明智光秀 丹波の足跡を訪ねて(1) 本能寺の変ゆかりの 老ノ坂と丹波亀山城 (original) (raw)

こんにちわ、rekikakkunです。

現在小田原北条氏の攻防戦を綴ってますが、

前回八王子城の途中で25回目となりました。

初回(その1)投稿したのが、

昨年2023年10月でしたので、

ほぼ1年間ず~と小田原北条氏一本で

投稿してしまってました。(@_@;)

そして、とうとう**八王子城**の途中で

力尽きました。_| ̄|○

では無くて、もう少し**八王子城**を観たいので、

11or12月頃の山城訪問時期に

再訪し、投稿しようと考えています。

そこで、小田原北条氏を小休止し、

新ネタを間に入れます。

突然ですが・・・、

明智光秀丹波平定ってありますよね~。

その辺りをイメージして、今年3月に

2泊3日で探訪してきました。

表題は明智光秀 丹波の足跡を訪ねて」

目次は下記を予定してます。

(1).老ノ坂と丹波亀山城

(2).八木城

(3).黒井城

(4).福知山城

(1)老ノ坂と丹波亀山城

本能寺の変 進行ルート 老ノ坂 散歩の旅~

日本屈指の大事件、**明智光秀**による

主君であり、事実上の天下人でもあった

**織田信長の弑逆、皆さんご存知の本能寺の変**。

西国毛利氏攻略軍の支援を信長から命じられた

**明智光秀**は、信長抹殺を胸に秘め、

天正10年6月2日**丹波亀山城**を出陣し、

京都の西側の国境である老ノ坂峠

を越えて、京都市中に侵入しました。

その進行ルートで有名な老ノ坂(おいのさか)

を散歩しに行って来ました。

(いつか行きたいと思っていました👍)

2024年3月某日。

8:07の新幹線で静岡を出発し、

10:27京都の西、**亀岡駅**に到着。

亀岡駅から京坂バスに乗って、国道9号線(山陰道

を京都方向に少し戻り、11:05老ノ坂峠バス停

に到着しました。

今回、このバス停からスタートして

**丹波亀山城**に向かいます_(._.)_

老ノ坂峠バス停は下マップのです。

が**丹波亀山城**です。

①から⑥の順で、光秀軍が本能寺の変の時、通った道、

又は見た景色と勝手に想い、徒歩でゆっくり散歩します。

(ただ、そもそも向きが光秀軍と逆なんですけどね🙄)

①老ノ坂峠バス停

亀岡駅南口のロータリ内でバスを待ってましたが、

来た運転手さんが、老ノ坂へは少しロータリから出た

停留所から出発するよと教えてくれました。

それが下の写真の場所です。

老ノ坂へ行くバス停
(中央奥が亀岡駅南口)

おおよそ30分に1本通ってます。

そしてバスに乗って**亀岡駅**から30分程で

老ノ坂峠停留所に到着しました。

(上のマップですとからへバスで行きました。)

ここでバスを降りて歩きます。

老ノ坂峠バス停

バス停から国道9号線の道沿いを
西へ進むと、分かれ道があります

国道9号線から南方向へ進むこの道に入ります
(グーグルマップにもこの道が載ってます)

トレッキングコースの標識がありました

ただし、少し暗い道です。
(ちょっと思いました。ここに獣が向かって
来たら全く避けられないな~)

youtubeで事前に見た廃墟

分岐点に到着。この左右の道が**旧山陰道**の様です。

南に進んでいたので、右(西)側が老ノ坂峠

幣ブログを見て老ノ坂に行かれる方がいらっしゃるかも

しれないので、拡大マップを添付致します。

(。´・ω・)ん? 行きたい方はいらっしゃらないとな🙄

(マップの右方向が京都市街、東方向です。)

老ノ坂峠バス停から、⑤の分岐点に来てます。

②是従東山城国の道標

折角なので山陰道老ノ坂峠の逆、東へ進みます。

(上のマップで、からへ進みます)

**旧山陰道**を東へ進む

道標が見えてきました

これより東が山城国 の道標

ここが**山城国丹波国**の国境の標識です。

戦国期にあったのかな~?

まあ江戸時代にはあったよね~。

ただこの標識により、この道が**旧山陰道**であり、

光秀軍も通った可能性が高そうですね。😀

首塚大明神

そのまま道を進むと、程なく**首塚大明神**に到着します。

名前からして怪しげです。

首塚大明神1 (もう入る前からして怪しい~)

首塚大明神2 登った先の洞

首塚大明神3 由緒の石碑

石碑の内容を簡単にまとめます。

平安時代初期、老ノ坂近くの**大江山**を本拠として、

**酒呑童子**(しゅてんどうじ)という鬼が京都で

悪行を働いていました。

(丹後との境だったとの話もありまし、

時代も平安中期995年前後で、

現在の大河ドラマ「光る君へ」と同じ

一条帝時代という話もあります。)

時の朝廷は、**源頼光**(以仁王の令旨で平家と戦った

**源頼政**の4代上)等に命じて征伐しました。

この**酒呑童子**の首を埋葬したと伝えられている

塚が、ここ**首塚大明神**です。

(霊感スポットみたいです。確かに昼でこの

雰囲気なので、夜は相当怖そうですね~。)

**酒呑童子**は死の直前に悔い改め、首から上の

病に霊験を与えるとされています。

私は慢性的に首が痛いので、念入りに合掌したところ、

当日は何か楽になった気がしました。😃

首塚大明神4 裏側の出入口

首塚大明神から更に東(京都方向)に進むと、
舗装が無くなり、当時の道に近そうな雰囲気になりました。
ただし今回はここでUターンします。

首塚大明神でUターンして、**旧山陰道**を西へ進み、

マップのの分岐点を越えて、老ノ坂峠を目指します。

ここが峠の最高地点だったので、
ここが老ノ坂峠到着と言って良いのかな?

老ノ坂峠の西側を降ります。

右手が京都縦貫自動車道の新老ノ坂トンネル。
国道9号線もすぐ脇に重なる所。

山陰道から東方向を振り返る
(自動車道のトンネル)

**旧山陰道**から国道9号線への接続場所。

国道9号線から東方向を見る
(右の道が歩いてきた山陰道で、老ノ坂峠です。)

国道9号線の脇道を西へ歩く

脇道を歩いていたらいつの間にか行き止まりに

なってしまったので、少し戻って土手を這い

上がって国道9号線に戻りました。

老いの坂峠の方向を見る

国道9号線から左の**旧山陰道**への道に入ります。
この道、車が切れないんですよね~。横断するのが怖かった。

国道9号線を離れ、この道を西方向に進みます。

④占い石、旧山陰道を感じる田園風景

しばらく進むと3方向の分岐点になります
正面奥から歩いています。

分岐点
別れ道は、からと越え(本能寺の道)へ通じる道。
山陰道老ノ坂経由に対して、北側の尾根伝いの道です。
光秀軍はもう一つ**保津峡**経由の3つの道に分かれて
進軍した話がありますね。

**旧山陰道**を西へ進む

山陰道沿いにある占い石

田園が見えてきました

山陰道付近の田園風景1

山陰道付近の田園風景2 (これは良い所ですねー)

早桜が咲いていました

**旧山陰道**付近を西へ歩いています

平野部へなだらかに降りてきています

船着場

山陰道の入口
(左の細い道が
山陰道で、
ここに出てきました)

王子神社

山陰道入口の近くに**王子神社**がありました

王子神社付近の地図 (**山陰道、老ノ坂、首塚大明神**等の名が書かれています)

閑静な道を歩きます

山陰道付近の北側の山並
からと越え道や**明智道**は、このもっと山の左奥(北側)です。
光秀本人はどの道を通ったのやら?)

⑥篠村八幡宮

**篠村八幡宮**(しのむらはちまんぐう)。

ここも行きたかった所ですね~。

篠村八幡宮 正面

篠村八幡宮 入口

ここはどこかと言うと、**足利高氏旗揚げの地**です。

足利高氏旗揚げの地 の碑

篠村八幡宮由緒 説明板

つまりここは、元弘3年(1333年)4月29日、

**足利高氏が初めて鎌倉幕府**に対して反旗を表明した

場所であり、その後の5月7日に京都の幕府拠点、

**六波羅探題**を攻め滅ぼした、源氏ゆかりの地ですね。

(参考)因みに元弘3年5月8日、
関東で**新田義貞が挙兵した生品神社**(群馬県
足利と新田が挙兵!

そしてこの時、八幡宮山陰道沿いに足利家

旗を立てて、味方へ本陣の場所を示したとされる

旗立楊の名所が6,7代目で残ってるとの事です。

足利高氏 旗立楊(はたたてやなぎ)

足利高氏旗立楊 説明板

足利高氏旗立楊

元弘三年の旗揚げ時は、まだ**北条高時**の字を

頂いてた高氏でしたが、旗揚げ、倒幕の功により

後醍醐帝から頂いた尊氏の文字が無いのが

なんでかな~?なんて現地では見てました。。。

あ、今良く見たらこの石碑は尊氏になってる。

何故かな~(@_@;) 何もわかって無い😞

その**篠村八幡宮本能寺の変**にも関連していて、

八幡宮の説明板には、光秀本能寺へ進軍途中に

ここで戦勝祈願をしたと書かれています。

あと実は、光秀が信長討伐を重臣達と相談

した場所が**篠村八幡宮**という伝承もあるそうです。

そもそも光秀信長を殺してない説、

とか説が色々有りすぎですね(@_@;)

**篠村八幡宮から亀山城**までは、

最寄りのバスで戻りました。

丹波亀山城

**丹波亀山城**は明智光秀丹波攻略中の拠点として、

天正6年(1578年)に築城されました。

亀山は、山城国から丹波国に入った最初の盆地

であり、正に丹波の入口の位置になります。

逆に言うと、ここが北西方向から京都へ

入るのに一番近い場所と実感出来ました。

そして光秀のもう一つの本拠、**近江坂本城**も

京都の東の玄関口と言えます。

(**大原三千院の道と大津の道の間に坂本**がある)

なので、京都の東西の入口を光秀に渡している

信長は、明らかに光秀を信用していたと感じますね。

・・・とだんだん話がごちゃ混ぜになってきました。

つまり**本能寺の変の際、光秀はこの丹波亀山城**

から京都の本能寺へ出陣しています。

亀岡駅から**丹波亀山城**北側に来ました。
明智光秀と、正面が水堀。
水堀の先が本丸ですが、木で見えません。

水堀脇の遊歩道を東へ歩きます

途中の南郷公園の説明板
有事の際、城の北側は**保津川**を堰き止めて
水を溢れさせる作戦だったそうです。

**丹波亀山城**の入口
入口の案内通り、中で入場料を払って見学します。

**丹波亀山城**の案内図

内堀

中に入って行きます

石垣の刻印1

石垣の刻印2

石垣の刻印3
慶長15年(1610年)天下普請により
改修された時の刻印との事です。

一ノ門

本丸櫓台 石垣1

本丸櫓台 石垣2

本丸櫓台 石垣3

本丸櫓台 石垣4 (この隅石部の下から10段位までは算木積みでは無く、
形も台形に加工されてる等により、光秀当時の石垣
ではないかと説明されています)

亀岡市の名前の由来~

さて、ここで地元民ではない私が、この地について

昔からなんとなく引っ掛かっていた事があります。

元々**亀山城なのに何で亀岡市**ってなってるのか?

自分の勘違いなのか?いや調べてもそうなってるし。🤔

調べると、一つの話では戊辰戦争時、伊勢の亀山藩

倒幕側で、**丹波亀山藩幕府側**だったので、

明治2年の版籍奉還で、丹波の方が亀岡に名前を

変える様、明治政府から命じられたとの事です。

ただもう少し確認すると、**伊勢の亀山藩**も最初から

薩長軍に味方しているはずもなく、幕府側に

協力後途中で恭順した罪を問われていたって

話もあります。

なので結局良く分からないのですが、

丹波伊勢のどちらの亀山も、

幕府側と倒幕側の選択は難しい時代でしたよね~。

MLBで大谷を歩かせてベッツと勝負するか、

大谷と勝負するか、究極の選択の様な・・・😆

(ちょうど書いてた時の話です。

そして今、投稿直前、ドジャースが地区優勝

決めたの知りました。おめでとう~~~😊)

と話があっちこっちしてますが、締めます。

ご高覧ありがとうございました。m(__)m