野上電気鉄道 廃線は避け得たのか(海南市、紀美野町) (original) (raw)

「和歌山あれやこれや」のカテゴリーでは、県内各地に伝わる歴史や伝承などを気ままに紹介していきます。

前回はわかやま電鉄貴志川線、前々回は南海電鉄加太線に関する話題を取り上げましたが、今回は野上電気鉄道に関する話題です。

(くすのき公園(紀美野町下佐々)に展示されている旧野上電鉄の車両)

野上電気鉄道(のかみでんきてつどう 地元では「野上電鉄」あるいは「野鉄(のてつ)」の略称で呼ばれた)は、日方町(ひかたちょう 現在の海南市日方)と東野上村(現在の紀美野町の一部)を結ぶ鉄道として大正5年(1916)に日方駅-野上駅(後に「紀伊野上駅」と改称 現在の紀美野町小畑)間で営業を開始しました。昭和3年(1928)には生石口駅※1(おいしぐちえき 後に「登山口駅」と改称 現在の紀美野町下佐々)まで延伸され、平成6年(1994)に廃線となるまで約80年間にわたって地域住民にとって重要な公共交通機関としての役割を果たし続けました。
※1 この駅が生石ヶ峰(標高870m)を主峰とする生石高原(おいしこうげん)への登山ルートの起点であったことからこの名が付けられた。後に改称された「登山口駅」も同様の意である。生石高原 - Wikipedia

当初の事業計画では機関車を走らせる予定でしたが、和歌山水力電気※2の協力を得ていち早く電車を運行させることとなりました。これによる副次的な効果として、野上電鉄の沿線に電力の供給が進んだことにより周辺住民が電灯のある暮らしを送れるようになったことも見逃せません。
※2 日高川に建設した水力発電所(上越方、高津尾)をベースとして電気供給事業と電気軌道(路面電車)事業を行っていた会社。現在の和歌山市海南市を拠点に路面電車を運行していたが、この事業は後に京阪電気鉄道、和歌山電気軌道、南海電気鉄道和歌山軌道線などと事業者が変転した後、昭和46年(1971)に廃止された。和歌山水力電気 - Wikipedia

こうした野上電鉄開業の経緯(その前駆となった「紀陽興業鉄道」の経緯を含む)について、海南市が編纂した「海南市史」では次のように紹介されています。

鉄道敷設ブームは、野上谷※3にも及んだ。明治29年9月9日、田渕知秋(東野上村)ら20名が、紀陽興業鉄道発起認可願を県に提供したのがそれである。資本金20万円で、日方町-大野村-巽村-北野上村-中野上村-東野上村を結ぶ12.9キロメートル足らずの軽便鉄道であったが、2年後の明治31年5月9日「その必要を認めず」と却下された。当地の明治期は、まだ鉄道の時代ではなかったといえる。

海南市史 第1巻 (通史編) - 国立国会図書館デジタルコレクション
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※3 のかみだに。現在の海南市東部から紀美野町一帯を指す地名

野上電車の開通
日露戦争前後の棕櫚業界※4の発展は野上谷の一体化を促進し、棕梠製品・木材・薪炭清酒、食糧などの多くは日方・黒江港を経由して輸送されるなど鉄道敷設の条件が整ってきたといえる。明治44年(1911)2月18日付の日方町 畑山忠右衛門ら22名の野上軽便鉄道敷設申請は、同年11月10日付で仮免許が交付されるという異例の速さであった。
この起業目論見書によると、資本金20万円、日方町-中野上村-東野上村を軽便機関車で牽引する列車で、発起人及び株引受の22名は、表24(筆者注:本項では省略)に示すように日方町10・巽村4・東野上村3・大野村1、他地方4と地元が圧倒的に多く、しかも従来の漆器取扱い業者や棕櫚・傘・蝋などの三業関係者に加えて醸造・運輸などの新しい商業関係者が着々とその地位を高めるとともに、野上谷の経済基盤の向上を物語っている。
(中略)
着工は遅れたが、初代社長 津村紀陵らは将来を見越して電化に変更、大正4年(1915)1月 和歌山水力電気の協力で工事にかかり、翌年2月4日旧暦の正月を期して、日方-紀伊野上間8.8キロメートルが開通した。運賃は表25(筆者注:本項では省略)のとおりで、一キロメートル当たり3銭3厘3毛(全線27銭)であったが、すぐ庶民になじめるほど安くはなかった。
(中略)
また野上電鉄の敷設によって、沿線の大野地区や巽・中野上地区の民家に電灯がつき、野上谷に一つの新しい時代がきた。
昭和3年3月29日、紀伊野上-生石口間2.6キロメートルが開通し全線11.4キロメートルになり、乗客数も大正9年度には1日平均1,106人、昭和4年度1,643人と増加していった(「野上電気鉄道資料」より算出)。これは、棕梠産業の発展に加えて、内海地区での紡績・染色工場の設置、更に大正11年立海南中学校(現海南高校)、昭和4年に県立女子師範学校・日方高女、昭和15年に野上町立野上実践女学校が開校し、通勤通学の主要な交通機関となったことによる。

海南市史 第1巻 (通史編) - 国立国会図書館デジタルコレクション

※4 ヤシ科の常緑樹である棕櫚(しゅろ)の繊維を使用した縄、綱、ホウキ、タワシなどの製品を製造する産業。日清戦争、日露両大戦で縄や綱が軍事目的で大量に使用されるようになったことにより、需要が急増。海南市がその中心的な産地となった。第二次世界大戦後は化学繊維を使用した製品の開発に取り組み、現在も同市は日本を代表する家庭用品の産地となっている。棕櫚について|海南特産家庭用品協同組合

日方駅~生石口駅間が開業したことで野上電鉄は全線が完成したわけですが、実はその後さらに路線を延伸し、将来的には高野山まで結ぼうとする計画がありました。そして、その端緒として大正時代後期には生石口駅~神野市場(こうのいちば 現在の紀美野町神野)間の延伸事業が着手されたのですが、残念ながら株主の反対により頓挫することとなりました。野上町(現在の紀美野町)が編纂した「野上町史」は、この事業について野上電鉄の「経営上の難局」の一つとして次のように解説しています。

高野山までの延長問題と工事の中止
大正11年(1922)10月に生石口駅から大木(筆者注:だいぎ 野上町吉野)を経て神野市場(筆者注:こうのいちば 美里町)までの延長工事の認可を受け、生石ロ-大木間は大正15年6月に、大木-神野市場間は昭和5年にそれぞれ工事に着手した。たまたまこの延長問題について、株主側の中に神野市場まで延長することは、将来の展望必ずしも楽観を許さず、むしろこの際工事を中止せよとの声が出てきた。この声はしだいにエスカレートしてついに「前進会」という組織をつくり、会社側と対抗して、延長反対運動を展開した。
しかし生石口から神野市場までの延長工事に着手していた原正組との関係もあって、三者三様の意見は激突した。この騒動の仲裁に入ったのは、玉置吉之成丞(参議院議員)と川久保得三(海南市長)で、原正組に対しては7万5000円の損害賠償を支払い、工事を中止するという話し合いが成立した。このため鉄道敷設の土地造成が中止され橋脚等はそのまま放置され、昭和39年6月24日生石口(登山口駅)-神野市場間4.7キロの未開業線の廃止が認可された。

野上町誌 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

このように野上電鉄の延伸は工事途中で中止が決定したのですが、上記引用文中にあるように、既に工事が進められていた鉄橋の橋脚などは建設途中で放棄される結果となり、現在もその一部が残存しています。

(工事中止により放棄された橋脚の一部 Google マップ

鉄道マニアの中には、こうした建設途中で放棄された鉄道(未成線)の痕跡をたどることを趣味とする人々がいるようで、この野上電鉄延伸の痕跡についてもいくつかのブログにレポートなどが掲載されています。興味のある方は「野上電鉄 未成線」などのキーワードで検索してみてください。

さて、残念ながら高野山まで延伸させようという遠大な計画は断念することになったものの開業当時は地域住民の貴重な交通手段としてそれなりに順調な経営を続けていた野上電鉄でしたが、昭和40年代以降の急速なモータリゼーション※5の進展により乗客数が急減し、昭和46年(1971)に開催された臨時株主総会廃線の方針が決定されました。

ところが、その直後に国が赤字補填のための補助金を交付する方針を決定したことから一転、廃線決議は撤回され、営業が存続されることになったのです。
しかしながら、その後も経営状況は一向に好転せず、補助金の打ち切りとともに遂に平成6年(1994)3月末をもって廃線となってしまいました。
※5 昭和30年(1955)から昭和45年(1970)頃にかけて、日本経済の高度成長とともに自動車の大衆化が進み、国内の自動車販売台数が急激に増加したことをさす。トヨタ自動車75年史| 高度成長とモータリゼーション

くしくも同じ平成6年に発行された「海南市史」には、こうした廃線までの道のりが次のように記されています。

野上電鉄の廃線問題
この野上電鉄の廃線問題を、もう少し詳しく述べることにする。野上電鉄は大正2年(1913)8月に野上軽便鉄道として創立、大正5年2月に日方-紀伊野上間の営業を開始した。そして昭和3年(1928)には日方-生石口(現登山口)間全線開通し、同年9月に、社名も野上電気鉄道と変更した。
昭和28年7月の大雨※6による貴志川の氾濫で、八幡橋が流失するなど貴志川流域は大被害を受けた。野上電鉄も紀伊野上-動木間480メートルの路線が崩壊し、復旧に2年間を要したが、この水害による被害を除けば業績は順調で、昭和40年度までは経常収支も黒字を続けていた。しかし、昭和42年度に経常収支が赤字になり、以後赤字が増大していった。乗客数も昭和39年度の321万人をピークにして減り始め、廃線決議のあった昭和46年度は227万人であった(図4 ※筆者注:本稿では省略)。その後も乗客の減少に歯止めはかかっておらず、平成3年度の乗客は62万人である。この昭和40年代始めというのはモータリゼーションの進展に伴い、地方の中小私鉄や国鉄のローカル線が次々と赤字転落・廃線に追い込まれていった時期でもあった。野上電鉄もその例外ではなく、昭和46年7月の臨時株主総会で、鉄道廃線全面バス化の方針を決定する。
翌年2月に開催された「野上電鉄対策協議会」(海南市・野上町・美里町で構成)においても、バス転換もやむなしとの結論が出され、「野上電鉄軌道廃止反対町民会議」による反対運動や労働組合による廃止反対の無期限ストライキも行われたが、昭和48年4月、会社側は第一期(登山ロ-沖野々間)の鉄道運輸営業廃止許可申請書を運輸省へ提出、廃線は決定的かと思われた。
しかし、昭和48年12月、野上電鉄を含む私鉄14社に対し補助金を交付、との閣議決定がなされた。そして翌年2月、海南市議会・野上町議会において、鉄道廃止反対の請願が採択され、会社側も同年5月に補助金の申請を行った。この補助金というのは、地方鉄道軌道整備法による助成で、補助金額は前年度の赤字額か、前年度と前々年度の赤字額の平均のどちらか少ない額となり、またその割合は国が1/2、県が1/4、そして残りの1/4を地元の海南市(57%)・野上町(33%)・美里町(10%)が負担している。
この閣議決定を受けて野上電鉄は、昭和49年5月の株主総会で、道路事情がよくなるまで補助金を受けながら鉄道を存続させることを決定、翌年2月に、運輸省に提出していた第一期鉄道運輸営業廃止許可申請書を取り下げた。その後の平成4年10月、運輸省補助金の打ち切りを通告、廃線問題が再び浮上した。
翌年6月の臨時株主総会で会社側は、平成6年3月末での廃線を決定、対策協議会もこれを了承し、80年に及ぶ野上電鉄の歴史が幕を閉じようとしている。

海南市史 第1巻 (通史編) - 国立国会図書館デジタルコレクション

上記引用文では、野上電鉄が最終的に廃線に至ったのは運輸省(当時)による補助金の打ち切りであったと述べられていますが、こうした経緯について、近藤宏一氏は「地方中小私鉄の経営活性化のための一考察(「交通権 第13号」交通権学会 1995)」において次のように詳述しています。

1.野上電気鉄道の廃止
運輸省は1992年12月、平成5(1993)年度予算案大蔵原案において地方私鉄に対する「欠損補助」の見直しの方針を打ち出し、弘南鉄道青森県)、栗原電鉄(宮城県)、上田交通(長野県)および野上電気鉄道(和歌山県)各社について、93年度の欠損に対する94年度の補助金の打ち切りを決定した。欠損補助とは、鉄道事業者が一定の経営努力を行ってもなお経常損失を生じた場合それを補填すべく国庫から補助金を支給するもので、その根拠は鉄道事業が高い公共性を持つという点に求められる。
このうち弘南鉄道上田交通はその後の経営努力によって欠損補助の対象となる水準から脱した。また栗原電鉄は「第3セクター」として地元自治体が経営を事実上肩代わりする方向で再建が進められることになった。しかし、野上電鉄については94年3月に会社が解散され、鉄道は他社の運行するバスに転換された。
そもそも野上電鉄では、1971年に経営状態悪化を理由にバス転換の方針を打ち出し、翌年には地元も廃止に合意した経過がある。ところが石油ショックをきっかけに地元の意向が変化し、その結果74年以降毎年欠損補助を受けながら運行を続けてきた。最近の欠損補助額は年5,000万円程度であった。しかし、補助の支えを得ても経営は好転せず、90年度では鉄道部門で約9,200万円、自動車部門(バス)で約4,500万円、全事業では約1億4,000万円の営業損失となり、経常損失は約2億円にも達していた。
補助金打ち切りの決定を受けた経営者は、93年6月の株主総会で同年度の経常損失が2億4,000万円に達する見通しを示し、会社解散の意向を表明した。これに対し沿線自治体は、コンサルタント会社に委託して「第3セクター」での存続の可能性も含め調査・検討したが再建の見通しが立たず、93年10月に沿線自治体1市2町で構成する野上電鉄対策協議会(会長:海南市長)が存続は困難との認識で一致した。転換バスの引き受けに地元貨物運送会社の「大十(筆者注:だいじゅう)」が名乗りをあげたことも廃止へのうごきを加速したとみられる。94年3月末に野上電鉄は会社を解散して鉄道を廃止し、バスの営業権は新事業者に譲渡した。翌日から野上電鉄の既存バス路線と鉄道代行バスは「大十オレンジバス」として運行されている。

地方中小私鉄の経営活性化のための一考察

上記引用文でわかるとおり、国の補助金打ち切りの方針が示された平成4年(1992)時点でこの補助金を受けていたのは弘南鉄道青森県)※6、栗原電鉄(宮城県)※7、上田交通(長野県)※8、および野上電気鉄道(和歌山県)の4社でした。
※6 弘南鉄道 - Wikipedia
※7 平成7年(1995)に第三セクター化に伴い「くりはら田園鉄道」へ社名変更。平成19年(2007)に解散、鉄道も廃線となった。くりはら田園鉄道 - Wikipedia
※8 平成17年(2005)に鉄道部門を「上田電鉄」として分離した。上田交通 - Wikipedia

このうち、他の3社は経営改善または第三セクター化により廃線を免れた(栗原電鉄は最終的に廃線となったが野上電鉄より10年以上長く存続した)にも関わらず、野上電鉄は補助金の廃止と同時にあっさりと廃線になってしまいました。もちろんこの背景には上記引用文にもあるとおり昭和40年代後半に一旦廃線の決定がなされていたということが大きな影響を与えているわけですが、これ以外にも野上電鉄は色々と問題をかかえていたのです。

振り返ると、昭和40年代後半、既に経営が悪化していた野上電鉄では労働組合との関係が悪化し、頻繁にストライキを起こして利用客らから悪評をかっていました。昭和48年(1973)に発行された竹重達人著「さようならローカル鉄道(産業能率短期大学出版部)」では野上電鉄について次のように紹介されており、乗客の一人がストライキに腹を立てて駅長を怒鳴りつけたというエピソードが載っています。

3 野上電気鉄道-高野山登山のアプローチ
紀勢本線海南駅のすぐそばに、青に黄帯の電車の放置した駅がある。これが野上電気鉄道日方駅である。何両かの電車は止まったままで荒れ果てており、廃止される日を待っているようだ。
野上電気鉄道は、野上軽便鉄道として大正5年2月4日に日方-紀伊野上間が開業した。昭和3年3月29日には、生石口(現登山口)まで全通した。そして、9月24日には野上電気鉄道と改称した。全線11.4キロである。
終点の登山口は高野山近辺の山への登山のための駅である。登山やハイキングの若者が、以前は年中押しかけたものだが、この電車が動かなくなってしまってからは、バスを利用したり、あきらめて別のところへ行ってしまうようになった。
青い電車は二、三両が盛んに動いている頃は、まだ良かった。しかし、近年はだいぶガタガタになっていて、冬は寒い風が窓からはいったり、天井がゆれるたびにギーギー言ったものだ。
この電鉄はここ二、三年というものは激しいストライキの連続であった。電車が動いているものと思って休日にハイキングに出かけた人々が、海南まで来てガッカリしたものだ。なかには怒って駅長に食ってかかる者も多かった。あるサラリーマンは、一家5人でハイキングに来て、ストだと聞かされ、カーッときて駅長にかみついた。
「コラ駅長!いつまでストやる気だッ!」「まことに申しわけありません。今のところ組合がいつまでするかわかりませんので、申しわけございません」「申しわけございませんで済むと思っとるんか、アホンダラ! そんならいっそ野上電鉄などといわんと、野上ストライキ電鉄ぐらいにしとけ!」
駅長は困りはてていた。ストライキが長びくにつれて電車はほこりまみれになり、きれいな青い色はくすんできたなくなり、レモンイエローの帯も変なきたない色になってきた。
ある駅長はプリプリ怒っていた。「だいたい会社が困っとる時にストやったらつぶれるにきまっとるんに。わざとストやって、収益を止めて、自分で自分の首しめるようなもんや。どいつもこいつもアホばっかりそろとる。このストでつぶれます。もうここまできたらお客はそっぽ向いてきませんやろ。えらいことしてくれたもんや」
野上電鉄は労使の対立は激しかった。その後動いたようだが、近いうちに廃止ということを聞いた。せめて最後だけは立派なお別れ列車で歴史を飾ってほしいと言うのはマニアならだれでも思うことである。この鉄道に乗ることのできるのもあとわずかであろう。
さようならローカル鉄道 - 国立国会図書館デジタルコレクション

この本が出版されたのは野上電鉄が最初の営業廃止申請書を提出した頃のことであり、この時点ではまもなく廃線となることが決定的であると考えられていました。ところが、その直後に国の補助金が受けられることとなり、営業の継続が決定されました。これを受けて野上電鉄では収益改善の取り組みを始めるのですが、結果的にこれはかなり残念な結果となってしまいます。
船坂晃弘氏が運営するWebサイト「鉄道情景の旅」には、当時の野上電鉄の取り組みについて次のように紹介しています。

● 頓挫する再生計画、そして再び廃止の危機へ
ひとまず欠損補助によって危機を乗りこえた野上電気鉄道は、まず30分間隔の運転(1日31往復)によってフリークエンシー(筆者注:発着の頻度)の向上を試みる。それまでの野上電気鉄道の在籍車輌は10両であったが、これでは最大出庫時の予備車がわずか1両となってしまうため、富山地方鉄道から余剰となった4両の電車を購入(うち1両は改造工事のさいの火災で焼失)。昭和50年2月より増回に踏み切る。しかし、オイルショックによりひとたび盛り上がった鉄道存続へのラブコールは、野上電気鉄道が危機を脱すると同時に薄れ、再び緩慢な衰退の陰が野上電気鉄道を脅かしはじめていた。結局、昭和58年1月には、野上電気鉄道は45分間隔運転(1日23往復)へと大幅な減回を余儀なくされる。
更に、野上電気鉄道にはもう一つ、頭の痛い問題があった。年々著しくなる施設の老朽化である。線路規格や橋梁の強度不足などで制約の多かった野上電気鉄道にとって、施設の近代化は並大抵のものではなかった。しかし、車輌の部品の手当もままならない以上、これは断固として行う以外にない。ところが、野上電気鉄道が建てた一連の近代化計画は、まさにお粗末としかいいようがなかった。平成2年、水間鉄道大阪府)より昇圧により不要となった電車5輌を譲り受け、老朽化した車輌の更新に当てようとした。が、モーターをはずしても車重が30tを越えるため、貴志川橋梁(沖野々~野上中間)の強度不足がネックとなり、使われないまま長らく放置されたあげく、翌年には解体されてしまった。車体はタダ同然とはいえ、輸送費と解体費だけで数百万円はかかっていたはずで、あまりにも杜撰な施策であった。その後、全国どこを探しても自社線に合った車輌がないことが分かると、野上電気鉄道は武庫川車輌に新型電車・80形の設計を依頼。この電車を走らせるために、一部の架線柱をコンクリートポールに交換する工事にも着手した。ところが、この一連の近代化計画には約10億円もの資金が必要であり、しかも財源の6割を沿線自治体からの補助をあてにしての計画であった。そのため、さすがに沿線自治体もこれには難色を示し、平成4年8月、「企業努力の不足」を理由に、近代化計画への補助を断っている。欠損補助金で長らえてきたという経緯がこのような経営体質を作り上げてしまったとは思いたくないが、あまりに情けない話だ。

第2章 最後の夏が逝く 野上電気鉄道

老朽化した車両を更新するため水間鉄道から中古車両を譲り受けたにもかかわらず、後から重量オーバーが判明して一度も使わないまま解体してしまった・・・、という話はマニアの間ではかなり有名なものらしく、はいらーある氏が管理する「不思議な転轍機」という個人サイト内の「トホホなお買い物ランキング」というページでは、この「元水間鉄道500形」という車両が見事(!)1位に輝いています。

トホホなお買い物ランキング

実際のところ、野上電鉄に対する国の補助金打ち切りが決まった時には地元でも第三セクター化して鉄道の存続を図ろうとする動きがあったのは間違いないのですが、最終的にそれをかき消してしまったのは上記引用文に記されているような経営陣の迷走体質でした。現在でもインターネットを少し検索すると野上電鉄に関する悪評がいくつも書き連ねられているのが確認できます。それほどに同電鉄の経営体制はお粗末なものであったということができるでしょう。
また、これはあまり大きくは取り上げられていないようですが、同電鉄では昭和50年(1975)に比較的好調であった観光バス部門を分社化して野鉄観光株式会社を設立しています。この行為に対して地元では、本来は観光バス部門の黒字で鉄道の赤字をカバーして会社全体で収支をバランス化するよう努力すべきなのに、国から補助金を貰えることがわかると黒字の観光バス部門を切り離して収益を温存し、鉄道部門は経営努力を疎かにして赤字を垂れ流してその赤字分を漫然と国に補填してもらう、という非常に不誠実な態度であるとの批判が高まったと言われています。

とはいえ、野上電鉄と同時期に欠損補助金を打ち切られた栗原電鉄は第三セクター化してこの危機を乗り切ったものの、それでも平成19年(2007)には廃線となってしまったのですから、もし野上電鉄がこの時に地元自治体の協力を得て第三セクター化していたとしても、いずれ廃線となる運命からは免れられなかったのかもしれません。
そう考えれば、この時分社化された野鉄観光株式会社が現在も存続し、和歌山県内では大手に属する観光バス会社として「野鉄」の名を残して順調に経営を続けていられるのは、企業判断としては必ずしも間違ってはいなかったと言えるのかもしれません。

★★★野鉄観光株式会社★★★

平成6年(1994)3月31日、野上電鉄が廃線となったその日には、全国から鉄道マニアがおおぜい集まりました。その中には、わざわざ神奈川県からやってきた武相高校鉄道研究同好会のメンバーもいて、後にこの日の様子を特集した「さようなら野上電鉄」という題名の会報誌を発行しています。ここでは、この会報誌に掲載されていた野上電鉄沿線のイラストマップを紹介してこの項を終えることとしましょう。