『第八の日』あるいは「泣き虫エラリイの冒険」 (original) (raw)

(本書の内容にかなり立ち入っていますので、未読の方はご注意ください。ただし、犯人は明かしていません。)

ハヤカワ・ミステリ文庫がスタートして、エラリイ・クイーンのファンが一番驚いたのは、本書『第八の日』が出版されたことだろう。ポケット・ミステリではなく、文庫版が本邦初訳だったのだ[i]。それくらい、本書は早川書房を戸惑わせ、読者さえ戸惑わせた変な本だった。訳者の青田勝が、短いながら的確な解説を書いてくれているし[ii]、同氏が引用しているフランシス・M・ネヴィンズ・ジュニアのクイーン評伝も、その後早川書房から出版され、本書をどう読めばよいのか、懇切丁寧に説明してくれている[iii]。それらに眼を通して、充分な心構えをしてから手に取った方がよいかもしれない。

ところで、わたしは、以前『盤面の敵』(1963年)について感想を書いたときに、マンフレッド・B・リーが書いてこそのエラリイ・クイーンであって、彼の筆にならない作品はクイーンのミステリではない、だから代作者による小説については論じる対象とはしない、と述べた。その考えには、今でも一切、変更はない。わたしは、リーが書いたものしか、クイーンとは認めない(エッヘン)。

・・・認めないのだが、しかし、本書を再読して思ったのは、リーの文体との違いが、わたしには皆目わからない(あーあ、言っちゃったよ)。これはアヴラム・デイヴィッドソンが書いたんだよ[iv]、と言われたところで、リーと見分けなどつかないのだ(なんで、えらそうなんだ)。しかし、プロットは、いかにもフレデリック・ダネイが思いつきそうな、奇妙奇天烈なものである。これまでのクイーンの小説と比べても、あまりにも奇天烈だが、それでいて、クイーンそのものといった強烈な体臭が感じられる。というわけなので、まあ、クイーンが書いたと思って読めば、それでいいんじゃない?(テキトーな奴だなあ。)

そこで『第八の日』だが、本書は「宗教小説」だという[v]。それを受けて、青田のあとがきも、クイーン研究家の飯城勇三も、その線に沿って紹介している[vi]。ダネイが「死海文書」にインスパイアされて思いついたというし[vii]、そうなのだろう。しかし、宗教がテーマと言われても、日本人にはピンとこないし、そもそもキリスト教ユダヤ教の区別などつかないし(それは、ひどい)。いかにも神秘的な雰囲気が漂って、啓発的とも思える文章も散見されるが、その一方で、そこもクイーンらしく、ハッタリめいたところもある(失言だったかな)。

数十年ぶりに読み返して思ったのは、本書は、要するに江戸川乱歩がいうところの「別世界怪談」[viii]だということである。最初に連想したのが、乱歩は「動物怪談」に分類しているが[ix]、アルジャーノン・ブラックウッドの「いにしえの魔術」(1908年)[x]である。旅人が迷い込んだフランスの小村で、夜になると、住民たちが猫に変身して太古の魔術の饗宴が繰り広げられる。主人公も変身して宴に加わるよう誘われるが・・・、という話だが、まあ、怪談など持ち出さずとも、ジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』(1726年)やルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865年)でもいいかもしれない。それらと同じ、ユートピア(あるいはディストピア)を描いた幻想小説もしくはファンタジーとして読めばいいのではないだろうか。

エラリイが車を走らせて、「世界の涯の店」にたどり着くあたりの雰囲気[xi]は、なかなかいいし、クイーンナン(舞台となる集落の名前)に着いてからあとの、白日夢を見ているような、ぼやぼやっとした感覚[xii]など、全編にわたってファンタジーっぽい書き方がされていて、デイヴィッドソンを起用した効果が出ているのではないだろうか。リアリズム作家のリーには、こういう幻想小説ないしSF風のスタイルは相性がよくなさそうだ。このタイプの小説を真顔で書く、というか、作品世界にのめり込んで書くのには向いていなさそうな気がする。

このあと、雑品係のストリカイが村の聖所のなかで撲殺され、ようやくエラリイが本領を発揮する展開となる。後半は、夢幻的な雰囲気が薄れて、いつものクイーン調が戻ってくる。簡単に犯人を突き止めたエラリイだったが、それは彼をクイーンナンに導いてくれた教師だった。コミュニティの掟に従い、彼に死の評決が下されるが、「例によって」自分の推理が誤っていたことに、エラリイは気づく(何度目だ)。処刑は象徴的な儀式に過ぎないと、たかをくくっていたエラリイだったが、ところが、教師は本当に毒を呷って死んでしまう。あまりのショックに、エラリイは、またしても打ちのめされてしまうのである。(そして泣き出してしまう、「例によって」。)泣き虫エラリイにも困ったものだが、こういうのが人間らしいと作者が思っているのだとしたら、少々安易ではなかろうか(盛り上げるために、泣かせただけとは思うが)。同じことを何度も繰り返すのも、どうかと思う[xiii]

しかし、本書の本当の驚きは、この後にくる。最後、「ムクー(Mk‘h)の書」の正体が明らかになって、ここは確かに衝撃的だ。『Yの悲劇』のマンドリンや『Xの悲劇』の「X」の謎解きさえ上回る驚愕である。ただ、ちょっと、あざとい気もする。この「オチ」のために1944年という時代設定にしたのだろうし、神秘的なストーリーで引っ張っておいて、最後に現実を突きつける狙いかもしれないが、一挙に通俗になった印象もある。どうだ、びっくりしたろう、と鼻をひくつかせるダネイの顔が浮かんできて、やっぱり、ちょっと、あざとすぎやしませんか?(もっとも、ユダヤ教徒のダネイとしては、とてもシリアスな気持ちで出してきたアイディアなのかもしれないが、エンターテインメントでやることはないだろう。)

しかし、さらにそのあと、もうひとつオチがあって、パラシュートで降下してきたマニュエル・アクイーナという青年の登場は面白い。こちらが「第二の人」[xiv]ということなのだろうが、これも、言ってみれば、思わせぶりに、ぶん投げるがごとき結末の付け方ではある。だが、怪奇小説やスリラーなら、こうくるよね、と納得もする。

もちろん、本書は宗教小説もしくは宗教をモチーフにした神秘小説であって、スリラーでも、ましてや怪談でもない、と言われれば、恐縮するが、まあ、いろいろな読み方ができる小説だということで。

それに、昔、読んだときには、なんだこれ、ぺっ、と思ったが(念のためにいっておくが、冗談です)、今回、読み返してみて、少なくとも、別世界怪談としては、なかなか面白かった。これなら、前言撤回して、エラリイ・クイーンの代表作に入れてもよい。執筆がリーじゃなくて、よかったとさえ思う(お前なあ)。

(追記)

わたしは、怪奇小説幻想小説も好きだが、数はそう読んでいない。ことに長編では、本当の意味で満足できる作品にぶつかったことがない。スティーヴン・キングも20冊ほど読んだが、心底夢中になれる小説はなかった。唯一の例外は、G・K・チェスタトンの『木曜の男』(1908年)である。あと、ウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』(1988年)(唯一の例外じゃなかったのか)。それから、古風で通俗ではあるが、デニス・ホイートリーの『黒魔団』(1935年)が記憶に残っている。

[i] 『第八の日』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)。

[ii] 同、「訳者あとがき」、253-54頁。

[iii] フランシス・M・ネヴィンズJr.『エラリイ・クイーンの世界』(秋津知子他訳、早川書房、1980年)、237-40頁。フランシス・M・ネヴィンズ『エラリー・クイーン 推理の芸術』(飯城勇三訳、国書刊行会、2016年)、324-27頁も参照。

[iv]エラリー・クイーン 推理の芸術』、324頁。

[v] 『エラリイ・クイーンの世界』、240頁、

[vi] 飯城勇三エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社新書、2021年)、179-80頁。

[vii]エラリー・クイーン 推理の芸術』、324頁。

[viii] 江戸川乱歩幻影城』(講談社、1987年)、328-34頁。

[ix] 同、311-12頁。「猫町」同、349-59頁、も参照。

[x] A・ブラックウッド『妖怪博士ジョン・サイレンス』(「ドラキュラ叢書」第三巻、紀田順一郎/桂千穂訳、国書刊行会、1976年)、7-58頁。

[xi] 『第八の日』、20頁。

[xii] 同、50-51頁。

[xiii] エラリイは、すでに『緋文字』(1953年)でも、パパの胸で泣いていた。『緋文字』(青田 勝訳、ハヤカワ・ミステリ文庫、1976年)、230頁。しかし、今回は、あいにく、ひとりぼっちであった。

[xiv] 『第八の日』、40頁。