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鹿兒島神宮には、地域の人達が実行委員会を立ち上げて盛り上げている大きな祭りが二つある。旧暦1月18日の後の最初の日曜日に開催される初午祭と10月第三日曜日及びその前日の土曜日に開催される浜下りである。

初午祭参加の地元自治会の踊り連

こうした鹿兒島神宮の祭りは、不思議と天気に恵まれる。前日までの天気予報が雨であっても回復してくることが多い。前の宮司が「大丈夫ですよ。神様ごとですから」と言っていたが「なるほど」と思ったことが何度かある。

ところが、今年の浜下りは様相が異なった。

鹿兒島神宮の浜下りは、御祭神が1年に一度、隼人の浜の元宮に御神輿に担がれてお出かけになる祭りで、神話の「海幸山幸物語」に由来する。

鹿兒島神宮の御祭神のヒコホホデミノミコトは、物語の山幸彦である。物語の概略は、

海幸彦と山幸彦は兄弟で、兄の海幸彦は海の漁が得意、そして弟の山幸彦は山の猟が得意であった。

ある日、山幸彦の提案により兄弟はお互いの道具を交換し、山幸彦は海に釣りに行った。ところが、山幸彦は兄が大事にしていた釣り針を取られてしまう。山幸彦は必死に誤ったが、怒った兄はどうしても許してくれない。

途方に暮れていると、塩椎神が現れて「綿津見宮に行くように」勧める。

綿津見宮に着くと、海神は山幸彦を大事にもてなしてくれる。山幸彦は、綿津見宮で海神の娘 豊玉姫と結婚、幸せな日々を送る。

そこで3年を過ごした時、山幸彦は釣り針を探しにきたことを思い出し、姫に話したところ、海神が赤鯛の喉に引っかかっていた釣り針を取り出してくれた。

赤鯛に由来する鹿兒島神宮の信仰玩具、拝殿に飾られている。

こうして、山幸彦が無事に帰還した所が隼人の浜、元宮とされている。

今年の浜下りは、10月19日(土)にお下りが、10月20日(日)にお上りが、行列を仕立てて行われる予定であった。

私は、浜下り実行委員会の一委員である。行列にも参加することになっていた。

10月19日には、午前7時に花火の音がした。浜下り実施の号砲である。ところが、その後暫くすると激しい雷雨となった。しかし「行列開始は午後1時だ。天気は回復する」と思って足袋などの準備をしていた9時頃に、行列委員長から「中止」の電話連絡が入った。「但し、神事は執り行うので、午後2時半に神宮に来てください」と言う。

他の行列参加者に、中止の連絡をしていると雷雨はおさまり、段々と陽も照ってきた。

「やれば良かったのに」と思いながら、午後2時過ぎに神宮に向かっていると、山手に黒雲が現れて、ポツリポツリ落ちてきた。発輿祭神事が始まる少し前から、空が抜けたような激しい雨になった。

何時もは行列を仕立てて、召立という行列を鼓舞する出発式などのセレモニーを行い、御神輿をお運びする浜下りだが、この日はそういうものは一切なく、御神輿をトラックで運んで、隼人塚や隼人港、元宮で神事だけを行うことになっていた。

雨が降り出してから約30分後、発輿祭神事が終わった。そして、御神輿をトラックに乗せる段になったら、雨はすっかり上がってきた。

例年通りだったら、午後2時過ぎは隼人塚公園で隼人塚祭が執り行われている頃だ。広々とした公園には、あずま屋が一つあるだけ。あんな急な土砂降りでは、あずま屋には御神輿を避難させるしかできなかっただろう。行列参加者は、みんなびしょ濡れになったはずだ。参加者の体調もだし、衣装も着ることが出来なくなってしまったことだろう。それが避けられた。翌日のお上りにはみんな正装し、行列は無事斎行できた。

お上りは無事にできた。

朝の雷は「行列をやってはいけない」という警報に思えた。みんなが屋根の下にいる間の発輿祭時の豪雨は、外での作業が必要になったらピタリと止んだ。そして、隼人塚などの神事の時には天気が回復していた。こうしたことは、全くの偶然で済まされることだろうか。私の常識からは遥かに超越したことだった。

そう言えば、平成29年の浜下りの時もそうだった。

あの日は、天予報は雨、朝からどんよりとした雲に覆われ、行列参加者用の雨具も、いざと言う時のために用意されていた。そして、予定通りの斎行、行列を仕立てて御神輿をお運びしたのだが、お下りの間の5時間、雨は全く降らなかった。

当時は、1日で浜下り行事全部を1日で行う、お下り主体の祭りだった。行列参加者は、お下りの祭りが済んだら、隼人港からバスで神宮に帰ってきていた。

あの日も甲冑や賀輿丁、隼人職など古式の衣装で少し窮屈になりながら、何とかみんなバスに乗り込んだ。その途端である。激しい雨が降って来た。ワイパーがハイに動き続けなければ前が見えなくなるほどの雨だった。ところが約10分後、バスが神宮階段下に着いた時にはピタリと止んでいた。不可思議と思うほかなかった。

「これは神様の力によるものだ」と言えば「非科学的だ」という反論も多いことだろう。当然だと思う。しかし、こうした奇跡的なことに二度も遭遇すると、鹿児島神宮の神様が好天をもたらしたり、荒天からお祭りへの参加者をお守りしてくれているのだと思わざるを得ない。

9月3日の南日本新聞の一面に「弥生杉台風で倒木」という記事が載っていた。

弥生杉は、屋久島で屋久杉ランドと並び観光客の多い白谷雲水峡の周遊ルートの一つ、弥生杉歩道にある(あった)屋久杉である。樹齢3千年と言われる高さ26メートル、幹回り8メートルの巨木が、台風10号の直撃を受けて無残にも倒壊したということだ。

観光関係者の「ショックは大きい」というコメントには、観光業への影響だけでなく「こんな巨木が」という、起こるはずのないことが起こったという驚きもあるように感じられる。

この記事を読みながら、改めて屋久島の自然の凄さを思った。

屋久島では樹齢千年以上の杉を屋久杉、それ以下の杉は小杉と言う。この屋久杉のうちには、縄文杉、紀元杉、夫婦杉、万代杉などという固有の名前を持った杉がある。

登山家の太田五雄さんが著した「自然ガイド屋久島」(1996年)という書には、固有名を持つ屋久杉として、28本が紹介されている。なお、九州森林管理局の「屋久杉の巨樹・著名木データ」には、びびんこ杉や武家杉、公家杉など最近名付けられた杉を含めた47本のデータが記載されているが、古くから良く知られてきた杉は、この28本ではないかと思う。

縄文杉

夫婦杉

万代杉

弥生杉は、これらの中でも10指に入る有名な屋久杉であった。それが倒れたものだから大きなニュースになったわけだが、この28本の屋久杉のうち、私の知っている範囲では、あと2本が倒れて現存しなくなっている。

翁杉

その1本は翁杉である。翁杉は、縄文杉へのコースでウィルソン株の少し手前にあった屋久杉である。樹齢2千年、高さが23.7メートル、幹回り12.6メートルあり、どっしりとした風格のある屋久杉だった。

翁杉(平成11年9月撮影)

平成22年(2010年)に倒れているが、九州森林管理局の調査によると、腐朽や着生物の重みなどが原因だということである。

蛇紋杉

もう1本は蛇紋杉である。蛇紋杉は、屋久杉ランドから太忠岳への登山コースにあった屋久杉で、樹齢2千年、高さ23.6メートル、幹回り8.3メートル。平成9年8月17日の台風13号か9月15日の台風19号で倒れたようである。

太忠岳自体が登山者の多い山ではないことから、そのコース上にある蛇紋杉は、固有名を持っている屋久杉ではあるが、そんなに有名ではなかった。ただ、私自身が倒木直前の平成9年7月27日にこの杉を見ながら太忠岳に登山したことから、この事象は強く記憶に残っている。

蛇紋杉(平成9年7月27日撮影)

倒木後の蛇紋杉(平成10年4月撮影)

めっぽがし岩

屋久島では、起こるはずのないと思われることが起こるのは屋久杉の倒木だけではない。

麦生海岸には、大きな波食洞があった。私たちは「めっぽがし岩(目玉のような穴の開いた岩)」と言っていたが、今はない。何時とは分からないが、台風の大波で壊れたものと思われる。

めっぽがし岩

大きな波食洞だった

穴から覗くモッチョムだけが絶景だった

麦生海岸は、約4000万年前に堆積したとされる熊毛層群で出来ている。

この波食洞もとてつもない長い年月をかけて、波が少しづつえぐり、写真のような形になったはずだ。それがいつの間にか崩れて波食洞は無くなってしまったのだ。

ナポレオン岩

九州最高峰の宮之浦岳(1935m)には、淀川登山口からのコースが一般的である。このコースでは、宮之浦岳の前の栗生岳(1867m)を経由する。

最後の水場を過ぎて、栗生岳を登り始めた右側に「ナポレオン岩」とか「げんこつ岩」とか言われていた大きな岩があった。縦に4個に割れた岩に数個の岩が乗った特異な形で、高さは数メートルあった。

ところが、平成26年宮之浦岳に登山した時には、縦4個のうち2個だけしか残っていなかった。そしてその1個の岩の上には岩が乗っていた。

ナポレオン岩

倒壊後のナポレオン岩

「ナポレオン岩」や「げんこつ岩」の名称は、岩の形から付けられたものであるが、もうその形はない。それにしても、細い板状の岩に岩が乗っかった形で良く残ったものだと思う。

屋久島には、豆腐岩やローソク岩、イースター岩など形の変わった岩、不安定な形で座っている岩など珍しい形、状態の岩が幾つもある。しかし、これらも何時までも不変ではないだろう。

屋久島の自然の歴史の記録があったら

屋久島フアンクラブの会員には数々の特典がある。その一つに書籍のプレゼントがあり、今年は「屋久島の歴史ガイド」を申し込んだ。屋久島の旧石器から近代までの歴史が盛りだくさん解説されており、読み応えのある書である。

ただ、この書は人の営みの歴史である。

屋久島の自然は魅力に富んでいるが、一面では厳しい。それだけに、自然の崩壊(新しい自然創造)がたびたび起こっているはずだ。ここに投稿した屋久杉の倒木や岩の崩壊は、極々一部に過ぎない。

屋久杉は数千年、屋久島を形作っている花崗岩は1400万年、海岸の岩の熊毛層群は4000万年と人間の歴史からすると遥かに長い。その中で過去にあった屋久杉の倒木や岩の崩壊などの事象を逐一知ることは不可能なことである。しかし、我々の知る範囲において、また今後において、そうしたことが記録され、纏められていったら良いのになあと思う。

霧島市に「小村新田のハンギリ出し」という市の無形文化財に指定されている行事がある。

指定理由には「江戸時代末期に小村新田を干拓した際、護岸や用水等のために潮だまりが造られた。水の管理のために水守りを置き、給料代わりに漁業権が与えられた。水守りなどが日を決めて許可書を発行し、エッナを獲らせたことが起源とされる。盆の精進落しとして行われる行事は希少で、地域の歴史と文化を伝えている。」というようなことが記されている。

ハンギリ出しというのは、ビク(魚籠)としてハンギリという底の浅い馬の飼葉桶を潮だまりに浮かべ、孟宗竹の上に板を敷いたイカダに人が乗り、投げ網でエッナ(ボラの子ども)などの魚を獲る漁のことを言う。

今年も、盆明けの8月16日、国分広瀬の干拓潮遊池(潮だまり)でこの行事が催され、9台のハンギリが登場した。

不安定なイカダに乗っての投げ網で、バランスを失い池に落ちてしまう乗り手もいたが、ベテランの網は、池面にきれいな弧を描き、そのたびに大勢集まった見物人から歓声が上がっていた。

錦江湾奥の干拓(国分・隼人地区)

小村新田は江戸期の干拓である。干拓面積は120町歩。相当の難工事で、薩摩藩は、岩永三五郎に工事を担当させたが、潮止め工事に2度失敗し、3度目にしてやっと完成したと記録されている。

潮止め護岸工事のための石材は、神造島から運んだそうである。

神造島は、隼人の海岸の向かい側にある岩山の島で、岩は加工のしやすい柱状節理である。また、国分・隼人の海岸とは指呼の距離で、船で容易に運べるという利点がある。こうしたことから、この石材が使われたのではないかと思われる。

ところで、錦江湾奥の国分・隼人地区の海岸では、江戸期以降、小村新田だけでなく、次のように300町歩余りにの干拓がなされた。

海岸部の埋め立てによる開墾では、外洋からの波を防ぐ防波堤と塩害の防止が鍵となる。そのため干拓地に設けられたのが、潮だまりである。

現在、これらの干拓地の海岸には、高さ約6.5m、長さ約10kmの長大な堤防が築かれ、波と潮の害を防いでいる。この工事により、かつての護岸などは撤去されたため、当時どのようにして波と塩害を防いでいたのか見ることはできない。次の図は、父が島津新田の水守りをしていたという冨田さんの記憶を基に描かれたものである。

冨田さんによると

島津新田では、満潮時には東西の水門が閉じて潮水の流入を防ぎ、なおも浸水した分は堤防内面に沿って側溝(潮廻り)が約10m幅に全堤防に築かれていた。更に側溝の内面には、小水門が4ケ所あって、潮水の流入と上流からの排水の調整池(潮遊場)が設けられ、水田の塩害が防止されるようになっていた。そして、干潮で潮が動くと同時に水門が開き,淡海水混ざり合って外海に流れ出し、干潟が形成された。

魚遊っ場(通称「つぶっ」)は、多くの魚が取り残されて格好の漁場だった。

以前は、潮だまりの維持管理を無償で行う水守りに「つぶっ」で漁をできる特権が与えられていた。

旧8月16日の精進落しには、水守りを中心に「つぶっ」で孟宗竹二本に牛馬の飼料桶を乗せ、戸板に乗って大形投げ網で漁をし、獲れたボラなどの背ごしを酒の肴にして舌鼓をうつ「はんぎり出し」が近在近郷の人達の楽しみだった。

現在、島津新田では「ハンギリ出し」は行われていない。しかし、冨田さんの話から、当時の技術に感心するとともに、①イカダの板が戸板だったこと ②_「つぶっ」ではかねては水守りが漁をしていたが、旧8月16日の精進落しの時は、近在近郷の人達にも獲れた魚がふるまわれ「おでばい」(花見などの行楽)のようなものだったということも分かった。多分、これは小村新田でも錦干拓でも同じだったのではなかろうかと思う。_

8月17日の南日本新聞には「県内無形文化財15%休止」という記事が一面トップで掲載されていた。文化財に指定されていない伝統行事となるとさらに多いことだろう。

伝統行事は、地域文化の要であり、故郷としての拠り所でもあると思う。農家の減少や行事の担い手不足、地域環境の変化など隘路は多いだろうが、何とか残して欲しい。

明治7年(1874年)の神宮号宣下から150年を記念して、鹿児島神宮では「高木邸」の移築工事が行われている。

高木邸は、南日本銀行の前身である鹿児島無尽の創業に関わった高木時吉氏が昭和2年(1927年)に建築した邸宅で「高木家住宅 主屋 石倉」として霧島市文化財に指定されている。民間のものとしては県内随一で、文化的価値の非常に高いものであるが、老朽化が進み、遺族が維持管理を担ってくれる相手を探していたところ、鹿児島神宮がそれを引き受けたものである。

高木時吉氏は、邸宅建築の神事を一切鹿児島神宮にお願いしていたようで、そういった意味もあってか、鹿児島神宮の御神橋の前には、基礎がでんとした石積みの約4mの大きな灯籠が、高木時吉氏によって奉納されている。奉納年月日が昭和4年正月だから、高木邸完成から灯籠完成が期間的にも符号するように思われる。

ところで、御神橋の前にはもう1基、高木氏奉納のものと同じ大きさ同じ作りの灯籠がある。奉納者は西川喜一郎氏、奉納年月日は高木氏と同じ昭和4年正月である。

右が高木時吉氏、左が西川喜一郎氏奉納の灯籠

高木氏奉納の灯籠には「神徳不窮」、西川氏奉納の灯籠には「光照萬古」の4字熟語がそれぞれ竿部に刻字されており、両方で「神様の徳は果てしなく永遠に照らされる」という意味になっているのではないかと思われる。

西川喜一郎氏がどのような人なのか、高木氏とどのような関係なのか。奉納の趣旨は何なのか確としたものはないが、奉納日、灯籠の形、そしてこの4字熟語からして、両氏が深い関りがあり、灯籠を対で奉納したのではないかということが推察される。

一方、鹿児島神宮の境内と宮内小学校正門の間にも奉納年が昭和4年(1929年)の灯籠が2基対である。

この灯籠も高木氏、西川氏奉納のものと同じく、基礎がでんとした石積みであるが、大きさはさらに大きく、約5mもある。

神宮に向かって右側の灯籠の竿部には「皇基万代」左側には「揚明照道」の4字熟語が刻字されており「天皇の御代が幾代にも続き、国民の行く道を明るく示してくれる」という意味に解釈されるようである。また、碑文に「御大禮記念」とあることから、この2基の灯籠は昭和3年(1928年)に挙行された昭和天皇即位の礼を祝って奉納されたものと思われる。

なお、この灯籠の奉納者は鹿児島県中等学校職員生徒一同である。この灯籠には「そういう時代だったのだなあ」ということを感じさせらる。

鹿児島県中等学校職員生徒一同奉納の灯籠

霧島市には「歴史の東西道・日本最南端歌枕の地」という説明板の掲げられたところが4ケ所ある。隼人町内の「なげきの杜」、国分姫城の「こがの杜」、国分府中の「気色の杜」、隼人町住吉の「気色ケ濱」である。

歴史の東西道・日本最南端歌枕の地の説明看板

平成25年(2013年)に霧島市は、大隅国建国1300年を記念して、講演会や史跡めぐり、記念碑建立など歴史に関する各種の事業を実施しているが、この4ケ所の説明看板もその一環として設置されたものである。

国語辞典などによると、歌枕とは「古来、和歌の題材とされた名所」というようなことだが、それでは、この4ケ所は何故、古来和歌に詠われてきたのだろうか。

霧島市には、河川延長、流域面積ともに県内第3位の天降川が流れている。この川は、寛文6年(1666年)に地元で「川筋直し」と呼ばれる河川工事が施工され、河道が大きく変えられた。

川筋直し以前は、現在の国分市街地を流れていたが、大雨のたびに氾濫する流路の一定しない河川で、当時は大津川とか広瀬川と呼ばれていた。一方、錦江湾の海岸部では、江戸時代以降、米の増産を図るために大規模な干拓工事が行われた。

歌枕のうち、なげきの杜、こがの杜、気色の杜の3ケ所は、この旧河道沿いで、気色ケ濱は干拓工事前の錦江湾奥の浜辺であった。今は、何れの地も都市化しているが、和歌の時代は、自然豊かな河川や浜辺の景観の広がる、風光明媚の地だったことが想像される。

ところで、この4ケ所の歌枕に詠われた歌をみると、そのほとんどは、この地を訪れたことのないと思われる歌人のものである。

改訂新版世界大百科事典では「歌枕と他の地名を区別する基準は、それが文学史上の地名か否かという点にある。初めにある地名がある歌人に詠まれ勅撰集に入る。以後、多くの歌人によりその地名が詠みつがれるうちに固有の情緒が付着し、その情緒が文学史の中で成長し、やがて固定する。その地名が歌枕で、歌人はそこに行ったことのあるなしにかかわらず、自分の歌に適合した情緒を持つ地名を選んで詠みこんだのである」と解説している。

都から見た場合、大隅は最果ての地である。この4ケ所の歌枕を詠んだ歌人のほとんどは、この地を訪れたことはないが、ここに赴任した役人などからの情報をもとに得た情緒を自分の歌として詠いこんでいったのではないかと推察する。

なげきの杜

隼人町内村に蛭児神社がある。御祭神は蛭児尊である。

地元に伝えられているところによると「『イザナギイザナミの子が三歳になっても足腰が立たなかったため、両親はやむなくその子を蛭児と名付け、天の磐楠船に乗せ、天上から地上に流し捨てられた』という神話があるが、流れ着いたのが当地で、天の磐楠船から根が生えて楠の森ができた。イザナギイザナミが嘆き悲しんだことから、この森を嘆きの森と呼ぶようになった。一説には木を投げ捨てたことから投げ木の森ともいうが、通常は奈毛木の杜と書き表すようになっている」ということである。

蛭児神社の社域は、大きな楠で鬱蒼としており、神話の時代のものと言われる「神代の楠」も残っている。

蛭児神社の社叢

神代の楠

江戸期の薩摩藩の地誌、麑藩名勝考などに「_祢宜ことをさのミ聞けん社こそ果ハなけきの杜となるらめ_」(古今集 讃岐)など20首の歌が紹介されているが、そのほとんどが「嘆き」を詠んでいる。この「なげきの杜」一帯は、旧大津川を俯瞰する景勝地であっただろうが、このことを詠った歌はほとんどない。ここを訪れた役人たちにとって、景観より蛭児神社の由来が印象に残り、それを聞いた歌人は「嘆き」を情緒として詠ったのではなかろうか。

こがの杜

こがの杜は、大隅国府があったとされるところの近くである。

平家物語長門本には、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀に加わったとして、鬼界ケ島に流された藤原成経の恋人、伯耆局のことが記されている。

伯耆局は平清盛に仕えていたのだが、大隅八幡宮神職平清盛の屋敷に出入りして伯耆局を見染めていた馬場執印清道が、藤原成経伯耆局が慕っているのを知ると「成経に会わせてやる」と、大隅八幡宮のある宮内に連れてきた。

当時、こがの杜の近くに大津川の船着き場があったと思われるが、大隅の地に来て「成経が鬼界ケ島に流されている」という事実を知った伯耆局は、こがの杜で毎日々々鬼界ケ島に渡る船が出るのを待っていた。しかし、その機会はなかなか訪れない中、その翌年に罪を許されて京に帰る途中の成経が清道の屋敷に立ち寄った。

成経と再会した伯耆局は、喜んでこれまでのことを細々と涙を流しながら話したのだが、京へ帰ることの想いでいっぱいの 成経は、伯耆局を残して宮内を後にしてしまった。 伯耆局は _成経を待ち続けていたが、思い叶わず、とうとう「こがの杜」で果ててしまった_、というような内容である。

麑藩名勝考などに紹介されているのは「恨みしな風の杜なるさくら花さこそあたなる色に咲らめ」(夫木集 梅察)の1首のみだが、成経を慕い待ち続けたが叶わなかった、伯耆局の気持ちを情緒とした歌と推察する。

古木1本が昔を伝えるこがの杜

気色の杜

気色の杜は、大隅国府があったとされるところ付近にある。ただ、歌が詠われた当時の気色の杜は、現在の杜より南南東100mくらい、以前の鼻面川の隅にあったということである。それでも、国府があったとされる場所とは目と鼻の先ということになる。現在のソニーの駐車場の角地、踏切付近に小高い森があったと思われるが、洪水で流されたそうで、その形跡を探ることは出来ない。

今の気色の杜は、春は桜がきれいな所だが、当時はどうだったのだろうか。麑藩名勝考などには、20数首が紹介されているが「秋のくる気色の杜の下風に立ちそうものはあはれなりけり」(千載集 待賢門院堀川)のように、秋の侘しい気色、落葉を詠ったものが多い。春の歌は、下草のものが少しあるのみで、桜は詠われていない。また、冬枯れのものや蝉の鳴き声を詠ったものもある。こうしてみると、都から遠く離れた大隅の地で暮らしていた役人にとって、日々眺める気色の杜の景観は、郷愁を誘う、うら寂しいものに映っていたのではないかと思われる。歌人の歌に、その気持ちが表れているようである。

今の気色の杜

気色ケ濱

国道10号線沿い、天降川に架かる新川橋の近くに景色ケ浜のバス停がある。歌枕の気色ケ濱はこの付近だったと謂われている。当時は松林の繁る浜辺だったそうだが、今は自動車の販売店や住宅が密集しており、当時の面影は全く無くなっている。

麑藩名勝考などに紹介されている歌は「かはり行く気色の濱の夕烟誰か深きえにまた霞むらん」(夫木集 御九条)だけである。

当時の気色ケ濱は、松林から桜島や高隈連山を望む景勝地だったと思われるが、歌が少ないのは何故だろうか。

景色ケ浜バス停付近、10号線から南は干拓地だが、今は住宅が密集している

かつては、桜島が直に見える浜辺だっただろう

霧島市の4ケ所の歌枕で、歌が多いのは、気色の杜となげきの杜である。気色の杜は、大隅国府があったとされるところのすぐ近くで、役人は何時もその景観を眺めていたと思われる。また、なげきの杜は大隅国の二ノ宮の蛭児神社の社域で、役人も参る機会が多かったと思われる。

一方、気色ケ濱は大隅国府があったとされるところから2kmくらい離れた南方で、近くには国府の役人が巡回する神社もなかったことから、わざわざ訪れることは少なかったのではなかろうか。また、こがの杜も平家物語長門本での伯耆局の話の記述は極一部に過ぎず、印象に残ることは少なかったものと推察される。

日本最南端歌枕か?

霧島市の4ケ所の歌枕の案内板に「日本最南端歌枕の地」とあるが、果たして最南端なのか。

当時の日本では、大隅が最南端であったことは間違いない。それでは、歌枕も最南端なのか。これには少し疑問が生じる。

古代の日本の南の端は、大隅国とともに薩摩国がある。そして薩摩にも「薩摩の瀬戸」と「薩摩潟」という歌枕がある。「薩摩の瀬戸」は、阿久根市と長島町の間の黒の瀬戸のことだから、大隅の歌枕より北である。

薩摩の瀬戸を詠った歌碑

ところが「薩摩潟」は特定の場所ではなく、薩摩の浜辺を表象する語とされているようだ。従って、錦江湾も北薩の海岸も薩摩潟になる。例えば「薩摩潟おきの小島に我ありと親にはつげよ八重の潮風」(千載集 平康頼)という歌がある。これは康頼が鬼海ケ島に流された時詠った歌とされるが、ここの薩摩潟は、鬼海ケ島周辺若しくは鬼海ケ島を直接望む薩摩半島南岸部と見るのが自然だ。そうすると、霧島市の4ケ所より南の歌枕ということになるのだが・・。ただ、薩摩潟は漠然としており場所特定は難しい。歌枕=和歌の題材とされた名所として特定されている、とい意味では最南端と言えるのかもしれない。

歌枕余談

歌枕について、ウィキペディアには「古くは和歌において使われた言葉や詠まれた題材、またはそれらを集めて記した書籍のことを意味したが、現在はもっぱらそれらの中、和歌の題材とされた名所旧跡のことをさしていう」と記述されている。

この「古くは」について、改訂新版百科事典には「古典和歌の世界では、和歌に詠むにふさわしい由緒ある一群の地名があり、恣意的に勝手な地名を詠むことは許されなかった。その地名は≪能因歌枕≫≪五代集歌枕≫≪八雲御抄≫≪歌枕名寄≫などの歌学書に集成され、いわば登録された形になっている」と記されている。

ちなみに、1300年頃に成立したとされる歌枕名寄には約6000の歌が収められているそうだが、霧島市の4ケ所のうち、その中に入っているのは気色の杜だけである。(日文研 和歌データベース参照)

線状降水帯が抜けて良い天気になってきたので、予定通り霧島の大浪池に登山した。

8時半に登山口に着いたのだが、数十台ある駐車場はほとんど埋まっていた。何とか空きスペースを見つけて駐車し、勇んで登山開始。

大浪池は、登山道も整備されており、割合登りやすい山だ。しかし、もう喜寿だ。体力が落ちているせいかすぐに息があがってしまい、100m行っては小休憩、100m行っては小休憩を繰り返しながら登った。山頂までの約1.2km、一般には30分のコースだが、50分もかかってしまった。

山頂は、雲一つない快晴、微風がふいて心地よい。疲れなどすぐに吹き飛んだ。

山頂の大浪池由来説明

今日の登山目的はツツジだった。例年5月の中下旬がミヤマキリシマの見頃だ。火口の西周りコースの1kmくらいのところに群生地があったはずだ。行ってみたが、今日はチラホラしか咲いていない。ほとんど散ったあとだ。1~2週間遅かったようだ。

「ま、山では良くあることだ」と思いながら、湖面と反対側を見たら、何と桜島から開聞岳まで錦江湾の絶景が広がっていた。これまで、大浪池には何回も登って来たが、ここまで眺望がきいたのは初めてだ。神様からおまけを戴いたような気持になった。

昼前には下山したが、駐車場はさらに満杯、登山口から離れた路肩までびっしり停まっていた。鹿児島・宮崎ナンバーが半分くらいだったが、熊本、福岡ナンバーも多い。広島、岡山ナンバーも数台。下山の途中外国人に何人も会った。大浪池は、人気の登山コースというのは分かっていたが、平日の今日、しかも昨日は線状降水帯が発生していたというのに、こんなに多い、しかも遠地からというのには驚いた。

かつて、薩摩半島西側、日本三大砂丘吹上浜沿いを縦走していた鉄道があった。私鉄線の南薩鉄道(通称南薩線)である。

南薩線が開通したのは大正3年(1914年)のこと。鹿児島本線(当時は川内線)の鹿児島県内での開通は、鹿児島駅東市来間の大正2年(1913年)。これからしても、南薩線の開通がいかに早かったかが分かる。

それから70年間、地域の足として、物流の柱として重要な役割を担っていたが、今から40年前の昭和59年(1984年)に廃止された。

南さつま出身の私には、懐かしい想い出が多々あるこの鉄路の跡を巡ってみた。

上日置駅

南薩線の廃線跡で最も趣が残っているのは、上日置駅だろう。駅舎は壊され、鉄路も撤去され、ホーム跡と給水塔が残るだけだが、駅跡の雰囲気が漂う。

上日置駅跡

上日置駅の案内板

旧上日置駅と旧日置駅の間は急な坂だった。南薩線にディーゼルカーが導入される前、蒸気機関車の頃の話だが、雨が降ると車輪が空回りする。機関車には砂袋が積み込まれており、車掌が線路に砂を撒いて、やっとのことでその坂を登っていた。列車は、何時もほぼ満員。乗客たちは、機関車のシュッポ、シュッポ、シュッポが「ぜんな とっどん なさんこっじゃ(金は稼ぐけど難儀なことだ)」と嘆いているように聞こえると囃し立てたものだった。下りて小用を足す乗客もしばしばだった。

ここには、2018年8月25日に六角精児さんと下田逸郎さんが訪れたそうでサイン(コピー?)が掲示されている。翌8月26日に「六角精児と下田逸郎の坊津コンサート」が開催されており、その途中に旧上日置駅に立ち寄ったようである。

六角精児さんと下田逸郎さんのサイン、上の写真は別の人が撮った昔のもの

上日置駅跡を出てからカーラジオを付けたら、六角精児さんの声が流れてきたのは、

余りにも出来過ぎた偶然だった。(後で調べたら、毎週木曜日に六角精児さんがパーソナリティを務めているNHKの「ふんわり」という番組だった)

吉利駅跡・永吉駅跡

日置市帆之港から南さつま市まで、通称「吹上浜サイクリングロード」という自転車専用道路が通っている。全長は23.9kmで、このうち日置市の旧吉利駅付近から旧薩摩湖付近までは、南薩線跡が活用されており、旧吉利駅と旧永吉駅はサイクリングロードへの乗り入れ口として残っている。

吉利駅案内板

吉利駅跡ホーム、右側線路跡がサイクリングロード

永吉駅案内板

永吉駅跡ホーム、右側はサイクリングロード

永吉川鉄橋跡

吉利駅跡と永吉駅跡の間に、道の駅の「かめまる館」がある。この前を流れる永吉川に南薩線の鉄橋の跡が残っている。

永吉川の南薩線鉄橋の橋脚跡

永吉川の南薩線鉄橋の橋台跡

吹上浜

廃線跡とは直接関係はないが、昭和53年(1978年)8月12日に、市川修一さんと増元るみ子さんが、北朝鮮に拉致されたとされる場所が旧吹上浜駅近くだ。

当時、吹上浜のこの付近では「夜半、沖に赤い灯が見える。密航船だ。気を付けるように」と言われていた。どうもこれが、密航船ではなく工作船だったようだ。もっと早く事件の前に分かっていたら、そして取り締まりが出来ていたらと思う。

旧薩摩湖駅

南薩線の設立は南薩鉄道という会社で、当初の代表者は鮫島氏であったが、昭和27年(1952年)に岩崎氏に代わる。岩崎氏は観光に力を入れていた。そして、南薩線でのその代表が「さつま湖」であった。湖には遊覧船が浮かび、湖の中の島には橋が架けられバラ園があった。バラ祭りや大花火大会などのイベントが催され、薩摩湖駅は観光客で賑わっていた。

吹上浜駅跡・北多夫施駅跡

廃線跡の旧南吹上浜駅付近から旧阿多駅付近までは広域農道になっている。

鉄路の面影はほとんどないが、南吹上浜駅跡と北多夫施駅跡には案内板があり、往時をしのばせている。

吹上浜駅案内板

北多夫施駅案内板

鉄路跡の広域農道

広域農道からの金峰山

阿多駅跡

旧阿多駅は、知覧線の本線との分岐駅であった。

ここは現在、市営住宅になっており鉄路の面影はないが、鹿児島県の地域振興事業で「南薩鉄道(鹿児島交通線)の概要」と言う「案内板が設置されている。これを見ると、南薩線の歴史が概略分かる。阿多駅についての説明もある。

南薩線の歴史を記した案内板

阿多駅の説明

加世田駅跡

旧加世田駅は、南薩線の中止駅であった。また、わずか2.5km、薩摩大崎駅1駅だけまでという万世線の分岐駅でもあった。なお、万世線は現在はサイクリングロードとして活用されている。

加世田駅の乗降客の賑わい

万世線を走っていたガソリンカー

加世田駅跡は、現在バスセンターになっており、広場には南薩線を走った蒸気機関車ディーゼル機関車各1両が展示されている。また、バスセンター周囲には、鉄道で使用されていた機材類も展示されている。

なお、ここにも「南薩鉄道(鹿児島交通線)の概要」が設置されており、加世田駅についての説明もある。

広場に展示されている4号蒸気機関車

広場に展示されているDD1200型ディーゼル機関車

加世田駅の説明

南薩鉄道記念館

加世田駅跡のバスセンターに隣接して、石造の倉がある。ここが南薩鉄道記念館で、時代時代の機関車や駅の風景などの写真、機関車のプレートや通信機材、切符、南薩線の歴史年表などが展示されている。

石倉を活用した南薩鉄道記念館

鉄道記念館内の展示駅名標

南薩線の終止符

加世田駅跡及び阿多駅跡に設置されている「南薩線(鹿児島交通線)の概要に」バス路線が充実すると乗客が減少し・・1983年の加世田豪雨により線路が寸断・・1984年3月17日限りで、南薩鉄道70年の歴史に終止符が打たれることになった。当日は快晴に恵まれ、多くの沿線住民が繰り出して「南薩線」との別れを惜しんだとある。

お別れ列車は、4連のディーゼルカーだった。