水郷地帯を抜けて鹿島神宮へ (original) (raw)
この夏も「青春18きっぷ」を購入し、8月4日に第1回目の旅に出かけてきた。夏らしい青い海が見たいな、と思い、大雑把な行先としては千葉県の銚子周辺を考えている。
朝4時前に目が覚めて、カーテンを開けると、窓の外の網戸にヤモリが張り付いていた。自宅でヤモリは久しぶりに見た。
4時半前に家を出て、駅まで歩く途中、今季初めてコオロギのリッリッリッリという声を聞く。連日、猛暑が続いているが、季節はちゃんと進んでいる。
年齢とともに特に夏は早起きがまったく苦にならなくなり、始発電車で出かけることも多くなったが、今日は家を出るのが早すぎて、駅のシャッターが閉まっているのを久しぶりに見た。
開いた。
小田急の始発電車でも、新宿発の下りだと歌舞伎町あたりで夜明かししてエネルギーを使い果たしたような客が多く、車内の雰囲気がだらけているのとは対照的に、上り電車だと気合を入れて早起きしてきたような人が多く、空気がシャキッとしているように感じる。
さて、新宿駅のJR改札で青春18きっぷに日付スタンプを捺してもらい、中央線快速で東京駅へ行き、地下の総武・横須賀線ホームから5時42分発の快速佐倉行きに乗車。佐倉まで行っても、そこから先は千葉始発の銚子行きに乗り継ぐことになるので、快速は6時20分着の千葉で下車。
千葉からは6時30分発の総武本線経由の銚子行きがあるが、今日は銚子へ行く前に鹿島線で鹿島神宮へ行ってみようと思うので、6時46分発の成田線経由の銚子行きを待つ。
ところが、駅のアナウンスを聞いていると、この6時46分発が大幅に遅れる見込み、などと言っているではないか。折り返しとなる電車が遅れているらしいのだが、何が原因で、どのぐらい遅れているのか、はっきりしない。
発車時刻になっても、電車は姿を現さず、銚子行きは30分以上遅れる見込みだというアナウンスがようやく流れる。折り返しとなる電車が途中で異音を感知し、安全確認を行ったというようなことを言っている。6時52分に快速の成田空港行きがあるので、とりあえず、成田まではこの快速で行こうと思い、やってきた電車に乗り込もうとしたら、隣のホームに成田方面からお客を乗せた電車が入線してきて、「成田線、銚子行」と表示されているではないか。30分以上遅れているのではなかったのか? 予想外に早くやってきたせいか、駅のアナウンスは沈黙している。とにかく、それが遅れている成田線の銚子行きではあるようなので、快速成田空港行きは見送って、その電車に乗り込んだ。
駅のアナウンスは相変わらず沈黙したままだが、車内放送では「発車の準備が出来次第発車します」とのこと。それなら10分遅れぐらいで出るのかと思っていたら、定刻より23分遅れの7時09分に発車予定と告げられ、しばらくすると7時15分に発車と変更になった。
当初の予定では千葉6時46分発で、佐原に8時05分に着くと、10分発の鹿島神宮行きに乗り継ぐことができ、8時32分に鹿島神宮着。駅から徒歩で行ける鹿島神宮に急いで参拝して、9時44分発の佐原行きで引き返して、成田線と鹿島線の分岐駅・香取(佐原の東隣)に10時01分着。10時15分発の銚子行きに乗り換えるという絶妙の乗り継ぎができるはずだったが、いきなり電車が遅れて、8時10分発の鹿島線には乗れそうにない。そうすると、予定が全体的に後ろ倒しになってしまう。鹿島神宮参拝は諦めて、ただ鹿島線を往復するだけにするか、鹿島線は乗らずに銚子まで直行するか。銚子の後は時間があれば、総武本線、東金線経由で外房線の大網に出て、車窓に海を眺めながら房総半島を一周してもいいかな、などと考えていたのだが、いきなり出鼻を挫かれた気分だ。
とにかく、銚子行きの209系6両編成は約30分遅れで7時15分に千葉を発車した。電車は左へカーブして総武本線を北東へ進む。最初は千葉市近郊の住宅地を行くが、車窓はだんだん田園風景に変わっていく。沿線には物井~佐倉間の田んぼの中を行く区間など、鉄道撮影の名所がいくつかあって、農道に三脚を立ててカメラを構えている人がたくさんいる。最近は絵になる車両が少なくなった気がするのだが、どうなんだろう。
佐倉を出て総武本線を右に見送り、成田線に入る。成田では10分停車のはずだったが、すぐに発車したので、遅延は20分に縮まった。
時折、成田へ着陸する飛行機を見上げながら、黄金色に色づき始めた稲田や白やピンクの花が咲く蓮田の広がる田園地帯を電車は走り、佐原には20分遅れのまま8時25分に到着。8時10分発の鹿島神宮行きが待っていてくれて、すぐに発車。
関東のローカル線の標準型となったE131 系の2両編成は次の香取で成田線と分かれると、左へカーブしていく。前方にすぐ長いトラス橋が見えてきて、利根川を渡る。遠くに筑波山が霞んで見える。
利根川というと下流域では千葉と茨城の県境を流れているイメージだが、ここでは対岸の十二橋駅もまだ千葉県香取市である。
電車は平坦な田園の中を高架橋で進むが、この一帯は中世の頃まで香取海(かとりのうみ)と呼ばれる内海であった。水郷地帯を行く鹿島線はほとんどが昔の海の上を走る路線でもある。
(霞ヶ浦と利根川本流をつなぐ北利根川。これが昔の利根川の流路でもある)
利根川の旧流路で、霞ケ浦(西浦)から流れ出てくる北利根川(常陸利根川)を渡ると、茨城県に入り、潮来に到着。潮来というと、橋幸夫の顔と歌声が思い浮かぶのは昭和の人間だけか。
潮来の次が延方で、駅に着く手前から前方に北浦の水面が見えてくる。そして、延方を出ると、1,236メートルもある長大な北浦鉄橋を渡り、8時48分頃、約16分の遅れで終点の鹿島神宮に到着。水戸まで通じる鹿島臨海鉄道との乗り換え駅である。
さて、ここまで来たからには、関東でも屈指の古社である鹿島神宮まで行ってこよう。徒歩で8分と書いてある。鹿島神宮に参拝するのは2000年の春以来だから24年ぶりである。
いま乗ってきた電車はすぐに折り返してしまうが、その次の佐原行きは9時44分発で、1時間弱ある。行って、拝んで、帰ってくるだけなら、楽勝だろう。前回は確か25分ぐらいで慌ただしくお参りしてきた記憶がある。
高架の鹿島神宮駅の前は無駄に広い感じで、いくらか殺風景にも見えるが、これだけ平坦で、広々としているのは、開発前は水田地帯で、その前は湿地、もっと前は海だったのだろう。朝からカンカン照りで暑い。
ここは剣豪・塚原卜伝(1489-1571)生誕の地であるそうで、マンションを背に銅像が立っているのを見ながら、台地上へと坂を登っていくと、鹿島神宮の参道になり、大鳥居をくぐって、境内に入る。
常陸国一ノ宮である鹿島神宮は初代・神武天皇元年の創建という伝承を持ち、その真偽はともかく、常陸国風土記や延喜式神名帳に記載されるなど、古代から存在したことは確実な大変古い神社である。祭神は武甕槌(タケミカヅチ)大神で、日本書紀によれば、香取神宮の祭神・経津主(フツヌシ)大神とともに高天原から出雲の国に降り、大国主命と交渉して、国譲りを実現させ、日本の建国に大きな役目を果たした神とされる。古来、皇室の崇敬を受け、古代日本を事実上支配した藤原氏の氏神ともなり、その後も武力の神として歴代の権力者の尊崇も集めてきた。
北浦と鹿島灘に挟まれた南北に長い台地の南端部に位置する鹿島神宮の神域は鬱蒼とした森に覆われ、その広さは東京ドーム15個分に相当するという。厳かな雰囲気を漂わせているが、水戸の初代藩主・徳川頼房により奉納された楼門(国重要文化財)は現在、修理中で全体がシートに覆われていた。
(2000年3月の鹿島神宮。正面が朱塗りの楼門)
その修理中の楼門を通り抜けると、右手に本殿があり、これは拝殿とともに2代将軍・徳川秀忠の寄進による建築。もちろん、重要文化財である。その背後には鹿島神宮の境内でも最も古くて大きいスギが聳え、ご神木となっている。樹齢は約1,300年、高さはおよそ40メートルとのこと。
拝殿の奥に本殿。元和五(1619)年の建築。北向きに建てられている。
前回は時間がなくて、ここで手を合わせただけで引き返したが、今日はもう少し時間があるので、さらに奥へと向かう。
県指定天然記念物の鹿島神宮樹叢。スギやヒノキ、モミ、タブ、スダジイなどの巨樹がそびえ、北方系と南方系の600種にも及ぶ植物が混在しているのが特徴だという。
ウグイスがさえずり、ニイニイゼミやアブラゼミ、ミンミンゼミが賑やかだが、関東にはもともと生息しなかったクマゼミがここでも鳴いていて、ヒグラシの声も聞いた。
奥へと参道を行くと、左手に鹿園がある。鹿は神の使いとして大切にされ、奈良の平城京に春日大社を創建した時にも鹿島神宮の御分霊を鹿の背に乗せて遷したという伝承がある。
鹿島神宮の鹿はJリーグ鹿島アントラーズの名前の由来にもなっている。
さらに奥へ進むと、右手に奥宮。
これは徳川家康が慶長十(1605)年に関ケ原での戦勝の御礼に本宮として今の本殿の位置に建立したのを、その14年後に秀忠が新しく本殿を奉納したため、現在地に遷座して奥宮としたのだという。奥宮も北向きである。北方に対する守護、あるいは創建の頃はまだヤマトの朝廷に服属していなかった東北のエミシ(蝦夷)を神威によって制圧しようという意思の表れだろうか。
この奥宮の前から北へ坂を下ると、御手洗池がある。台地の裾からこんこんと水が湧き、その湧出量は1日40万リットルにもなるという。それが澄んだ池となり、コイが泳ぎ、オニヤンマが飛んでいる。かつては参拝前にここで禊をしたのだそうだ。ということは、こちらからが昔の表参道だったということか。
再び坂を登って奥宮まで戻り、今度は奥宮の裏手へと進むと、要石というのがある。
鳥居が建ち、石の柵で囲まれた中に饅頭形の石が地中からのぞいていて、人々はそれを順番に手を合わせて拝んでいる。石を拝むというのは日本古来のアニミズム的な習俗であるが、この要石と呼ばれる霊石は地中深くまで埋まっていて、地震を起こす鯰の頭を押さえているのだと言い伝えられているそうだ。徳川光圀が一体どれほど深くまで埋まっているのか、と七日七晩にわたって掘らせたものの、底まで到達できないばかりが、怪我人が続出したので、掘り出すことを断念したという。
細かく見れば、見どころはまだまだあるが、時間もないので、これで駅に戻ることにする。御朱印を頂こうかと思ったが、そうなると、たぶん次の電車に乗り遅れることになりそうだった。
坂を下っていくと、駅には鹿島臨海鉄道のディーゼルカーが停車中で、そこへ鹿島線の電車もやってきた。先ほどの電車が佐原まで行って、また戻ってきたのである。
つづく