<小田原北条氏の防衛戦(その20)> 関東の要衝 岩槻城と館林城 探訪 (original) (raw)
こんにちわ、rekikakkunです。
小田原北条氏の防衛戦を綴って20回目です。
今回は小田原防衛戦の中盤戦の最後として、
17.岩槻城(県指定史跡)
として、埼玉県さいたま市岩槻区太田にあります。
上のマップでみると関東平野の中心って位置ですね~。
太田という地名の通り、**岩槻城**は
有名な**太田道灌**が築城したお話もありますが、
現時点では伝説っぽい感じです。
ただし同族の**太田資正**が戦国時代、
本ブログでも探訪した**松山城**と共に、
**岩槻城**を拠点として、北条氏の関東進出に
智謀を駆使して抵抗し続けた事で有名です。
しかも息子に**岩槻城**を追放される等波乱万丈で、
1590年の小田原の陣にも秀吉軍に参陣し、
翌年死去しました。
関東戦国史を飾る中心的人物の一人と思われます。
・・・と言いつつ、実はあまり知らなくて、
せめて**太田道灌**のひ孫なのかな?とか少し
調べたが良く分からずです。・・・_(._.)_
(道灌の弟のひ孫等の説がある様です)
2)岩槻城の縄張り
岩槻城址の説明板に載っている縄張図
**岩槻城**は岩槻台地の高さと周辺の低地が沼地である
ことを利用した要害の城です。
**後北条氏**と対抗出来たことでも証明されていますね~。
水に浮かんでるみたいで、**忍城**に似てる。
上の縄張図では、右下にある「現在位置」の周辺、
新曲輪、鍛冶曲輪のみの残遺構となります。
そしてこの新曲輪、鍛冶曲輪は対秀吉対策
で拡張した曲輪だそうです。
本丸部分やその周辺の沼は、住宅地化
されていてほぼ見れない様です。
とは言え現在の城址公園には堀や土塁、
そして沼地のイメージが残る池や橋が
整備され当時の面影が残っています。
3)岩槻城の防衛戦
天正18年(1590年)5月19日
約2万の本軍別動隊が**岩槻城**を攻撃しました。
秀吉から**鉢形城**攻撃を指示されました。
しかし彼らは5月中旬まで房総半島の諸城を
どんどん攻め落としていた為、楽な城攻めは
功績に加えないと秀吉に怒られてしまい、
強襲しました。
当時の城主は太田氏房。
**北条氏政**の三男です。養子なのか?です。
御多分に漏れず、城主氏房は**小田原城籠城**
に参加し、残された留守部隊は多分搔き集めて
2,000名程。
5月19日攻城戦が開始され、22日に
降伏したとのことです。
明治まで使われていました。
それでは岩槻城に行ってみます。
4)岩槻城探訪
実は上のグーグルマップを見ると、
**岩槻城**は⑨の所で、ちょっとぽつんと
離れてるんですよね~。
でも関東の城として外せないと思って
悩んだ挙句、埼玉探訪初日の一番目に
行くことにしました。
5:15静岡の自宅を出発して、新東名、
岩槻城址公園入口
着いただけで結構達成感があったりして...。
到着する直前、堀っぽいのが見えました。
遺構が少ないと思ってたので、
戻って行ってみますと。
公園に入る手前の道
堀跡1
堀跡2
この道の両側見ますと堀ですよね~。
なんだ、しっかり残ってるじゃないかと、
得した気分になりました。(⌒∇⌒)
そして公園内に入ると、移築された門が2つありました。
岩槻城 裏門
岩槻城 城門
公園内に入って行く
なんとなく不思議な高低差を感じながらゆっくり進む
お、遠くに赤い橋が見えます。
進んでみると・・・。
堀っぽい感じだが・・・
堀の外側(右側)が高い土塁って何でかな?と思いながら
お、説明板があります
堀障子の説明板
歩いてた道は新曲輪と鍛冶曲輪の間の堀で、
そのまま歩いていくと・・・。
結構深い堀と、高い土塁ですね~
クランク状になってる
朝の木漏れ日が気分を和らげてくれます😊
意外と長い遺構だな~
土塁も高い
土塁側に登る階段がありました。
曲輪ですね
道路に一旦出ました
赤い橋が目の前に来ました。
ぐるっと写真左側を半周したみたいです。
八ツ橋という呼び名
八ツ橋 映える様に・・・
周りの池と橋が、**岩槻城**の浮き城を感じられます
公園内を歩く
**岩槻城**は以上ですが、思っていた以上に
お城の雰囲気が残っていました。
5)岩槻市の芳林寺
あるそうなので、行ってみます。
う、中に入れないみたい
芳林寺内の**太田道灌**像
中に入れないから、説明板があるみたい
関連ある史跡として・・・別の探訪の時ですが、
通りがかりのカーナビに**太田道灌の墓**と
出てきたので行ってみました。
主君**上杉定正**により暗殺されました。
その際、「当方滅亡」と叫んだと有名ですよね。
ここは、その館付近だったそうです。
説明板撮るの忘れてしまい、分からない。
各地に多く、**太田道灌**の人気の高さを感じます。
18.館林城(市指定史跡)
1)館林城の立地と縄張り
この地はほぼ県の最南東部に位置し、
栃木、埼玉、茨城との県境に近いです。
縄張りは利根川水系の一部である
鶴生田川を水源とした城沼(じょうぬま)を
外堀とし、沼に突き出した台地に城が築かれました。
下のマップですと、右側(東側)の城沼に対し、
左側の区域が**館林城**域となります。
城沼と館林城
2)館林城の戦い
名束正家等と、佐竹義宜等の関東諸侯を
加えた軍勢で編成され、攻撃した様です。
詳細は不明ですが5月29日に落城しました。
3)館林城のその後
1590年小田原防衛戦の後、**徳川家康**の
**榊原康政**が10万石で入城しました。
江戸時代に入り、約50年後の1643年に
榊原家は**陸奥白河**に国替えとなり、その後
この綱吉が5代将軍となったことでも
有名になりました。
以降江戸期を通じ**館林藩**は江戸宗家を
輩出した城として続きました。
でお話しました**太田道灌**の子孫(江戸太田家)
も18年間程就任してた様です。
4)館林城探訪
**館林城**には三の丸芸術ホールの無料駐車場に
停めました。
唐沢山城の帰りで少し日が傾いてましたが、
自転車で少し廻って見ます。
(こういう時自転車積んでると
疲労少なく、時間も効率的に廻れます👍)
だいぶ広い広場
(広場は館林城本丸の南にあった南郭みたい)
広場の先にこんもりしてる所があったので行って見る
土塁っぽいんだけど、石垣は戦国時代のもの
じゃない感じだから、なんだろう?とうろうろする
裏側に行ったら**館林城**の看板がありました
館林城本丸土塁の説明板
うん、城の土塁があった😀
よく残っててくれました。
写真左が南郭、右側が本丸でその間にこの土塁がある
自転車で少し進むと、
築城伝説が残る尾曳稲荷神社
尾曳稲荷神社の由緒
(助けた狐が尻尾を曳いて縄張りをした伝説です)
尾曳稲荷神社
また自転車で土橋門へ進みます。
三の丸土橋門
**館林城**の年表を見る
榊原氏、綱吉、太田氏が居ますね~
たぶん土橋門の中
たぶん土橋門の中ですが、
よく復元されてます
鶴生田川。この先が城沼みたい。
自転車でのざっくり探訪でした。
さて、小田原防衛戦ですが、
1590年3月29日の**山中城**落城から、
今回5月22日**岩槻城、5月29日館林**城落城と、
約2カ月間で関東の中心部まで進出してきた秀吉軍。
**韮山城**といった北条本家の城主自らが守備する
主要防衛拠点の攻城戦へと、終盤戦に入って行きます。
ところがその前に、ほんとは北条家とそんなに親密な
家ではないと思うのですが、何故か北条家の城全部が
落ちて、しかも実質的な当主の**北条氏政**が責任
取って切腹しても籠城を続けていた城がありました。
成田氏の**忍城**です。
映画、**のぼうの城**のお城そのものです。
忍城の模擬三階櫓
翌6月5日より**忍城**へ攻め寄せます。
また北方軍の中から、あの**真田昌幸**も
攻城戦に援軍参加しました。
次回はその**忍城**を探訪します。
ご高覧ありがとうございました。_(._.)_