤解)より引用
「上司の状況判断に必要な、部下からの自発的な情報伝達」を習慣的に行わせるためのしつけとして捉えられているが、そもそも、提唱者の山崎の著書では、管理職が「イヤな情報、喜ばしくないデータ」を遠ざけず、問題点を積極的に改善していくことで、生え抜きでない社員や末端社員であっても容易に報告・連絡・相談が行える風通しの良い職場環境をつくるための手段として報連相を勧めているのであって、部下の努力目標ではない
引用終了
どうやら、部下に義務付けるものでは無く、報連相を行える環境を整えましょうというのが、提唱者の意図のようです。
勿論、部下に教育するのも環境づくりの一環ではあると思いますが、そこが本質ではないように感じます。
僕自身が実際の著書を読んだわけじゃ無いので、あくまでこれはwikiを書いた人の解釈となるわけですが、一定以上の納得感があるような話に思えます。
無印良品の報連相
wikipedia(報・連・相 批判)より引用
無印良品では、「報告・連絡・相談」は成果が出ないとして採用されていない。
引用終了
だそうです。
それでは、無印良品ではどのように情報共有が行なわれているのでしょうか?
東洋経済ONLINE「ホウレンソウ」は、人の成長の芽を摘む(3ページ目)より引用
「報(ほう)(告)・連(れん)(絡)・相(そう)(談)」は、いらないとも書かれています。
これは成果が出ない。営業会議の指示の内容を1日ぐらい置いて店舗の末端のアルバイトやパートの人たちに聞いてみると、1割や2割しか伝わっていない。コミュニケーションはそんなものだと思ったほうがいいし、もともと報・連・相は人の成長の芽を摘む。
毎週30~40店舗を監査室が回って、経営の課題を同時に実地に見てきてもらう。その報告を月曜日13~14時に社長ミーティングで行う。このほうが現場で起こっていることがつまびらかにわかる。本部長も同席するから、その時点で指示が出る。最短のコミュニケーションで、最高執行責任者に見える化がされれば、悪い点はすぐ直せる。現場が直せれば顧客の評価は変わらない。報告会がいちばん確かな方法だ。
引用終了
無印良品は特に仕組みづくり、という所に重点を置いているようです。
だから、社員に対し報連相を義務付けるのではなく、仕組みによる確実な情報共有を行っているようです。
世間一般の報連相とは考え方が違うとは思いますが、むしろ山崎富治氏の主張に近い報連相を実践しているのが無印良品だと感じます。
部下に対し情報共有の重要性を教える意味では報連相は有効だと思いますが、実際の情報共有という点においてそれだけでは事足りないと僕も思います。上司も役員も社長も全員ホウレンソウがシステム化された環境下で、情報共有を行うのが理想ではないかと思います。
報連相の環境づくり
報連相が円滑に行なわれる環境として、"心理的安全性"が確保されているというものがあります。
心理的安全性とは、「誰にどのような発言をしても、怒られたり否定されたりするリスクの無い」状態の事を言います。
よく誤解としてあるのが、「仲良しこよしのぬるま湯」というものですが、提唱者のハーバード・ビジネススクール教授エイミー・C・エドモンドソンいわくその解釈は間違いだそうです。
むしろ反対意見をお互いに当たり前の様に言い合える、そんな環境だと主張しているようです。
信頼関係とかそういうのも全て関係なく、皆が当たり前に意見交換をする必要があるそうです。
今回はこれ以上詳しく触れるつもりはありませんが、もし興味があったら下の記事を読んでみて下さい。
まとめ
ということで、僕が調べた限りではホウレンソウは環境づくりの事を指している事が分かりました。
うちの社長がどこまでこういった知識を持ってて、どういった環境を目指して研修を開催しているのかは定かではありませんが、こういった話も知った上で話を聞いてみたら面白いのではないかと思い、今回ブログにまとめました。
それでは以上、バイバイ!
あけましておめでとうございます🎍
という訳で新年一発目はアブダクションについて色々と語って行こうと思います。
以前書いたこちらの記事
この中で演繹法とアブダクションについて触れましたが、もう少し深掘をした上で特に使い方を間違えた場合の問題について触れていこうと思います。
どうか、最後まで読んでって下さい。
目次
演繹法とアブダクション
まずは”**演繹法**”から
wikipedia(演繹)より引用
演繹(えんえき、英: deduction)は、一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る論理的推論の方法である。
帰納に於ける前提と結論の導出関係が「蓋然的」に正しいとされるのみであるのに対し、演繹の導出関係は、その前提を認めるなら、「絶対的」「必然的」に正しい。したがって理論上は、前提が間違っていたり適切でない前提が用いられたりした場合には、誤った結論が導き出されることになる。近代では、演繹法とは記号論理学によって記述できる論法の事を指す。
引用終了
以前解説したんで、詳細は省きますが要するに、
"A"ならば"B"、"B"ならば"C"、従って"A"ならば"C"
みたいなやつです。
次に”**アブダクション**”について
アブダクション、リトロダクション(古代ギリシア語: ἀπαγωγή、英: abduction, retroduction)とは、個別の事象を最も適切に説明しうる仮説を導出する論理的推論。仮説形成や仮説的推論などと訳されている。
引用終了
「仮説を導出する論理的推論」とある通り、アブダクションによって導かれた論理はあくまで仮説であり、正しくない可能性もあるわけです。
形式的には後件肯定という論証上の誤り・誤謬と同じですが、あくまで仮説として論じるなら有効となります。
と言っても具体的にはどういうことなのかわかりにくいと思うので、再度wikiから引用
wikipedia(アブダクション、論理的推論のページ)より引用
**アブダクション**は、結論 {displaystyle b} に規則「{displaystyle a} ならば {displaystyle b} である」を当てはめて仮定 {displaystyle a} を推論する。帰納が仮定と結論から規則を推論するのに対し、アブダクションは結論と規則から仮定を推論する。アブダクションは、推論した仮定が真であることを保証しない。アブダクションそれ自体としては、形式的には論理学でいう後件肯定に等しい。このようにアブダクティヴな推論はそこで提起される仮定/原因が疑わしいので、「前後即因果の誤謬」という、時間の前後関係を因果関係と混同した虚偽の論法に似ている。
引用終了
どういうことかというと、起こった事象や結果に対し規則や一般論を当てはめ、原因や関係する事実を導こうとする推論である、ということです。
演繹法の場合
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
状況:現在、太陽は東に見える。
↓これらから推測
結論:現在、午前である。
このようにして、事実に対し一般論に当てはめることによって必然的な結論を導き出すのに対し、アブダクションでは
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
結論:現在、午前である。
↓これらから推測
推測:現在、太陽は東に見える。
このように、結論から状況を推測するものになっています。
前件否定、後件肯定
この辺は以前書きましたが、ここの説明が抜けるとアブダクションについて分かりにくいので、もう一回解説します。(殆ど以前の記事からコピペ)
まず一般論を分解すると、”前件”と”後件”に分けられます。
再びさっきの例で言うと
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
この場合の前件は、「太陽が東に見える」
後件は、「午前」
となります。
AならばBの「A」が前件となり、「B」が後件となります。
ここで注意しないといけないのは、AならばBが成り立っても、BならばAは成り立たないという事です。
これを間違えると、前件否定、後件肯定に繋がります。
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
状況:現在、太陽は東に見えない。
↓これらから推測
結論:現在、午前ではない。
これが前件否定になります。
「太陽が東に見え"ない"」というように前件が否定されてるので、前件否定となります。
これの何がおかしいかというと、太陽が東に見えないからと言って午前では無いとは限らないからです。
深夜1時だって午前です。
厳密に言えば、観測地点から北極と南極を通る経線で地球を半分こしたと考えたとき、現在が午前なら太陽は観測地点から東にあると言えますが、観測出来るか出来ないかの話なら日が昇っていないと出来ないので、前件否定は成り立ちません。
次に後件肯定を見ていきます。
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
状況:現在、午前だ。
↓これらから推測
結論:現在、太陽は東に見える。
これが後件肯定ですが、これも誤謬となります。
理由はさっきと同じで、午前だからって太陽が東に見えるとは限らないからです。
あくまで、仮説の一つとして扱うなら”アブダクション”として成立しますが、断定的に論じると誤謬になります。
前件否定、後件肯定が成り立つのは前件と後件を入れ替えても成立する場合のみです。
そうでないなら成り立つのは、
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
状況:現在、太陽は東に見える。
↓これらから推測
結論:現在、午前である。
のような”前件肯定”と、
一般論:太陽が東に見える時は、午前だ。
状況:現在、午前ではない。
↓これらから推測
結論:現在、太陽は東に見えない。
のような”後件否定”のみとなります。
以上、以前の記事のコピペでした。
自己責任論とアブダクション
さてここまでアブダクションについて説明してきましたが、要するに実際起こった事件の過程又は原因を推測する時に使う仮説論証法がアブダクションという事になります。
そして、それらを推理するにあたって必要なのは原理原則や規範、一般論といった理論になります。
ところで、世の中の事件や事故のニュースを見たとき、被害者に原因があるのでは無いか?とか被害者側が悪いのでは?などのように反射的に被害者の過失を疑う事はありませんか?
この考えに至る原因は自己責任論によるもので、因果応報・自業自得、善い行いには良い結果が、悪い行いには悪い結果が付いてくるという考え方が、被害者非難に繋がることがあります。
要は、事件や事故という結果を、自己責任論という一般論に当てはめ、アブダクション的に推測し、その一つの仮説のみで論じてしまう事がしばしば起こっているわけです。
一般論:悪い事をすると、悪いことが起こる
事象:悪いことが起きた
↓これらから推測
推測:悪いことをした
こういう風に推測しているわけです。
中には、推測ではなく断定的な物言いで被害者を責めている輩もいますが、これは完全に後件肯定で理屈としておかしな事を言ってることになります。
よく聞く自己責任論の具体例を出すと、
・いじめは、いじめられる方に原因がある
・強姦されたのは、夜中に出歩いていたからだ
・どーせスピードの出し過ぎで事故ったんだろ
・生活保護受給者は、皆怠惰でだらしない人間だ
・生活が苦しいのは、本人の努力不足
こういった話、聞いたことはありませんか?
勿論これらが正しい場合もありますが、当てはまらない場合もあります。
アブダクションはあくまで仮説論証であり、原因を確定するものではありませんので、自己責任論が当てはまらない可能性だってあるわけです。
世の中には"因果応報"と言う言葉と共に"不可抗力"という言葉だって存在しているわけです。
しかし人間には”帰属バイアス”というものが存在し、物事のエラーについてはっきりとした理由を求めずにはいられない性質があります。
その中で推測される原因等は、理屈として正確でないことも多いですが、僕たちは不可抗力ではない何か、または誰かが原因であることを求めてしまい、結果自己責任論という名の被害者非難に行き着いてしまうのです。
自己責任論による仮説を被害者に対して振りかざす、又は決め付けで被害者を責めるのは、アブダクションの乱用ないし自己責任論の暴力と言わざる負えないと僕は思います。
第三者という立場なら、感情的にならず、アブダクション的な推測による仮説を複数持ち、様々な視点から物事を考えると共に、被害者に対して配慮をするべきと思います。
自己責任論という誤謬
そもそもですが、前提として用いる自己責任論・因果応報は果たして正しいのでしょうか?
当たり前ですが、世の中は理不尽で努力なんて報われない事の方が多く、自分が悪いわけでもないのに頭を下げ、理屈よりも感情で政治や経済が動き、生まれによってある程度人生が決まってしまう・・・
これが現実で、自己責任や因果応報なんて言葉で説明出来る程、世の中公正には出来ていません。
しかし人間は、自分の行いに対し正当な結果が返ってくると思っていますし、そうならなかった場合は憤慨してしまいます。
これには、”**公正世界仮説”**という認知バイアス(思い込み)が関係しています。
公正世界仮説(こうせいせかいかせつ、just-world hypothesis)または公正世界誤謬(こうせいせかいごびゅう、just-world fallacy )とは、人間の行いに対して公正な結果が返ってくるものである、と考える認知バイアス、もしくは思い込みである。また、この世界は公正世界である、という信念を公正世界信念 (belief in a just world)という。
飛ばして概要のページより引用
「公正世界」であるこの世界においては、全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。言い換えると、公正世界仮説を信じる者は、起こった出来事が、公正・不公正のバランスを復元しようとする大宇宙の力が働いた「結果」であると考え、またこれから起こることもそうであることを期待する傾向がある。この信念は一般的に大宇宙の正義、運命、摂理、因果、均衡、秩序、などが存在するという考えを暗に含む。公正世界信念の保持者は、「こんなことをすれば罰が当たる」「正義は勝つ」など公正世界仮説に基づいて未来が予測できる、あるいは「努力すれば(自分は)報われる」「信じる者(自分)は救われる」など未来を自らコントロールできると考え、未来に対してポジティブなイメージを持つ。一方、公正世界信念の保持者が「自らの公正世界信念に反して、一見何の罪もない人々が苦しむ」という不合理な現実に出会った場合、「現実は非情である」とは考えず、自らの公正世界信念に即して現実を合理的に解釈して「実は犠牲者本人に何らかの苦しむだけの理由があるのだ」という結論に達する非形式的誤謬をおこし、「暴漢に襲われたのは夜中に出歩いていた自分が悪い」「我欲に天罰が下った」「ハンセン病に罹患するのは宿業を負ったものが輪廻転生したからだ」「カーストが低いのは前世でカルマが悪かったからだ」など、加害者や天災よりも被害者や犠牲者の「罪」を非難する犠牲者非難をしがちである。例えば「自業自得」「因果応報」「人を呪わば穴二つ」「自分で蒔いた種」など、日本のことわざにもこの公正世界仮説が反映された言葉がある。
引用終了
ここに書いてある通りです。
結局、自己責任論だけでは世界は語れないということです。
しかし、誤解してはいけないのは因果応報は存在しないということではありません。
普通に自分の行いによって幸福がもたらされたり、逆に面倒ごとを引き受ける羽目になることだっていくらでもあります。
ただ、因果応報・自己責任は絶対ではなく、時と場合によるというだけです。
そして、この公正世界仮説は決して悪い側面だけではありません。
近年行われた研究では、被害者非難を通じた公正世界仮説の信念を維持することは、短期的な小額報酬を無視して長期的な高額報酬を選好することと関連し、長期的な目標の維持を可能にしている。また、公正世界仮説を信じている人は、生活満足度と幸福度が高まり、抑うつ的な感情が減少している。公正世界仮説が維持されることで、世界は安定と秩序ある環境であるという認識がもたらされ、心理的なバランスや長期目標、幸福感を維持する基盤となっているという指摘もある。そして公正世界信念と利他行動の間には正の相関関係があるとされ、ボランティアや身体障害者に対して積極的な援助行動や貧困者の映像を先行刺激として与えた場合、その人の寄付額が多いことも報告されている。実際に2013年に発表されたメタ分析によると、公正世界仮説はビッグファイブ性格特性の神経症的傾向と負に関連し、外向性と協調性と正に関連していることがわかっている。
引用終了
要するに、世の中を理不尽であるとは考えないため、長期的な目標を立てて努力することができ、精神の安定を図ることができるということです。
努力は報われないなんて考えながらモチベーションを維持するのは極めて難しく、明日突然不幸に見舞われるかもしれないなんて考えながら生活するのは精神的に苦しいため、公正世界仮説はそういった面で非常に有効です。
しかし、公正世界信念が強い人間は、公正世界仮説に基づいてなんでも思考してしまうため、結果被害者非難に繋がってしまうことがあります。
そして公正世界仮説は帰属バイアスと結びつきが強く、物事の原因を因果応報というシンプルな理屈で説明できてしまうため、例え間違っていたとしてもそれ以外の仮説を考えなくなってしまうのです。
公正世界仮説には良い面もあり、一概に否定できるものではありませんが、世の中に絶対はないということは、頭の片隅に置いておいた方がいいと思います。
まとめ
アブダクションだのなんだのと、まどろっこしい説明をしましたが、結局何が言いたいかというと、上っ面な情報や浅い思考で、被害者に自己責任論を押し付けるのは止めましょう、ってことです。
自己責任論の話だけではないですけど、大して情報も集めず分かったような気になって感情的に物事を論じる人が、世の中あまりにも多いように感じます。
アブダクションはあくまで、結果から原因を推測するものであり、それが正しいとは限りません。
それ故に、一つの物事に対して複数の仮説を立てて、多角的に考える必要があると思います。
そう考えると、断定できる物事なんてそう無いということが分かると思います。。
また仮説と認識した上でも、確証がないなら下手に口にするべきではないものもたくさんあります。
そこを履き違えるのなら、”**アブダクションと自己責任論の乱用”**としか言えません。
世の中は、自分が思っている以上に複雑なため、
何事も過信と鵜呑みは禁物に。
まあ結局いつもと似た様な結論とはなりますが、リテラシーってものを考えたときにそこが重要だと思っているので、反復してしまいますね(笑)
そんな訳で、今回は以上!!
どーもこんにちは。
今回はイ エロージャーナリズムについて色々と考えていきたいと思います。
っていきなり何なんだよそれは!って感じかもしれないですけど、様々な情報が飛び交う昨今において知っといた方がいいかな~って思ったんで今回のテーマにしました。
まあ何というか、情報の発信側・受信側双方に色々と思うところがありまして、僕含め情報との付き合い方を考えた方が良いなとこの頃感じているわけでして・・・
これまで情報リテラシーに関係する話題を書いてきたわけですけど、まあ今回もそれの一貫です。
是非是非、最後まで読んでって下さい。
目次
イエロージャーナリズムとは
wikipediaイエロージャーナリズムより引用
イエロー・ジャーナリズム(英: Yellow Journalism)とは、新聞の発行部数等を伸ばすために、事実報道よりも扇情的である事を売り物とする形態のジャーナリズムのこと。赤新聞に近い。
1890年代に、ジョーゼフ・ピューリツァー発行の『ニューヨーク・ワールド』紙とウィリアム・ランドルフ・ハーストの『ニューヨーク・ジャーナル・アメリカン』紙が、漫画『イエロー・キッド』を奪い合って載せた事に由来する。共に「黄色新聞(イエロー・ペーパー)」として知られた。
これは、多彩な形容詞と誇張の使用や、迅速さを優先して事実検証不足のニュース速報あるいは全出来事の慎重な偽造によって作り出された物語などのような形式をとる場合がある。
黄色新聞に扇情的に扱われた人間の興味話は、特にアメリカ合衆国で、19世紀を通じて発行部数と読者数を極度に増加させた。
引用終了
要は、鮮度の高いネタを素早く分かりやすく煽情的に伝える報道って事ですね。
こういう風に表現するとそんなに悪いものじゃない気がすると思いますが、人からの注目を集めるため、検証不足な事実の掲載や誇張、はたまた嘘を織り交ぜるといった報道姿勢を揶揄したものがこの言葉の本質となります。
まあ、つまるところ
【悲報】吉田沙保里がアメリカに宣戦布告 、世界終了のお知らせwww
ってことです。
はい、ふざけましたごめんさい・・・
SDGsみたいな配色になりました、はい。
とまあ、何が言いたいかっていうと、注目集めるためなら例え嘘だろうが誇張だろうがミスリードだろうが、その結果不利益を被る人間がいようが関係ない、こんな報道姿勢のことを指しています。(こうやって強調するのもある意味イエロージャーナリズムですね)
というわけで、詳しい特徴を見ていきましょう。
イエロージャーナリズムの特徴
wikipediaイエロージャーナリズムより引用
歴史家のフランク・ルーサー・モットは1941年に以下の5つをイエロージャーナリズムの特徴として挙げている。
- 赤や黒の大きな活字で人を驚かせるような見出しをつける。大したニュースでもないことが多いため、全体として嘘臭い構成になる。
- 絵や写真を多用するが、その多くはどうでもいいようなもので、盗用や捏造も見られる。
- あらゆる種類の詐欺的行為が行なわれている。たとえば、インタビューやストーリーの捏造、誤解を招く見出し、エセ科学など。
- 日曜版には、カラーの漫画や中身の薄い記事が掲載された付録がつく。
- 弱い者の味方であるかのように振る舞う。
引用終了
とまあこれらの特徴を見て、テレビとか週刊誌とか朝日新聞とか色々と思い浮かべる人がいると思います。
だがちょっと待って欲しい。イエロージャーナリズムなのは、既存の大手メディアだけなのだろうか?
真面目に、ネットのトレンドブログとかニュース記事もかなりイエロージャーナリズム的だと思います。
というかむしろ、玉石混交で責任の所在もはっきりしないため、より酷いものが多くあると思います。
既存メディアが信用ならないから、ネット情報が正しい。
あるいは、ネットの情報は危ないからテレビの方がいい。
こんな二分法には陥らないでくださいね。
とまあ話をイエロージャーナリズムの特徴に戻しますが、基本的に事実や論理よりも感情に訴えることに重きが置かれているようなものになっていますね。
この特徴をみると、僕が書いたある記事で触れたポスト真実を思い出します。
ついでに読んでもらえると嬉しいです。
世にあるメディアはほぼ全てイエロージャーナリズム的ともいえるため、情報に対しては慎重に向き合わねばなりません。
最近目についたニュース
これです。
そんでこのまとめスレに貼られてたソースがこれ
消えてんじゃねーか!
7月の選挙で増税を公約に入れなかったのは国民の理解不足だったと断言、なんてソース記事内では一切書かれてないのに、まとめブログの方ではタイトルが捏造されこれがそのままTwitterで拡散されていました。
更に、そのツイートのリプ欄をもとに、SNSで炎上なんて記事を書いてるところもありました。
デマの拡散というわけではありませんが、明らかに印象操作されていると言わざる負えません。
まさに、イエロージャーナリズムそのものであり、今回このテーマを扱おうと思ったきっかけの記事でもあります。
こういう風に**ポスト真実**が蔓延していくのかと思うと、正直やるせないです。
それと一応言っておきますが、今回の増税を擁護しているわけではありません。
批判記事を批判すると、その内容に拘わらず
「お前は擁護派か」
などと二分法でモノを言う連中がいるので、一応ちゃんと主張しておきます。
イエロージャーナリズムとの付き合い方
まあいつもと同じような結論になりますが、世の中に偏りのない情報や広義の意味でのイエロージャーナリズム的では無いものなんて存在しません。
情報には、発信側の意図が存在し、それらは中立を装って受け手の感情を刺激しようとします。
だから結局、過信と鵜呑みは禁物に
冷静に、情報における不明瞭な所を洗い出し、事実を集め検証し、それらをあらゆる角度で見なくてはなりません。
これらを意識づけ、安易なミスリードには引っ掛からないようにしていきたいものです。
というわけで以上、解散!!
僕も若者なんですけどね・・・
という事で藪から棒にこんなテーマにしてみたわけですが、
「別に今選挙とかやってねーだろ」
って思った人もいるかもしれませんね。
まあなんで、こんなテーマにしたかって言うと、ぶっちゃけ何となくです。
今まで何となく選挙というものを見て、何となく投票に行かなくって、そんで何となく選挙に行ったほうがいい理由を考えた、ただそれだけです。
ただまあ、この先の事色々考えたとき選挙には行ったほうが良いなと何となく思いました。
そんな訳で、考えていきたいと思うんで何となく聞いてもらえたら嬉しいです。
※その前に注意事項。
・あくまで個人の感想
・考えを強要する意図はありません
・今回は引用も少なめにして私見をずっと語るので、過信と鵜呑みは禁物で。
目次
若者の投票率
https://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/news/sonota/nendaibetu/
見ての通りです。
まず去年の衆院選についてですが、60代の投票率が71.43%なのに対し、20代は36.5%とほぼダブルスコアです。
また、10代は43.21%なので20代は新世代に負けてますね。
まあ新世代の人たちの場合、初めての選挙権行使とかの事情もあるので一概には言えませんが・・・
ただまあ、若い働き手の中心である20代が一番政治に興味ないとも解釈出来なくもないようなこの結果は何というか、アレですね・・・
参院選についても大体似たようなものですが、衆院選より全体の投票率は若干低いので差は少し埋まってますね。
何というか、ここまで何となくで考えてきたわけですが、ここまで若い世代が政治に興味ないのはかなりヤバいと思います。
まあ、僕も人の事言えた義理じゃ無いんですけど、ただ何となく生活してるだけじゃまずいと思いました。
若者が投票に行かない主な理由
いろんな意識調査とか世論調査とかあったんですけど、大体似たりよったりだったんであえて引用元は書かないで適当に並べていきます。(本音は面倒くさい)
気になる人は各人で調べて・・・
「今住んでる市町村で投票できなかった」
「選挙に関心が無かった」
「投票に行くのが面倒だった」
「急用が入った」
「仕事が忙しい」
「投票しても世の中変わらない」
「政治の知識が無いから」
「政策なんてどうせどこも一緒」
「政治家に良い印象が無い」
「高齢者向けの政策ばかりだから」
etc…
並べて行くだけでニヒリズムになりそう・・・
まあこんな感じです。
今住んでる市町村で投票できないって理由は、不在者投票ってのがあるしよく分からんな・・・
まあそれ以外は総じて、知らないし興味もないしどーせ無駄って感じのものが並んでますね。
僕の他の記事でもちょくちょく言ってますが、思考停止して安直に結論を出すのは良くないって思うんですけど、この理由を見ていると思考停止でそれっぽい理由を付けて選挙に行かない言い訳をしてるようにしか見えないですね。
世の中変わらない←本当に?
政策なんてどこも同じで←本当に?
政治家に良い印象が無い←全員悪いの?
高齢者向けだから←若者が興味を示さないからでは?
こういう風に疑い、反論し、勘ぐり、思考を巡らせましたか?
「政治の知識がないから」
これについても、各政党の掲げる公約をネットとかで調べ、足りないなら選挙演説等に足を運び、得た知識を基に投票すればいいだけです。
政治知識がないなら今身につけて、今から政治に参加すればいいだけです。
結局、じゃあいつ知識は付けるの?って話になるわけです。
まあ僕も人の事言えた義理じゃ無いですけど、それでもこういうニヒルな人たちを見ると思うところがあります。
それじゃいよいよ、選挙に行く理由について考えてみたいと思います。
税金払ってるんだから
サブタイのまんまです。
日本国民として納税の義務を果たし、国に貢献してるわけなんですから、選挙権使わなきゃ勿体なくないですか?
別に、行使することになんのデメリットも無いんですし。
むしろ、政治には税金をどう使うかって言うのが含まれるんですから、税金を納めてる側からしたら投票しない理由が無いと思います。
のうのうと生きてれば得られるものと違い、選挙権は義務を果たした上で勝ち得てる権利だっていう風に考えた方がいいと思います。
組織票のリスク回避
今はまだ高齢者の方々の投票率が高いから良いですけど、これから世代が変わったとき、それでも今の若者世代が低い投票率を維持し、その下の世代も投票率が低ければ、組織票だけでも勝ててしまうようになります。
そうなれば、〇〇実現党とか公○党とか共○党とかヤバいところが実権を握る世の中になる可能性だってあるわけです。
そうなっても、僕らは不満を漏らさないのか?
こう考えると、政策なんてどこも一緒なんてありえないという事も分かるかと思います。
どうでもいいじゃ済まないような危険性を考えれば、やはり投票に行かない理由がありません。
政治家から関心をもってもらう
先の例では挙げませんでしたが、投票に行かない理由に
「高齢者の方が人口多いから投票数で勝てない」
ってのがあります。
ただ、現状の低い投票率でその主張をしても、誰も改善策なんて考えてくれません。
何故なら、政治に興味・関心の低い世代のことなんて、相手にしても選挙で当選出来ないからです。
その結果、若者が投票数で勝てないことなど問題にすら挙がらず、それによって更に高齢者向けの政策が増え、そして若者の投票率が下がる・・・
こんな下らない連鎖が起こるわけです。
投票率の低い状態で、高齢者世代との投票数の差に不満を垂れても、誰も相手になんかしません。
まずは、投票率を同程度まで高めた上でないと話になりません。
投票数は高齢者より少なくても、投票率が同じくらいになれば、それを不公平だと考えてくれる人間が現れ、そこにテコ入れをしてもらえる可能性だってあります。
「投票数=政治への関心度」とも解釈できるため、こちら側がまず関心を示し、相手に関心を持って貰うのが正しいと僕は思います。
政治や、政治家を知るきっかけになる
上に挙げた選挙に行かない理由に
「政治の知識が無いから」
というのがありましたが、結局知識のというのは机の上だけでは身につきません。
実際選挙演説を聞き、投票し、もし投票先の人物が当選したらその後の動向を見守る・・・
知識を得たいならこうするのが一番手っ取り早いです。
いざ投票するとなれば投票先の人物が気になり、何となく調べている内に興味が湧き、より知りたいと思うようになり、みたいな良い連鎖が生まれる可能性があります。(まあ、それでも興味湧かない人も大勢いると思いますが)
まあ、なにはともあれ知れば興味が湧くし、興味が湧けば知りたくなるんですから、つべこべ言わずに選挙に行けって事です。
終わり
というわけで選挙に行ったほうがいい理由を考えてみたわけですけども、実際無関心、ニヒリズムって結構危ういなって思うわけです。
ただ何となく生きて何となく働いて何となく税金納めて、みたいな人も多いと思いますが、世の中何となくで回っているわけじゃありません。
政治だって何となくでやってるわけじゃないですが、こちら側が何となく、なんていい加減な心構えでいれば、向こうだって興味を失います。
政治家に悪い印象の人も多いと思いますが、よくよく考えて皆さんは金とか名誉なんかの為に、政治なんて面倒くさい仕事なんかやりたいと思いますか?
政治家の中にだって結局悪い人間もいればいい人間だっているわけですか、それらを一緒くたに悪いと決めつけて一方的に失望するのは失礼にあたるとも思います。
まあ何にせよ、僕含めもう少し社会や政治について真面目かつ冷静に考える必要があると思います。
というわけで今回はここまで、さようなら!