わたしの一行(ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書:石光真人編著 中公新書) (original) (raw)

p18

世は騒がしけれど三月ともなれば会津にも春の兆しあり、鶯は例年のごとく里に来たりて鳴き、雪どけの水は流れて若葉陽光に輝き、常に変わらぬ風情なり。三月三日、ああこの日こそ、母姉妹とともに迎えたる最後の雛の節句なれり。例によって雛段をしつらえ緋の布をしきて、内裏様、三人官女、五人囃子など華やかにならびて、小さきぼんぼりに火をともし、いまだ蕾かたき桃の枝を飾れるさまなど、今も眼底に消えず。

「母上、内裏様は天子様なりと聞く、誠なりや」

と問えるに、母は世の眼を見つめてうなずけるのみなり。かく天子様をまつること例年のごとくなるに、朝敵よ、賊軍よと征伐を受くる道理なしと胸中の怒りたえがたく、母に訴えんとせるも、母の固き表情を見て思いとどまりぬ。

p21

後世、史家のうちには、会津藩封建制護持の元凶のごとく伝え、薩長のみを救世の軍と讃え、会津戦争においては、会津の百姓、町民は薩長軍を歓迎、これに協力せりと説くものあれども、史実を誤ること甚だしきものというべし。百姓、町民に加えたる暴虐の挙、全東北に及びたること多くの記録あれど故意に抹殺されたるは不満に堪えざることなり。

p51

会津藩は(慶応三年現在)旧領三十万石、増封五万石、第一回職封五万石、第二回職封五万五千石、これに加え月二千俵、さらに月一万両を賜う。これらの石高に換算すれば約六十七万九千石の大藩なりき。今回陸奥の国、旧南部藩の一部を割き、下北半島の火山灰地に移封されわずか三万石を賜う。まことにきびしき処遇なれど、藩士一同感泣してこれを受け、将来に希望を託せり。されど新領地は半歳雪におおわれたる瘦地にて実収わずか七千石にすぎず、とうてい藩士一同を養うにたらざることを、このときだれ一人知る者なし。

p66

会津の敵討つまでは此処も戦場なるぞと言われ、いつしか境遇に馴れて敗残者の小伜になり下がれる自らを哀れと思えり。されど余を叱りて犬の肉を無理やり食わせ給う父上も、今より思えば心中まことに御気の毒に堪えず、さだめし胸中苦しまれたらんと推察す。

p95

山川大蔵方に寄食せるは旧暦十月初旬なり。山川母堂と常盤嬢は、余の汚れたる白地浴衣を気の毒がり、当時アメリカに留学中の捨松(後の公爵大山元帥婦人)の薄紫の木綿地に裾模様、桃色金巾裏地の袷を取り出し、袖を短くして与え給う。その日より、この少女の着物をつけて暮らせり。他眼には異様に映らんも余は暖かくして満足せり。

p100

もはや三月もまさに過ぎんとする末日、うれしきかな!入校を許可すとの報あり。洋服着用のうえ出頭すべしとのことなり。欣喜雀躍して足の踏むところを知らずとはこのことならん。言葉うわずりて雲上を踏むがごとく、魂ふるえて額に冷汗流る。

p101

野田豁通の恩愛いくたび語りても尽くすこと能わず。熊本細川藩の出身なれば、横井小楠の門下とはいえ、藩閥の外にありて、しばしば栄進の道を塞がる。しかるに後進の少年を看るに一視同仁、旧藩対立の情を超えて、ただ新国家建設の礎石を育つるに心魂を傾け、しかも導くに諫言を持ってせず、常に温顔を綻ばすのみなり。

p101

長岡宅、市川宅など、世話になりたる家を馳せめぐりて、挙手の礼をなす。紺色の派手なるマンテルの裾、四月の風に翻り、桜花また爛漫たり。道往く人、めずらしき少年兵の姿を、とどまりて眺めささやくを意識し、得意満面、嬉しきことかぎりなく、用事もなきに街々を巡り歩き、薄暮にいたりて帰隊す。余の生涯における最良の日というべし。

p104

元来、兄の罪は、迷惑の藩におよびを怖れて、自ら罪を一身に負い、藩士の飢餓を救い、しかも藩財政にいささかの損害も与えざりしこと、旧藩主、旧役員はもちろんのこと、新政府の司法官さえよく承知のはずなり。しかるに原告がデンマルクなりとて、これをはばかり、かくも一人の犠牲者を痛めつけ法律上はいかんともなし得ず、また旧藩の者ども、いささかなりとも兄を慰むる人なし。藩主は華族に列せられ、優れたる人材にして生き永らえたるものまた多きに、藩の窮乏を救いたる恩人、しかも無実の罪なるに七年にわたり囚人として拘束されあると知りながら、新政府をはばかりて手をかす人なしと、余幼くして世事を弁えず、悲憤やるかたなく、武士道すでにすたれたりや、会津魂いずこにありやと疑えり。

p126

古事記依頼、私どもは、いくたびか数えきれないほど、しばしま歴史から裏切られ、欺かれ、突き放され、あげくの果てに、虚構のかなたへほうり出された。

幕末から維新にかけて権力者交代し、新政府が威信を誇示して国民を指導するために、歴史的事実について多少の修飾を余儀なくされたことは周知の事実であり、また政治的立場からやむを得ないことであったろうと察しがつく。

それにしても、本書の内容のような、一藩を挙げての流罪にも等しい、史上まれにみる過酷な処罰事件が今日まで一世紀の間、具体的に伝えられず秘められていたこと自体に、私どもは深刻な驚きと不安を感じ、歴史というものに対する疑惑、歴史を左右する闇の力に恐怖を感ずるのである。

p128

日露戦争までは、日本の国軍は立派であった。あれだけ多数の犠牲者を出した旅順攻撃に際しても、要塞内に逃げこんだロシア市民の退避を軍使をたてて要請したが、食料など充分なるうえ、防備固く安全なりとの理由で拒否され、やむなく攻撃を開始している。各戦闘における軍規の厳正さについて、敵将クロパトキン将軍の回顧録は、世界まれにみる軍隊として賞揚している。

p128

これに較べ第二次大戦中における日本軍による俘虜の待遇は、一部に残虐無残なものが少なからず記録されている。ソビエトにおける日本軍俘虜の扱いもさることながら、日本国内における中国軍俘虜の不当な扱いを見逃すわけにいくまい。

要するに武士道の廃頽であり、本書にも明らかなように、三百年の太平になれた指導者層が統制力を失い、ほとんどなすところなく事の赴くまま流されてしまったことに遠因があろう。武士道を抹殺しただけでは市民意識は育たない。宗教を破壊して天皇信仰を唱えただけでは、市民としての生活信条は育たなかった。これら日本近代化の失敗を柴五郎という一人の武士の子を通じて教えられることが多い。

p133

白髪の垂れた老顔を流れ伝う涙は、岩清水に似て清らかであり、北辺の海に打ち上げられた流木ともいうべき会津の歴史を、無常に濡らす霙のようにも思われて、私自身言葉に窮することが、しばしばであった。飢え果てて藁小屋から這い出てくる会津藩士一党の口惜し涙でもあったかと思う。

p160

柴五郎の遺文に接して、国家民族の行末を決定するような重大な事実が、歴史の煙霧のかなたに隠匿され、抹殺され、歪曲されて、国民の眼を欺いたばかりでなく、後続の政治家、軍人、行政官をも欺瞞したことが、いかに恐ろしい結果を生んだかをわれわれは身近に見せつけられたのである。

p161

われわれの住む現在の時点において、すでに、マスコミ公害という新語を耳にし、また、情報の偏向、コマーシャリズムの弊害を指摘されていることに再び不吉な予感を覚えるのである。歴史というものが本質的に、そのようなひ弱い浮草のようなものであるかどうかは知らないが、この血涙にまみれた資料が維新史のどこかの間隙を埋めることができれば幸いである。