小田城 (常陸) (original) (raw)

小田城の櫓台と城址

鎌倉時代からの名門である小田氏累代の居城。

小田氏は、宇都宮氏の出で、頼朝の信任を得て鎌倉幕府の有力な御家人となった八田知家の直系にあたり、茂木氏、宍戸氏等が同族に当たる。

常陸守護となった知家は、この地に居館を構えて守護所とし、これが小田城の創始となった。ただ、守護補任の時期は、文治元年(1185)や同2年(1186)、同5年(1189)などの説があるように、はっきりとはしておらず、従って築城時期にも幅がある。

その後、知家の子で2代目にあたる知重、あるいは4代時知の時に小田を称したといい、鎌倉幕府滅亡の際の当主治久は、当初は幕府側についたが、幕府滅亡後は建武政権に帰順し、命脈を保った。

建武政権が、復古的な政策を採って武士を冷遇すると、その不満の声に押されて尊氏が政権から離脱し、南北朝時代が始まるのだが、小田氏は、南朝方の有力領主として活動している。そして、南朝方の主な将のひとりとして転戦していた北畠親房を延元3年(1338)に城へ迎え、北朝方の高師冬と対戦したが、囲まれて興国2年(1341)に和議開城し、親房は関城へと立ち去った。

この時に、親房が神皇正統記を著したのは有名な話だが、北朝方に降伏した小田氏は守護職と領地を取り上げられ、以降は苦難の道を歩む事となる。

室町時代には、関東公方足利氏と関東管領上杉氏を中心とした騒乱が続き、小田氏は功を挙げるなどしたが、念願の守護復帰はならず、佐竹家臣江戸氏の進出もあって不安定であった。

戦国時代初期の成治の時代には、小田家中でも家督争いがあったが、成治の子とも堀越公方足利政知の子ともいう政治が、第14代として家を継ぎ、佐竹氏とも良好な関係を築いて安定化に成功し、政治は中興と呼ばれたという。

だが、政治の晩年からその子氏治の頃になると、隣国の結城氏との争いや、佐竹氏の南進の開始で、情勢は再び不安定となった。そして、関東諸豪族が、新興の北条氏、南下する越後上杉氏、常陸の佐竹氏を中心として離合集散するのと同様に、氏治も対応に苦慮し、小田城の壮絶な争奪を演じる事となる。

小田城の最初の落城は弘治2年(1556)、あるいはその翌年で、北条氏から支援を受けた結城政勝が侵攻し、氏治は海老ヶ島で迎え討ったが敗れ、小田城まで落城してしまい、氏治は家臣である菅谷氏の土浦城に逃れた。だが、この時は北条氏と和睦し、8月に奪回している。

しかし、この翌年、今度は北条氏と対立する佐竹氏と多賀谷政経の連合軍に黒子の合戦で敗れたため、またしても土浦城に逃れ、翌年に菅谷勝貞・政貞父子によって小田城が奪回されたという。

永禄3年(1560)になると、関東管領山内上杉憲政の要請により、越後の長尾景虎(上杉謙信)が関東遠征を開始するのだが、この時、他の関東の諸豪族と同じく氏治も景虎に属した。しかし、翌々年には、氏治は北条氏と結んだため、永禄7年(1564)4月に上杉・佐竹連合軍に山王堂の合戦に敗れて城を落とされ、今度は藤沢城へ逃れている。

この後、翌永禄8年(1565)12月に、城将であった佐竹北家の義廉を追って小田城を回復するのだが、翌年2月には上杉勢の出陣によって城が奪われ、同11年(1568)に上杉氏に降伏する事で、ようやく氏治は城に復帰した。

だが、その後も佐竹氏との戦いは続き、元亀4年(1573)の元旦に、佐竹家臣化していた太田資正の奇襲を受けて落城したが、直後に逆襲して城を奪回している。しかし、これまでの戦いでは城に復帰する事ができていたが、同年3月には、真壁氏幹と太田資正・梶原政景父子に手這坂の合戦で敗れた上、別動隊によって小田城が落とされてしまったために土浦へ逃げ、これ以降、小田城に復帰することはついにできなかった。

ちなみに、この手這坂の戦いには、永禄12年(1569)説もあり、一次史料の比較では永禄12年説に裏付けがある一方、元亀4年(天正元年)説には一次史料の裏付けが見えず、「小田天庵記」などの軍記物の記述が中心という。小田城では、元亀年間の争奪が激しいのだが、永禄12年説であれば、この争奪は違う年代だったのか、そもそも無かった戦いだった可能性がある。

戦後、小田城は政景に与えられて大規模な改修が施され、現在に残る形となり、慶長5年(1600)に同じく佐竹家臣の小場義成に代わったが、慶長7年(1602)に佐竹氏が秋田へ転封となるに伴い、城は廃城となった。

小田城は、守護所という単郭の居館城郭から出発した平城で、南北朝時代と戦国期に大規模化し、前述の政景による改修で完成したという。当時の城の南東から北西にかけては湿地に囲まれており、北東側の前山には前山城が築かれていたため、小田氏時代には、湿地帯に舌状に張り出すような場所にあった居館城郭と詰城という組み合わせだったようだ。

地形的にはほぼ平坦であるため、防御力の向上には巨大化が必要であったと思われるが、三重の堀と土塁に囲まれた城域は非常に広大な範囲を持ち、門には馬出しを設け、郭内にも堀や土塁を設けて移動を妨げるようにしている。この辺りの構造は、戦国末期の技術が窺え、政景による改修の影響が大きいのだろう。

自分が訪れた当時は、本丸が周囲から僅かに盛り上がり、城を示す石碑や櫓台などが確認できたものの、全体的には風化によって僅かに土を盛られただけのような感じになっている城跡だった。また、昭和62年(1987)に廃止になった筑波鉄道の線路跡がまだはっきりと残る状態で、城の対角線を貫通していたのが妙に印象に残っている。

現在の城跡は、国指定の史跡として随分と整備が進み、城跡らしくなっているようだ。9回もの落城が伝承として伝わる城として、また、一部では戦国最弱の武将として知られる小田氏治の居城として、城好きの間では知られた城である。

最終訪問日:2001/9/29

今は綺麗に整備が進んでいるようですが、訪れた当時は、古城跡に廃線跡が重なるというのも妙に趣があって、それはそれで忘れられた古城としてなかなか良い感じでした。

また、郭の削平地はもちろん、堀の跡も開墾されていて、数m低い堀の形に沿った細長い田畑が明確で、とても興味深く散策した記憶があります。

城主の氏治さんは、戦国最弱とも言われますが、事績を追うと、小田城に象徴的なこだわりはあっても、防御施設としては期待してなかった印象ですね。

バンバン野外決戦して、負けたらスタコラと菅谷さんの土浦へ逃げて再起する。

当時は、お城も想像以上に小さかったのかも。

本拠の堅さは全く違いますが、負けたらさっさと甲賀へ逃走する六角さんに似た印象ですね。