✨12)─2─東條英機は「サイパンを原爆で吹っ飛ばす」為に原爆開発の科学者たちを恫喝した。1944年~No.39No.40 (original) (raw)

原爆はこうして開発された 単行本 正勝, 山崎; 静枝, 日野川

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・ ・ {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人の共産主義者無政府主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
昭和天皇は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本のマルキシズムボルシェビキ、ナチズム、ファシズムの攻撃・侵略から日本の国(国體・国柄)・民族・文化・伝統・宗教を守っていた。
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2017-09-06
✨12)─1─東條英機は原爆開発を命じた。アメリ化学兵器部局のマスタードガス人体実験。ソ連スパイの対日占領基本方針案。1942年~No.38No.39No.40・ @ ⑧
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2017-09-12
✨14)─1─昭和天皇は、原爆を非人道的大量虐殺兵器であるとして東條首相と杉山元帥に製造中止を命じた。1944年~No.44No.45No.46・ @
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2017-09-28
✨21)─1─昭和天皇は、原爆は非人道的大量殺戮兵器であるとして開発中止を厳命した唯一の国家元首。~No.89No.90No.92・ @ ⑰
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2024年8月12日6:12 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「「サイパンを原爆で吹っ飛ばせば、本土爆撃は避けられる」原爆開発に焦る東條英機は科学者たちを恫喝した
太平洋戦争中の日本で進められていた原爆開発計画を、昭和史研究家の保阪正康氏が検証する。原爆開発に焦る東條英機は、研究を担う仁科芳雄を恫喝するように急かしたという。
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サイパンを原爆で吹っ飛ばす
東條英機 ©時事通信社
昭和18年秋になると、戦局は明らかに日本不利に傾いた。この頃になると軍事指導者たちは科学技術に一縷の望みを託すようになる。新型兵器の開発と、効率的な兵器の量産体制を整えなければ米国に対抗できないと檄を飛ばす。
昭和19年1月、政府は「戦時研究員服務心得」という5カ条の訓令を発表し、「科学技術者は研究室を戦場にすべし」と、科学者を戦争の下僕とするよう訴えた。その第4条には「主任戦時研究員は其の担当する研究課題の解決に付全責任を負荷せられるものなるを自覚し……」とあった。こうして叱咤すれば科学者が米国を負かす発明をしてくれるだろうという浅はかな見識だった。
戦況が不利になるにつれ、陸軍上層部はさらに焦りを募らせる。仁科は当初月に2回、陸軍航空本部に「ニ号研究」の現状を報告書で提出していた。しかし航空本部の上級将校たちは、実験データが並ぶ報告書を見ても何も理解できない。地道な客観データの収集・分析が研究の基本であることを理解せず、ただ「ウラン爆弾ができるのか?」という結論だけを求めて製造を迫った。
ついには首相の東條自らが仁科に直接連絡を取るようになった。仲介者を通じて二人は手紙のやりとりを続けた。だが、そこで何が語られたのか――それはいまだに謎である。
東條が戦局を変えることができず、天皇からの信頼も失って権力の座から去ったのは、昭和19年7月18日である。
その頃、陸軍兵器行政本部第8技術研究所の技術少佐・山本洋一(のちに日本大学教授)は、兵器行政本部長の菅晴次中将から「ウラン10キログラムを大至急集めよ」と命じられた。東京帝大理学部鉱物学科卒業の山本は、その意味を即座に理解した。「いよいよウラン爆弾を作るのか」。
当時、山本は理研のニ号研究を知らなかったが、菅に確かめたところ、東條が「とにかくウランを集めろ」と、せっつくようにして菅に命じてきたというのだ。東條がウラン爆弾に最後の望みをかけていたことがよくわかる。
山本は昭和50年代後半に、半身不随の身をおして、私の取材に丁寧に答えてくれた。
サイパンを失うと、急にウランの話が持ち上がってきた。何が何でもウランを探せという。日本の原爆投下目標はサイパンだと、我々技術将校も上層部も知っていた。サイパンを原爆で吹っ飛ばしてしまえば、本土爆撃は避けられる。だから一刻も早くせよ、ということでした。陸軍の上層部は、そんなことが簡単にできると思っていたんだよ」
山本は理研を訪問し、仁科に面会した。ところが仁科は「この研究は機密事項なので、陸軍でも管轄外の人には話せない」と言う。また、「なぜ兵器行政本部が動き始めたのか? 米国でウラン爆弾に成功したとの情報でも入ったのか?」と山本に質したという。それを聞いて山本は「ああ、仁科先生の研究はうまく行っていないのだな」との感触を持ったと話していた。
山本は理研の職員らとともに、ウラン鉱探しに奔走する。そして、福島県石川町で微量のウランを含むペグマタイトという岩石が産出されるとの情報を得る。昭和20年春から近隣の中学生などが動員され、ペグマタイトの採掘が始まった。しかし、実験に必要な量を確保することなど、まったく不可能だった。
科学者を恫喝した軍人たち
そうした客観的事実を、陸軍上層部は受け入れなかった。東條は科学者たちへの不満を周囲にぶつけている。秘書官だった赤松貞雄の『秘書官日記』にはこんな発言が記録されている。
「技術家は、九分九厘まで実験してからでないと、実際化しないことが多い。時の重要性を考えないから困ったものだ」「研究だけでは戦争に勝てない」
東條の焦りはそのまま国策に反映する。調子のいい時には科学者などには見向きもしないのに、戦況が悪化すると、途端に「戦況を一変させる兵器を作れ」「軍の命令を聞けないのか」とわめき散らすのだ。
東條の意を忖度した部下たちは、科学者たちに有形無形の圧力を加え始める。仁科研究室にも航空本部の将校が頻繁にやってきた。研究室にいた竹内柾(のちに横浜国立大学名誉教授)は、こう詰め寄られたことを憶えていた。
「理論があるならすぐに爆弾を作れるはずではないか。お前たちは皇国精神が足りない!」「お前たちはウソを言っている。研究がはかどらないと、ウソを言っているんだ!」
将校らは研究室に常駐するようになり、仁科を恫喝するようにして急かした。仁科を慕う若い研究者らは憤りを感じる日々だったという。
前出の竹内はこんなことを憶えている。昭和19年の春頃、竹内の部屋にやってきた仁科は「どうだ、できるか?」と低い声で聞いた。「できません」と竹内が答えると、仁科は表情を曇らせた。「しまった、親方に怒鳴られる」と竹内は思ったが、仁科は言葉をグッと呑み込み、「できるまでやりなさい」と静かに言って去って行ったという。
仁科の本心はどこにあったのか。仁科は戦時中でも日本の研究レベルを低下させたくなかった。そのために、陸軍を利用してやろうという絵図を描いていたのではないか。さらに、才能ある若い学者たちを戦争で失いたくなかった。「頭脳の温存」のために、あえて大見得を切って見せる――仁科にはそんなずば抜けた度量があったように思う。

本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(保阪正康「 日本の地下水脈 日本の『原爆開発』秘話 」)。
日本軍で「ウラン爆弾」研究した物理学者は終戦後、中国に渡った〈厚木と立川の基地から…〉 へ続く
保阪 正康/文藝春秋 2023年4月号
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8月12日 YAHOO!JAPANニュース 文春オンライン「日本軍で「ウラン爆弾」研究した物理学者は終戦後、中国に渡った〈厚木と立川の基地から…〉
太平洋戦争下の日本で進められていた原爆開発計画は、研究を担った仁科芳雄の名前にちなんで「ニ号研究」と呼ばれた。原爆開発計画は日本の科学界に何をもたらしたのか。昭和史研究家の保阪正康氏が検証する。
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中国に渡った日本人研究者
「ニ号研究」の終わりはあっけなかった。昭和20年4月13日、米軍のB29は理研を狙いすましたかのように空爆した。福島県石川町の川べりにあったウラン鉱石採掘現場も、なぜか機銃掃射の対象になった。
5月下旬、仁科は鈴木辰三郎に「もう研究は継続できない」と伝えた。これが事実上の中止宣言だった。一方、海軍が主導した「F号研究」にも軍からの圧力が加えられた。荒勝はもともと「研究しているふりをすればいい」との考え方だったが、湯川や坂田らを擁し、研究レベルそのものは高かった。ただ、実際の作業に力を入れていないので、製造の見通しはなかった。
保阪正康氏 ©文藝春秋
7月26日、連合国側は「ポツダム宣言」を発した。前出の武谷はこれを新聞で読んで驚愕した。「吾等の軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避且完全なる壊滅を意味すべく、又同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」とあるのを見て「米国は原爆開発に成功した」と悟ったと証言した。「すぐに仁科先生に知らせなければと思ったが、私は行動を軍に監視されており、外出もできなかった。もし仁科先生がポツダム宣言受諾を軍事指導者に伝えていれば、広島と長崎の悲劇はなかったかもしれない」と武谷は悔やんでいた。その言葉は前出の山本からも聞かされた。
長崎の平和祈念像 ©GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート
戦後、ウラン爆弾研究に携わった物理学者や軍の技術将校たちは、ある者は専門を変え、ある者は米国に渡って研究を続けた。そして、中国に赴いた者もいる。昭和20年8月下旬、厚木基地と立川基地から百数十人が中国に発ったが、原爆開発に携わった者も含まれていた。
それから18年後の昭和38年11月、英国議会で奇妙な質問がなされた。日英原子力協定の締結に際し、労働党議員が「多数の日本人原子力科学者が中国で働いているとの情報がある」と懸念を表したというのである。その約1年後、中国は原爆開発に成功する。中国初の核実験は、日本が模索していたのと同じく、ウラン235を遠心分離法で分離したものだったという。
「戦争に協力しない研究」は可能か
戦後、科学者らは戦争へ協力したことを反省する。昭和24年に設立された日本学術会議は「戦争を目的とする科学の研究は決して行わない」という主旨の声明を昭和25年と42年の2回出した。
一方、政府はアカデミズムを軍事研究に引き込もうとしてきた。たとえば平成27(2015)年度に防衛装備庁が始めた「安全保障技術研究推進制度」では「防衛にも応用可能な先進的な民生技術を積極的に活用することが重要」だとして、防衛分野への貢献が期待される大学や企業などの基礎研究に助成金を出すことになった。
学術会議は平成29年に声明を発表し、同庁の助成制度について「政府による研究への介入が著しく、問題が多い」と慎重な対応を求めた。さらに大学等の研究機関に「技術的・倫理的に審査する制度を設けるべき」だとした。政府主導の軍事研究に参加することへの歯止めをかけるものだ。
ただ、民生用ドローンが戦場で利用されていることに象徴されるように、現代は非軍事と軍事の境界を見極めるのは極めて困難だ。それゆえ「軍事に関係する研究はしない」と言うだけでは、説得力は乏しい。
一方で、福島原発事故で明らかになったように、政府の原子力政策には潤沢な予算がついていたものの、研究レベルは極めてお粗末だったという状況もある。これは原子物理学が反核運動のターゲットになったせいもあるが、優秀な人材がこの分野に進まなかったとの見方もある。
福島第一原子力発電所 ©時事通信社
もし日本が原爆を製造していたら、サイパンに投下するような暴挙を行ったであろうことを思えば、仁科ら科学者は必死に防波堤の役を果たしたと言えるかもしれない。しかし、為政者が科学に理解がないという失敗は、いまだに繰り返されているのではないだろうか。

本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(保阪正康「日本の地下水脈 日本の『原爆開発』秘話」)。
文藝春秋
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日本の「原爆開発」秘話
保阪 正康
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