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平安時代の神戸市へいざ、タイムトラベル!
夢枕獏さんの小説「陰陽師」ですっかり有名になった安倍晴明!私も虜になって、全巻読み漁った一人です。
陰陽師・安倍晴明は花山天皇から信頼を得て重用されるようになり、花山天皇退位後は一条天皇や藤原道長から篤く信用された人です。
ちょうど、大河ドラマ「光る君へ」の時代と重なります。
933年、一条天皇が病に罹った際、
清明の禊(みそぎ)により回復したというはなしや
1004年に旱魃(かんばつ)で民が苦しんでいる時、清明が雨乞いの五龍祭を行うと直ちに雨が降ったので、一条天皇からご褒美をもらった。というはなしが残っています。
NHK大河「光る君へ」第30話でこの雨乞いのシーンが描かれています。ユースケ・サンタマリアさんが、安倍晴明役をされています。
大河「光る君へ」から
神戸市西区平野町にある「慶明寺(けいめいじ)」に、この安倍晴明が自ら刻んだ「梵字の石」が祀られているのをご存知ですか?
自然石に彫られていて、風化が激しく見えにくくなっているのがとても残念!
でも、なんとなく三つ丸く浮き上がって見えています。
そもそも、本当に安倍晴明はこの地に居たのでしょうか…
居たのです! 住んでおりました。
兵庫県の播磨という国は、陰陽道の聖地といわれ研鑽・修行の地でした。
そして、安倍晴明はこの聖地播磨に睨みを利かせるため、朝廷から播磨の守に任じられています。
播磨の国 慶明寺の所在地
播磨の国の地図は、https://www.shiseki-chikei.com/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E4%B8%89%E7%99%BE%E8%97%A9-%E5%9F%8E-%E9%99%A3%E5%B1%8B/%E8%BF%91%E7%95%BF%E5%9C%B0%E6%96%B9%E3%81%AE%E8%AB%B8%E8%97%A9/%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E8%97%A9-%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C/よりお借りしました
地図で見ると、慶明寺は播磨の国の南東あたりでしょうか・・・
「播磨鑑」によると、花岡山に安倍晴明が住んでいたことや、清明手植えの松の絵が描かれています。この、手植えの松もこの慶明寺に残っていたようですが今は、流石にありません。
この慶明寺は、1281年法外圓和尚によって開山された禅寺です。
ん?禅寺?1281年?
ということは、慶明寺が開山される時にはすでにここに、刻まれた清明自筆の梵字の自然石があったということになります。
何ゆえに、安倍晴明がこの自然石に梵字を彫ったのかというと、播磨の守に着任した当時「花岡山」という所に悪党・花岡太郎の霊が荒れ狂っており、清明が梵字を刻んだ石の下にこの霊を封じ込めたと伝えられています。
慶明寺の石碑の碑文には「この辺りの村民を悩ませていた難題を解決した証しとして、安倍晴明の手により印されたものと伝えられている」と書かれていますが、慶明寺のHP慶明寺について | 慶明寺 には、花岡太郎が出ています。
ところがなんと!陰陽師 ~晴明と道満~ | 兵庫県立歴史博物館:兵庫県教育委員会 によると、花岡太郎という人物は鎌倉時代の悪党だそうな。。。
播磨鑑が書かれたのは江戸時代
1762年に姫路藩主に播磨鑑を献上した記録があるので、安倍晴明が活躍した時代からおよそ千年後に書かれたものだから、時代考証も何もあったものではない。
兵庫県立歴史博物館・兵庫県教育委員会の言葉を借りれば、「それだけ清明がスターだったということなのだろう」ということになりますね(笑)
☆ ~ ☆ ~ ☆ ~ ☆ ~ ☆ ~ ☆ ~ ☆ ~
陰陽師について
飛鳥時代に桓武天皇により設置された「陰陽寮」に所属する官僚のこと。
今でいう国家公務員です。
奈良時代から平安時代初期の彼らの仕事は、天体観測による暦の作成・時刻の管理・占いによる国政のサポートや風水を行うことでした。
例えば新しい都を作る時に、相応しい場所を見付けたり・その土地の吉相を占うことは国家にとって重要事項で、それを担当する陰陽師の責務も重かったようです。
ところがこうした陰陽師の仕事内容に変化が起きたのが、平安中期以降・藤原氏をはじめとする貴族階級が政治の実権を握り出した頃です。本来は朝廷のために働く国家官僚だったのが、貴族たちと私的に結びついてコンサルタントのような役割も担うようになっていきます。
貴族たちの生活の吉凶を占ったり、密かに祭儀を行ったり、病気や怨霊・祟りなどの原因を探り祭儀やお祓いをするなど、特殊な能力を持つ呪術師としての色合いが強くなっていきます。
正に、私たちが知るところの安倍晴明!
安倍晴明は、921年2月21日に生まれ 1005年10月31日に没・享年84歳!なんと当時としては記録的な長寿です。だからなのかその死後も「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」など数多くの説話に登場して、母がキツネだった!式神を使ってカエルを殺した!などという逸話を通して、超有名人に仕立て上げられています。
時の天皇や藤原道長ともつながりが!意外と知らない?陰陽師&安倍晴明のお仕事|最新の映画ニュースならMOVIE WALKER PRESS によれば、これらは清明を広告塔にして、陰陽道の呪術や祈祷の威力をアピールするのに利用したとのこと。
あり得る話ですね。
平安時代の神戸・・・
そして、安倍晴明・・・
私の妄想は止まりません (≧▽≦)
播磨鑑については、下記を参照しました。
『播磨鑑』(はりまかがみ)平野庸脩 | 五郎のロマンチック歴史街道
いいね。やっぱり神戸が好き。
もっと KOBE ずっと KOBE
ではまた次回をお楽しみに♥
関連過去ブログ
書店が減っている。全国的に。街の小さな書店だけでなく大型書店も減少の一途をたどっている。活字離れ、電子書籍化など色々と要因はあるようだ。電車に乗っても、スマホを見ている(いじっている?)人がほとんどで、本を読んでいる人は少なく感じる。全国的な書店の減少傾向の中で、神戸も漏れなくそのような状況だ。今回の記事では、昔をちょっと振り返りながら、今の神戸の Books 事情を書いてみようと思う。
中学生の頃は、元町には、西から順番に、宝文館、海文堂、日東館、京町筋には漢口堂と大きな書店がたくさんあった。三宮のジュンク堂書店は高校の頃の開業だったと記憶している。現在は、三宮のジュンク堂書店が残っているだけとなっている。(宝文館は教科書専門の学友書房となった)
夏休みの課題図書をどう解説して、どの本を薦めるかというのが各書店の腕の見せどころのようなところもあって、いくつもの書店を渡り歩く楽しみでもあった。
上が海文堂のブックカバー
下がジュンク堂書店のブックカバー昔と今
個人的には海文堂書店の閉店が一番ショックだった。2013年だったかな。好きだったブックカバーに見られるよう「海や船」が特徴。2階の売り場にあった海事書や海図に関しては、おそらく日本でも一番揃っていたのではないだろうか。港町神戸らしい特色のある本屋だったので、とても残念だった。
本そのものも時代とともに変わってきている。昔はなぜか箱に入っていた。箱に入ったものが減ってきたら、ハードカバーはビニルでカバーされたりするようになってきた。だんだんと簡素化されてきて、硬い表紙のものは減ってきた。読書スタイルもきっと変わってきたのだろうと思う。移動中の電車の中とかで読むなら新書や文庫のサイズが扱いやすい。そして、本屋さんに一番インパクトがあったのが電子書籍ではなかろうか。
生活スタイルの変化とともに本そのものも変わってきたのか
若者の活字離れに関しては、このブログで扱うテーマではないので、ここで語るのはやめておく。
さて、書店が減ってきているという全国的な傾向の中で、最近、古書店をポツポツ見かける。増加傾向とまでは言えないが、前よりは増えてきているような気がする。昔からやっている店もあれば、最近出店の店もある。元町界隈に多く見かけるのでいくつか紹介しておこう。元町商店街を6丁目(神戸駅側)から歩いていくと、文紀書房という古書店がある。ここは美術・書道・能楽などの関連が多いようで。私の得意分野ではないので上手に紹介ができなくごめんなさい。
店主もご高齢のようで開店の準備が大変そうだった
4丁目には「こうべまちづくり会館」という施設の1階で古書を扱っている。ここは、普通に2nd hand book と言える。少し前の雑誌や、文庫本も多い。
店の前のワゴンでは中古CDの販売もやってる
同じく4丁目には「神戸古書倶楽部」というお店が地下(半地下?)にある。けっこう広い。かなり古い本がたくさんある。そう、古いんですよ。ブックオフとかをイメージしていると全然違うので注意。一世代前と思った方がいい。昔の「SFマガジン」とか「ミステリマガジン」とか「奇想天外」とか好きな人には、おすすめのお店。私もよく立ち寄ります。
じっくり古い本を探す人におすすめ
3丁目には、元町商店街の1本北の筋を入ったところに「花森書林」というお店がある。ここは古書と雑貨を販売している個性的なお店。お店の中には所狭しと本や雑貨やCDが置いてある。
同じく3丁目には「清泉堂」がある。ここは創業は古いようで、店舗の場所が、三宮サンパル、センタープラザから移転してきた。新旧バランスがよく、本も整理されていて、とても見やすい。特筆すべきは2階の郷土史だ。お店も入りやすい感じ。
左が花森書林 右が清泉堂
2丁目の「うみねこ堂書林」は、ミステリー好きにはたまらないお店だ。国内外を問わずいけてる。横溝正史とかこれだけ揃っているところは珍しいかと。JAZZ喫茶「M&M」が2階にあり、その入り口が店の横にある風景が何とも神戸らしい。
元町商店街より南の栄町通1丁目には「1003(センサン)」という書店がある。乙仲通りにある東方ビルの5階にあり、場所は、ちょっとわかりにくいかもしれない。入り口の写真しかなくて店の雰囲気がわかりにくいかもしれないが、古書店には珍しく書棚と平積みがある。本は新しいめのものが多い感じだった。古書店というよりは、ちょっとおしゃれな空間という感じだ。
どちらも大きくはないが個性的なお店
ちょっと、話は脱線するが、古書に興味を持つようになったきっかけの一つに「ビブリア古書堂の事件手帖」という本を読んだことがあげられる。ミステリと言っても、いわゆるライトノベルで、ガチのハードボイルドとは違って物足りなさはあるのだが、古書流通の仕組みや、古書業界独特の商習慣や、古書そのものの価値などが詳細に書かれており、興味深いものがあった。サラッと読めるので、本好きの人にはおもしろいかも。
表紙だけ見るとコミックスみたいだ
大型書店が次々と閉店していく中で、古書店が「本」の文化をかろうじて繋ぎとめておこうとしているのかもしれない。続いてほしいものだ。実は、以前紹介したメトロ神戸にも「古書のまち」は存在していて3店舗ほどあったのだが、閉店してしまったようだ。元町界隈で港町の文化や個性を残しながら、新刊・古書に限らず書店文化は残ってほしい。
いいね やっぱり神戸が好き
もっと KOBE ずっと KOBE
ではまた次回をお楽しみに ♣️
子どものころ何も思ってなかったことが、大人になって「へえぇ~」って思うひとくち話を紹介します。
少しかわった⁉ 神戸の姿でわらわら(笑笑)してね。
おそろいのガラスコップ
むかしの小学生は、友だちに家に遊びにいくと勝手に水を飲みます。(今もかな?)
そのとき「うちのコップとおんなじやん!」と何軒かのお家で思うのです。
おそろいなのは、なんかうれしくて仲の良さが増したみたいな気になっていました。
でもある日、そのコップの出所がわかったのです。
なんとそれは食器店はなく、ちょっとエエお菓子を売ってるモロゾフ。
モロゾフは、1931年8月にトアロードでロシア人のフョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフ氏が創業。チョコレートの製造販売からスタートしました。
そういえばモロゾフさんっていう家族が、プールやハト小屋があるヒマラヤ杉が何本も植わっている洋館に住んでました。
お菓子店と喫茶店が併設された、三宮にあったコスモポリタンって店でそのお家の奥さんがレジしてたけど、なんか関係あるのかも。。。
※奥さんのヘアスタイルがユニークで、女子高生の間で「ソフトクリームおばさん」って呼んでました。
コップに話を戻すと、モロゾフでコップが売ってたんじゃなくて、売っていたのはプリン!
そう コップとして使っていたのは、プリンの容器だったのです。
今みたいに資源回収がないから、コップとして活用していたんだ。
ええとこ ええとこ 「しゅーうらっかん」
祖母や母がお化粧をして出かけるときに「どこ行くん?」と聞くと、
「ええとこ ええとこ しゅーうらっかん!」と返ってくる。
夜になると、出かけた先が親戚の家や会合だとお土産で判明する。
連れて行ってもらえないときの外出は、いつも「ええとこ ええとこ しゅーうらっかん!」というのが、いつの間にかうちの家のならいになっていました。
あるとき「どこ行くん?」って友だちに聞かれたときに、「ええとこ ええとこ しゅーうらっかん」って言うと、「もったいぶらんと!ほんまはどこなん?」って詰め寄られたことあり、それ以来共通の表現だと思っていました。
そもそも「しゅーうらっかん」って何?
桃源郷やユートピアみたいなもんやと思っていたら、ほんまに存在する施設のこと。
「聚楽館」と書き正しくは「しゅうらくかん」読みます。
兵庫区の新開地にあった劇場で、1913年(大正2)に開館して西の帝劇と呼ばれるぐらいの有名なとこだったそうです。
鉄筋三階建て・地下一階の洋風劇場で収容人数は1,200人、冷暖房完備は当時はそりゃスゴイもんやったっんでしょうね。
神戸モダニズムを代表する近代劇場でしたが、昭和になって映画館とスケート場の複合施設になり、1978年(昭和53年)に閉館し65年の歴史を幕を閉じました。
今想像しても群を抜いて立派な劇場だったことがわかり、「ええとこ」やったことに納得しました。
どこでもJAZZ
だいぶん前のことですが、仕事で神戸に来ていた知人から
「神戸って、居酒屋でもどこでもJAZZが流れていますね。」と言われた。
ええッ!そうなの?
意識して聞いてみると、確かにお好み焼き屋・ヘアサロン・生花店・歯医者でもJAZZが
BGMとして流れていましたが、自然で違和感を感じません。
特別な音楽という意識が全くなかったのですが、学生時代に音楽は何が好きかと聞かれ、自然に「ジャズ」と答えると難しい音楽が好きだんだね、と言われたことが何回かあったなぁ。
音楽をしている人にはJAZZは難しいジャンルなんやと思ったことがありました。
2022年に出ていた記事に
“1923(大正12)年4月、バイオリン奏者で「日本のジャズの父」といわれる井田一郎が、神戸で結成し、市内のホテルなどで演奏を披露した。
ここから神戸が日本のジャズ発祥の地とされる。 江戸末期に開港し、外国文化がいち早く流入した街では、19年に旧神戸オリエンタルホテルでフィリピン人楽団がジャズを奏でるなど、土壌があった。”(神戸新聞NEXTからの引用)
神戸のJAZZにはそんな歴史があったとは、JAZZはだし味でもトマトソースでも、どんな場面でもなんにでも合うあう素敵な音楽。
以前 マスターのお話を紹介した、JAZZ喫茶の木馬はむかしは大きな音量でJAZZがかかっていて、お客さんはみんな静かに音楽を聴いていたなぁ。
いいね。やっぱり神戸が好き。
もっとKOBE ずっとKOBE
ではまた次回をお楽しみに♦
JP六甲道から三宮神社までを走る神戸市バス2系統のバスを旅してみました。
🚏JP六甲道
JP六甲道駅の山側にバスターミナルがあります。ターミナルの隣はフォレスタ六甲、六甲本通商店街が広がりいつも庶民的な賑わいを見せています。市バス2系統はここを始点にしています。
庶民で賑わう六甲本通商店街
(「神戸市商店街連合会」HPより引用)
🚏阪急六甲
阪急六甲は神戸大学、松蔭女子学院大、親和女子、六甲学院など学生の玄関口になっており、昔から寂れることなく、学生さんであふれ、カフェや飲食店、小物店などの専門店が入る比較的小規模なビルがたくさんあります。また、高級住宅地でもあり戸建住宅や高級マンションが六甲山の麓まで広がっています。
阪急六甲バス停と近隣の様子
🚏六甲登山口
ここは交通量も多く、鶴甲に行く道と三宮方面に行く道の分岐点です。六甲山を間近にして神戸らしい雰囲気を作っています。
交通量の多い六甲登山口交差点と西方向の街並み
🚏篠原2丁目
六甲川を越えた辺りは昔からの石垣で囲まれた住宅や新しいマンションが目立ちます。その中に綺麗な教会があり人々が集まっていました。
篠原2丁目付近のまちと六甲川
🚏護国神社
護国神社は、古来からの八百万の神々を祀った神社とは違い、もともと明治天皇の命で設立された明治維新に伴う一連の戦いで殉死した兵士の英霊をお祀りしており、戦没者の鎮魂のための神社です。全国に52社あり兵庫県にはここと姫路の2ヶ所です。
元の関西学院跡に建立された荘厳な社殿は昭和20年の戦災で全て焼失し、昭和34年に新社殿が現在の場所に復興されました。
少し山手になりますが灘丸山公園は素晴らしいところです。隣が神戸製鋼の保養所になってるみたいで、アスレチックの設備や芝生のグランドが広がっています。こんな良いところがあるのは知りませんでした。
芝生のグランドが綺麗な灘丸山公園
東には大阪湾、西には神戸のまちが見渡せる
アスレチックや滑り台、バスケットゴールの設備
🚏五毛天神
2系統のバス道から摩耶ケーブル下を結ぶ400メートルの坂道に約70本の桜が育てられています。シーズンには道の両側から覆いかぶさるように桜のトンネルが出来ます。
桜の季節にぜひ来てみたい
🚏五毛天神
江戸中頃までは五毛天神、1736年からは河内國魂(かわちくにたま)神社と呼ばれているようです。
獅子の手水がかわいい五毛天神
🚏神戸高校前
創立128年目を迎える県下で最も伝統ある高校の一つ。旧制中学からの卒業生は4万8千人に達しているようです。村上春樹など有名人も多数輩出しています。
かなりキツイ坂道の上にそびえる神戸高校
🚏青谷
神戸海星女子学院大学、附属の中学校、高等学校、小学校が、王子動物園の北側一帯の広大な土地に集結しています。ローマ・カトリック系のミッション・スクールでシンボルのマリア像や十字架が美しいチャペルなど落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
夜になると手が動くと噂が広まった海星女子学院のマリア像
地元で愛されている老舗のパン屋さん「青谷ベーカリー」が目立っています。この辺りは六甲山麓の坂道に沿って昭和からの住宅が密集しています。道路は一方通行の坂道が多く、運転は苦労しそうです。
青谷ベーカリーがよく似合う庶民的なまち
🚏野崎通3丁目
クリニックの看板はいくつ見えますか?
🚏熊内5丁目
バス停のすぐ横が神戸市文書館です。「新修神戸市史」編集のために収集した資料を中心に、神戸市域に関する歴史的・文化的な価値のある文書や資料類及びその複写物などを保存しています。「新修神戸市史」は神戸についての本格的な通史として、「歴史編」「産業経済編」「生活文化編」「行政編」の4編で構成し、各編4巻、全16巻の刊行を計画し、12巻が2020年までに編纂されています。神戸市H Pで閲覧することができます。
バス停のすぐ横が神戸市文書館
🚏布引
新神戸駅周辺は生田川沿いに公園が整備され、桜の季節には花見の人で混雑します。今は地元の人がのんびりと昼下がりの時間を楽しんでいます。
公園内には連翼亭(れんよくてい)と百龍嬉水(ひゃくりゅうきすい)という、神戸市と中国天津市の友好都市提携20周年を記念して、天津市から贈呈されたモニュメントがあります。生田川の護岸に貼られた大理石の百龍嬉水は「賢人が次々と生まれ育ち、世の中が平和で大いに栄え、発展する様子を表しています」、と説明されています。
生田川はもともとは今のフラワーロードに沿って流れ、何度も洪水を引き起こし、広大な砂地の扇状地には競馬場があったようです。洪水対策として布引から真っ直ぐ海に河川を付け替え整備したのが今の生田川です。
新神戸駅周辺
公園内の連翼亭と対岸の百龍嬉水
🚏地下鉄三宮駅前
昨年、三宮再開発の一環で阪急三宮のビルとその前の公園が新しくなりました。昭和11年に建設された旧ビル(神戸阪急ビル東館)は市民に親しまれた三宮のシンボルでした。そのデザインを取り入れた新しいビルが誕生しました。
阪急三宮ビルの新旧比較、昔の方がかっこいい!
(旧ビル写真は大林組HPより引用)
🚏三宮センター街東口
「神戸阪急」の外観は旧そごうのままですが、内装は昨年、全館リニューアルオープンしました。「『神戸阪急』ではない。『神戸の阪急』になるのだ。」をスローガンに、地元神戸のお客様と素敵な神戸暮らしを共創していく百貨店を目指しています。
昔の「そごう」が「神戸阪急」に生まれ変わった
🚏市役所前
神戸市役所の海側にはリニューアルされた東遊園地が広がっています。全面芝生が敷設されて季節に季節にイベントが開催されます。東遊園地は1868年に神戸居留地の外国人が使う日本初の西洋式運動公園として歴史が始まりました。2022年にはユニークなこども図書館「こども本の森 神戸」が開館して、2023年に東遊園地再整備工事が完了して、市民の新しいくつろぎの場として定着しています。
生まれ変わった東遊園地は市民の憩いの場所
(「神戸まちガイド」HPより引用)
🚏三宮神社
神戸市バス2系統の最終ターミナルです。三ノ宮神社は一宮から八宮の神社の三柱目に当たり「三宮」の地名の由来になっているようです。境内には「史蹟 神戸事件発生地碑」が置かれ、明治元年(1868年)に備前藩兵と外交兵の衝突が発生して、明治政府初の外交事件となりました。
最終ターミナルの三宮神社
バス路線に沿ってまちの様子をレポートしました。六甲山麓のまちは川を渡る度に雰囲気が変わり、変化を楽しむことができました。
いいね。やっぱり神戸が好き。
もっとKOBE ずっとKOBE
ではまた次回をお楽しみに♠️
7月から新紙幣が発行されましたが、手にされましたか?
¥10000 = 渋沢栄一 * ¥5000 = 津田梅子
¥1000 = 北里柴三郎
このお三方の中に、神戸と縁のある方はいないかと
調べてみたら、お一人いました!
我々が一番、手にする機会が多い庶民のお札
¥1000 紙幣の 北里柴三郎氏
~ 北里柴三郎氏と神戸 ~
北里柴三郎氏は、破傷風菌培養や血清療法開発・ペスト菌発見!など日本の微生物・細菌学者です。
門下生には、野口英世もいます。
1892年(明治25)留学先のドイツから、当時日本に蔓延していた伝染病(コレラ・赤痢・結核など)を治すために帰国し「私立伝染病研究所」(現 東京大学医科学研究所)を*1)福沢諭吉の、土地と資金援助で創立しました。
1894年(明治27)香港で蔓延していたペストの調査で香港に赴きペスト菌を発見します。
時は1899年(明治32年)神戸港に停泊していた商船で、日本初のペスト患者が発生しました。そして、第一回目の流行が神戸市で同年11月から、大小の流行が大正時代末まで続きます。
日本海軍は、明治時代から神戸沖や横浜沖で、幾度も観艦式を行っていました。
明治41年11月中旬に、神戸沖で観艦式を行う予定でした。ところが、神戸市では第三回目の流行中で、この年の秋になってもペストの患者が確認されていました。
そこで政府は、神戸市のペストの流行状況についての調査を北里柴三郎氏に依頼し、同年11月5日に北里柴三郎氏は神戸に向かい調査し、その調査結果を内務大臣に下記のように報告しました。
『神戸市内におけるペスト患者は、目下東は葺合配置部、西は兵庫配置部に限り有菌鼠もこの部面に在り。この両部面を以て病毒伏在の区域と認む。其の他の部面は一般衛生状態よし。観艦式御施行になりても十分注意あれば、別に差支えなきものと認む』
気を付けて行えば、観艦式やってもイイよ~!と報告してます。北里柴三郎氏は、実際に神戸に来ているのですね。
このペストという病気は、明治32年に日本で初めて確認されてから、大正15年あたりまで大小の流行を繰り返していましたが、昭和に入ってから国内での感染報告が無く、現在では国内での感染の可能性は極めて低く安心して良いようです。
感染ルートは、ペスト菌に侵されている鼠に付いているダニから、人へと感染するのが主のようです
☆ ☆ ☆ ☆
日本の観艦式の始まりは
1868年(明治元年)明治天皇が大阪天保山沖で、各藩の軍艦を視察したのが始まり
観艦式とは
観閲官が艦隊を観閲することで部隊の士気を高めたり、舞台に対する国民の理解を深めたり、国際親善や防衛交流を促進するのが目的です。
丁度、北里柴三郎氏が香港のペストを調査していたころ(明治27年)日本では、日清戦争が起こり日本軍兵士の士気を高める必要があったので、神戸沖での観艦式が実施されるのは大きな意味を持つものだったのでしょう。
そこに、北里柴三郎氏のお墨付きがもらえたことは政府にとって、とても有難かったのではないでしょうか。
PS:今でも、3年に1度の割合で海上自衛隊による観艦式が行われています
観艦式(防衛省HP フォトギャラリーより)
これから、新千円紙幣の北里さんを見るたびに ペスト菌 と 観艦式が 頭の中に浮かびそう…
*1)福沢諭吉(前 1万円紙幣)
この方も神戸とご縁のあるお方で、
現在のトアロードあたりに複数の土地を所有していたり、神戸っ子には馴染みのある「県商」といわれる、兵庫県立神戸商業高等学校の前身の「商業講習所」の設立に協力していました。
神戸って、歴史的に有名な人が関わっているスゴイ街なんですね!
いいね。やっぱり神戸が好き。
もっと KOBE ずっと KOBE
ではまた次回をお楽しみに♥
明治維新がもたらすモダンな文化の象徴のように紹介されることが多い神戸だが、その神戸と元町の間、今では街のど真ん中になるが、戦国時代にはそこにお城があった。花隈城である。(旧い資料には花熊城と書かれているのも見たことがある)台風が来る前に、この花隈近辺をウロウロしてきたので記事にしておこう。
JR沿線北側でJR元町駅とJR神戸駅のちょうど真ん中あたりに石垣で作られた公園がある、花隈城がここにあったよということを記すための花隈公園である。公園は石垣造りの上にあり、下は駐車場になっている。「花隈駐車場」と言えば、神戸のタクシーでは間違いなくわかってもらえるだろう。
いかにもお城があったと言わんばかりの石垣
ちょっとだけ歴史のおさらいを。戦国時代の終わりぐらい、織田信長が背後に武田勢の勢いを感じながら、畿内に勢力を拡大しようと戦を繰り返していた。浅井氏を滅ぼし、比叡山延暦寺を攻め、何とか畿内を制圧したあと、背後の武田勝頼を長篠の戦いで滅ぼした。で、次はいよいよ西国の方へ進出となり、最大の難敵は毛利氏となるわけ。その前線基地として花隈城を荒木村重に構築させた。ところが、荒木村重は毛利側に寝返ってしまい(謀反ですな)、織田信長と戦うことになった。結局、織田信長はこの花隈城を池田恒興(つねおき)に落城させ、その廃材を利用して兵庫城を構築したとか。そういうお城だったんですね。
ところどころに城跡の証がある
花隈の今の地形から見ても、JR沿線北側からけっこうな勾配で登って行く丘のような地形なので、この辺に築城したなら、見通しは良かっただろうと思う。
公園の周囲の勾配はこんな感じ
公園の中には、天守はこんな感じだったかというような石垣の展望台がある。(実際の天守の場所は違う)
天守のような展望台からは JRの高架を眺めることができる
今の花隈公園は花隈城跡として、後から造られたもので、花隈城は公園よりももっと広大なものだったと思う。公園は本丸があったと言われるところに造られているが、その天守はもっと北西にあったようだ。今の福徳寺の正面に花隈城天守跡の石碑があった。さらにその北側に二の丸、三の丸があったと言われている。地下鉄が通っている山手幹線あたりまで城郭があったということやね。
ここが天守だとすれば、花隈城はけっこう大きかったと思う
今や街のど真ん中に石垣の公園があって「おや?」と思うような所だが、歴史上は重要な拠点だったんですね。
そんなことを考えながら、花隈公園の北あたりをブラブラしていると「厳島神社」を見つけた。「厳島神社?広島だろ!」って言われそう。神社の鳥居の脇にある立て看板に説明が書いてあった。約800年前に平清盛が福原京を造ったときに、清盛が崇敬していた広島の厳島神社より七社を神戸に勧請したと。
ん?って思ったが、説明を読んで納得
あれ? ここは花隈城の二の丸あたりがあったところやないの? どうやらこの神社は最初は宇治川尻にあって、そのあと今の中央郵便局のところに移され、最終的にこちらに移されたとか。それも立て看板に書いてあった。納得。
七社は清盛七辯天と呼ばれているみたい。
色んな辯天さんがあるんや
小さくても厳島神社を語る理由は、ちゃんとあったということやね。
そう言えば、以前のブログで祇園神社の言い訳(?)をしたことを思い出した(笑)
JRの駅で言うと、三宮、元町、神戸界隈はよく紹介されることはあるが、神戸と元町の間にある花隈にもちょっとした歴史があったというお話。元町あたりに遊びに来たときに、ちょっと足をのばしてみるのもいいかと。
いいね やっぱり神戸が好き
もっと KOBE ずっと KOBE
ではまた次回をお楽しみに ♣️
そろそろ小学生は夏休みの宿題を仕上げるのにラストスパートの時期。
昭和40年代に小学生だった私も例にもれず、ラジオ体操から帰ると宿題と格闘していました。
特に困ったのは「自由研究」で、毎年なぜもう少し早くから手を付けなかったのか後悔ばかり。
そんな私に優しく手を差し伸べてくれたのが「広瀬安美さん」でした。
といっても、ご本人と直接お会いしたことはなく広瀬さんの本が私を助けてくれました。
広瀬安美さんは ーーーーー
大正13年下関市生まれ、太平洋画学校卒業後 新聞社勤めをしながらマンガをかき独立、
作家活動に入り、民家を中心に全国各地でスケッチを重ねるとともに民芸やおもちゃにも焦点をあてる。住まいは神戸市の西隣の明石市。(画集 神戸の異人館より引用)
広瀬さんの画材は水彩絵の具や色鉛筆で色をつけたものもあるが、画用紙に黒インクのペンを使うことがおおい。その精緻さは後ほどご覧にいれます。
個性的な画風が人気を呼び、新聞の連載・絵画展の開催・画集の出版と大活躍。
昭和53年(1978)3月23日没。
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自由研究で助けてもらう以前から広瀬さんの著書が祖母の書棚にあり、「えほん・コウベ」(昭和47年発行)が大好きでした。
絵の傍らに可愛い女の子が描かれ、やさしい絵のタッチに小学生のとき、とても親しみを感じ、なんどもなんども本を開いてみていました。
※タイトルは「えほん」とはいうものの、絵のとなりに書いてある文章にはまだ読めない字が並んでいて、もっぱら絵ばかりながめていました。
ン十年の時を経て、広瀬さんの原画をみせていただく機会を広瀬さんのご子息にいただきました。
額に入っていましたが、小学生の頃 印刷されて見ていた本の中の絵が目の前にあるのはなんとも言えない感動です。
紙に茶色のしみのようなテボテボがついていたり、ところどころ黄変している紙が年月が半世紀以上経っていることを物語っています。
栄光教会/下山手通
阪神大震災で倒壊した建物、現在も同じ場所に教会があります
現在のラインの館/北野町
建物の色がすっかり変わりイメージが違います
移情閣/舞子
現在はこの場所より少し東へ移築
建物がとても正確に細かく描かれていますが、温かみのあるほのぼのした絵でしょ。
「安」のハンコと女の子が描かれているのも、広瀬さんの絵の特徴です。
何冊も出版されている本の中には、文庫本サイズもあり若い人が北野町や異人館を巡るガイド本になったに間違いないと思います。
※ちょうど昭和52年(1977年)にNHKの連続テレビ小説「風見鶏」が放映されました。
昭和50年代に、神戸では「異人館ブーム」がおこり多くの観光客が訪れるようになりましたが、その火付け役に広瀬さんも一役買っていらっしゃったと思います。
私は広瀬さんが絵を、残してくださったことにとても意味を感じます。
写真だと周囲のいろんな情報も一緒にとりこむので、肝心なものの印象を薄めてしまうことがありますが、広瀬さんの絵は人間の目と同じように伝えたいものだけを描いています。
例えば、この「一棟だけ残った異人館」の絵もそうです。
一棟だけ残った異人館/北野町
実際には人一人が通れるぐらいの道沿いに建っていて写真では全景が写せません
風見鶏の館/北野町
写真と建物の角度は違いますが、全体の姿は塀や樹木で見にくくなっています
今回記事を書くにあたり広瀬さんの本を図書館で借りて隅々まで読むと、描いた建物や風物に対する説明なども文章になっていて、建物を知る上で大切な情報です。
あとがきには、ご子息から聞いたご苦労や描き始めた経緯、関わった人々など広瀬さんの人なりを感じる記述も多くあります。
そうそう 私の夏休みの宿題に話をを戻すと、自由研究のお題は確か「北野町の異人館」でした。
当時は、ほとんど住居として使用されていたため、外から建物を写生をして資料を作っていたら、近所の方が「画集 神戸の異人館」を貸してくれました。
画集は風見鶏が描かれたハードカバーに入っていて、ページを開くと私のよく知っている広瀬さんの絵が大きく描かれています。
写生では写し取れない建物の姿を、扇風機の前で広瀬さんの画集を見ながら無事に仕上げられました。
ズルだと言われそうですが、ちゃんと告白したので許してください。
広瀬さん、その節はお世話になりました。
いいね やっぱり神戸が好き
もっとKOBE ずっとKOBE
ではまた次回をお楽しみに♦
※広瀬さんの絵は、現在明石市立博物館が保管されています。
絵は許可を得て撮影しました。
※広瀬さんの本は、神戸市の図書館に一部あります。
暑い夏にイメージするのは海水浴場です。そこで、須磨海水浴場を訪ねてきました。
歴史を調べると、須磨浦は昔から白砂青松の風光明媚で夏は涼しく冬は温暖だったようです。明治21年に山陽鉄道(明治時代の鉄道会社で現在のJR西日本山陽本線に当たる路線)の須磨駅が開業して開けて行ったようです。須磨には日本最初のサナリューム「須磨浦療病院」があり、正岡子規が大陸から帰国船中で喀血して県立神戸病院で治療後に須磨保養院に入ったようで、その時に須磨の地に移ることを楽しみに、
嬉しさに涼しさに須磨の恋しさに
という歌を詠んでいます。
その他にも
暁や白帆すぎゆく蚊帳の外
月を思ひ人を思ひて須磨にあり
ことづてよ須磨の浦わに昼寝すと
など、須磨を想う正岡子規の俳句が残されています(※1)。
明治30年代には住友家須磨別邸が現在の海浜公園内に建設されました。その他にも瀧川辨三(マッチ製造会社)、鈴木よね(鈴木商店)ら数多くの神戸の実業家が憧れの地として邸宅を構えました。
住友別邸の説明
昭和20年には西神戸大空襲でまちは焼失しました。戦後、昭和23年には海水浴場開設、昭和26年には元の住友邸跡に須磨海浜公園開園、昭和32年には須磨水族館(のちにリニューアルして須磨水族園)が開館しました。
神戸の作家である、陳舜臣さんは「神戸ものがたり」(1998年)の中で、「白砂青松ー枕詞のように須磨や舞子に冠せられることばだが、最近では砂も松も少なくなった。」と嘆いています。
昔の景観や雰囲気を取り戻すために、神戸市は平成31年に「須磨海浜水族園・海浜公園の再整備に係る基本的な考え方」を発表して、それに沿って須磨海岸は大きく変化します。海水浴場の整備と水族園が須磨シーワールドとして今年6月に新しくオープンしています。水族館は公の施設ではなく民設民営になり、これには市民の声が本当に反映されているのかという疑問も残りますが、須磨海岸全体は「市民利用」「景観・環境」「防災」をコンセプトにして、ウォーキングやペットとの散歩のための遊歩道が整備され、トイレ、シャワーが整備され清潔になり、白砂青松の景観維持や鉢伏山の眺望景観などを楽しめる新しいリゾートエリアが生まれました。神戸市民の安らぎの場に発展していくと思います。
須磨海岸全景
公園エリアの東の端には1960年に誕生したヨットハーバーがあります。2010年にはリニューアルされの関西屈指の規模を誇っています。
須磨ヨットハーバー
その並びに須磨シーワールドホテルが新築されています。全室オーシャンビューの綺麗なホテルです。神戸須磨シーワールドと繋がり、ベランダからは飼育されているイルカが見えるようです。
須磨シーワールドホテルとシーワールド
ここから西方向に広い遊歩道が整備され海側には白砂のビーチ、山側にはビーチハウスや松林が綺麗に整備されて、遠方には鉢伏山、明石海峡大橋が眺望できてリゾート地としてふさわしい雰囲気を作っています。
広い遊歩道 整備されたビーチハウス
綺麗な水辺 KOBEのシンボル
ビーチハウス
ビーチは遊泳エリア、遊泳禁止エリア、ファミリー用エリアに区分されて安全・安心が徹底されています。全面的に禁煙、花火禁止、バーベキュー・たき火禁止、ファミリーエリアではアルコール飲料禁止などかなり厳しく規制されているため清潔で落ち着いた環境になっています。
ビーチエリアはきちんと管理されている
戦前に住友邸があった場所は海浜公園として松林が整備されて、白砂青松の昔の雰囲気が味わえます。公園の西の端には和田岬から移設された、現存する鉄造としては国内最古の灯台があります。近代化遺産に指定され、内部は公開されていませんが、1870年のイギリス製フレネル式レンズが設置されているようです。
住友別邸門柱跡 松が生い茂る海浜公園
遊歩道を西に進むと、須磨駅の目の前にファミリー用にスマイルビーチ(※2)が整備・運営されています。スマイル・ビーチ・プロジェクトは神戸海さくら(※3)というNPOにより運営されており、毎月のクリーンアップ活動、豊かな海の啓蒙活動、などを行政や民間、学校と連携して地道な活動を行い、新しい須磨海岸が誕生しました。
スマイルビーチエリア
過去から未来に向けて変わりゆく須磨海岸の姿にワクワクします。50年ほど前は若者が足場がないほど集まり歓声をあげ、夜はあちこちで打ち上げ花火をして騒いでいたのを思い出します。それはそれで楽しかったと思いますが、時代が変わって成熟して落ち着いたリゾート地に変貌してきました。これからどうなっていくのか、楽しみです。
※1)
※2)須磨海岸の中のスマイルビーチエリアの2カ所は「きれいで安全で誰もが楽しめる優しいビーチ」というブルーフラッグ認証を受けています。ブルーフラッグは1985年にフランスで誕生した認証制度で、現在では世界51か国、国内では12カ所(2024年)のビーチが認証を受けております。「環境に関する教育と情報公開」「水質」「環境マネジメント」「安全とサービス」の4つのカテゴリーにおいて、33項目の認証基準を満たす必要があります。
※3)
いいね。やっぱり神戸が好き。
もっとKOBE ずっとKOBE
ではまた次回をお楽しみに♠️
光源氏が須磨に流されている時、嵐に見舞われ
これを助けたのが、明石の入道という人物です。
この明石の入道という人は、元々は都で「近衛中将」という上流のお家柄の方だったそうなのですが、この身分を捨てて*播磨の国の受領(はりまのくにのずりょう)
* 播磨の国 (今の兵庫県西南部) / 受領(地方行政のトップ)
となりその後、出家し明石の入道として地元に住んでいました。
彼には娘がいて、その娘を高貴な方に嫁がせたいという下心があって
光源氏を助けるという行動に出るのです。
そのような身分の明石の入道の家ですから
とても立派で須磨で詫び住まいをしている光源氏は
すっかり気に入ってその家で避難し続けていました。
入道は、光源氏をもてなすたびに娘自慢をしていました。
この時入道の娘は海辺の親の家を離れ
高潮の心配のない丘の上の安全な場所に住んでいました。
それが、神戸市西区櫨谷町松本!
今はそこに石碑が、静かに佇んでいます。
この岡の屋形跡の石碑を建てたのが、慶長2年(1597年)明石藩5代藩主松平忠国というお方!彼は文学に通じていて、文学遺跡として「源氏物語」ゆかりの名所として創設したようです。(参考文献:明石市立文化博物館)
源氏物語が書かれてから、500年以上たっている江戸時代でも人気文学だったことが分かります。
だが、さらに調べてみるとこの石碑が立っている場所も櫨谷川のそばで
当時のインフラを考えてみると、櫨谷川の氾濫などで危険な場所とみられ
その場所よりもう少し高台にある「願三山地蔵禅院」が建っているあたりが
「岡の屋形」に相応しい雰囲気があるといわれています。
(参考文献:神戸・兵庫の郷土史Web研究館)
願三山地蔵禅院
たしかに、このお寺の前は竹林になっていて
源氏物語の描写に沿っているような感じがします
(源氏物語より)
造れるさま、木深く、いたき所まさりて、見どころある住まひなり
海のつらはいかめしうおもしろく、これは心細く住みたるさま「ここにいて、思い残すことはあらじ」と、思しやらるるに、ものあはれなり。
三昧堂近くて、鐘の音、松風に響きあひて、もの悲しう、岩に生ひたる松の根ざしも
心ばへあるさまなり。
前裁どもに虫の声を尽くしたり。ここかしこもありさまなど御覧ず・・・
この竹林を眺めていると、源氏物語のこの一節が頭をよぎります。
特に「三昧堂近くて、鐘の音、松風に響きあひて、もの悲しう」は、この願三山地蔵禅院のことでは?と思えてきます。
このお寺はもともとは、明石入道の持ち家を寺にしたもので明石入道が祀られているとのこと・・・
伺った日は、ちょうど庭師さんの手入れが入っていて、痕跡を見つけきれませんでした (( ノД`)シクシク…
ですが、そうだとすると明石の上が住んでいておかしくないですよね。
当時の身分ある方の家は、寝殿造!
大体がこんな感じの、スタイルです。
娘の避難所として、にわか造りだったとしたらもう少し規模は小さかったのかもしれないですが、源氏物語の中で「娘住ませたる方は、心ことに磨きて・・・」と、特別に美しい建物にしあげていた様子がわかります。
寝殿造とは、間仕切りが無く家全体の中は、柱以外何もない作りになっています。
床はフローリング(笑)板の間・板敷きのみ
そして、身分の高い人は畳を置いて座っていました。
間仕切りとして、几帳・御簾・すだれなどで仕切っていました。
大河ドラマ「光る君へ」の場面を見ても、そのような舞台に拵えています。
画像は「光る君へ」のドラマより
このドラマを見ていると
光源氏は、明石入道の明石の家から明石の上の屋形まで通ったとあるので
その道中も調べてみました(野次馬根性!(〃艸〃)ムフッ)
明石入道の住まい「浜の舘」は、「善楽寺」というお寺です。
そして境内には、こんな石碑が置かれています。
いにしへの 名のみ残りて 有明の
あかしの上の おや住みしあと と刻まれています。
また、
こんな石碑もありました。
もともと、善楽寺というのは孝徳天皇の時代の大化の頃(645~650)に天竺の僧
法道仙人が開創した天台宗の大寺院で、明石では最も古い寺となっています。
明石入道の浜の館として源氏物語に登場させたのでしょうね。
地図で確認すると場所は、ココ!
今でも、海のそば!
平安時代ならもっと海が近くだったはず…
高潮が来れば水をかぶるのは当たり前の場所だったことでしょう。
そりゃ、高貴な方に嫁がせたい大事な娘を高台へ避難させたいと思うのは
親心というものですね。
では、神戸市西区にある
明石の上が住む岡之屋形(願三山地蔵禅院)までの経路をナビで見ると
徒歩で、1時間22分と出ました。
そう!
明石入道が、折に触れて遠回しに娘自慢の話を聞くうちに、彼も男!
光源氏は鼻の下を大いに伸ばして、逢いに行くことにするのです。
源氏物語では、馬に乗って行ったとあるので
馬の歩くスピードは、毎分110m(時速6,6km)1時間
はやる気持ちがあり、駆け足だと毎分340mだそうなので17分程度で
明石の上のところまで通ったことになります。
こりゃ、通える距離だわ。
私は車で移動したのですが、信号待ちなどで20分ほど掛かりました。
今とそう変わらない、距離と時間にビックリ!
当時も同じような道であったとすれば
私は光源氏と同じような景色を見ているのだ、と
信号待ちの度に妄想しながら運転していました(笑)
平安貴族は、夜移動が多かったのかしら?
夜道だと寂しすぎるくらいの暗さに
供の惟光だけでは心もとなかったかも…なんてね (*´σー`)エヘヘ
なかなか、神戸は大昔から有名な所が多かったのかもしれない。
源氏物語の題材に登場するくらいですから
いいね。やっぱり神戸が好き。
もっと KOBE ずっと KOBE
ではまた次回をお楽しみに
今回は神戸の交通事情の変遷を振り返ってみようかと。
神戸と大阪を結ぶ鉄道は、昔から阪急、JR、阪神がほぼ並行に走っている。しかし、神戸市内を東西に貫いて走っているのは JR のみだった。(その頃は国鉄と呼ばれていた)わかりやすく図にするとこんな感じかな。
繋がっていないところは路面電車(市電)が頑張っていた
東からやってくる阪急電鉄は三宮駅まで、阪神電鉄は元町駅まで。西からやってくる山陽電鉄は兵庫駅まで、以前に紹介した北からやってくる神戸電鉄は湊川駅までと、なんとまぁ、神戸の中心あたりで繋がっていないという状態だった。すでに街として発展してきたところに後から鉄道を通すのは難しかったのだろう。そこで地下で繋いでしまったということかと。この地下の鉄道を神戸高速鉄道といい、鉄道車両は持たずに線路だけを持っている鉄道会社としてスタートした。
ちょっと地下をのぞいてみよう。東のスタートの高速神戸駅は湊川神社を正面に見たすぐ左のところから地下に降りていく。
神社の雰囲気を損なわないような入口
高速神戸駅では、阪急と阪神は合流するように一つのホームの両側に入ってくる。
阪急梅田行きと阪神梅田行きのどちらでも乗れる
山陽電鉄兵庫駅と西代の区間は道路上の「併用軌道」だった。「特急」と表示された電車がクルマといっしょに道路を走っていたのかと思うと興味深い。その区間を廃止し、西代駅を終点とし、その駅と接続をした。山陽電鉄兵庫駅は、現在のJR兵庫駅と神戸高速鉄道の大開駅の間あたりにあったはずだ。
神戸電鉄は、以前に紹介したが、レール幅が違うため、そのまま乗り入れることは出来なかったが、新開地駅を接続駅として、神戸電鉄湊川駅を地下に移して新開地駅と接続した。わずか 400m ぐらいのことだが、便利になったことには違いない。
神戸高速鉄道により、東西の乗り入れが可能となり、阪急、阪神は須磨浦公園駅まで、山陽電鉄は、阪急六甲駅、阪神大石駅まで行けるようになった。
地下でつながるのは電車の線路だけではない。人の流れもつながる。高速神戸駅から新開地駅までの間はメトロ神戸と呼ばれ、地下街になっており、店舗や遊戯施設がある。高速神戸駅側が神戸タウン、新開地駅側が新開地タウンと呼ばれている。神戸タウンには色々なお店が入っている。
文具屋さんには神戸ノートが店頭に置いてある
神戸ノートの記事はこちら。
地下街の壁面には、神戸の街の発展や文化の移り変わりが描かれている。新開地が神戸の中心だった頃を懐かしく思う人がどのぐらい居るかわからないが「そんな時代もあったねと」というのがこの壁画から伝わってくる。
うまく集約されていて、とてもわかりやすい
そして、知る人ぞ知る「メトロ卓球場」。高速神戸駅と新開地駅のちょうど中間に位置する。小・中・高としっかり遊ばせてもらいました。もう 50年以上やっている卓球場。すごいね。今も賑わっています。
何人で遊んでも1台1時間900円ってのがいいね!
この地下街は、高速神戸駅と新開地駅のちょうど真上を通っている。新開地駅に近くなってくると、壁面には、神戸高速鉄道が開通した頃の神戸の街並みがトリックアートっぽく描かれている。見覚えがあるアングルなので懐かしい。新開地駅側に入ってくるとメトロ神戸の新開地タウンになる。
昔の三宮の風景を懐かしく思う人も多いのではないだろうか
新開地タウンにはお値打ちな居酒屋が多い
地下で線路がつながれば、人もつながる。神戸高速鉄道とメトロ神戸。
今、三宮に色んなものが集中してきて、人の流れも三宮駅が中心になってきているが、神戸駅、新開地駅周辺にもまだまだ面白い文化が生き続けていると感じる。
いいね。やっぱり神戸が好き
もっと KOBE ずっと KOBE
ではまた次回をお楽しみに ♣
淡谷さんが歌った「メリケン波止場」
♪ 窓を開ければー、港がー 見えるー
メリケン波止場のー 灯が見えるー ♪
今は道路ですが、このビルの前あたりがメリケン波止場でした
1868年にアメリカ領事館があったと記されている 信号機上の表示もメリケン波止場前
「波止場」という響きには、なんとも言えない哀愁を感じます。
ビットに片足を乗せてカッコつけて、黄昏れたりするのがとっても似合います。
戦時中は萬国波止場と呼んだそうです
「みなと公園」にも歴史の記憶が
メリケン波止場跡の石碑の東に忘れ去られたような小さな公園を見つけました。
少し奥へ入っていくと、立派な石碑が建っています。
これは「海軍操練所顕彰碑」(複製)です。
諏訪山公園にあるのが本物です。
※勝海舟率いる海軍操練所が1864年に現在の新港第1突堤の付け根の「京橋」あたりにあったとされています。
碑文を読んでると静かな感動がこみ上げてきました。
激烈な変化の時代を経て、今日につながっていることを実感できたからでしょうか。
メリケン波止場は昭和62年に埋め立てられて、「メリケンパーク」として船着き場から憩いの場へと姿を変えました。
今日も多くの家族連れや若いグループ、観光に来た外国人が波の音を聞きながらくつろいでいます。
いいね やっぱり神戸が好き
もっとKOBE ずっとKOBE
ではまた次回をお楽しみに♦
六甲アイランドにある小磯記念美術館を訪ねました。
小磯良平(神戸市HPより引用)
六甲アイランドにある「小磯記念美術館」
西洋画家、小磯良平(1903年~1988年)は神戸中山手通りに生まれ、洋館の立ち並ぶまちで「西洋的な空気」を吸って幼年期を過ごしました。気が置けない画家仲間と元町商店街にあった書店「丸善」に通って画集を探し、最寄りの喫茶店「風月堂」でお茶をして帰ることが外出の定番になっていたそうです。
元町通3丁目の風月堂
神戸二中を卒業後、東京藝術大学に入学、数々の賞を獲得して主席で卒業。パリで2年間の遊学。帰国後、山本通にアトリエを新築(1931 年)しました。ここで数々の代表的な油画を生み出す一方で、ポスターの原画や小説の挿絵などの仕事を始めました。その頃は神戸港の大規模な改築工事や大丸、三越が元町に、そごうが三宮に建設されました。神戸のまちは新しくなり活気に満ち溢れていたようです。1933年(昭和8年)第1回「神戸みなとの祭」が開催され、好評だったようでそれ以降毎年開催されています。第1回、第2回のポスターは小磯良平が手がけています。
ポスター(「神戸の暮らしをデザインする」より引用)
1945年(昭和20年)の神戸空襲でアトリエを失い、多くの作品が焼失したようです。1949年には住吉山手に住居とアトリエを新築しました。良い場所を探していたころ、親交があった武田製薬の武田長兵衛さんから当時の武庫郡住吉村のこの土地と大林組を紹介され、立派な木造の家を建てました。小磯記念美術館にはこのアトリエが移設されました。
小磯記念美術館に移設されたアトリエ
アトリエ内部の仕事場と家族
住吉には武田長兵衛さん、伊藤忠兵衛さん(伊藤忠商事創業者)、住友吉左衛門(住友財閥)など、当時の大阪のトップレベルの財界人が住吉村へやって来て、阪神間モダニズム文化の先駆けになっています。
住吉の豪邸(神戸新聞社M's KOBEより引用)とアトリエ(場所は推定)
1950年代では、戦後の神戸の復興と平和への願いが込められた、当時の神戸銀行の壁画『働く人びと』を完成させ、神戸国際会館の大ホールの緞帳『港』などの制作に挑戦されてきました。
緞帳「港」(「神戸の暮らしをデザインする」より引用)
自身のモダンで気品にあふれた画風の根底にあるものを、自ら「神戸イズム」と呼んでいます。「神戸イズムは東京での生活を一時経験していながら、生涯のほとんどを神戸で過ごした画家にとって、自分を産み育てたその場所の暮らしや文化こそが制作と本質的に結びついていることを示す言葉のように思われるのです。」「神戸から離れては自分が自分でなくなることを知っていたのでしょう。なぜなら、彼にとってもっとも重要な創作の内燃機関を運動させる「神戸イズム」が失われるからです。」(神戸市立小磯記念美術館 学芸員 高橋佳苗)※1
小磯良平は、1988年に亡くなるまで多数の作品を残しています。1989年には2000点にのぼる作品が神戸市に寄与され、1992年に神戸市立小磯記念美術館が開館しました。
展示作品の絵葉書
オリエンタルホテル(「美術館だよりVol.60」神戸市立小磯記念美術館 より引用)
※1「神戸の暮らしをデザインする 小磯良平とグラフィックアート」神戸市立小磯記念美術館 解題ー芸術と暮らしはリンクする 高橋佳苗
いいね。やっぱり神戸が好き。
もっとKOBE ずっとKOBE
ではまた次回をお楽しみに♠️
場所は、ちょうど阪急春日野道駅西口を出た南側を
信号3つ分西に行ったところにあります。
南側入り口 北側入り口
駅から行くと北側入り口が見えます
はい!これが100年以上続く神戸市最古の市場「大安亭市場」(おおやすていいちば)
市場の名前としては、変わっていますよね。
由来は、明治時代にあった浪花節小屋の名前「大安亭」から来ているそうです。
結構、この小屋が繁盛していてそのお客さん目当てに自然発生した店が集まったのが始まりのようです。
そして浪花節小屋があった場所は旭通4丁目(赤矢印のところ)
今の場所、八雲通り(赤ライン)とは違いますね。
その昔、旭通にあった市場を「大安亭市場」と呼び、
八雲通りにあった市場を「新大安亭市場」と呼んで、当時は二つ市場があったようです。
ところが、八雲通りにあった「新大安亭市場」が
明治の末から大正にかけて市電の開通・神戸製鋼の進出などで発展し
「東新開地」と呼ばれて繁華街を作ったそうです。
やがて旭通にあった「大安亭市場」は消滅!
そして残った「新大安亭市場」は、1975年(昭和50年)に「大安亭市場」と名称を替えて今に至っています。最盛期は店舗数も100件を超えていたそうですが、今でも70件の店舗が営業しています。
南北のゆる~い坂道250mにはアーケードが付いていて、真夏の日差し や 雨を防いでくれて、買い物を楽しむ事が出来ます。楽ちん♪
私は市場の中ほど東側にある、三宅天婦羅店で美味しそうな天婦羅を買ったのですが
店の奥で、おじさんが練り物の天婦羅を揚げています。暑そう…
奥さんが相手をして下さって、話を聞けば
「私らで3代目、80年ここで天婦羅を揚げているんよ~」と教えてくれました。
どうやって食べるとおいしいかも教えてくれるから
市場での対面の買い物は勉強になるのよね。
そして、市場の西側にある小さな小さな漬物屋さんに
私の大好物の、きゅうりの古漬けを見つけて思わず買ってしまいました。
おじいさんとおばあさんでやっていて
私が「家できゅうりのぬか漬けをしても、全然古漬けにならないの…」とこぼすと
おじいさんが「そらそうや、何べんも漬けなおさんと古漬けにはならへんのやで」と
教えてくれました。
「そんなに手間暇かかるんやったら、おじさんとこへ買いに来るわ」と言って
ご機嫌で古漬けをあてに晩酌を楽しみました(笑)
行ってみて驚いたのが、多国籍のお店が多かったこと!
色んなスパイスなんかも売っていたり
シャッターが閉まっていて、何屋さんか分からない店などもあって面白かったですよ。
そしてさらに驚いたのは
大安亭市場の南側の前の道が「西国街道」だったこと!
西国街道といえば、江戸時代に完成したと言われているけれど
平安時代から使われていた道です。
かの菅原道真公が太宰府へ流される時に歩いた道でもあります(*1)
また、今年150周年を迎える元町商店街も西国街道上にあります(*2)(*3)
どの時代も、人の往来の多いところには店が集まり市場や商店街が出来るのですね。
さて、「大安亭市場」に「ロダンの狸」というマスコットがいることを
ご存知でしたか? 市場の北入り口に、地味に立っとります。
⇦
たしか、商店街の西側の休憩所・いっぷく処にもぬいぐるみが…(笑)
季節柄、七夕飾りが施されていました。
「ロダンの狸」とは
阪神淡路大震災直後から、被災した商店街に毎日やって来た2匹の狸
復興が進むといつのまにか来なくなったそうです。
そこで、商店街のマスコットとして、復興のシンボルとして大事にされています。
実はこの狸の話は、大安亭市場が誕生するころのことを背景に、史実に基づいて作られた民話がもとになっているそうです
話が長くなるので、興味のある方は
http://www.kobeyaku.org/chuyaku/omake/minwa/tnk.htm からお読みください。
大安亭市場のロダンの狸は、大変な努力家だから「頑張りの神様」として
大安亭市場の人たちはこのロダンの狸に恥じないプロ集団と認識して
ロダンの狸をシンボルにしているようです。
~「大安亭市場」情報 ~
神戸市中央区八雲通5-4-17
市バス101系統「若菜通5丁目」バス停徒歩1分
阪急神戸線「春日野道」駅下車徒歩10分
*1
神戸の街道物語り ☆ 西国街道に残る菅原道真の足跡 - もっと KOBE ずっと KOBE (hatenablog.com)
*2
前編☆150年を迎える元町商店街の老舗!(1番街・3丁目・4丁目) - もっと KOBE ずっと KOBE (hatenablog.com)
*3
後編☆150年を迎える元町商店街の老舗!(5丁目・6丁目) - もっと KOBE ずっと KOBE (hatenablog.com)
いいね。やっぱり神戸が好き。
もっと KOBE ずっとKOBE
ではまた次回をお楽しみに ♥
東京に出張したときに、ちょっと落ち着いた空間を求めて「純喫茶」なるものを探してみるのだが、なかなか見当たらない。均質化されたカフェや珈琲専門チェーン店は、いたるところにあるのだが。
最初に注文カウンターでオーダーし、自分でテーブルまで運んでいくカフェスタイル。もうすっかり馴染んでしまっているので何ら抵抗はないのだが、昔ながらのテーブルに水とおしぼりを持ってきてくれて、オーダーを聞いてくれるあの懐かしい感覚は妙に落ち着くものだ。
神戸にも均質化された大手のカフェチェーン店は多い。しかし、まだまだ純喫茶と言える店も頑張っているのではないかと思い、今回は元町・三宮近辺でいくつかピックアップしてみることにした。
元町6丁目、5丁目あたりのお店
元町6丁目、5丁目あたりにはまだまだ昔ながらの喫茶店というのがチラホラある。昔ながらの喫茶店の傾向としては、喫煙可という店が多いように思える。私は喫煙しないので関係ないかもしれないが、愛煙家の人にとってはきっと貴重な空間なんだろう。
はた珈琲店は「全席喫煙可」と書いてある
喫煙か禁煙かは置いといて、元町商店街には昔から続いている喫茶店がいくつかある。2丁目にある「元町サントス」という店も子供のころからあったように覚えている。店は1,2階になっており、2階へはリフトで運ばれる。若い店員さんたちが、皆手際が良く気持ちがよいのが特徴。若い人たちに代わっても上手に運営されているのは、継続のための大事なポイントかもしれないですね。
入口付近のレイアウトが昔ながらの元町サントス
1975年創業の観音屋はチーズケーキで有名
最近オープンのゴールデンカップ神戸も昭和レトロ風
2丁目、3丁目あたりには喫茶店が集中している。観音屋、にしむら珈琲店、コメダ珈琲、それと最近できたばかりのゴールデンカップ神戸。どの店も昔ながらの喫茶店の形式である。にしむら珈琲店は以前の記事で本店を紹介したことがあるので、そちらも参照いただきたい。
旧くからと言えば、元町1丁目にある EVIAN(エビアンコーヒー)を紹介しておかなければ。1952年創業だから、もう70年以上やってることになりますね。戦後神戸で初の自家焙煎珈琲のお店だと。この店の特徴というか魅力の一つはコーヒーの値段かもしれません。今は諸物価高騰により 450円という値段になっているが、私の記憶では、長い間 280円でやっていた時期があったと覚えている。
朝はシンプルなモーニングセット(アサビアンと呼ばれている)が人気。朝のひとときは、元町商店街の店主の人が多い。花屋の主人とか、蕎麦屋の大将とか、毎朝の常連さんである。商店街のお店は持ちつ持たれつなんでしょうね。
元町商店街から三宮センター街に移動する。三宮センタープラザの地下の飲食店街は、なんとなく昭和のにおいが残っているところがある。そこにもいくつか純喫茶と言える店がある。
喫茶「潮」もその一つ。子供の頃に映画に連れて行ってもらったときに、映画が始まる前にローカルCMが流れる。そのときに必ず出てくるのが、この喫茶「潮」だったことを覚えている。ここもかなり旧くからあるのだろう。
センタープラザそのものが古くなってきたか
センタープラザ西館の2階はサブカルチャーの店でいっぱいだが、その並びに「茶房 Voice」という店がある。お気に入りの店の一つだ。場違いな感があるのだが、サブカルチャーのお店が後から進出してきたので、これは仕方がない。ここの店ではいい音が聞けるのも Good Point だ。真空管マニアにはたまらない300Bという球のアンプで Jazz を聞きながら、ウェッジウッドのコーヒーカップでちょうどよい苦みのコーヒーが 600円。そう考えると高くはない。
だめだ。キリがない。またどこかで続編を書こう。
東京をはじめメトロはサービスが均質化してきている。均質化したカフェも決して悪くはない。現によく利用している。しかし、旧くからの様式や形態を残した喫茶店もそのままの形で残ってほしいものだ。単なる懐古主義と言うなかれ。そこにはカフェにはない、カウンターでのマスターとの会話とか、色々新しい出会い・発見もあるのだ。神戸には、まだまだこのような店が残っている。今後も頑張って続けてほしい。
いいね。やっぱり神戸が好き
もっと KOBE ずっと KOBE
ではまた次回をお楽しみに ♣️
5月下旬からあちこちでこんもりした姿が愛らしいあじさい。
6月下旬になると、街中のあじさいは少し色が褪せてきましたが、標高450mの神戸市立森林植物園ではちょうど見ごろを迎えています。
あじさいの時期にあわせて「森のあじさい散策」が催され、園内を1時間ほど歩きながらガイドさんからあじさいについて教えてもらいました。
額咲きとてまり咲き
あじさいの咲き方にはこの3種類があり、額咲きのあじさいを「ガクアジサイ」(写真 右)と呼びてまり咲きのあじさいを「アジサイ」(写真 中央)と呼ばれることが多いそうです。
てまり咲きは、玉咲きとも言われます。
円錐形に咲くあじさいは、花の部分が重いせいかうなだれて咲いています。(写真 右)
花のようで花でない⁉
小学校で習ったような気がしますが、
あじさいの花は花のようで花でないのです。
ええっ!そんな!お花の部分がそっちだったとは、、、
じゃぁ、てまり咲きは花じゃないってことなのかぁ~。
いえいえてまり咲きにも小さなお花が真ん中にちょこんとあります。
幻の花だったシチダンカ(七段花)
これがあじさい?と思うでしょ。
葉っぱも細身で花も小さくて間違いでは?と思うのも当然です。
幕末に日本のやってきたオランダ商館のシーボルト博士が帰国後、「フローラ・ヤポニカ」でシチダンカを紹介しましたが、六甲山の特産種だったこともあり人目に触れず130年もの間ひっそり限られた地域で咲いていました。
1959年に六甲山小学校の職員である荒木慶治さんが六甲ケーブルの西側でシチダンカを偶然見つけ、シーボルト博士が紹介したヒチダンカが本当に存在したことが確認されました。
これは私の想像ですがシーボルト博士は日本のあじさいの苗をこっそり持ち帰って、いろんな商人に売ったんだと思います。そのシチダンカの子孫が現在の西洋あじさいなんじゃないかなぁ。
あじさいは変身がお好き?
でも、額咲きのヒチダンカからなぜてまり咲きになるのか不思議。
あじさいが土壌の性質で色が変化することは有名ですが、品種改良がしやすい植物で意図しなくても、突然てまり咲きになることがあるそうです。
ただそういう変化を昔の日本人は忌み嫌い、悪いことがあるんじゃないかと心配してお寺に納めに行ったので、今日「あじさい寺」と呼ばれる名所がいくつもできたそうです。
厄介扱いされたあじさいが、現代では人気の花になるとは、、、
森林植物園であじさい三昧
清楚なヤマアジサイ
色鮮やでぷくぷくしたてまり咲きの西洋あじさい
六甲山の花崗岩からの酸性土壌が生んだ六甲ブルー
園内には5万本350種ものあじさいが少しずつ時期をずらして咲いています。
あじさいの期間は、駐車場の近くの普段は園内の植物を育成していて関係者しか入れない「北苗畑」も森林アドバイザーさんが案内してくれます。
それと美味しい情報
期間限定で鈴蘭台の「鈴音菓子 のぼり屋」の出張販売をしています。
特に季節の餅菓子「あじさい餅」は、可愛いらしすぎて見てるだけでお腹がふくれそう。
おまけ
管理事務所の建屋の前あたりのメタセコイアの木々からあじさい坂へ向かうところにある池に向かって突き出た枝に、白い綿のようなもがついています。
なんとそれはカエルの卵を包んでいる泡。
夜な夜なメスのカエルが卵を産みつけ、オスのカエル数匹がそれを泡で覆うのです。
池の中には落ち葉しか見えないのですが、しばらくじっと見ていると落ち葉と同じ色をしたオタマジャクシが何匹も泳いでいるのを見つけられます。
初夏の六甲山であじさいを楽しむだけでなく、ちょっとおりこうさんになった気分。
いいね やっぱり神戸が好き
もっとKOBE ずっとKOBE
ではまた次回をお楽しみに♦
神戸市立森林植物園
〒651-1102 神戸市北区山田町上谷上字長尾1-2
TEL. 078-591-0253 FAX. 078-594-2324
https://www.kobe-park.or.jp/shinrin/