「黒神話 悟空」を買わなかった理由(ネタバレ注意) (original) (raw)
ごきげんよう。皆様いかがお過ごしかしら。
この記事は、プレイ動画視聴のネタバレ感想なので未プレイの方はご注意よ。
蛇足がめっちゃ長いから、ネタバレだけ知りたい方は太字だけ読んでね。
8月20日、中国のゲームメーカーから「黒神話 悟空」が発売されたわね。
アタシ、小さい頃から西遊記が大好きで、今でも岩波文庫の翻訳版全10巻を愛読するほどなの。
ゲームの事前情報を全く知らなくて、いつも観ているゲーム実況者さんのプレイ動画で知ったのよ。
リアルな映像でアクションや中国のファンタジーを楽しめるとあって、買おうかなって思ったんだけど、アタシの勘が「ちょっとお待ちなさい」ってささやいてね。まずプレイ動画を見て決めようと思ったの。
編集してエンディングまで公開している方の動画があったから、それを観たわ。
アタシはネタバレ平気なのよ。購入する時はストーリーを重視するから、お話が自分に合わなかったら買わないし、自分でもその物語を体験したいと思ったら即購入するわ。
ブラッドボーンや隻狼がそれ。エルデンリングはフロムゲーってだけで買っちゃたけど。
「黒神話 悟空」のゲームレビューには、原作の西遊記を知らないと話の内容が理解しにくいってあって、確かにその通りだと感じたわ。原作ファンだとすぐ、あの回のエピソードだってわかるんだけどね。
オープニングのムービーでは、紫金の鎧に身を包んだ悟空が天の軍勢と対峙しているところから始まるわね。
原作ファンはあの場面で、悟空が出家する前の斉天大聖を名乗っていた時代に、天軍に無双して顕聖二郎神君に負けた場面かなって思うじゃない。
でもゲームでは、西方浄土に三蔵を送り届けた功績で闘戦勝仏になった悟空が、下界の暮らしを忘れられなくて、生まれ故郷の花果山に里帰りしたって言ってるの。帰ったはいいけど、山の仲間の仇を取りに来たって言う後日譚なのね。
悟空の故郷である花果山が焼き討ちにあった話は、原作の第二十八回を元にしているのよ。
第二十七回であらぬ誤解を受けて三蔵法師に破門された悟空が、行き場がなくて故郷に帰るんだけど、500年前に天宮を荒らした咎で、二郎神君とその兄弟の軍勢が花果山を焼き払って妖魔狩りをしたのよ。
ここってかなりショッキングな場面でね。悟空が仲間と楽しく暮らした仙郷が、500年経っても荒廃したままなのよ。残党狩りは続いていて、生き残った猿や妖魔たちは怯えながら暮らしていたの。
悟空は泣きながら荒れ果てた土地を巡ってかつての部下と再会し、生き残りを集めて、昔のように妖怪の王になって暮らそうって思ったのよ。
天の狩人の軍勢が山に襲いかかった時、悟空は怒りに任せて一瞬で軍を全滅させたの。その後、四海の龍王から仙水や甘露をもらってきて荒れた山を元通りにしているわ。
結局、黄袍怪が強敵で、取経への旅に悟空なしではやっていけなくて、猪八戒が悟空を花果山に迎えに行くの。悟空もなんだかんだで三蔵たちが好きで心配していたから、あっさり旅に戻るんだけどね。
ゲームのシナリオは、ここが肝になってるわ。
ゲームでは、登場する妖怪たちは残虐だけど人間らしい気持ちも持っていて、恋人や親子の情も描かれているわ。
ステージクリアするたびに西遊記のエピソードを元にしたアニメが流れるんだけど、ラスボス前と真のエンディングで、このゲームのテーマが語られていたわ。
アタシの解釈だけど、ゲームの主なテーマは「多様性の自由と反骨精神」。
アニメ中で、天軍に瀕死を負わされた悟空が牛魔王に言うのよ。「自分たち妖怪は生きることを許されない」って。
生きているだけで罪の存在なのよ、この世界での妖怪は。誰かを愛する情はある、仲間を思う気持ちもある。でも妖怪だからというだけで狩られる。(妖怪は人間を襲って食べるなど、人間に危害を加えることに罪悪感がない点には触れられていない)
能力や見た目の違いはあっても人間と同じ生き物じゃないかって言いたいのよね、きっと。
原作だと、妖怪は輪廻を外れた存在だから、いくらでも殺していいことになってるわ。殺して次の輪廻でまともな生き物に生まれ変わらせるってことかしらね。原作の魔王や妖魔は、三蔵への試練のためにわざと妖怪化して人間界に下っている存在よ。いわば、悟空や三蔵たちがレベルアップするために都合よく配置された敵キャラなのね。
原作を読むと、天界の法がやたら厳しすぎることに疑問を覚えるわね。
猪八戒は宴席で天女にセクハラして人間界に堕とされたし、沙悟浄は玻璃の杯を割ったってだけで拷問の末、妖怪に堕とされたしね。三蔵法師は、お釈迦様の弟子だった前世に、お釈迦様の説法中に居眠りして足元のお米を踏んづけたっていう、何だかしょうもない理由で人間界に転生させられたわ。(三蔵に関しては、仏弟子なのに仏法を軽んじたことは大きな罪だったけど)
当時の中国の法が、それくらい細分化されて厳罰化していたってことかしら。それと、みんなが憧れる美しい天界に住むには、完璧な人格と行動が常に要求されるってことなんでしょう。
天界は遊ぶ所じゃなくて地上を支配する所だから、適当こくなって話よね。
このゲームのシナリオライターは、現在の中国と西遊記の天界にある息苦しさに共通点を見出したのかもしれないわね。
悟空もいわば虐げられた側だから、声なき声を代表して戦った反逆のヒーローにしたかったのかもね。
エンディングの答えを言うと「ループ(輪廻)している」ということだったみたい。(クリア周回時に「輪廻する」って出てるし)
物語は、謎の白い老猿が「こんな物語もある」って始めて、同じ語りで終わるんだけど、この白い老猿は結局何者だったのかしらね。
羽衣を着けているから神仙か、菩薩の変化かもと思って見ていたんだけど、正体は明かされなかったわ。
エンディングでは、天命人(プレイヤー)が亡き悟空の意思で、最後は、各地の妖怪に奪われた悟空の一部分(六根)を取り戻して合体するのよ。でもそこで終わっちゃうのよ!
生前の悟空は戻ってこないけど、生まれ変わりとも言える天命人が新たな悟空になるって内容ね。
その場面でさ、老猿が緊箍児(きんこじ。あの有名な頭の輪っか)を天命人の頭にはめるのよ。ヤメテー!って声が出ちゃったわよ、アタシ。天命人は合掌して素直に受けれちゃってるしさ。
もう原作を損害しているわよね。エンディングを見て、アタシはこのゲームを買わないって決意したの。(ちなみにこれ、ノーマルエンドらしいわね)
原作ファンなら知ってるわよ、悟空がどれだけその輪っかから解放されたがっていたか。
緊箍児は、悟空は悪たれだけど強くて役に立つからって、無理に三蔵のお供にさせるための枷だったのよ。
最初は、悟空は渋々同行していたけど、元が素直で目上を尊敬するたちだから徐々に三蔵のことも師匠として尊敬するようになったし、好きにもなっていたの。
意見の違いで三蔵とはしょっちゅう衝突していたけど、それでも自分の意思で旅についていたのよね。
原作をよく知らない人は、三蔵は悟空を激烈に苦しめる緊箍呪を頻繁に唱えていた印象があると思うけど、そんなことないからね。数えるほどしかないから。
唱えられると悟空でものたうち回るほど苦しいから、頭の輪は恐怖の対象でしかないのよ。原作でも「これさえなければ俺は自由なのに」的なことを何度も言ってる。
お経を長安に届けて、三蔵たちと西方浄土に戻った時、自然と緊箍児は消えていたのよ。罪が許された上、仏っていう最高位に就けられてね。
それをさ、ゲームではわざわざはめてるわけよ。勇者の冠じゃないっての。
天命人が正座して合掌している姿から、悟空が両界山で三蔵法師の弟子になった時のオマージュだと思うんだけど、じゃあ天命人はその先、何に仕えるのって思ったわ。
闘戦勝仏に戻れない代わりに、仏法の守護者として永遠に生きろということだったのかしら。
次は、真のエンディングのアニメムービーの話をしましょう。
真エンドの条件として、天命人が二郎神君と再戦して、二郎神君が天命人に「緊箍児をはめない悟空の自由と可能性」を見出すのよね。緊箍児は悟空の自由意思を縛る枷。それがなかったら別の未来があったかもしれないってこと。
(オープニングで二郎神君が術をかけ、悟空の頭に幻の緊箍児を生じさせて苦しめたのは意味不明ね。緊箍児は観世音菩薩の賜り物だから、観音=仏の代行者の意味合いだったのかしら)
エンディングムービーでは、悟空が西方浄土でお釈迦様に闘戦勝仏に昇格されて袈裟をまとう場面から、次々と過去の、原作にもあった名シーンをさかのぼっていくの。西方浄土から長安に帰る道中、巨亀から落ちて水没するところや、人参果を振り落とすところとか。
最後は、悟空が斉天大聖だった頃、地上の妖魔や魔王を率いて天軍にカチコミに行く場面で終わるのよ。まるで、そこから新たな悟空の物語が始まると言わんばかりに。
これを見て、ああもう買わない!って再度思ったわよ。アタシの好きな西遊記と違うって感じたから。
故・小野忍さん翻訳の岩波文庫「西遊記」(三)の第三十回で、花果山に悟空を迎えに来た猪八戒のセリフを引用させてもらうなら、「この猿め、和尚にならずに妖怪になりやがった」なのよ。
シナリオライターが、自由と生きる権利を求めて強大な権力に立ち向かう反逆者としてのイメージを悟空に植え付けようとしているのはわかるわ。
でも、明確な結末を出さずにそこで終わってんのよ。それも許せないのよ。やるなら、妖怪軍を率いて西方浄土をぶっ壊すまで話続けなさいよって思ったわ。真・女神転生IIIの人修羅エンドぐらいやりなさいよね。黒神話っていうくらいなんだからさ。
冒頭のムービーで悟空が二郎神君と対峙した時、二郎神君は、仏の座から降りて地上に戻った悟空が、また天界の秩序(ひいては地上の乱れにもつながる)を乱そうとした悟空を、反乱分子として討伐に来てたのよね。悟空の言い分だと、自由を求めて故郷に戻ったら仲間が殺されていたから仇討ちに来たってことだけど。
その時、悟空が「不老不死の四文字が神も妖怪もおかしくさせる」って言うのよね。それがこのゲームのテーマだと思ったんだけど、違ったわね。
不老不死が当たり前の神や仏と違って妖怪は寿命があるから、徳のある僧侶を食べたりして寿命を延ばそうという内容が原作にはあったの。
永遠の命を生きる神仏には、限りある命を生きる妖怪の気持ちはわからねーだろって言いたかったのかしらね、このゲームの悟空は。
真・女神転生みたいに、神や仏と対立して勝利するストーリーにすれば買ってたかもね。
原作だと、悟空は永久にお釈迦様には勝てないのよ。それくらいお釈迦様や仏は絶対的存在なの。
真エンディングは、1回死んでループ(輪廻)して天命人になって、何度も同じ歴史を繰り返しながら成長すれば、いつかは勝てる日も来るかもしれないという意味だったのかしら。
それは何億、何兆、何京年後かしら?
仏教では、輪廻から解脱することで、転生した人生の繰り返しから解放される。輪廻し続けている限り、苦しみは永劫に続くのよ。つまり、悟空が再生し、名前が継承されることは何の解決にもなっていないのよね。
また原作の話になるけど、仏になるっていうのは、永劫に近い年月を修行し続けても、成れるかわからない存在なのよ。三蔵が浄土で仏の座に着けたのも、前世でお釈迦様の弟子として永く修行してきたことが前提としてあったのよね。
表向きは地獄の霊をなぐさめ、荒廃した人々の心の安寧のために取経に行くのだけど、神々や仏が全力で三蔵たちの旅をバックアップしていたのは、前世が仏弟子だった三蔵を元の世界に戻すためだったのよ。
本来の居場所に帰るために、三蔵は人間に転生してたくさんの苦難を乗り越える必要があったわけ。
ラスボス前に、老猿が天命人と猪八戒を木の舟に乗せてラスボスの所に連れて行くんだけど、原作第98回の接引仏祖(南無宝幢光王仏)が渡し守に変化して底なしの木舟に三蔵一行を乗せて運ぶ場面と似てると思ったわ。
原作だと、底がない舟は魂しか乗れない舟で、まだ人間として生きていた三蔵はその河の水で肉体を捨てることで乗ることができたのよ。つまり、そこで三蔵は死んでるの。
凡胎を脱したって言って、三蔵が肉体を捨てた時に悟空たちがめでたいって大喜びするのね。死ぬことがめでたいっていうのは、三蔵が冥土に転生せず、そのままの姿で浄土に行けるから。
アタシ、ここ読むたびに泣けるのよ。苦しいことばかりの人生から解放されること、それが仏教における輪廻転生の意味でもあるけれど、本来の居場所に帰ること、自分を受け入れてくれる場所に温かく迎え入れてくれる。それがうれしくて涙が出ちゃうのよ。生に執着せず、死ぬのも悪くないのねって思える。
長安にお経を届けた三蔵が、天の迎えが来た途端、彼の育った土地を何の未練もなく去っていく場面も切なくて、でも読んでいてホッとするわ。三蔵は自分の居場所に帰れるんだから。
元は天の将軍だった八戒や悟浄、天龍も菩薩の位に就けたし、原作は大団円なんだけどね。
万物に慈悲と救いをもたらす仏すらも抑圧の対象としたこのゲームのシナリオは、悟空を自由を希求する反逆者として設定しながら、未完で終わらせたことが惜しいのよ。原作に忠実な描写も多々あったのに、独自解釈がアタシには受け入れ難かったわね。
だからこそ、「こんな物語もある」って老猿に語らせていたのだけど。
悟空が仏に成ったことを、自分より強い勢力に丸め込まれたと解釈しているのよ、このゲーム。
でもアタシはそうは思わない派だから、買うのをやめたわ。別に権力至上主義者じゃないわよ。原作の大団円と仏陀の教えが好きなだけよ。
もう一つ、戦闘が単調に見えたから遊びたくなくなったってのもあるわね。ボスは多彩なんだけど、ずっと棍で殴り続けて、チャンスの時に大技を出すってパターンしかないのが、見ていて退屈だったの。ファイナルファンタジー16よりはマシに思えたけど。
隻狼も基本の武器は一つだけど、忍具や体幹忍殺システムのおかげで単調に見えないし、剣戟が遊んでて楽しいわ。体幹忍殺で、敵の体力ゲージが残っていても一気に勝利できるのも爽快感があるのよね。
悟空はステージ制で、ひたすらマップを進んでボスを倒すだけっていうのは、飽きるのが早そうだったわ。
途中で旅の相棒になる八戒が、原作準拠じゃないキャラなのも気になったわね。小柄でかわいい猪頭で、やけに漢気があるのよ。頭も切れるし。
いや、エアプだけどこのキャラ好きよ。喋らない天命人の代弁者にもなってるし、ほんといい奴なのよ。原作はだらしなくてずる賢い挙動が多いんだけどさ。
やたらかっこいい八戒が出たから、悟浄や龍馬も出るかもって期待したけど出なかったのよ。そこも落胆ポイントね。真エンディングのアニメの絵で姿は見えたけど。
三蔵は、挿入アニメでちらっとセリフ付きで出てたわ。原作に出てたスッポンの妖怪をモチーフにしたのかしら、あの土左衛門みたいな妖怪のアニメシーンのラストでね。
話それるけど、引き裂いた体から真珠を出す妖怪のアニメ、かなり衝撃的だったわ。妖怪は貧しい村に富を与えたけど、欲望に負けた村人の一人が大きく妖怪の体を引き裂いて大量の真珠を出させるやつね。
それで村人全ての感情のたがが外れて、妖怪をズタボロにして真珠や玉の骨を取り出して大喜びするけど、富を生む存在を殺したことで村も滅びたってオチ。体を削ぎ取られて腐敗した妖怪はまだ生きていて、そこに一人で旅してきた三蔵らしき男性と会話があるの。俺は勝ったぞって妖怪は三蔵に言うんだけど、三蔵は悲しい顔で否定するの。
ゲームでは黄眉ってボスが語るんだけど、三蔵は人間を助けたくて下界に転生したみたいなのよね。自分たちだけが安寧の天界にいるのはおかしいって思ってて。そのために大罪を犯して人間に転生したみたいなんだけど、そこをゲームで出しなさいよって思ったわ。
こっちが体験したい肝心な部分がゲームに盛り込まれてないのって残念だわ。黄眉が語る三蔵もまた、反逆者ってことじゃない。
三蔵一行が天界をぶっ壊して新しい世界を創るパンクなストーリーなら良かったと思うの。
それに、この人間思いの三蔵なら悟空たちのことも大事に思っていたはずよね。八戒でさえ、あんなに悟空復活を望んでいたんだから。
なのになぜ、ゲームで出ないの?悟浄や龍馬と浄土でのんびりしていたというのかしら。
そういう解せない理由が多すぎたわ。音楽、日本語版西遊記を意識しただろう翻訳、グラフィックやボス、天命人(悟空)の造形は本当に素晴らしいんだけど、これは買わなくていいという結論に至ったわよ。
さらに言わせてもらうなら、原作ネタの改ざんと言うか、アレンジに好感が持てなかったわね。本編では、原作ネタを元にアレンジしたイベントがほとんどだったけど、ラスボス前で語られたエピソードに拒否感を抱いてしまったわ。
悟空は天地の気が固まって自然発生した生まれながらの神仙で、妖怪とつるんだ時期も酒は飲んだけど決して肉を食べなかったし、結婚もしてないの。肉食と女犯の罪を犯していない、きれいな体なのよ。だから最後に仏になれたの。
なのにラスボス前の悟空の記憶の空間で、三度女怪を打ち殺した原作エピソードを持ち出して、その女怪が悟空の元恋人って扱いにしてたのは腹が立ったわ。
ライターさんはこの罪を犯していたら仏になれないの忘れてるわね。三蔵は転生前から童貞だし、豚に転生した八戒は妻帯したから菩薩止まりだっていうのに。
アレンジの件は、もしかしたら本場中国の西遊記のドラマや劇なんかでは鉄板ネタなのかもしれないわね。京劇とかにそういう外伝があるとかさ。
それなら本場の方には刺さる小ネタなのかもしれないけど、原作しか知らないアタシにとっては、やってほしくなかったわね。原作に忠実な描写があるから、やっぱり原作通りのものを見たいって気持ちがあるのよ。
あと、ほんと細かいところだけど、真エンディングのアニメで三蔵の顔が少し映るけど、やけに老けてんのよね。確かに、30代で長安を出発してから14年余りかけて天竺に到達しているんだけど、旅の途中で人参果を食べて普通の人間の体じゃなくなったから、若いままなのよ。行く先々の女怪や女王に見そめられて困った事件に発展するくらい美青年なんだから、その辺も原作準拠であってほしかったわ。
それと、筋斗雲は生き物じゃなくて仙人が使う法術なのよね。ゲームだと、天命人が悟空に似てるから従ったって言われてるわ。ドラゴンボールのオマージュのつもりかしら。
西遊記が大好きだから、今回はかなり長く語ってしまったわ。
読んでくださった方、お疲れ様なのよ。
原作を知らない人が気軽に西遊記の世界に触れるにはいい作品かもね。
アタシは原作好き過ぎて、購入を諦めたわ。プレイ動画を見て何度も買いたいなって思ったんだけど、コレじゃない感が強かったから。セールで半額になったら買うかもしれないけどね。
それじゃ、また次の記事でお会いしましょう。