遅船庵雑録 (original) (raw)

ものを買うなら品質と値段、そうしてブランドやネーミングを考慮する。

「これは美味い」というふりかけ、「ハナレン」という接着剤、「デル」という便秘薬があった。いずれも直截が突進しているような商品で、なかで「デル」はあからさますぎて口にしにくい。いずれも吉村昭「商品の名称」というエッセイで見たネーミングである。

くわえて著者は姓を冠した商売、屋号にもふれていて「野呂運送店」「板井歯科医院」「藪医院」といった悩ましい事例を挙げている。でも堂々と姓を用いたのは自信のほどを示しているのではないかな。品質のよいものがすべて売れるわけではないが、品質のよくないもので売れるものはない。いずれもよい仕事をする運送店、歯科、病院だったと思いますよ。そういえばわが家の近くに新しく「ア・ロータ」という洗濯屋さんができたときは、家族四人でくすりと笑ったものでした。

ところでわたしが気にしている屋号に「油屋」がある。たとえば山頭火の日記に「曇、風が寒い、二里歩く、今宿、油屋」(昭和七年一月十四日)とある。佐賀を旅する俳人は「油屋」という旅館に泊った。

宮崎駿監督「千と千尋の神隠し」で十歳の千尋は湯婆婆という名の強欲な魔女のもとで千という名を与えられ湯屋で働かされていて、この湯屋の屋号が「油屋」だった。

油屋といえば油を売っている店で、油には車両用、灯火用、暖房用さらには髪油から醤油までいろいろあっても、どうして油を売る店が宿屋や湯屋の屋号になるのだろう。

そればかりか小学生のころ住んでいた家の近くには「油屋」という葬儀社があった。江戸時代には油を売っていた店が何かのきっかけで暖簾はそのままに旅館や風呂屋や葬儀屋に商売替えしたのだろうか。

ほかにも軽井沢に「油屋」という旅館があり、堀辰雄立原道造それにかれらと親しい作家たちが定宿としていた。堀、立原ファンにもおなじみの宿だ。

こうして「油屋」はときに旅館になり、湯屋になり、葬儀屋になる。なんだか奇妙な話だと思われませんか。いやいや、京都には俵は売っていないのに「俵屋」なる高名な旅館があるから「俵屋」という湯屋や葬儀社があってべつにおかしくないといわれる方もいらっしゃるだろう。そう考えると薔薇の木に薔薇の花が咲くとおなじで不思議も変哲もない。でも、たとえば八百屋が八百屋葬儀社とか八百屋温泉、八百屋旅館となったりするのは奇妙で、少なくとも油や俵のように旅館や湯屋などの屋号に用いやすいものと、転用しにくいものがあるのはたしかで、どうしてその違いが生ずるのかはよくわからない。

ある英文にemancipate slavesという語があった。一八六三年一月一日、リンカーン大統領が布告した奴隷解放宣言は Emancipation Proclamation だから emancipate は解放するという意味と類推できたが、そのときふと、emancipate はどのような概念やイメージをもつ語なのかが気になった。

そこで手許の『 LONGMAN Dictionary of Contemporary English』で確かめてみたところ《to give someone the political or legal rights that they did not have before 》おなじく『Word Power Fully-bilingual Dictionary』には《 to give sb the same legal, social and political rights as other people 》と説明があった。一読おわかりのように、~に他の人々とおなじ法的、社会的、政治的権利を与えることが emancipate にほかならない。つまりここでいう解放とは何よりも人々が同等の権利をもつことの問題である。

いっぽういくつか見た英和辞典には emancipate は、人を圧迫、束縛、支配などから解放する、自由にするとあったが法的、社会的、政治的権利との関連には触れておらず、わずかに『ウイズダム英和辞典』に「社会・政治・法律的な束縛から人を解放する、自由にする」とあるのが目を引いた。

ちなみに国語辞典における解放は《解き放つこと。束縛を解いて自由にすること、人質を~する》(広辞苑)、《束縛や制限を解いて自由にすること、~感に浸る》(明鏡)、《有形・無形の束縛や部外者に対する制限を無くして、自由な行動を許すこと、奴隷を~する》(新明解)といったしだいで、ここからは英英辞典のいう、他の人々とおなじ法的、社会的、政治的権利を与えるというところへはたどりつきにくい。あえていえば日本語の解放は権利よりも、束縛や制限から自由で解き放たれた状態を指していて emancipate より liberty 《being free to do what you want without having to ask permisson 》 に近い気がする。

そこで liberty に触れて余談をしてみたい。

七十代になって英語の基礎を復習するなかで山崎貞『新新英文解釈研究』(研究社、昭和40年新訂新版の複刻)を読んだ。高校生のとき名前だけは知っていた受験参考書で、なつかしさもあり目を通してみたが難度が高くて閉口し、またわたしのような学力の受験生にはとても利用できる参考書ではなかったと実感した。

それはともかく往時茫茫ながらこの受験参考書にもずいぶん時代が付いた。なかの英語の例文の訳に《けれど、まもなく古い根から新芽が生ずる、で久しからずして土人はまた[バナナ]の一ふさを得るのである》とあった。わたしが受験生だったころ、なんと the native は土人なのだった!

おなじく同書にあった英文の和訳。残念ながら引用文献は明示されていない。

《ある人が暇をどう費やすかがわかって初めてその人がわかるとちょうど同じように、一国民の人生の楽しみが何であるかがわかって初めてその国民がわかる。人の品性があらわれるのは、しなければならないことをやめて、自分のしたいことをする時である》。

liberty は拘束や束縛のない状態をいう。わたしは定年退職後は再就職しなかったから、ここで「しなければならないことをやめて、自分のしたいことをする時」がはじまった。そうして liberty の度合はぐんと高まった。その結果表れた品性はどのようなものであるかはご想像にお任せするほかない。

それにしてもこの一文は中年のころから隠居趣味のあったわたしにはうれしくまた貴重である。そしてこれはわたしのなかで吉田健一の《本当の所は、人生は退屈の味を知つてから始る》と重なり、さらにその背後には陶淵明が控えている。

《若い頃からわたしは世間と調子を合わせることができず、生れつき自然を愛する気持が強かった。ところが、ふと誤って塵にまみれた世俗の網に落ち込んでしまい、あっというまに十三年の月日がたってしまった》陶淵明「帰園田居」(『陶淵明全集』上、岩波文庫)。

陶淵明四十二歳の作で先生はその前年に官を辞して隠棲した。陶淵明のいう、塵にまみれた世俗の網すなわち《塵網》に心がどのように反応するかがそれぞれの人生観となる。いっぽうに《塵網》などものともせず分刻みのスケジュールをこなしてゆくエグゼクティブがいれば、他方に《塵網》から離れて瞑想の時空を彷徨する人がいる。《塵網》にどう処するかが人生なのだ。

わたしは若いころから陶淵明に憧れていた。なんてかっこいいんだろうと思っていた。しかし現実はせっせと定年まで勤務したから、結果的に陶淵明へのあこがれは口ばかりとなった。さいわい条件が許したので定年後の勤務のお世話はかたじけなくもお断りし、うれしい退屈を味わっている。いうまでもなくこの解放は emancipate ではなく liberty のものだ。ただし無関係ではありえない。 emancipate という基礎の部分がしっかりしていなければ liberty は毀れやすく、蝕まれやすい。《塵網》はますます窮屈で、鬱陶しいものとなる。

ある町会議員か村会議員が何かのことで議場で激昂し「この議会の議員の半分は馬鹿だ!」と叫んだ。これには他の議員諸公が怒り、議会侮辱の廉で懲罰委員会が開かれ、当の議員先生は謝罪をしなければならなくなった。

そこで登壇した議員は「謝罪をいたします。この議会の議員の半分は馬鹿ではありません」とのたもうた。

ずいぶんむかし「天声人語」で読んだはなしで、いささか軽薄ではあるが、したたかで機転の利く議員もいるものだといまなお記憶している。したたかとはてごわいとか扱いにくいとの意であるが、この場合はユーモアや機転に裏打ちされたものである。

謝罪した?議員とはちがったしたたかさで忘れがたいのが将棋の木村義雄名人の逸話だ。

「いくら〈必勝の信念〉を以て臨んだって、四段や五段の連中が、わたしに勝てるわけがない」。これを太平洋戦争中の傷痍軍人療養所での講演で至極淡々と語ったというから、これはもう大胆を通り過ぎて、凄みを帯びたしたたかさと言うほかない。必勝の信念で米軍機を落とす竹槍訓練が行われていた時代に軍の施設でよくもまあ言いもしたものである。

療養所の患者でこの講演を聴いた鮎川信夫はその著『時代を読む』のなかで「戦局の不利から、ますます〈必勝の信念〉が鼓吹される世の傾向を棋理に反するとみて、苦々しく思っていたいたのかもしれない」と述べている。

もう一人凄みを通り越して茫然としてしまうしたたかな女性に登場願おう。江間美津子、熱心なステージママで、松竹の女優で娘の小桜葉子がおなじ社の二枚目スター上原謙を好きになると、ふたりの結婚を画策した。まずは恋敵の桑野通子の足を引っ張り、娘には毎日ラブレターを書かせ、デートを重ねさせてもくろみどおり結婚させたのはよかったが、それだけではおさまらず、撮影所長の城戸四郎に「娘の引退の穴は、私が埋め合わせしますから」と娘に代わって女優志願した。城戸は「鏡を見てからいえよ」と苦笑したという。それでものちにちゃんと松竹の大部屋女優におさまっている。石坂昌三小津安二郎茅ヶ崎館』にある挿話である。

江間は岩倉具視の孫である具顕と結婚していたが、のち離婚。ところが具顕を娘婿である上原謙のマネージャーにしているのだから奇々怪々。したたかさは人の目や世間の噂を気にしていると湧き出てこない。加山雄三のおばあちゃんはなかなかの女傑であった。

銭形平次の作者、野村胡堂の旧制中学時代の友人で、原抱琴と岩動露子(本名は孝久)という人がいた。 前者は平民宰相とあだ名された原敬の甥で、早くから結核を患い故郷の岩手に帰っていた。後者はフランス語の先生をしていたがこちらも体調すぐれず、休講が多くなりはじめていた。この二人が病床のつれづれであろうか郵便で碁を打っていて、ハガキ代はばかにならないがこれぞ碁の醍醐味と語っていたそうだ。胡堂は一八八二年の生まれだから二十世紀はじめの話で、郵便碁はいまのネット碁の前身としてよいだろう。

郵便碁からネット碁へ、通信技術は格段に発達したけれど人間の発想にさほどの変化は見られない。対面で碁を打つ機会がなければ、かつては郵便碁、いまはネット碁となるが、碁を情報通信技術を用いて打つという発想に違いはない。通信技術は変化するので郵便碁は過去のものとなりネット碁に受け継がれたのである。

囲碁と郵便とネットの組み合わせに歴史が見えてくるのは興味深いが、いまその郵便も囲碁も苦境にある。

七月二十五日、日本郵便は2023年度の郵便事業が896億円の営業赤字だったと発表した。赤字は二年連続で、前年度の211億円の4倍以上に膨らんだ。手紙の取り扱いの縮小傾向が続き、営業収入は前年度比5%減の1兆1896億円だった。

日付は前後するが、同月十七日、日本棋院が百周年を迎え祝賀会が催された。また新しい理事長として武宮陽光六段が就任したというニュースもあった。ただしこちらも日本郵政とおなじく苦しい状況にある。囲碁人口が減るとアマチュアへの指導料や免許状の発行料、書籍の販売部数も減少する。

坂口安吾に「碁会所開店」というエッセイがあり、なかで戦前は若いサラリーマンや労働者にも碁が普及し元気のいいのが碁会所へきていたが、戦後、その後継たる若者はパチンコや競輪に熱をあげているだろうと述べている。現在の囲碁界の苦境は娯楽の多様化がもたらした長期にわたる低落傾向の結果である。(将棋界との比較も必要だがわたしには無理なのでご容赦ください)

日本郵政のほうは構造的な問題なのでこれからさき郵便事業がネット通信にとって代わるとは考えられない。とすれば新しい事業に活路を見出さなければならないだろう。

囲碁の場合は普及活動とともに国際競争力の強化や国内棋戦の充実が活性化につながる。ひょっとすると将棋の藤井聡太のようなスーパースターの出現も可能性としてはある。

たまたま郵便碁なるものを知り、いまの棋界と郵便事業を眺めてみたしだいである。

大相撲名古屋場所は七月二十八日、照ノ富士と隆の勝との優勝決定戦の結果、照ノ富士の優勝で幕を閉じた。相撲中継のある午後四時から六時は読書に向けたくて、相撲は午後七時前後から晩酌をしながら視聴していて、これがたのしい。

本場所が終わると晩酌の朋友は落語やTVドラマとなり、いまは本宮泰風&山口祥行主演の「日本統一」がお気に入りで、ようやく四十回を越した。スピンオフを含めるとどれほどの回数になるのだろう。

「日本統一」で素晴らしいのは酒に酔ってうつらうつらしたり、途中から眠っても、次回に見るときはきちんと繋がっている。酔いや睡眠で中抜けしてもなにほどのこともない。ゲージュツや複雑な構図のドラマだとこうはゆかない。ほんと晩酌のよき友だ。

酒は羽化登仙であるべきで、心の憂さの捨てどころにしたり、気分がすぐれないときの逃げ場所にしてはいけない。そもそも酒はそうしたものではない。そして相撲やテレビドラマが盛り上げてくれる。

酒は大好きだが宴会は苦手で、盃のやりとりを避けるうちに日本酒を口にしなくなり、しだいにウイスキーや焼酎を氷やお湯で割って飲むのが好きになった。酒量はそれほどでもないけれど、できれば毎日飲みたい。といってもできるだけ長くマラソンレースに出場したいので週二日は飲まないようにしている。

ところで小川原正道編『独立のすすめ 福沢諭吉演説集 』(講談社学術文庫)を読んで、福沢諭吉も酒は好きだが宴会は嫌いと知った。明治十三年二月七日の演説「酒池肉林の宴会を止めよ」に

《近来都下の風俗日に華美に流れ、官私の別なく士人交際の媒たるものは専ら肉体の快楽にとどまりて、精神を養うものはほとんど稀なり某の懇親会と云い、某の親睦宴と称し、一擲千金会釈もなく、酒池肉林にあらざれば宴をなすに足らず、糸竹管絃にあらざれば興を催すに足らず、もって自ら豪盛と称して得色あるが如し。何ぞそれ心事の賤劣なるや》とある。

福沢、いまにあれば政治資金集めのパーティーをどう見たか。

おなじ『独立のすすめ 福沢諭吉演説集 』に収める「官立学校は「高尚」たれ──明治十年三月十日開成学校講義室開席の祝詞」で福沢は《維新の後に至っては御役所の出入りはやや手軽になりたれども、学校の官たり私たるの区別喧しくして、官あるいは私を忌み、甚しきはこれを害するの意味なきにあらざりしが、替れば替る世の時勢、今日は学問に官私を問わずして正味の学問に眼を着くることとはなれり。目出度き有様と申すべし》と述べている。

開成学校は東大の前身。ここで福沢は学問に「官私」の区別はないと強調したけれど「官私」の区別はその後も長く続いた。

小川原正道『福沢諭吉 変貌する肖像ー文明の先導者から文化人の象徴へ 』(ちくま新書)によれば、このように演説した福沢自身がその塾を慶應義塾命名したころには、開成所を除けば、義塾は江戸で第一等、日本で第一等だと自負するとの書簡を知人に送っているし、著作で学校はすべて私学にすべきだと主張しながら、長男の一太郎も次男の捨次郎も東大予備門に入れている。本人たちの意思もあったかもしれないが。これらを踏まえて小川原氏は、福沢にとって東大は常に目の上のたんこぶのような存在であった、という。

半世紀ほど前、私大を卒業したばかりの友人が、ある公立受験校の教員として着任した際、職員室で、近ごろはこの学校の教員も私大出が多くなった、と囁いているのが聞こえたと話していた。

もうひとつ『独立のすすめ 福沢諭吉演説集 』より。「慶應義塾の未来 明治十一年一月十七日集会の記」に《異説争論、未だ曽て勝敗を決してそのとどまる所を定めたるものあるを聞かず。あたかも黒白並び行われ水火居を同うするの世の中というも可なり。この事勢に当たり、いやしくも身に所得ある者にして、漠然無心、もって世間を傍観すべきや。すべからく我説を説き我論を論じ、我物を用い我事を行い、天下の人心を籠絡して共に一国の勢力を張り、敢為進取、もって海外の諸国と文明の鋒を争うべし。豈人生の一大快事ならずや》とある。

わたしの福沢の思想、言説の理解は丸山眞男の影響が大きく、評価は高くなる傾向にある。その点を承知しながらも、ものごとの複雑、多様、多元の理解の基礎に立ち「すべからく我説を説き我論を論じ」といった主張は輝いていて、福沢嫌いの方であってもこの一節は、言論の自由とその多様性の確保という点で共感を示されるのではないか。

八月十五日を前に「連合艦隊司令長官山本五十六」を観た。一九六八年版、主役は三船敏郎。太平洋戦争についての本は関心の赴くままに読んできたが映画はさっぱりだった。それが先ごろ春日太一『日本の戦争映画』(文春新書)に刺激され、ほとんど手つかずのこの分野の映画を観てみようという気になった。

連合艦隊司令長官山本五十六」は真珠湾~ミッドウェイ~ガダルカナルでの連合艦隊の攻防を山本五十六の視点から描いた作品。短期決戦で講和を図りたいとする山本五十六の認識が裏切られてゆく過程の歴史の再現を目途としている。

この作品に辻政信陸軍参謀(中谷一郎)が日独伊三国同盟に反対する山本五十六をなじるほどに批判するシーンがある。そして戦局不利になったとき、辻はそのときの反省を山本に告げ、山本は過ぎたことはよいと慰める。ほんとにこんな場面があったのだろうか。わたしの知る辻政信の人物像からは疑問である。

連合艦隊司令長官山本五十六」に続いて、役所広司主演「聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-」を観た。日独伊三国同盟に反対し、米英との戦争を阻止したかったその人物像はおなじだが、三船版ではなかった妻子の描写が役所広司版では描かれていて山本五十六の妻子の存在を知った。山本五十六の命日は一九四三年七月十八日、前線視察の際、ブーゲンビル島の上空で戦死した。映画についてないものねだりの不満をいえば、三船版、役所版ともにその死去が報じられたときの国民の反応がまったく描かれていなかった。「聯合艦隊司令長官」の死は多くの国民の心理に何をもたらしたのだろう。

アメリカの国力を把握したうえで、対米戦を避けようとした山本五十六が開戦の突破口役となる。歴史はときに皮肉だ。「山本さんの悲劇は、自分の反対する戦争の陣頭に立たねばならなかったことです。ですから、早期終結のために真珠湾攻撃をあえて言えば失敗を覚悟して考えたのです」(半藤一利

八月十四日。岸田首相は記者会見で「自民党が変わることを示す最もわかりやすい最初の一歩は私が身を引くことだ」と述べ、次の自民党総裁選挙に立候補しない意向を表明した。

これで岸田氏は新総裁が選出されたあと、総理大臣を退任することが決まった。するとたちまち、われこそは後継にふさわしいと、手を挙げ、また手を挙げようとしている方々がニュース番組を賑わすようになった。けっこうなことだが、困ったことに若い代議士諸公を見ていると「色悪」という言葉を思い出す。歌舞伎で、外見は二枚目でも女性を裏切るなどの悪事を働く冷血な役柄をいう。こんな印象批評をしてはいけないのはわかっているのだが、裏切るのは女性ばかりじゃないだろうと勝手に捻じ曲げてその面々を見ている。そしてこれがまちがったイメージであるように願っている。

他方、立憲民主党のトップに担ぎ出されていると報道されているのが野田佳彦で、こちらは政権末期、増税を訴えて選挙に打って出るのではなく、公約にもなかった増税を自民、公明と勝手に合意した卑劣なる輩で、この人を党首に担ぐ動きがあるというのだから、これだけでこの党の窮状とセンスの悪さがよくわかる。

中国共産党でもまれに権力抗争で強固な強権政治に風穴が開いたことがあった。ときにわたしは日本の政治をダイナミックにするのは与野党の対決ではなく与党内の権力抗争ではないかと思ったりする。抗争を通じて政治を面白くするのも政治家の務めである。しかしながら三角大福中の時代とは異なり、特権を享受してきた二世、三世の政治家にはそうした力も意欲も気概もないだろう。マイナンバーカードと健康保険証で物議を醸している人を見ていると政論と存念を訴え、疑問に答え、説得するというよりワガママをいっているとしか映らない。

地下鉄に、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)という本のコマーシャルがあり、「疲れてスマホばかり見てしまうあなたへ」というオビが付いていた。書名とオビで面白そうだなと第一感がはたらいた。たまたま翌日「週刊文春」を開くと、話題のベストセラーとして取り上げられていた。

三宅香帆ははじめて知る名前だったからWikipediaで略歴を見ると、わたしとおなじ高校の卒業生で、それもあって近く読む本としてサンプルをダウンロードした。新しい本やベストセラーとはあまりご縁のない当方だが、テーマが興味深く、若い論客の議論が楽しみだ。

無職渡世の老爺としては『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』は切実なテーマではない。在職中も仕事のうえでそれなりに読書は必要だったから、働くことと本を読むことはさほど反比例する関係ではなかった。曲がりなり本は読める環境にあったわけだが『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』がベストセラーになるのはそれだけ仕事と読書が反比例しやすい世の中であるのを示している。

「文藝春秋」八月特大号、「昭和100年の100人」に小津安二郎の記事があった。執筆は設楽幸嗣氏、「お早よう」の子役としてお名前は知っていたが、「作曲家・プロデューサー」と紹介されていて、こちらははじめて知る情報。その設楽氏が述べている小津組の本読みの風景。

《まず小津先生がひとりひとりのセリフを全部読み、笠智衆さん、三宅邦子さん、佐田啓二さん、久我美子さん、杉村春子さんといった錚々たる面々に、先生が言った通りにセリフを言わせます。(中略)杉村春子さんなんかは、何回も何回もやり直しをさせられていて大変そうでした》。そして撮影本番になるとさらに厳しくなる。

小津組の本読みや撮影風景は多くの方が語っている。製作スタートとともに小津組のほかで仕事を掛け持つのは許可されいなかったが杉村春子だけは舞台があるので許されていた。だからなんとなく本読み、撮影時ともほとんどNGなく進められたと思っていた。設楽氏の回想によると杉村春子もけっこうNG喰らっていたのだった。

八月二十一日午後、冷凍庫の氷が溶けているのに気づいた。数時間後様子を見たところ冷蔵庫全体が作動してないとわかった。洗濯機だと買い替えて新品が来るまで二、三日洗濯するのを遅らせるとよいだけだが冷蔵庫はそうはいかない。翌二十二日に新しいのを購入し、二十四日に配送されてきたが、暑中でもあり、冷蔵庫がないことの厳しさを痛感した。

予期せぬ冷蔵庫のダウン。その兆候があればすぐ「有事」に備えるのだがまったくないので困る。そのサインをお知らせする技術は開発できないものでしょうか。洗濯機なんかも含めて危機の予知についての技術があればいいな。地震予知とおなじほど難しいのだろうか。

ネットには冷蔵庫故障のサインとして、水漏れや異音があったがわが家は兆候皆無だった。ま、外食を楽しむよい機会ではあった。

先月の伊勢、松坂の旅をうけて寺澤行忠著『西行―歌と旅と人生―』(新潮選書)を読んだ。篤学が、素人にわかりやすく、親切に説いた本で、かたじけなさに涙こぼるる感がある。歌のなかの言葉の語義に止まらず全体の現代語訳が付いているのがありがたく、わたしの学力でも西行の歌と旅と人生がよく理解できた。

それに目配りがよくて西行と同時代の歌人との精神的な交流が示されているのがうれしい。

「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃」。

そうして西行が歿したとき俊成と定家は「願ひおきし花の下にて終りけり蓮の上もたがはざるらむ 」「望月の頃はたがはぬ空なれど消えけむ雲の行方悲しな」と詠んで悼んだのだった。

西行は、定家等の漢籍の教養豊かな歌人のように、詩的想像力によって、作品の世界を拡大することは、得意とするところではなかったが、生来の資質として持っている豊かな感情や、豊富な実生活における体験が、歌に強い現実感と広がりを与えているような点は、多くの新古今歌人たちの、ついに追随しうるところではなかったのである》

著者が示す西行の魅力である。

暑中余滴。

《昔は玉露水というのがあった。厚い錫の茶碗の中に、汲み立ての冷水を盛って飲むのである。いつか遠い昔のことだ。死んだ祖母に連れられて伊香保から榛名を越えた。山の中腹の休み茶屋で、砂糖の少し入った玉露水を飲んだ。玉露水は、今の氷水よりもずっとつめたく、清水のように澄みきっている》。萩原朔太郎玉露水」より。「厚い錫の茶碗」が涼やかで、販売されていれば買ってみたい。

《ラムネと云うものは決して賞味するという味ではないが、花火やなどと同じ類の、何かたのしい味のものであった。今はなつかしい思い出の味となっている。あのたのしさを大人向きの味にしたものがシャンパンでもあろうか》。佐藤春夫「飲料のはなし」より。春夫は 高等小学校のときの友だちにラムネ工場の経営者の息子がいて、よくできたてのラムネをもらって飲んだそうだ。ラムネの延長線上にシャンパンがある!

下流年金生活者にして完全無職のおかげで、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)を読んだ。ここで著者は現代日本の労働と読書について《今を生きる多くの人が、労働と文化の両立に困難を抱えています。働きながら、文化的な生活を送るーそのことが今、とっても難しくなっています》と見て、ならばどうすれば労働と読書が両立する社会をつくることができるのかという問題を論じた。その前段で、どのような人が、どんなふうに本を読んでいるかを概観しながらベストセラーにも触れていて、十年毎にシンボルとなった作品を挙げている。

それによると一九五0年代は源氏鶏太のサラリーマン小説、六十年代はカッパブックスの「役に立つ」新書群、七十年代は司馬遼太郎の文庫本、八十年代は『窓ぎわのトットちゃん』『サラダ記念日』『ノルウェイの森』、雑誌「Big tomorrow 」、九十年代はさくらももこ、『脳内革命』等々。

このなかでわたしが読んだのは『サラダ記念日』と『ノルウェイの森』、微かな接点も含めると司馬遼太郎(ただし『竜馬がゆく』も『坂の上の雲』も未読)。ここで自分が、日本の読書界のメインストリームとどれほど無縁だったかがよく分かり、生きる屍のような気がした。そのいっぽうで、昨日は『窓ぎわのトットちゃん』を追い、きょうは『脳内革命』に向かう人々は読書時間がないと嘆いていたのだろうかとの疑問も生じた。嘆いていたのはそれとは異なる本好きな人なのではなかったか?

芥川龍之介の随筆「追憶」のなかの一篇「郵便箱」に《僕の家の門の側には郵便箱が一つとりつけてあった。母や伯母は日の暮になると、代る代る門の側へ行き、この小さい郵便箱の口から往来の人通りを眺めたものである。封建時代らしい女の気もちは明治三十二、三年頃にもまだかすかに残っていたであろう》とある。

門の傍に設けていた郵便箱の口から往来を覗く女たち。明治のある時期まで郵便箱がこんな使い方をされていたとは知らなかった。彼女たちが郵便箱の口から外を見ていたのは夕暮どき。芥川の母は「さあ、もう雀色時になったから」といっていた。辞書にはないだろうと予想したがしっかり立項されていた。

雀色時は空が雀色に薄暗くなった時分、夕暮れ時、たそがれどきをいう。鶯とともに雀も色の名前に用いられる鳥なのだった。「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」の雀の子とおなじく春の季語。残念ながらわたしの持つ歳時期には雀色時の句はなかった。

完全無職の下流年金生活者のわたしにとって『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)は切実なテーマではないが、そうした生活環境にあるから余裕で手にしたくなる書名ではある。

著者は現代日本における仕事と読書との関係を「今を生きる多くの人が、労働と文化の両立に困難を抱えています。働きながら、文化的な生活を送るーそのことが今、とっても難しくなっています」と見ている。そこで本書がめざす議論は、どうすれば労働と読書が両立する社会をつくることができるのかという問題つまり「どういう働き方であれば、人間らしく、労働と文化を両立できるのか」ということになる。全身全霊ではなく半身ほどで仕事に関わることができればおのずと道は開けそうだが、具体の道筋の提示となると著者もその扱いに難渋している。

そこに忍び寄ってくるのが本書のオビにある「疲れてスマホばかり見てしまうあなたへ」という現象だ。換言すれば多くの社会人にとって大切なのは読書よりもスマホであり、そこのところを著者はこんなふうに整理している。

「明治~戦後の社会では立身出世という成功に必要なのは、教養や勉強といった社会に関する知識とされていた。しかし現代において成功に必要なのは、その場で自分に必要な情報を得て、不必要な情報はノイズとして除外し、自分の行動を変革することである。そのため自分にとって不必要な情報も入ってくる読書は、働いていると遠ざけられることになった」。

もともと余暇時間の少い日本の社会である。そこに加えて、仕事のうえでも読書から得られる知識や情報は重要でなくなった。とりわけ一九九0年代以降は情報機器を通じてさっさと、せっせと自分に関係のある情報を探し、それをもとに行動することが必要とされるようになった。

いや、仕事だけではない。わたしは本書を書店ではなく、Amazon Kindleにダウンロードして購入した。すでに古書を含めて本の購入はほとんど通販で済ませている。お目当ての本が書店になければ本屋へ行くのは無駄足になる。その代わり、書棚を眺めながら見知らぬ本と思いがけない出会いをする機会はない。

著者は、情報とは、ノイズの除去された知識のことを指すという。

「古典的な知識や、小説のようなフィクションには、読者が予想していなかった展開や知識が登場する。文脈や説明のなかで、読者が予期しなかった偶然出会う情報を、私たちは知識と呼ぶ」。たいして「情報にはノイズがない。なぜなら情報とは、読者が知りたかったことそのものを指すからである」。こうして情報からノイズは排除される。つまり偶然性や予想外の展開、知識を付加する機会の喪失である。

街の本屋さんで本を買うのは知識系であり、ネットでの注文は情報系、百貨店は知識系であり、通販は情報系である。そしてよくもわるくも知識系は押され、情報系が優位に立つ。知識系の読書についやす時間は減少し、そこをネットでの情報が埋める。

手軽にすばやく得られるネットの情報にはムダすなわちノイズがない。知りたい知識情報があればよいので、そこにいたるプロセスで惹起された問題や実証のあり方はさほど関係しない。いっぽう読書、とりわけ人文学術系にあっては歴史性や文脈性を重んじようとするから複雑さも増す。この複雑さに対する視線を遮断すると思考は単純化しやすい。見方によれば偶然性に満ちたノイズありきの趣味を楽しむ余裕のないほどわたしたちは追い詰められている。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という書名が示す、仕事と読書との反比例する関係はここに来て複雑さと思考の関係にスライドする。そして複雑さの軽視と思考の減少・単純化は感情と感覚の失禁につながりやすく、SNSでの誹謗中傷、罵詈雑言は看過できない段階にあるし、ポピュリズムの広がりはこんなところにも現れている。

仕事と読書の関係を論じながら、広く世界を考える視点を提供してくれる本である。

七月二十六日に開幕したパリオリンピックが八月十一日に終了した。今大会の日本は金メダル20、銀メダル12、銅メダル13のいわばメダルラッシュで、金メダル数でみると米国40、中国40に次ぐ成績だった。

ふるさとの高知県出身者ではこれまでオリンピック金メダリストは1932年ロサンジェルス大会1500m自由形北村久寿雄(1917-1996)選手一人だったのが今回のパリ大会で、レスリング女子57キロ級桜井つぐみ、男子フリースタイル65キロ級の清岡幸大郎と二人の金メダリストを輩出した。

一挙三倍の超高度成長をめぐるニュースを見ているうちにいまや伝説のスイマーとなった感のある北村久寿雄氏のことが思い出された。というのは氏とわたしの父とはおなじ部隊の戦友だったからである。といっても父は高等小学校卒、北村氏は東大卒(戦後は労働省)だったから北村氏が上官だったと思う。

親戚の集う酒席や法事の席で父やおじたちはよく戦争の話をしていたから傍にいたわたしやいとこはおのずとその語るのを聞き、わずかに戦争について知ることとなった。それによると父はビルマからの復員、父の弟は予科練帰りだった。そして父はおなじ部隊に金メダリストの北村氏がいてビルマのずいぶん大きな川をみんなで命からがら渡ったが多くの人命が失われたといった話をしていた。

その河川の名前は記憶にない。そこでビルマの戦況を眺めてみるとシッタン川脱出作戦というのがあった。第二次世界大戦末期、イギリス軍に追撃された日本軍はビルマ、現ミャンマーのシッタン川を渡河しなければならなくなるまで追い込まれた。渡り切ると対岸に日本軍の部隊がいて収容してくれる。だが渡河者は34000人中15000人だった。ひょっとすると父たちが渡ったのはこの川だったかもしれない。

思うに父たちは五輪金メダリストのあとに続いて泳いだのだろう。このとき父がカナヅチだったり溺れたりしていたらわたしの出生はなかった(笑)。「泳げん者は死ぬほかなかった。水泳だけはしっかりやっちょかないかん」。父が口にした土佐弁である。

ところがそう言いながら父はなんにも教えてくれなかったし、水泳をせよとも言わず、オススメはキャッチボールであり野球だった。だからわたしの水泳は見よう見まねで、学校の授業でマスターしたおぼえはない。父は命を助けてくれた水泳より野球がよほど好きだった。そしてわたしは、水泳を教えて、キャッチボールをいっしょにしてとかと口にする気の利いた子供ではなかった。