おぶなより2 (original) (raw)

私は、( おぶなより ) と ( おぶなより2 )とで、私達が通常肉体人間として抱く想いと行いの意味合いについて幾度となく書いてきた。

特に、他人を謗り、蔑むような想いと行いのあらわした、真善美と愛に悖る神様のみ心に適わない良くない言葉には、原則として輪廻転生を通したそれなりの厳しい報いがあることを再三再四書いてきたつもりだ。

しかしながら、私自身の力不足による影響力のまったくない超場末のブログの悲しさか、まったくといっていいほど、世の中の人の意識は変わっていない。

例えば、

「男の不細工は生物的な価値がないのに云々」とか、

「ブスは DNA を残す必要があるのか云々」(*)とか、

こんなひどい、とんでもない内容の質問が、とあるサイトの質問の最上位近くに上がっているのを見たからだ。

幼少時だったらともかく、少なくとも今の俺だったら間違ってもこんな質問をすることはできない。

それは、こうした物言いをしたことが、(原則として)輪廻転生を通してどのような報いをもたらすものであるかを、自分なりに理解するようになったからだ ( ( 011_気高い - おぶなより2 ) の「穴モテ」の話や ( 185_前世療法 - おぶなより2 ) の「KKO」の話などに書いた通り)。

まあ、ここであまりゴチャゴチャ言っても仕方がないので、ご自身の容姿で思い悩んでいる方は、( 205_運命好転の方法2(具体的な方法) - おぶなより2 ) をお読み頂きたい。

地道で気長なやり方にはなるが、因縁因果に悪影響を及ぼさず、善因を積むことになる方法だからだ。

しかしなあ。

本当に影響力のなさを痛感するよ。

あんな霊性や輪廻転生を微塵も意識していない、最低・最悪な質問順位の最上位近くにあるんじゃなあ。

何とも言えませんね。

まだまだ、霊性や輪廻転生を理解している人自体が少なく、世界平和の祈りが足りないか、世界平和の祈りの同士が少な過ぎるということなのか・・・。

まあ、それでもくじけずに続けるしかないけれど。

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(*)引用とはいえ、「ブス」という女性を著しく傷つける言葉を使ってしまいました。

申し訳ございません。

お許し願います。

なお、なぜ「ブス」という言葉(蔑称)を使ってはならないかのその他の理由づけについては、( 011_気高い - おぶなより2 ) を参照して下さい。

~~~~~

(追記1)
私達はただ何となく生まれたし、生きているだけ、と思う人が唯物論者の大半の人の考え方なんだろうね。

肉体人間として、この世に生まれたくても生まれることができずに苦しんでいる人(魂)が幽界にいるとか、
この世に生を受けること自体が、実は貴重なこととか、
肉体人間として成長していくこととか、こうして今現在生きていること=生きているという生命活動それ自体が、摩訶不思議な力の働きかけで他動的になされていることなどは、
まったくと言っていいほどに考えない、というか、考えることすらしないのだろう。

だからこそ、あんなひどい、とんでもない質問を公の場でできるとしか考えられないからだ。

やっぱり、ああしたことを言う人達は、(質問をしていた高校生と思われる男子なども含めて)人生における身体に沁み込むような厳しい魂の学習をしないと、自らのしたことの意味合いがまったくもってわかっていない、ということなんだろうな。

もちろん、容姿や身長で人権云々などという、とんでもない物言いをするような人(確か、「たぬかなさん」だったかな?ちょっと忘れました)も同様にね。

自分のことを棚に上げてどうこう言う以前に、神様の分けられたお命を本質とする肉体人間としてああしたことを言ってはいけないことや、この世がなぜこうした有り様になっているかの霊的な意味合いをまったく知らない、理解できていない何よりの証左だから。

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(追記2)
あまりゴチャゴチャ言わないとしたが、きわめておおざっぱに言えば。

神様の分けられたお命という光明体を本質とする私達肉体人間の発する想いと行い(以下、想いに代表させる)は、原則として世を隔てる形を通して、すべて何らかの姿で自らに返ってくる、ということ。

真善美と愛に悖らない神様のみ心に適う良い想いは、良い形となって返り、

真善美と愛に悖る神様のみ心に適わない悪い想いは、悪い形となって返ってくる。

ヤリ逃げだらけでデタラメ・メチャクチャに見えるこの世の有り様が、私達各自が肉体を持ち、自己保存の本能を与えられ、真善美と愛に悖る、神様のみ心から外れた想いと行いを数限りなく輪廻転生を通して繰り返してきたために、結果としてこの世にあらわれているのはそういうこと。

とにかく。

悪い想いは、結局は悪い想いという悪循環しか招かないのだから、悪い想いを発するのを、祈りによって神様におすがりすることで何とかして頂いて、できる限り、良い想いを発するしかない、ということ。

嫌な想いをして、嫌な運命を招かないためには、これしかないということ。

私はブログを書くに当たって、とにかくわかりやすく、小学生にも理解できるような(小学生は無理な場合でも最低限中学生には理解できるような)平易さを常に念頭に置いて書いてきた(読み仮名はその大半を撤廃してしまったが)。

だから、学術的な内容の正確無比さを期すこともなく、現状の自らの低い教養水準のままのかなりいい加減な書き方をしてきたことと思う。

わかりやすいことと、とにかく、書いている内容がなるべく矛盾を来さないように、できる限り首尾一貫性を保つように、と思いながら書いてきた。

それに難しい理屈の展開(ロジック)も徹底的に避けた。

とにかく、平易に、それこそ流れるように、スラスラ読めるように、と。

そして、結論や主題をもったいつけて後に書くことも可能な限り避けて、すぐに理由や結論を書くようにもしてきた。

例えば、「それはなぜか」と書いたすぐ直後に、理由や結論を書くというような形で。

それというのも、既存の宗教関連の書籍の文章やネットの文章が、書籍を引用・祖述したものも含めて、あまりにも、まわりくどく、難しすぎる、わかりにくすぎるものが多いと思っていたからだ。

宗教を理解することが目的であるということは、すなわち、人としての生き方をよくするため、具体的には、真善美と愛に悖らない神様のみ心に適う想いと行いを、できる限り、この世であらわすようにしていくのが目的ということ。(*)

ならば、そのための手段としての読書、すなわち、読解はなるべく簡潔で容易になされるに越したことはない。

だから、わかりやすさが一番、易しさが一番と考えていたからだ。

それに、私の教養の水準も到底高いとは言えないレベルなので、それなりで十分と考えていたこともある。

従って、高度で難解な宗教用語を用いる必要などさらさらないし(そもそもこれ自体が俺には不可能)、権威づけやカッコづけなど、ナンセンスと勝手に思っていたこともある。

カッコづけをしているとすれば、せいぜい、質実剛健にしたいと思っていることくらいかな。

だから、読まれた人によっては、コイツは、なんていい加減で適当な言葉の使い方をするんだ、と鼻先で笑い、読むに値しない、と門前払いにしてきた人もいるかもしれない。

例えば、因縁と因果。

私は、一般的な宗教に対する理解度(つまり、普通の皆さんはそんなに宗教、特に学術的な用語の厳密さや論理の組み立て(ロジック)には興味をお持ちではない)だろうから、とにかく、ひたすら、簡潔に、平易に、と考え文章を書いてきた。

だから、学術的な水準にこだわる人には、それだけで文章の品のなさも含めて避けられてきたかもしれない。

ちょっと、話がそれた。

まあ、こうした次第なので、原因を因縁、結果を因果、といった形でちょっと乱暴に書いてきた。

ただ、自分のこれまで読んできた聖書に関する書物や仏教に関する書物は、あまりにも教条主義的だし、権威主義的だし、まわりくど過ぎる、わかりにく過ぎる、と思えて仕方がなかったのでね。

読んでいて、

「要はなんなんだよ。
もっとわかりやすくまとめた形で書いてくれよ」

「お澄ましし過ぎて、カッコつけ過ぎなんじゃないの、これ?」

「これじゃあ、学術的な用語の遊戯が好きな人(?)にはいいのかもしれないが、漠然とし過ぎて何言ってんのかわかんないよ」

と思わされたことが、何度もあったからだ。

話を戻すと。

一応、因縁と因果の正確な意味を調べてみると・・・。

・因縁~いんねん~

①ー1.仏教語~結果をもたらす因と縁。または、その関係。
因は結果をもたらす内的な直接原因。
縁は、それを外から助ける間接原因。

①ー2.~仏教語~定められた運命。
(用例)前世からの因縁。

①ー3.~仏教語~宿命的に結ばれた関係。
(用例)彼とは浅からぬ因縁がある。

②由来。来歴。
(用例)いわれ因縁を語る。

③言いがかり。
(用例)因縁をつける。

そして、因果については・・・。

・因果~いんが~

①原因と結果。
(用例)事件の因果関係を明らかにする。

②仏教語~すべての現象は、原因と結果の法則に支配されるということ。前世または以前に行った行為から受ける報い。
(用例)因果が巡る。

③不幸な宿命の下にあるさま。不運なさま。あわれなさま。
(用例)因果な話だ。

また、因果を使う慣用句には、以下がある。

・因果を含める~理由を話してやむを得ないと納得させる。仕方がないとあきらめさせる。
(用例)因果を含めて別れさせる。

・因果応報~いんがおうほう~仏教語~人の行いの善悪に応じて、必ずその報いがあらわれること。悪い報いに使われることが多い。

因果律~いんがりつ~哲学用語~原因となるべき状態には必ず結果となるべき状態が伴うという自然の法則。
すべてのことは原因と結果の必然的関係によって存在するとする原理。

といった感じになっている。

だから、原因=因縁、結果=因果というのは、正確ではなくかなり乱暴な書き方だった訳です。

因縁はともかく、現代語の因果そのものが、原因と結果という意味を含むものだから。

ただ、私としては主に初期の仏教についていろいろと見てきたので、あまり原因と結果という書き方は、現代語過ぎて感覚が馴染まないというか、しっくりこないので、勝手に混同して使っていました。

まあ、因縁と因果関係の言葉については、現代語も、仏教語(仏教用語)も、哲学用語も、ごちゃごちゃに入り混ぜて使っていたことは確かなので、その点は、申し訳なく思っています。

本当にすみませんでした。

という訳で。

以降も、こうした教養の足りない、いい加減な書き方を続けますが、あらかじめご了承頂きますようお願い申し上げます。

以前、( 110_心構え - おぶなより2 ) でブログを書くに当たって、(過去世の因縁により魂という自らの責任に帰する)今おかれた環境や能力、そして、(神様から与えられている)命を生かし、最善を尽くすべき、といったような内容を書いておきながら矛盾してしまいますが、今さら一から教養を再構築しなおすことはできないので、この低水準のままで、訂正すべきところはその都度訂正しながらやらせて頂くというお断りです。

とにかく。

どんなに教養が足りなかろうが、文章が下手だろうが、文章がクドクドと長かろうが、文体が美しくなかろうが、内容の理解しやすさ第一、内容のわかりやすさ第一、でやっていくつもりです。

なお、最近、私は「振り仮名」と「読み仮名」の 2 つの言葉を誤って混同して使っていたことに気がつきました。

間違った言葉の使い方をして申し訳ありませんでした。

その他の言葉にも、その意義や用法などに誤りを見つけ次第、その都度、その都度、できる範囲で徐々に訂正をさせて頂きます。

ご了承願います。

まあ、こんな私でも、はてなさんにこうして書く場を与えて頂いていることに感謝しながら、できる範囲で誠意を尽くしたいと思います。

世間一般から見れば、雑文の書き散らしに見えるだけかもしれませんが、誠意だけは尽くしたいと思いますので。

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(追記)
私達、唯物論で通常「人間」と言われる肉体人間の本質・本体は、真善美と愛に悖らない神様の分けられたお命という分霊(わけみたま)である。

すなわち、神様の光という光明波動の一筋一筋のわかれとなる、霊なる人間こそが本当の人間、真実の人間である。

しかし、この分霊を、唯物論で言うところの物質世界に、映し出す、五感に認識できる形の肉体人間としてあらわれるために、想いの体である幽体をまとい、さらに肉体をまとう形となっている。

しかも、この世にあらわれて生きていく上で、物質的に肉体を保持するために自己保存の本能という、本来の分霊にはなかった結果的に排他的に働く性質が与えられたために、肉体の自らを中心とした利害得失計算に明け暮れるような形の肉体人間となってしまった。

この肉体人間を、本来の分霊である霊身を映した形にふさわしい姿になるように、少しずつでも段階的に矯正を繰り返していくのが、霊性の開発である。

この肉体人間を神様を映し出した人間に近づけていく方法が宗教だとも言える。

私達肉体人間は、本質としては元々が神様に他ならないのだから、どうしても神様を求めたくなってしまうようになっていると考えざるを得ないのだ。(*)

そこに、神様と人間の関係を求める形であらわれてきたのが、宗教である、と。

で。

宗教に入る動機には、大別して 2 つあると言えるだろう。

根本的には、神様のみ心をあらわした生き方をすることが目的となるが、そこに入る行き方のことだ。

第一は、現世利益を求めるもの。

すなわち、この世でほとんどの人が避けることのできない、病気・争い・貧乏・苦労などを何とかしたい、この苦しくつらい状況から脱却したいなどを動機とするものだ。

第二は、上記のように、この世で神様のみ心をあらわした生き方をすること、すなわち、人格を向上させて、世のため人のために尽くし、皆の調和をはかるような人間になること。

現代であれば、おそらく大半の人が病気・争い・貧乏・苦労などを解決するような現世利益の追求から宗教に入ることになるだろう。

そして、最終的には、やはり、第二の神様のみ心をあらわした生き方をすることが目的になる。

なぜならば、神様のみ心をあらわした生き方ができるようになってくれば、自然と病気・争い・貧乏・苦労が解消する方向に向かうようになってくるからだ。

だから、第一の現世利益からの宗教への入り方は、いわば、方便みたいなものなんだね。

おそらく、守護の神霊様としては、過去世の因縁とも睨み合わせて、本来の神の子をあらわすための入り口として、病気・争い・貧乏・苦労を通すことで、本来の宗教の目的である神様の子供としてのあり方を求める形に導くというお考えの下に。

ということは、・・・。

~~~~~

(*)私達が、美男と美女を無意識にも探し求めてしまう(?)のは、こうした神様への元還りによっている、と考えられる。

元の神体としての美しさが無意識にわかっているから、元還りしたい、と。

同じく、肉体人間以外にも美しいものを求めてしまうのは、神様の本質をそなえる者としては、致し方のないことだと思われる。

以下は、あくまでも私個人の「妄想」であり、「戯れ言」である。

なので、くれぐれも真に受けないようにお願いしたい。

勝手気ままに書けるブログだからということでご容赦願いたい。(*1)

最近、ユーチューブの動画タイトルのサムネにやたらに表示されるようになってきた2ちゃんねるの実話シリーズみたいなのをいくつか試しに視聴してみた。

実話なのかもしれないが、こんなのホントかよ、こんなにいつもいつも予定調和から導かれた勧善懲悪のオチがあり、大団円のようなめでたい、耳障りのいい夢物語ばかりがあるのかよ、と思わされたのが正直なところだ。

まあ、これは俺の過去世の因縁が悪すぎるせい(=つまり、輪廻転生という時空間を超えた自業自得)なのかもしれないが、今生で他人を理不尽に苦しめたり、不摂生したりのこれといった要因が思い当たらないのに、何でこんな不可抗力の病気に苦しまなければならないんだと思いながら生きてきた。

五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)によれば、今生での様々なことは過去世を原因とするものが多いとされている。

しかも、ごく普通の人は、過去世の記憶がないまま(原則としてほとんどの人は生まれる時は過去世の記憶が消されて)この世に生まれてくるので、今生に思い当たらないことで悪いことがあるということは、過去世にその原因があるということになる。

過去世の記憶がない場合でも、今生での今現在の有り様から、本来の神様の子供としてのあるべき好ましい姿、素晴らしい姿と今現在の状態を比較することで、その落差から過去世であったことを逆算・類推することなどでその原因を探れる場合がある。

しかし、宿命通やある程度の霊感といった特別な能力がないごく普通の人の場合には、ここまでが限界(ここでは催眠療法は考えない)。

それ以上はわからないことになるんだ。

殴るだの、浮気だの、などの場合ならば、比較的わかりやすく、単純に推定をすることができるが、そうでない場合には、過去世を原因とする今現在起きている悪いことの原因を逆算・類推することはできないのである。

つまり、訳もわからず、ただただ、苦しみを我慢するしかないことになるんだ。

それゆえに、原因となる過去世の因縁が逆算・類推できずに、苦しみだけを受け入れなければならないのは、本当にたまらないんだ ( 185_前世療法 - おぶなより2 )。

まあ、何もこれは私だけに限らず、世の中には私以上にもっともっと、理不尽や不条理に苦しんでいる人はたくさんいるとは思う。

仏教で言えば、代表的な肉体人間にはつきものの生老病死などにはじまって、無論、病気・争い・貧乏・苦労などがある。

こうして、みんなこの世で過去世の因縁を今生で果たすために、輪廻転生を通して魂を立派なものとするために、苦労するのが大半の人のはずなのに、あんなホッコリした夢物語や勧善懲悪のめでたし話、大団円のような安心できるオチ話ばかりがあるのは、納得できないのである。

もちろん、彼ら(彼女ら)の話は本当なのかもしれないし、彼ら(彼女ら)は、それなりに今生で満足できる良い過去世を過ごした人達なのかもしれない。

たまたま、そうした幸せな実話、復讐成就(?)の溜飲の下がる実話ばかりが出ているだけなのかもしれない。

何が言いたいのかと言うと。

ああした2ちゃんねるをネタとした動画は、基本的に人間は肉体人間だけなんだ、原因(因縁)と結果(因果)は今生内で必ず完結するんだ、清算されるんだ、という基本的な観点、つまり、魂の永続性からくる輪廻転生を考えず、霊性を認めない唯物論の観点にしか立っていないような感じに見えるのだ。

つまり、この世にどうしようもなく存在する、不平等や不条理や不均衡を、今生内で誰もが何とか納得(?)するように片付けた形の物語としてまとめ上げたような話に見えるのだ。

だから、今のユーチューブで作られる動画なら、そこそこまとまっているもので、10~20 分台、長くて30 分台くらいが主流といったどころの枠内を使い、唯物論の思考の範疇で、今生内の原因と結果の因縁と因果が、起承転結する形で整い、みやすく、一話完結のわかりやすい物語としてうまくまとまっているという感じの。

しかし。

あんなにうまい話ばかりがこの世に横鎰しているはずがない。

あんなもんじゃない。

ありていに言ってしまえば、連綿と続いてきたこの世には、悪い人間が引き起こしたヤリ逃げ話や、やられたまま失地を回復できずにそのまま我慢を強いられ済まされてしまった話がたくさんあると思われるのだ。

だからこそ、そうした悪い因縁の清算は、来世以降に持ち越され、だからこそ、また様々な不幸や災難が歴史上、連綿と繰り返されてきたはずだからだ。

ゆえに今生内で、そんなに簡単に解決できる、ましてや、いかにも手際よくまとめられた勧善懲悪話や復讐成就の溜飲下げ話(?)が、やたらめったらゴロゴロと転がっているとは思えないのである。

輪廻転生を通した因縁因果を考えた時に、この世に不幸や災難があるということは、裏を返せば、その不幸や災難の元(原因)となるものが過去世にあり、それが清算されるために因果(結果)としてあらわれてきている、ということになるからだ。

確かに、フィクション(創作)としてなら、十分に世の人々を楽しませ、勇気づけ、慰める話になるのかもしれない。

ああした、特にうまくまとまっている話は、世の中全体を見渡しても、ほんのごくごく一部。

実際は、みんなもっともっと苦しんでいるのではないか、あんなもんじゃない、と私は勝手に「妄想」している。

まあ、現実の娑婆世界(=この世)があまりにも厳しく酷いことが多いから、夢を見たい気持ちになるのもわからないではない。

が、ほんの一時の夢の慰めだけでは癒えない苦しみや傷もあるんだ。

あるいは、一つの短い物語を創作する実験的(練習場的)な場として、まあ、つまり、創作(捏造?)としてスレッドや動画を作っている人もいるのかもしれないけどね(なんか一つのネタの設定を細々と変えた使い回しもあるようなことも出ていたし)。

それでも俺としては、できる限りあった史実に近いままの出来事を知りたいと個人的には切望する人間だ。

だから、俺は、神様のみ心に適う適わないはともかくとして、自分で経験したことや、出会った出来事については、出来る限り事実に忠実にありのままを書くようにしてきた。

人様に謗られようと、悪く思われようと、なんだろうと、人様を傷つけたり、痛めたりしない限りは、真っ正直の方がいいと思っているからだ。

なので、人様にも、出来る限り「信義誠実の原則」に則り、潤いという味わいは少なくなるかもしれないが、(ノンフィクションである以上は)なるべくありのままの事実に近いことを書いてもらいたいのである(*2)

これはあくまでも妄想となる、個人的な勝手な曲解と希望だけどね。

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(*1)ただし、一応これでも公序良俗に反しないようには気をつけているつもりなので悪しからず。

・公序~こうじょ~公衆が守らなければならない秩序。

公序良俗~こうじょりょうぞく~公共の秩序と善良なる風俗。
(用例)公序良俗に反する行為。

(*2)フィクションとノンフィクションとを厳密に書き分けることは難しいだろうから、なるべく事実に忠実にする方向でお願いしたいのです。

今からちょうど 2 年前となる 2022 年 04 月 26 日、( 110_心構え - おぶなより2 ) として書いた文章の中に < ツイフェミさんへ > と題した短文を書いた。(*1)

ただ、本文の ( 110_心構え - おぶなより2 ) 自体ががかなりの長文になってしまった上に、< ツイフェミさんへ > を書いた箇所が最下段の部分で埋没したような形になっていた。

ただでさえ超場末に位置して読まれる可能性が極端に低い私のブログなのに、さらにこうした長文の最下段の一部となっている状態では、この短文が、ツイフェミさん達の目にとまることは「絶対にない」と思ったので、ここに別建てとして、改めて抜粋・引用することにした。

いわゆる、ツイフェミと呼ばれていた人達(騎士と呼ばれる男性も含む)について書いた短文である。

今はツイッターは X となってしまったので、彼女ら(彼ら)の呼称がいまだに「ツイフェミ」のままなのかどうかはわからないが(もう見ないので)、もしも名称が変わっている場合には、その新たな呼称( X フェミ?)で適宜読み替えをして下さい。

以下は、( 110_心構え - おぶなより2 ) の (追記2) に書いた内容です(引用にあたっての大幅な加筆・訂正あり)。

< ツイフェミさんへ >

ツイフェミさん達が、私のこの文章を読むことは、まずあり得ないとは思うが、万が一に備えて書いておく。

世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行をして下さい。

それも、今からできる限り、数多く。

今すぐに。

お願い致します。

私は、過去世の生き方が悪かったせいか、今生では、健康面を原因とした筆舌に尽くしがたい苦しみを味わった。

今でもさらなる別の苦しみを味わっているが、何とかかんとか、かろうじて神様を呪わずに済んでいる。

しかし、今の病気がさらに悪化したりすれば、どうなるかはわからない。

はじめの病気にしても、寝耳に水の出来事だったし、他人様から見れば大したことないと思われるかもしれないが、自分としては神様を呪うほどつらかったのよ。

仮に、今現在、あなた方に、争い・貧乏・苦労のいずれかがある場合だとしても、これといった難しい病気がない、すなわち、健康であり、それが当たり前であることがどれだけありがたいことであるのかを、あなた方は知らないような気がするのですよ。

悪口雑言の限りを尽くせているところから察するに、今のところは健康には問題はなさそうですからね。(*2)

しかし、悪口雑言の限りを尽くせば、(原則として)自らの来世以降の運命を暗転させるだけではなくて、その発信を見聞した人々の想いも乱し、悪影響を及ぼす可能性までもが出てくるのですよ。

あなた方のその攻撃的で乱れた想いを反映した文章を読んだ人達は、(悟りを開いた覚者ではない限りは)いやが上にも想いを乱すことにならざるを得ず、少なからず想いを乱す悪い影響を受けてしまうことになるからです。

説教は無効ですが、あえて一言だけ申し上げます。

もしも、どうしようもなく行き詰まる時が来ることがあったら、是非とも、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行を、あなた方の選択肢の中の一つに加えて下さい。

世界平和の祈りの具体的な生活への反映の仕方については、( 205_運命好転の方法2(具体的な方法) - おぶなより2 ) に記してあります。

世界平和の祈りの祈り言葉一式は以下の通りです。

世界平和の祈り

世界人類が平和でありますように
日本(にっぽん)が平和でありますように
私達(わたくしたち)の天命が完(まっと)うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様(しゅごじんさま)ありがとうございます

以上、何卒、よろしくお願い申し上げます。

~~~~~

(*1)ツイフェミ~ツイッターフェミニストの略称。

~~~~~

(*2)悪口雑言~あっこうそうごん~いろいろの悪口。
(用例)悪口雑言を吐く。

~~~~~

(追記1)
少し付け加えます。

今生の今現在の私達が肉体人間としての抱く想いとその具現化された行いは、主として来世以降に反映されてあらわれてきます。(*3)

もちろん、あなた方が過去にツイッターを通して行ってきた言行も、当然、その中に含まれます。

その(今生における)想いと行い=言行が来世以降に反映されてあらわれてくる時には、これも原則として過去世(つまり、来世以降らか見たら今生は過去世(この場合は前世)となる)の記憶は消されてしまいますから、原因がわからない(=いわれもない)ような良いことや悪いことが起きてくることになります。(*4)

良いことなら、単に「ラッキー」で済ますことができますが、悪いことはそうはいかないのです。

悪いことは、いわゆる、病気・争い・貧乏・苦労などの形をとってあらわれてくるからです。

しかも、その原因がわからない(←原因は過去世にあり、その記憶は消されて今生に生まれてくる)から、あたかも身に覚えのない病気・争い・貧乏・苦労などがあらわれてくることになるので、何でこんな目に遭わなければならないんだ、という思いを味わわされることになるのです(男性に生まれ変わるか、女性に生まれ変わるか、の性別は関係ありません。どちらに生まれ変わろうと、過去世の因縁を果たす(=解消しなければならない)ことには変わりがないからです)。

今生で神様のみ心に適わない、真善美と愛に悖る想いを抱き、その具現化となる行いをしてしまったら、(原則として来世以降に)いやが上にもその報いを受けなければならなくなるからです。

詳しくは省きますが、相手が悪いから批判して何が悪い、という訳にはいかなくなるのです。

ましてや、言いがかりや、やみくもな絡みなどは言わずもがなということになってしまうのです。

神様のみ心に適わない、真善美と愛に悖る想いと行いは、今生以降にいやが上にも悪い形となってあらわれてくるのです。

まあ、信じるか、信じないかは、読まれた方の過去世の因縁次第になりますが、とりあえず、追加説明をさせて頂きます。

~~~~~

(*3)ごく普通に因果応報、原因と結果というと、今生(今回の人生)内で原因が起こり、結果がもたらされるといった形で起承転結が収まる場合を指していることが多いと思います(唯物論の思考にとらわれている人の場合は特に。唯物論者の皆さんが、よくブーメラン云々といっているのはこれを指していますね)。

しかし、ここで主に想定している因果応報は、

(原則として)

過去世(前世、前々世、・・・の総称)に原因があり、
これに対して今生に結果がもたらされる、

または、

今生に原因があり、
来世以降(来世、来々世、・・・)に結果がもたらされる、

いわば、時空間を超えた原因と結果の対応な訳です。

つまり、輪廻転生があることを当然の前提とした上での、世を隔てた因果応報、原因と結果の対応の話です。

今生で抱く想いとその具現化となる行いも、実は過去世のものがあらわれた場合が多いのですが、話がややこしくなるので詳細は割愛させて頂きます。

ご了承願います。

~~~~~

(*4)上記(*3)に書いたように、過去世とは、前世、前々世、前々々世、・・・の各人生の総称を指します。

つまり、過去世と一口にいっても、直近の前世(=ー1世?)だけでなく、その前の世(前々世=ー2世?)、さらにそのまた前の世(前々々世=ー3世?)、さらに・・・とたくさんのものが含まれている訳です。

~~~~~

(追記2)
今回書いた内容には、その本質が神様の子供である私達が使う想いの発現となる言葉には、実は言霊のような命が宿り、ちゃんとそれなりの良い報いや悪い報いが、原則として輪廻転生を通して(=世を隔てて)もたらされる、ということがその背景にあります。(*5)

ご興味がわいたら、是非ともご自分でお調べになって下さい。

なお、あまりおすすめはできませんが、私が書いた文章としては、( 011_気高い - おぶなより2 ) があります(長文です)。

この文章は、元々は「穴モテ」という言葉を、モテ談義などでごく当たり前のように常用する男性達(一部の女性達も含む)を念頭に置いて書いたものでしたが、

「私達肉体人間の発する言葉が輪廻転生を通してどのような意味を持ってくるのか」

を考える際には多少のご参考にはなるとは思うので、(内容が内容だけにあまりおすすめはできませんが)ご紹介した次第です。

まあ、とにかく。

能書き(理屈)なんかはどうでもいいから、あなた方には、ただただ、ひたすらに、無条件に、今すぐに、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行をして頂きたいのです。

これが私の率直な気持ちです。

・・・。

まあ、有り体に言ってしまうと、あなた方は、(原則として)自らの来世以降をきわめて好ましくないものとしてしまっていることに、まったくと言っていいほどに気がついていない、としか私には思えないのですよ。(*6)

やはり、この世でわが身に味わわされる、不可抗力のどうしようもない(=いやが上にも受けざるを得ない・逃れることのできない)、病気・争い・貧乏・苦労を経験しないと、
人間の本質とは何か?
霊性とは何か?
について考えることがまったくないに等しい状態だ、と思われるからです。

こうした病気・争い・貧乏・苦労を嫌というほど身に沁みて味わわされると、

この世とは何なんだ?

この世の仕組みは一体どうなっているんだ?

神様はいるのか?

神様がいるとすれば救いはあるのか?

どうやったら救われるのか?

等々、考えを巡らせることになると思われるからです。

ツイフェミさん達は、おそらくまだそこまでの厳しい経験をされていないのではないか、と思われるのですよ。

仮に、ツイフェミさんが唯物論を脱却していて、とりあえず輪廻転生を認めていたとしても、

(以下、言葉は悪くてすみませんが)

「来世以降なんか、どうせ今世の記憶は(過去世の記憶として)消されてわからないままにこの世に生まれてくるんだから知ったことか。
今生では思う存分ヤリ逃げするんだ」

などと想いながら行動に及び、

その上で、

「来世ではちゃんとします」

と現在の自分に免罪符?を与えて、やりたい放題のことをする。

これが、ツイフェミさん達に限らず、ごく普通の一般的な私達にありがちなことだと思います。

そうしないと、来世以降への恐れでガチガチに固まってしまい、真善美と愛に悖る想いを抱き、行いをすることが何一つできなくなってしまいますからね( 287_バチの授業 - おぶなより )(*6)。

こうした自分に甘い、いい加減な生き方(?)がまったく許されないことになってしまうと、端的に言って、古の修行僧か求道者のように、かなりの自由が奪われてしまうことになるからです。

そんな中で、私達には自由裁量の余地が与えられている訳ですが、それをどのように宗教的にとらえて対処していくかは、あなた方次第ということになります。

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(*5)私達肉体人間が神様の子供であるとは。

私達肉体人間は、五感に認識される側面からすれば、その他の動物と同じです。

ただ、
その魂に相当するものが、
動物は魂魄(こんぱく)であり、
肉体人間はこの魂魄に加えて、神様の分けられたお命という霊を直接に頂いているので、霊魂魄(れいこんぱく)となり、
違いがあります。

それゆえに、私達は神様の子供に相当する訳です。

この神様の分けられたお命という霊魂魄、神様の光明波動そのもの、命そのものがこの肉体に命を与えて、一つの秩序ある生命体として生かしている本体で、これが本当の人間です。

つまり、あたかもライオンやお猿さんといった動物のようにして五感に感じることのできる肉体人間が本当の人間ではなくて、この「肉体それ自体」に命を与えて、生かしている「命そのもの」が本当の人間である、と(巷でごくたまに見かける、「肉体は着ぐるみだ」とか、「人間とは意識体だ」とか、表現する人がいるのは、そういうこと)。

だから、私達肉体人間は、五感には動物と同じように見えても、動物とは異なり、神様の知恵と創造力を授かっている、特別な存在で、いわゆる、万物の霊長ということになります。

従って、この物質世界を生きていく都合上、肉体とともに自己保存の本能が与えられていても、私達肉体人間は、本来ならば動物とは一線を画し、

「真善美と愛に悖らず、気高く清廉に生きていかなければならない存在」

ということになります。

私達肉体人間が神様の子供であるとは、そういうことです。

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(*6)私は、あなた方の文章を隅から隅まで読んだ訳ではないし、おおざっぱな感覚しかつかめていないかもしれません。

しかし、私がいくつかのあなた方の文章を見た限りでは、あなた方の怒り?は、自らの身体にまつわる切実な問題ではないのではありませんか?

そうではなくて、あなた方が怒り?を感じているのは、(あなた方が勝手に作り上げた問題にとれなくもないものも含めて)他人様に、いわば「作り物の義憤(?)」を感じて書いているような文章が多く感じられたものですからね。

他人様の気持ちを慮るにしては、ちょっと自然さに欠けるような印象を感じた部分があったんですよ。

だから、わが身に切実な問題、魂からの叫びというか、熱量にちょっと違和感があると感じたのです。

いずれにしても、怒りなどの想いと行いは、輪廻転生を通して、悪い循環しかもたらしません。

ダンマパダ(法句経)にある通りです。

なので。

とにかく。

もう細かいこと(理屈その他)は、本当にどうでもいいんです。

できうることならば、あなた方には、怒りの矛を収めて、祈りに変えて頂きたいのです。

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(*7)五井先生(日本の宗教家五井昌久さん)によると、神様のおつくりになられた世界は、大別して 4 つにわかれているそうです(しかも、その各階層は、さらに細かく細分化されているそうです)。

神界、霊界、幽界、現界(以下、この世とする)、と。

この世を卒業した、すなわち、肉体を脱ぎ捨てて、幽界という想いの世界に行った場合には、その世界で想ったこと(=言ったこと、やったこと)の反応は、間髪を容れずにすぐに返ってくるそうです。

時間差がほぼ無いに等しい、と。

真善美と愛に悖らない、神様のみ心に適うものならいいですが、そうでない真善美と愛に悖るものが間髪を容れずに、すぐに返ってくるとなると、悪循環が続いて、苦しむことになってしまいます。

なので、神様を信じずに(=人間とは肉体だけだ、肉体人間として死んだらすべてがオシマイで何も無くなると思うこと)、迷った想いを持ったままで亡くなってしまう(=あの世に行ってしまう)と、想いの世界の幽界で苦しみ続けることになる場合が往々にしてあるそうです。

御先祖様の中にこうした魂の方がおられた場合には、その苦しみから救って欲しくて、この世で生きている子孫にかかってくる場合もあるそうです。

代々、同じ病気にかかることが続いたり、と。

だから、従来から施餓鬼供養などの風習がある、と。

ところが、この世では、想ったこと、すなわち、言ったこと、やることを完遂するにはそれなりの時間がかかるようになっています。

(例えが悪くて申し訳ありませんが)アイツぶん殴ってやると思っても簡単にはいきません。

それなりの時間を要するようになっています。

だから、その想いが成就する、ぶん殴るまでには、時間がかかるので、すぐには反応(報い)は返ってこない(=ぶん殴り返されない)ことがほとんどです。

逆に言うと、神様のみ心に適わない、真善美と愛に悖る想いと行い(=アイツをぶん殴る)を成就させることを防ぐ可能性もあることになるし、

(アイツをぶん殴ることを)成就するまでに時間がかかる分、(主として過去世で)自らのしてしまった真善美と愛に悖る行いの報いを受ける十分な時間がある、ということになります。

つまり、視点を変えて、過去世の神様のみ心に適わない、真善美と愛に悖る(=業とする)報いを受ける立場から見ると、
業の報いを受ける十分な時間があり、魂についた業という汚れを落とすための神仏の子供としての魂(霊魂魄)の学習をする時間がある、
こうした(私達肉体人間の本質である神様の分けられたお命という霊魂魄についた汚れとなる)業を浄める(=消滅させる、消化させる)時間がある、
ということになります。

上記の迷ったご先祖様などが、救ってほしくて、子孫にかかってきて同じ病気にかかる人が代々続いてしまうというのは、こうしたあの世(幽界)で迷ったままで苦しんでいて、この世に生まれたくても、生まれてくることができずに、業を消せずに苦しいために救われたくて、縁のある知己(=子孫)にかかってくるということになるそうです。

だから、この世に生まれてくることは、輪廻転生を通して魂についた業という汚れを浄めるための絶好の機会を頂いたということになるらしいのですね。

簡単に言ってしまうと、この世に生まれてくることは、過去世、つまり、たくさんの輪廻転生を通して溜め込んでしまった業を浄めるための、ありがたい格好の機会を頂いた、ということになるそうなのです。

たとえ、病気や争いや貧乏や苦労などの不幸を味わうことになったとしても。

という訳で、誰も何も頼んでもいないのに、こんな苦しい娑婆(この世)に俺(または私)を生みやがって、と親御さんを恨むのは罰当たりになるそうなのです。

こうした仕組みを知らないから仕方ないことだとしても。(*7ー1)

よって、この世が、幽界のようになってしまうと、真善美と愛に悖る、神様のみ心に適わないことの間髪を容れない反応=報いを恐れて、あるいは、その反応が悪い意味での無限ループ(=悪循環)になることを恐れて、誰も何も悪いことができなくなってしまうと考えられます(上記の萎縮してガチガチになってしまい、誰も何も悪いこと(=真善美と愛に悖る神様のみ心に適わないこと)ができなくなると書いたのはこのこと)。

今回のあなた方に対する文章に限らず、私今までにブログを通して皆さんに世界平和の祈りをおすすめしてきたのは、こうした施餓鬼供養などの先祖供養をも含めた、自らの近しい周辺の霊道を浄める効果という功徳があるからでもあります ( 199_世界平和の祈りの功徳 - おぶなより2 )。

世界平和それ自体が大事なことはもちろんそうなのですが、まずはその世界を構成する個々のご先祖様を含めた家族単位の足場を固めておく必要があると思いましたのでね。

つまり、社会を構成する家族単位、または、個人にまつわる霊道単位を浄めることが手始めだと思われるからです。

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(*7ー1)私が ( おぶなより ) を書くために中村元さんやひろさちやさんや S さん(スリランカ仏教界のアルボムッレ・スマナサーラ長老さん)などの仏教の書籍を二十冊弱見てきた時に、この世に生まれてくる確率がいかに低いことか(←いわゆる、「人身得難し」のこと)、について記されているものはいくつかありました(確か、2、3 冊だったかな)。

ただ、その中では、上記のような(=五井先生のような)輪廻転生を通して溜め込んでしまった業を浄める機会を与えられることになるから、この世に生を受けることは有難いことなんだ、に言及しているものはありませんでした(おそらく、現在入手できる一般的な仏教関係の書籍にも書いていないものと思われます。神様や霊性を否定する仏教関係の人の書籍ならなおさらに)。

ちょっと専門的な話(?)になってしまい、かなり難しい話なのですが(信じるか否かは読まれた方の過去世の因縁因果次第)、( 343_法話50-28-2 - おぶなより ) がご参考になるかもしれません。

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(追記3)
私のブログ ( ( おぶなより ) と ( おぶなより2 ) ) は、奇特なお優しい方のアクセスしかない超のつく弱小ブログ(アクセスは、 1 日あたり二桁や三桁は滅多になく(三桁はだいぶ前の ( おぶなより ) の 確か 1 回だけだったと思う)で、アクセスがゼロの日もしょっちゅうという状態で、1 日あたり一桁でも読んで頂ければそれだけでも御の字といった感じのブログです。

従って、はてなさんでよくアクセスグラフを公表されている方のように 1 日あたりのブログへのアクセスが数百やそれ以上の人達は私にとっては雲の上の存在です。

といった次第なので、ごく普通に考えたら、私のブログは、あなた方(ツイフェミさん)の目に止まることさえも叶わないのが実際のところだと思います。

それでもほんのわずかだけでも見て頂く可能性を上げるために、あえてこのような形をとりました。

なお、宗教を突き詰めていくと、最終的に行き着くのは感謝です。

感謝一念の生活です。

単に「ラッキー」と感じることばかりや、幸福感に満たされることばかりではなくて、ありとあらゆることに対する感謝一念です。

あなた方には到底理解し難いことでしょうし、信じられないことだとは思いますが、不幸までをも含めた、感謝一念なのです。

この内容には、あなた方の大好きな唯物論の理屈でも実は説明をつけることができます( 058_輪廻と信仰2 - おぶなより )。

世の中には様々な宗教がありますが、あまり一般的とは思われない(=信奉者や実践者が少ない)宗教ですけどね。

もちろん、奇をてらったり、自我の延長のガリガリ亡者のような唯我独尊教(?)といった他者を排斥して、攻撃するような宗教ではありません。

最終的には、「穏やかな人格者」になることを目指す宗教です。

私は、あなた方が、いつの日にかその理解にいたることを願っております。(*8)

とは言うものの。

上記の内容からもご想像がつくとは思いますが、主にこの ( おぶなより2 ) で、( 010_フェミさん - おぶなより2 ) や ( 021_不条理 - おぶなより2 ) や ( 022_不条理2 - おぶなより2 ) や ( 033_いつ - おぶなより2 ) や ( 037_望み - おぶなより2 ) や ( 075_話16(女性観察記) - おぶなより2 )、( 097_祈り心 - おぶなより2 ) など、私はあなた方に対してかなりキツイことをいくつか書いています。

批判したのを隠しておくのは嫌なので、とりあえずここに記しておきます。

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(*8) ご参考になるかどうかわかりませんが、( 194_易行道の真髄 - おぶなより2 ) (内容の理解度は読まれた方の過去世の因縁によると思います。ちょっと長めの文章です) をお読み頂き、それなりの理解ができるようになることが、とりあえずは一つの目安になると思います。

前々回 ( 216_応援と推し - おぶなより2 ) と前回 ( 217_応援と推し2 - おぶなより2 )、芸能人などの推しは、応援と推しの対象を異性を前提とした話だったが、もちろん、同性への推しも存在する。

このような場合は、やはり、自分自身をその対象者(以降、A とする)に重ね合わせることで、A に何とか売れてもらいたい、社会的に成功してもらいたい、と思うのだろう。

A が活躍し、成功する姿を見ることで、自らの感情移入をしながら、自我の拡張が活躍し、成功するという疑似体験をしている訳だ(たとえ無意識にしても)。

別に趣味・嗜好の範囲内なら、これも前述の理由により、アリだと思うので、普段の生活に支障を来さなければ構わないだろう。

いずれ、最終的には収斂して違う形になっていくとは思うけどね。

前回 ( 216_応援と推し - おぶなより2 ) は、主としてスポーツの応援や芸能の推しが、どのような動機で行われるのか、そして、それら自体の意義を考えてみた。

応援や推しという行為は、自分がそのまま主役となって実現することができない人生を、いわば仮想的な形で実現する、自我を延長して重ね合わせる行為なのではないか、と仮定をしてみた。

誰もが憧れる、羨むヒーローになりたいヒロインになりたい、あるいは、別の形としては、理想的な恋愛がしたいという、現実にかなえることがきわめて難しい希望を、自我を延長して仮想的な形でかなえている行為が、応援や推しなのではないか、と。

そして、こうした実際に理想をかなえるのは難しいので、自らの自己実現とは別に、自我を延長して重ね合わせる、こうした楽しみ方がなされるのは自然であり、ある程度当然のものとして容認すべきではないか、と考えた訳(応援や推しは将来的に収斂していく可能性も考えられなくもないが)。

しかも、こうした応援や推しにかかわる、選手やアイドルを含めたたくさんの人々は、神様がこの世にあらわした人の一部に他ならず、従って、その他のたくさん人々と同様に、神様がそれなりの理由を持ってこの世に送り出した点も含めて、自己実現に直接の関係はないからと、K さんのようにいかにも無意味だと言わんばかりに、無下にこれらを否定するのは、傲慢だし、物事のとらえ方としてよくない、とした訳。

さらには、この自我を拡張する、投影することは、何も応援や推しに限らない。

小説やアニメなどの読書でも、芝居の演劇や映画やドラマ観賞などでも、やはり、自我を拡張する、あるいは、投影して楽しむ側面があるものだからだ。

だから、K さんのような発想をおし広げていくと、極端に言えば、小説などを読むのも、DVD や BD の映像や動画の観賞などでも、自己実現に直接のかかわりのないものは、すべてその存在意義を否定することになってしまう。

だから、社会のありようを考えても、ましてや、神様がこうしてたくさんの人をこの世にあらわしたことからしても、少なくとも現段階では、K さんのように、応援や推しをやめるべきだと言わんばかりに、それらの価値を無下に否定するのは、よくないし、傲慢な発想だと思うの。

ということで。

陰謀論的にがんじがらめにされて汚れた現代社会を、何とかよくすることも併せて、すべての成り行きとおはからいは、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行することも含めて神様に一任するのが、最善だと思った次第。

まあ、K さんも含めて、世の中を語りたがる人々は、愛だ、瞑想だ、スピリチュアルだといかにも唯心論的な話をしていても、その実、唯物論そのままの、他者を批判し、非難し、責め、裁く話をしている人がとても多いような気がしてならない。

批判、非難、責め、裁きを繰り返すこと自体、この時点ですでにもう、唯物論的な物の見方になっているのが、なぜわからないのかなあ。

その批判や非難や責めや裁きをする対象の背後には、目には見えない過去世の因縁という背景があるとは、まったく考えていないようにしか思えないのだ。

自分だけは絶対に間違っていないという唯物論的な視点から他者を論難ばかりしているんじゃあ、結局は物の見方が唯物論そのものに他ならないんですよ。

こうして、身体の五感に感じられるところから物事を見る唯物論と実質的にか何も変わらない形では、真実の人間を肉体人間だとしか考えていないと言われても仕方がないよ。

なぜなら、自分も他人も、その本質においては、同じ神様の分けられたお命を分け与えられた同じ神様の子供である同胞、すなわち、兄弟姉妹であること、そして、それぞれに輪廻転生によりたくさんの過去世を経て今生があることの視点が、スッポリと抜け落ちてしまっているから。

だから、こうした世の中の批判や非難や責めや裁きをしている人は、どんなに「愛」を説こうが、「瞑想」を説こうが、「スピリチュアル」を説こうが、その実質は唯物論者だと言わざるを得ないんですよ。

「愛」があれば何とかなる(もちろん、愛(=相手を慈しみ、思いやり、慮り、労る)のは必須にしても)悪い因縁を何とかしなければ、どうにもなりませんからね。

ユーチューブを見ていたら、スポーツの応援や芸能の推しを否定する講義?をしている男性の歴史作家さんがいた。

それもかなり否定しまくるような。

応援や推しに何の価値があるの?と言わんばかりの。

以下、仮にこの人を K さんとする。

で、ちょっと考えてみたい。

例えば、スポーツ。

プロ野球を例えに考えてみると。

なぜ、特定の球団を応援したり、特定の個人(選手)を応援したり、ファンになる気持ちになるのだろうか?

これは要するに、自我の延長だと思う。

つまり、応援したりファンになること(以下、この2つを応援とする)は、自我の延長、あるいは、投影した気持ちのあらわれに他ならない、と。

プロ野球の選手になること、それもスターになり活躍できるようになるのは、おそらく超狭き門で希なことだ。

話がややこしくなるので、さしあたり、その裾野の底辺を高校野球と規定して、運の作用も除外するとすると。

ゆくゆくプロ野球選手になりたい、スター選手になりたいと思ったら、まずは甲子園を目指すだろう。

優勝はしないまでも、甲子園に無事出場できた、またはできないとしても素質をスカウトに認められて、プロ野球選手になったとしよう。

それでも中心選手として活躍し、スター選手になるのは、さらなる希少な確率を突破しなければならない。

野球の裾野を上記のように高校野球に限っただけでも、大変な狭き門を突破しなければならないことになる。

この裾野の底辺からスタートするにしても、ある程度の体力と、足の速さ、そして、肩の強さ(速い球を投げる力)と、打球をとらえるセンス、そして、打球を遠くへ飛ばすセンスのいずれかを、一定水準以上備えないと、おそらくプロ野球選手にはなることはできないだろう。

実際、プロ野球選手の野手となる人でも、高校野球時代はエースで四番のような選手が多いようだ。

それだけチームのお山の大将のような選りすぐりの選手が、プロ野球に入り、投手から野手に転向する。

高校野球では、こうしたチームを代表して、牽引してきた中心選手でさえ、プロ野球では投手にはなれず、野手に転向することが多い訳だ。

逆に言うと、それほどまでにプロ野球で投手となる人は、超専門職のエリートということになる。

また、野手のままプロに入った人は、守備力もさることながら、主として打撃に非凡な才能を持った選手達ということになる。

これらを考えただけでも、プロ野球選手になること、そして、常時出場できるレギュラー選手になることが、いかに雲上人か、わかろうというもの。

つまり、プロ野球選手になるだけでも、裾野の底辺の位置からみても、雲上人のように大変な難易度がある狭き門を突破しなければならなくなる訳だ。

ところで、一般の人がこうした人を応援するというのは、一体どういう心理なのだろうか?

ある程度、自らの好みを踏まえ、特定の選手を応援するのは、その選手の活躍に自分の自我を重ねあわせて、つまり、自分の自我を投影・拡張させているのではないだろうか?

つまり、応援する一般の人は、こうした素質(努力する精神的な素質も含む)を持っているプロ野球選手という一種の絶対に手の届かないある種の天才に自分を重ね合わせることで、実生活でこうした天才達のような経験ができない分を補っているのではないだろうか?

仮にファンとなっているプロ野球選手を A とすると、A に応援し肩入れすること自体が仮想自己実現の一種となっていると。

つまり、自分を A を重ね合わせることは、実生活で満たされない自己実現を補完する形になっているのではないのかと。

だから、お人によっては、無意識ながらも自己実現の理想を実現することができないと、自己実現の上限にある程度見切りをつけて、実生活はほどほどにして、応援に熱心になるのではないだろうか?

本来なら自分の実生活には、何一つかかわり(多少の励ましにはなる場合はあるのかも知れないが)のないはずの A を応援すると。

A の熱心な応援をすると。

つまり、ごく一般的には、世の中の誰しもが世間の注目を浴びる華やかで、きらびやかなスターになるような自己実現は難しい。

本人の運と努力があるにしても、どうしても一部の突出した才能を持つように生まれつかないと、なかなかこうした選りすぐりの人にはなれないと思われるからだ。

となると、やはり、無意識に自分の自己実現の上限に見切りをつけ、その実現が難しい部分を、他人に投影して振り向けることにしているようにも思える。

つまり、世の中のすべての人がみんながみんな才気に溢れて、群雄割拠のようにはならないのが普通だから、こうした形があることも、ある程度やむを得ないことだと思うのだ。

応援を趣味として嗜む、あるいは、人生を生きていく上での動機づけや、励ましとしていくことも、不思議ではないと。

誰もが誰も、完璧な理想の自己実現を社会で実現させることはできないのだから、こうしたあり方が世の中に出てくるのも無理からぬことだと思うのだ。

おそらくこれが、冒頭の K さんにとっては単なる無駄、訳がわからないと言っているように思える。

K さんにしてみれば、 実生活での自己実現の可能性がどんなに限られていても、あくまでもこっちが本分なのだから、お金と時間を A の応援(テレビを視聴したり、ネットで情報を収集することも含む)をすること自体が無駄で、理解に苦しむと言いたいらしい。

芸能人のいわゆる推しについても、まったく同様にして、考えることが可能だ。

アイドル推しなら、実際には果たすことができない理想的な恋愛を、いわば疑似恋愛的に愛でる、楽しむといった形にとらえると。

つまり、K さんの言いたいのは、応援や推しに血道をあげるな、それは一種の大衆操作、いわば洗脳に使われている(陰謀論ではまことしやかに言われる 3S政策)のだから、応援や推しにお金と時間を割くことを出来る限り控えるか、あるいは、応援や推しの一切をやめて、どんなに実現幅が少なくても実生活に注力する(血道をあげる)か、それ以外にお金と時間を費やすならば、あくまでも実生活への潤いとなるささやかな趣味や家庭に使うべきだ、と言いたいのだろう。

そして、世の中はまだまだ問題だらけで不完全な状態なのだから、もっと社会を良くする他のことに注目して、こちらに関心を持つべきだ、と言いたいのだろう。

とはいえ、上記のように、私達の社会を構成する誰しもが必ずしも才気に溢れ、自己実現の理想を完璧に実現できるものではないことも、また確かだ。

だから、ある程度無意識的に自己実現の上限に見切りをつけて、こうした応援を趣味のように嗜む、あるいは、人生の生きる励ましや動機づけとすることも、やむを得ないことだと思うのだ。

そんな状況下で、上意下達のマスコミでは、一次情報も明かされず、本来ならあるべきニュースの報道も制限され、問題意識を持ちにくい嫌いがあるから、なおさら、こうした応援に向かいやすい気もするのである。

しかし、だからといって、 K さんのように、自己実現こそが重要であり、まだまだ問題山積みの社会に広く目を向けよ、こうした応援はやめてしまえ、とか、価値がわからないと決めつけるのは、いささか乱暴な話だと思うのだ。

遠い将来?、無事に地上天国化が成就されて、社会を構成するみんなが輪廻転生の上がりに匹敵するように素晴らしく仕上がれば、おそらく現在からは想像もできないような素晴らしい調和が実現されることになる可能性がある。

仮に、遠い将来?そうした世界が実現されたものとすると、こうした個人個人の限定された自己実現を補う形での応援や推しが残るものかどうかは、私にはまったくわからない。

だだ、現在の段階では、こうした応援や推しの形は、普通のものとして、存在し続ける可能性はあるとも思える。

少なくとも、K さんのように、応報や推しをナンセンスといわんばかりにバッサリと切り捨てるのは、傲慢なものの見方に思えるのだ。

他方、こうした応報や推しが存在する社会のあり方が続けられるのには、もう一つ根本的・根元的な理由が考えられる。

それは、神様のことだ。

神様がこれだけの人間をこの世にあらわしているということは、私達の目には見えない、あずかり知らない、神様の見地からする、それなりの理由があると考えられるためだ。

この世にあらわした人間の一人一人にそれなりの役割を持たせていると。

なぜならば、これまで ( おぶなより ) でも、この ( おぶなより2 ) でも何回も触れてきたように、この世にたった一人の人間が誕生するのでさえ、神様のそれなりの命の働きかけがないと、あり得ないことだと考えられるからだ。

奇跡的に受精が成り立つこと、母親の子宮内で胎児が不思議な力の働きかけで成長していくこと、出産を経た赤ちゃんがこれまた不思議な力の働きかけで成長していくこと、そうして人として今この時を、生きている=何らかの摩訶不思議な力で他動的に生かされていることは、すべては神様のお力、命の働きかけがないとあり得ないと考えられるためだ。

たった一人の人間の誕生と生を考えただけでも、これだけ摩訶不思議で大変な現象を、神様がこの世にこうしてあらわしている(ということは、これを目にしているあなたは、どんなあなたであろうとも、神様がこの世にあらわした唯一無二の貴重な存在ということになる)。

ましてや、たくさんの人を人類としてあらわしているのは、神様から見たそれなりの意義があるとしか思えないのだ。

このように考えてくると、現在だけでも、プロ野球選手の球団や選手を応援するあり方が成り立っている、芸能の推しが成り立っているのは、神様から見て、やはり、それなりの地球上における人類の進化を見据えて、それなりの意義や思し召しがあっての(おそらく)途中経過として存在しているとしか、思えないのである。

従って、こうした実体の背景には、やはり、私達の目には見えない、私達には伺い知れない、はかり知れない、広大無辺な人類の過去世の因縁の網の目が張り巡らされているとしか思えない。

だから、K さんの言うように、単なる唯物論的な観点から、応援や推しをバッサリと切り捨てるような発想をする、物言いをするのは、間違っているとしか思えないのである。

なぜならば、このように人類を地球上にあらわしている神様のご意志と思し召しとおはからいを、単なる一個人の唯物論的な視点から否定していることに他ならないからだ。

まとめると。

まず、唯物論的に考えても、無下に応援や推しを否定するのは、行き過ぎであると思われる。

たとえ、スポーツや芸能に3S政策のような側面があったとしても。

神様がこれだけの人間を地球上にあらわし、その存在を暗に認めている形になっている以上は、それを無下に否定することはやめる。

いずれは、社会が進化すれば応援や推しはなくなるのかもしれない。

あるいは、スポーツの応援や芸能の推しは、漸次収束して収斂していくことになるかもしれない。

これはわからない(ただ、今のスポーツや芸能のゴタゴタを見ると、ようやくにして様々な暗部が衆目にさらされ、綻びが明らかになってきたから、収斂に向かう可能性が高いように思うのだが)。

ただ、少なくとも現段階では、それなりに存在を認めるべきだと思うのだ。

そうして、応援や推しの行く末も、陰謀論的に汚れた社会の状況の改善も何もかも、私達の因縁を改善することに努めて、すべてのおはからいは、神様に一任するしかないと思われるのだ。

唯物論的にどんなに批判や非難をしても、結局は神様のみ心には適わない想いと行い=業想念の応報になってしまい、ダンマパダにあるように、業想念によって作られた悪い因縁因果の循環の解決はできないのだから、やはり、世界平和の祈りと守護霊様と守護神様への感謝行を含めた、できることの手は尽くして、あとは神様にお任せするしか、世の中をよくしていくことはないように思えるのである。