ローカル線の回顧録 (original) (raw)

瑞穂ふ頭の引込線探訪は、そこに引込線があることを確認できましたが、肝心なふ頭部分の現物(横浜ノース・ドック内)を実見できないという、とても中途半端な結果に終わってしまいました。しかし、米軍接収地の一部返還によって、瑞穂橋(鉄道橋)の撮影が可能になったことは最大の救いでした。今回は瑞穂橋(鉄道橋)と、この周辺の再開発の実態についてお伝えします。

地図1.瑞穂ふ頭付近(引用:国土地理院1/10000地形図「新子安」昭和60年発行)

地図1は昭和60年頃の瑞穂ふ頭とその引込線のクローズアップです。この当時、この一帯は引込線を含めて米軍接収地でしたが、引込線は現役でした。この頃の引込線は瑞穂ふ頭の米軍倉庫と横田基地間の物資輸送が主体だったようです。しかし、その実態は米軍の建前、ほとんど公開されずベールに包まれています。

地図2.高島線及び廃線跡撮影地点 (引用:国土地理院1/2500地形図 GSI Maps)

今回は地図2の⑲~㉓の状況をお伝えします。

写真⑲

写真⑲は埋立地から撮影した瑞穂橋です。後方の道路橋に比べて手前の鉄道橋は戦前を感じる武骨さが漂っていますが、精一杯頑張ったデザインではないでしょうか。

この橋梁は全長が約77m、単純なガーダー橋ではなく、中央部の曲弦ワーレントラスとプレートガーダーを組み合わせた構造になっていますが、調べてみると日本で最初の本格的な溶接工法を採用した鉄道橋梁ということです。実態は完全な溶接構造ではなく、トラス部のリベットとプレート部の溶接とのハイブリッド構造になっています。

写真⑳

そもそも、この引込線は1935年(昭和10年)7月15日に開通した横浜臨港線の一部ですが、瑞穂橋は、この引込線の建設に合わせて、1934年に溶接を採用した試験橋梁として建造されたとのことです。第二次世界大戦後は瑞穂ふ頭共々、引込線も米軍に接収されましたが、貨物輸送は2000年頃まであったようです。それが、貨物輸送がなくなった理由で引込線(全線の構造物と横浜ノース・ドック外の線路用地)が2021年3月に返還され、線路はJR貨物、瑞穂橋は国の所有物となりましたが、現在も奇跡的に手付かずのまま放置されています。いずれ引込線は撤去されるでしょうが、この瑞穂橋は産業遺産として残して欲しいです。

写真㉑

さて、瑞穂ふ頭の引込線の話題は以上ですが、この周辺の再開発について少々触れます。奇跡的に瑞穂ふ頭の引込線は残っていましたが、この周辺、特に東高島駅寄りは現在再開発の真っ最中です。追って、東高島から高島辺りの探索をお伝えしますが、まずは瑞穂大橋付近の様子です。写真㉑は高島線沿線の三井倉庫の海側です。なかなか模型チックで趣のあるレトロな倉庫街ですが、この写真は最近再開発で完成した瑞穂大橋から撮影したものです。この倉庫の周りは再開発が始まっており、この倉庫も今後どうなることか?。

写真㉒

写真㉒は、高島線の千若踏切の近くから北側の運河を東高島方向に撮影したものです。運河には工事用道路が仮設されています。この写真の前方は東高島駅ですが、駅の周りは広大な更地になっていました。そして、つい最近まで、この正面には東高島と東神奈川を結ぶ連絡線の遺構である鉄橋がありました。しかし、タッチ差で撤去されてしまいました。その鉄橋跡には新しい道路橋が建設中です。

写真㉓

最後の写真㉓は、瑞穂橋(道路橋)から撮影した現在の高島地区の様子です。この高層マンション街がもうそこまで来ています。

さて、話は変わりますが、なんとか「横浜ノース・ドック」内の引込線を見てみたいものです。しかし、そこには越えることができないハードルがあります。戦後80年になろうというのに、まだ戦争のケリはついていないことを実感しました。ところが、「横浜ノース・ドック」内への立入りは可能性が全くないわけではありません。不定期ですが1年に1回程度、日本国民を対象とした「横浜ノース・ドック」内を走るマラソン大会が開かれます。そのタイミングで「横浜ノース・ドック」内に入ることができます。写真は撮れそうにありませんが、マラソンに参加するしかありません!!。

おわり

いよいよ緊張の瑞穂橋です。この日は休日でしたが、気持ち悪いほど人がいません・・・と言うか、やはり、この辺りは近づいてはいけない場所なのかも。しかし、来てしまったからには、進むしかありません。

地図1.高島線及び廃線跡撮影地点 (引用:国土地理院1/2500地形図 GSI Maps)

今回は地図1の⑬~⑱の状況をお伝えします。

写真⑬

写真⑬は瑞穂橋越しに運河の東側を垣間見たものです。写真の前方(運河の対岸)が瑞穂ふ頭がある埋立地です。2000年頃まで、この埋立地全体が米軍の管理地だったので、立入ることも撮影もできませんでしたが、現在は埋立地の東側が返還されて日本の民間企業が進出しています。よって、この瑞穂橋も敷居がずいぶん低くなったわけです。

写真⑭

写真⑭は、運河を渡り瑞穂ふ頭側から瑞穂橋を撮影したものです。。この錆び具合が、緊張を煽ります。現物の鉄橋は、画像では伝わらない威圧感がありました。

写真⑮

埋立地に上陸しました。なんだか不法侵入者になったようですが、ここまでは胸を張って歩けるはずです。写真⑮は瑞穂ふ頭側から見た瑞穂橋です。左の道路橋が立派過ぎて鉄道橋の方はおまけの様に見えます。

写真⑯

埋立地に入ると橋のたもとに踏切がありました。写真⑯はその踏切に残る警報機です。背景の高層ビルとのコントラストが何とも異様です。

写真⑰

写真⑰は踏切部分の全景です。道路を横断する引込線には、レールが残っていますが、もう列車は走らないので、踏切も単なる飾りです。この写真は高島線方向を撮影していますが、ここで振り向くと目の前にはフェンスがあり、その内側は「横浜ノース・ドック」です。この引込線は、フェンスの中へ延々と延びていますが、そっちは米軍専用地なので、撮影禁止です。よって、ここから瑞穂ふ頭方向の写真はありません。しかしながら、撮影禁止とはいうもののネットの航空写真などでは、丸裸状態であり、いまさら隠すものがあるのか?。まあ、ここはまだ接収地である建前、立入禁止、撮影禁止は決まり文句の様なものです。しかし、コンプライアンス遵守の世の中です。立入禁止、撮影禁止を守りましょう。

写真⑱

写真⑱は再び踏切の写真ですが、今度は横浜(高島)方面をバックに撮ってみました。この風景に警報機も不思議な感じです。周辺は港湾地帯ですが、今風に言えば、ウォーターフロントの再開発の真っ最中です。いずれ、接収地は完全返還されるのかわかりませんが、この引込線が再開発に巻き込まれることなく温存させるには、このまま接収地内であることが良いのかも・・・。

つづく

とりあえず、百聞は一見にしかずでやってきた東神奈川でしたが、瑞穂ふ頭の引込線は撤去されずに残っている様でした。今回は、いよいよ瑞穂ふ頭に向けて引込線を進みます。この引込線は2021年10月まで米軍の管理下に置かれていました。現在は返還されてJR貨物の管理下になっているようです。しかし、この引込線はレールこそ敷設されていますが、すでに役目を終えており、返還されたものの厄介なお荷物の様です。撤去するにもお金がかかるのか、そのまま放置されている様ですが、この状況はいつまで続くのか?

地図1.高島線及び廃線跡撮影地点 (引用:国土地理院1/2500地形図 GSI Maps)

今回は地図1の⑦~⑫の状況をお伝えします。しかしながら、この一帯についていろいろと調べると、つい最近まで日本人の立入がかなり制限されていたそうで、今回の探索も引込線は返還されていましたが、「緊張の瑞穂橋界隈」には変わりありません。これから探索される方は、この一帯の過去の経緯を理解した上で、モラルある行動をとって下さい。

写真⑦

写真⑦は高島線から分岐した引込線が、瑞穂ふ頭方向に曲がる曲線区間を高島線方向に撮影したものです。線路敷には多少の雑草は生えていますが、レールはしっかり残っています。また、線路の右側の一段低くなっている資材置き場は、米軍専用地へ向かう引込線の折り返し場所でした。ところで、引込線は列車は走りませんが、歩くことはやめましょう。この写真は、沿道から築堤の脇を登って撮影したものです。

写真⑧

写真⑧は、写真⑦のカーブを抜けて、瑞穂橋に向けて登り勾配となる築堤を高島線方向に撮影したものです。線路の前方には短いガーダーが写っていますが、ガーダーの下は右側にある企業へ出入りする道路になっています。

写真⑨

写真⑨は、そのガーダーをアンダーパスする道路部分です。

写真⑩

写真⑩は、写真⑧の撮影場所から振り向いて、瑞穂橋方向を撮ったものです。線路敷には、この様な樹木が茂っており、この路線が長らく使用されていなかったことを物語っています。

写真⑪

そして、写真⑪はこの引込線の最大の遺構?である瑞穂橋です。この写真は、並行する道路橋の高島線側から撮ったものです。この鉄橋は埋立地である瑞穂ふ頭へ渡るために作られたものです。かつては、この瑞穂橋から先は立入禁止だった様ですが、現在はこの道路橋は立入禁止の表示が記されていますが、実際は解放されているようです。この引込線が米軍の管理下にあった頃は、この様な写真も撮れなかったと思います。

写真⑫

写真⑫は、写真⑪の撮影場所から振り向いて高島線方向を撮ったものです。この鉄道橋は複線幅ですが、レールは単線で敷設されています。ネットで確認した画像では、この瑞穂橋は道路併設の併用軌道になっていました。隣の新しい道路橋が完成した時点で、鉄道専用になったようです。さて、この瑞穂橋から先は更なる緊張地帯ですが、とりあえず橋を渡ります。

つづく

今回の号外は、横浜港湾地帯の廃線跡探訪第2弾です。前回は新子安から新興方面に向けて旧新興支線(便宜上の名称)の廃線跡を歩きましたが、今回は東神奈川から瑞穂ふ頭方面へ歩きました。

地図1.横浜港湾周辺図(引用:国土地理院1/25000地形図「横浜東部」昭和57年発行)

地図1は、昭和50年代の横浜港湾地帯の地形図です。この地図に示した「瑞穂エリア」が今回の目的地ですが、このエリアには高島線から分岐して瑞穂ふ頭に向かう引込線が確認できます。

地図2.瑞穂ふ頭周辺図(引用:国土地理院1/10000地形図「新子安」昭和60年発行)

更に、昭和60年頃の地図2を見ると、この瑞穂ふ頭に向かう引込線からは枝線が複雑に分岐しています。そして、これらの路線は現在も一部が残っている様です。現状はどうなっているのか、とても気になりました。よって、今回も炎天下のなか、とりあえず現地に行ってみることにしました。ところが、ネットで「瑞穂ふ頭」を検索すると、そこは米軍専用地とのことで、立入禁止区域になっていました。更に調べると、瑞穂ふ頭は第二次世界大戦後に物資輸送のため占領軍に接収されて現在に至り、「横浜ノース・ドック」と呼ばれています。要するに「わけありの一帯」です。しかし、2000年頃から接収地の一部を日本に返還する動きが見られます。その一環で接収されていた引込線(用地と線路設備)が2021年3月31日に返還されましたが、瑞穂ふ頭自体は返還されていないので立入ることはできません。しかも、写真撮影も禁止されています。しかし、百聞は一見にしかず。とりあえず行ってみました。

地図3.瑞穂橋付近(引用:国土地理院1/10000地形図「新子安」昭和60年発行)

さて、ついでの話ですが、東神奈川界隈には、この他にも引込線が存在していました。例えば、地図3北部の出田町にも臨港線が記載されています。また、地図3に記載はありませんが、かつて東神奈川駅構内と高島線東高島を結ぶ連絡線がありました。しかし、これらの路線はすでに跡形もなく、探索は省略しました。そして、実際に行ってみると、やはり「横浜ノース・ドック」は立入禁止でした。よって、その手前の瑞穂橋までの探索となりました。

地図4.高島線及び廃線跡撮影地点 (引用:国土地理院1/2500地形図 GSI Maps)

地図4は現在の地図に今回の撮影ポイントを示したものです。図中の〇数字は投稿写真の写真番号を示し、赤矢印は撮影方向を示します。また、地図4の緑線はその他の引込線の廃線跡を示すため加筆したものです。ちなみに、図中の千若町2丁目付近も米軍専用地となっており、立入禁止のため、引込線の廃線跡は確認できませんでした。この一帯はネットの航空写真を見ると、レールの存在は確認できませんが線路敷は残されている様です。

今回は地図4に示す①~⑦の状況をお伝えします。

写真①

さて、前置きが長くなりましたが、探索のスタートです。最初の写真①は高島線の千若町踏切から高島方面を撮影したものです。写真の左側は三井倉庫の側線ですが、この側線はすでに使用されていないようです。写真の前方には東高島駅のヤードがありますが、この辺りも東高島駅の構内に属する様です。高島線の線路は右から3本並行していますが、使用されているのは右の2本(高島線は鶴見~東高島間が複線)で、3本目の線路は東高島駅の構内側線です。

写真②

写真②は写真①の撮影場所で振り向いて鶴見方面を撮影したものです。左の2本の線路が高島線で、右側の線路は構内側線です。

写真③

写真③は写真②を望遠撮影したものですが、渡り線が存在します。そして、はっきり見えませんが、右側の構内側線の先の方から瑞穂ふ頭方面(右方向)に分岐する線路があります。

写真④

写真④は瑞穂ふ頭方面の引込線が高島線の構内側線から分岐する場所です。手前に延びる草生した線路が引込線です。この引込線は2021年に米軍から返還されましたが、もう列車が走ることはありません。撤去は時間の問題と言うか、この引込線用地を保有するJR貨物さん次第と思われます。

写真⑤

写真⑤は、高島線から分岐した瑞穂ふ頭方面の引込線が沿道と交差する場所です。なお、この沿道はここから先(線路の向こう側)へは入れません。写真に写る黄色い看板には、米軍専用地なので立入禁止と書かれています。現在この先は更地になっていますが、かつて、そこには米軍の資材倉庫があったので、その名残なのか、まだ返還されていないようです。よって、この先に存在した引込線の実態は確認できませんでした。

写真⑥

写真⑥も写真⑤とほぼ同じ場所です。すでに瑞穂ふ頭方面の引込線は使用されていないので、この交差部は踏切になっていませんが、複線の線路が残っていました。地図3を見ると右側の線路は昭和60年頃は高島線と並行する構内側線のヤードから分岐して、機回し線のある折り返し線になっており、折り返した先は米軍専用地に入る引込線につながっていた様ですが、現在はこの踏切付近を残して撤去されています。一方、左側の線路は単線で瑞穂ふ頭まで続いています。さて、この後は、引込線を辿って、瑞穂ふ頭方面の行けるところまで行きます。

つづく

この頃の3500形は完全に異端車になっていましたが、まだ捨てるには勿体ないので、平日の朝に宮島線内の限定運用に使用されていた様です。しかし、サラリーマンの私にとって、平日の朝では撮影が極めて困難でした。

1.3501編成 (荒手車庫:1994年7月)

よって、普段の3500形は荒手車庫で昼寝している写真しか撮れませんでした。たいていは、車庫の裏側の廃車安置場に紛れて留置されており、なかなか撮り辛い場所です。

2.3501編成 (荒手車庫:1994年2月)

たまには、撮り易い場所に出ていることもありました。しかし、この場所は使用されない車両の留置線です。3500形もそろそろお払い箱なのか?

3.3501編成、77編成、1094+1093 (荒手車庫:1994年2月)

なにげなく撮った写真ですが、元ドルトムントの77号や高床車の1090形も写ってます。1980年代の在りし日を思い出す光景です。

4.3501編成 (阿品東~地御前:1993年12月)

さて、3500形の走行写真ですが、ほとんど撮っていません。しかし、スキャンデータを確認していたら、2枚出てきました。まずは、西陽を浴びる眩しい写真の3500形です。これは宮島競艇の開催日に西広島競艇場前に1往復運行されるギャンブラー専用の帰宅列車です。

5.3501編成 (阿品東~地御前:1994年4月)

続いて、この写真もギャンブラー専用の帰宅列車です。3500形は日本船舶振興会の補助で導入された車両でした。それが理由なのか、宮島競艇のギャンブラー輸送専属になってしまいましたが、これが余生を送る3500形にとって、ちょうど良いお仕事?の様でした。

6.3501編成 (荒手車庫:1994年2月)

その後も、3500形は撮り辛い車両でした。しかし、動向が気になり、広島へ行く度に荒手車庫へよく出向きました。稼働率は極めて低い車両でしたが、宮島線での余生は延々と続きました。

しかし、故障による入退院を繰り返し、2012年の故障を最後に運用離脱したとか・・・。それから12年が経ち、現在も江波車庫で眠り続けているそうです。すでに製造から44年となり、厄介モノも仏様になってしまったのか?。ちょっと心配なのが、静態保存にドライな広電さんは、今後3500形をどうされるのでしょうか。そろそろ、ちゃんとした安住の地で労をねぎらって頂けないものか・・・。

1990年代の広電の車両について、ときどき形式ごとにその頃の様子をお伝えしていますが、もう古い車両のネタがなくなったので、今回は新しい?3500形です。

さて、3500形と言えば、元祖軽快電車です。すでに「軽快電車」という言葉が死語と化していますが、広電の3500形は今から44年前の1980年に路面電車復権を懸けた起爆剤として、長崎電軌の2000形と共にデビューした元祖軽快電車です。しかし、華々しくデビューした3500形でしたが、当初から色々あった様で、1990年代には市内線には顔を出さない、すでにご隠居の余生のような日々を送っていました。

1.3808編成、3501編成 (広電宮島:1993年12月)

このツーショットは、広電宮島で撮影したものですが、左の3800形は軽快電車の量産車です。ところで量産車である3800形の導入までの道程が長かったこと、実に7年ぶりの量産車でした。しかも、7年の歳月は長く、その間に3700形という、抵抗制御の軽快電車モドキが5編成も製造され、念願だった本物の軽快電車である3800形インサイド軸受台車ではなく、メタリック幌でもなく、チョッパ車でもなく、おまけに3800形はプロトなしのぶっつけ本番のVVVFでの量産車でした。

2.3501編成 (広電宮島:1993年12月)

結局、3500形の技術的志向が7年もの間にかなりダメ出しされた様で、それが故に、軽快電車の仲間は違った方向に増えて行きました。よって、3500形は宮島線に幽閉されてしまい、その後も長い余生を宮島線で送ることになりました。

3.3501編成 (広電宮島:1993年12月)

・・・で、この電車は回送ですが、なぜここにいるのか?。実は、この日は宮島競艇の開催日、すなわち3500形のお仕事日でした。このあたりの経緯については、第93話を是非ご覧ください。

4.3501A車内 (広電宮島:1993年12月)

3500形を撮っていたら、車掌さんがやってきたので、車内撮影の許可を頂きました。そして、車掌さんいわく、「いい電車なんですけどねェ・・・。」と、意味深な一言も頂きました。

5.3501B車内 (広電宮島:1993年12月)

久々に3500形の車内に入りました。この撮影から遡ること14年前の1980年7月に、私は荒手車庫で3500形の搬入を見せてもらいましたが、まともな撮影はそれ以来でしょうか。

6.3501B車内 (広電宮島:1993年12月)

この電車の特徴は、クロスシート主体の車両であることでした。しかし、混雑対策で導入後に運転席後部の4人掛けボックス席がロングシートに変更されていました。

7.2007+2006、3501編成 (広電宮島:1993年12月)

今度は重鎮である2000形とのツーショットです。この頃の宮島線は、いわゆる高床車を排除して全列車が市内線直通用となったため、2000形もまだまだ主力の一躍を担っていました。それに比べて3500形の仕事ぶりは何とも、勿体ないに尽きました。

続いて「くろがね線」の現役車両の様子です。「くろがね線」は八幡製鉄時代の1930年に、八幡製鉄所と戸畑工場間に製品などを運搬するため敷設された5.6㎞の路線です。工場内の引き込み線を含めると相当な規模になりますが、この頃の「くろがね線」は、高炉縮小の影響で既に単線化されていました。

1.D705+貨物 (第二操車場~第一操車場:1995年7月)

列車は電化されているので電気機関車の牽引です。しかし、後部にDLを連結しており、一見プッシュ・プル運転の様に見えますが、貨物列車は非貫通制動であるため、このDLは制動用です。この時は現在のスペースワールド駅付近で列車の撮影を行いましたが、まだスペースワールド駅の開業前なので、JR鹿児島本線スペースワールドの向こう側を通っていた頃です。この写真は鹿児島本線をオーバーパスする築堤で撮影したものです。

2.D705+貨物 (第二操車場~第一操車場:1995年7月)

写真の機関車は八幡側に連結されたDLのD700形です。戸畑側のELとは、無線を介して協調運転されています。

3.E8501+貨物 (第一操車場~第二操車場:1995年7月)

この写真は後部のELです。バックにはスペースワールドスペースシャトルが見えます。まさに遊園地の脇を通るので、このELにはなぜか漫画チックなワニが描かれていました。

4.D704 (第二操車場:1995年7月)

このすぐ近くには八幡製造所内にある第二操車場があり、沿道から様子が伺えました。このD700形は1975年日本車輌製の70tディーゼル機関車で、5両在籍していました。この他にも構内様に複数のDLが在籍しているようでしたが、実態は不明です。

5.検重車ほか (第二操車場:1995年7月)

この第二操車場は、「くろがね線」の車庫を兼ねており、機関車の他にも、得体の知れない事業用車も確認できました。

6.E8502 (第二操車場:1995年7月)

まともな塗装のE8502もいました。このELは、85ED-1形という主力の85t機です。E600形の後継機として、1976年に6両導入されました。製造は、機械部が三菱重工、電気部が三菱電機です。

この日は、時間に余裕がなかったので、この程度の撮影で撤収です。「くろがね線」は現在もドイツ製の新しい機関車を導入して健在ですが、スペースワールドは駅こそあるものの2018年1月1日をもって閉園されてしまいました。そして、八幡製鉄所は日本製鉄九州製鉄所となり盛業中です。