431.日中韓の河伯と韓国の解慕漱(かいぼそう、ヘモス) (original) (raw)

古代朝鮮、集安高句麗碑にみられた河伯について。河伯日本書紀の中にも登場する。これまで紹介してきた朝鮮の遺跡・碑文・墓誌などよる考古学的内容を背景としつつ、古代に東アジアで何が起きていたかを探る。次の流れで紹介していく。

・集安高句麗
河伯(かはく)
朱蒙(しゅもう)
・解慕漱(かいぼそ、へモス)
・解慕漱のラテン語読み
日本書紀河伯
仁徳天皇・十一年
仁徳天皇について
・大兄の官名
・難波の堀江

■集安高句麗
集安市麻線郷麻線河の西岸で出土した石碑。
全部で218文字程度の碑文。

碑文には、
・始祖は鄒牟王であるとする
・広開土王の統治と領土を切り開いた
・広開土王は河伯の孫であるとする
・守墓条令を公布
などの内容が記されている。
↓詳細は下記、古代朝鮮・高句麗の集安高句麗

shinnihon.hatenablog.com

河伯について、過去記事より再掲する。

河伯(かはく)
河伯は中国、朝鮮にみられる河の神。
中国神話では黄河の神。
朝鮮では鴨緑江の神。
中国の河伯からの強い影響があるとされる。

続いて、朱蒙について。

朱蒙(しゅもう)
鄒牟王は朱蒙と同一視されている。

高句麗の初代王は朱蒙東明聖王とも。
広開土王碑(好太王碑)では始祖・鄒牟(すむ、すうむ)王とされる。

朱蒙の父は解慕漱王(かいぼそ、ヘモス)とされる。
↓は朱蒙について紹介、相撲にてつながりがあることを示した

shinnihon.hatenablog.com

↓は扶余族に関して紹介した回

shinnihon.hatenablog.com

では、朱蒙の父、解慕漱について。

■解慕漱(かいぼそ、へモス)
神話上の夫余の建国者。
三国史記、三国遺事に登場するという。

三国史記は1145年の完成。
三国遺事は13世紀末。

なお1145年は日本では平安時代末期である。

解慕漱はラテン語で読むと神の名前とある人物の名前が合成されている。

■解慕漱のラテン語読み
解慕漱は実在の人物とは考えられていない。

高句麗が扶余を征服後、伝説が取り込まれたのではと考えられている。

この解慕漱をラテン語で表すと
・Hae Mosu
となるという。

Haeは(ヤ)ハエ、モスはモーセと考えられる。
この二つの神を同時に信仰するのはユダヤ教由来の人物ではないか。

日本神道でいう、八重=ヤ(ハ)エを、弥栄(いやさか)=いやはえ→やはえ
と言い換えていることと類似すると考えられる。

↓はwikipedia、解慕漱
解慕漱 - Wikipedia

日本書紀河伯
さきほどのとおりで、朝鮮では河伯の孫が広開土王とされる。
集安高句麗碑に「河伯」がみられる。

広開土王碑や集安高句麗碑などは漢文で書かれている。
よって古代朝鮮の河伯も中国を由来とする、または経由した人物だっただろう。

一方、日本書紀にも「河伯」がみられる。
時代は仁徳天皇、十一年である。

おおよそ、次の内容(意訳、一部割愛あり)となる。

仁徳天皇・十一年

11年夏四月、群臣に勅して言った。
この国を見ると野も沢もひろく遠くして、田畑が少なく貧しい。
また河の水が横に流れ、流れが速い。
長雨が起こると逆流が起こる。

冬十月、宮の北の郊原(難波高津宮)を掘って、南の水(かわ)を引いて西の海(大阪湾)に入らせた。
その水を堀江(ほりえ、難波の堀江)といった。

また、茨田堤(まむたのつつみ、旧・河内国茨田郡茨田郷あたり)を築いた。
しかし、築いてもまたすぐに壊れてしまう箇所が2か所あった。

天皇(すめらみこと)は神が現れる夢を見て次のように言った。

「武蔵強頸(むざしひとこはくび)、河内人茨田連衫子(かわちひとまむたのむらじころものこ)の二人をもって河伯(かはのかみ)に祭らば、必ず塞ぐこと獲(え)てむ。
よって河伯にまつる。

ここに強頸(こはくび)、泣ち(いさち)悲しびて水に没(い)りて死ぬ。
すなわちその堤成りぬ。

ただし、衫子(ころものこ)のみは全匏両箇(おふしひさこふたつ)を取りて、せきがたき水(かは)に臨む。

そして両箇の匏(ひさこ)を取って水(かは)の中に投(なげい)れて、請(うけ)ひて言った。

「河神、祟りて、吾(やつかれ)をもって幣(まひ、神に供えるもの。ここではわたしを犠牲にしたの意味という)とせり。

是をもって、今吾、来たれり。

必ず我(やつかれ)を得むと欲(おも)はば、是の匏(ひさこ)を沈めて泛(うかば)せそ。

即ち吾、真(まこと)の神と知りて、親(みづか)ら水の中に入(い)らむ。

もし匏(ひさこ)を沈むることを得ずは、自(おの)づからに偽(いつはり)の神と知らむ。

何(いかに)ぞ徒(ただ)に吾(わ)が身を亡(ほろぼ)さむ」という。

ここにつむじ風たちまちに起こりて、匏(ひさこ)を引きて水に沈む。

匏、浪(なみ)の上に転(ま)ひつつ沈まず。

潝潝(とくすみやか)に汎(うきをど)りつつ遠く流(なが)る。

是をもって衫子(ころものこ)、死なずといえどもその堤また成りぬ。
これ、衫子の幹(いさみ)によりて、その身亡びざらくのみ。
ゆえ、時の人、その両処(ふたところ)を号(なづ)けて強頸断間(こはくびのたえま)、衫子断間(ころものこたえま)という。

仁徳天皇について
仁徳天皇日本書紀を根拠とすると生没年257年~399年、在位313年~399年とされる。
しかしこれは事実とは考えられない。

一方、古事記では在位は甲午年~丁卯年とされる。
これは394年~427年にあたり、広開土王の在位である391年~413年と同時代となる。
よって、好太王碑や集安高句麗碑の年代とほぼ同じである。

日本書紀高句麗の僧・道顕による「日本世記」が原資料のうちのひとつである。
このようなことも日本書紀の示すストーリーに影響しただろう。
↓は日本世記について紹介した回

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続いて、大兄という官名について。

■大兄の官名
牟頭婁墓誌に官名の「大兄」がみられる。
冉牟(ねんむ)の官名である。

牟頭婁塚の牟頭婁墓誌好太王碑よりあとだがそれほど離れていない時代のものと考えられる。
この「大兄」に関して。

仁徳天皇と葛城磐之媛の子に履中天皇がいる。
この履中天皇の諱が大兄去来穂別尊で、大兄が入る。

一般的に日本では、大兄は一部の王族が持った呼称・称号であるという。
また河伯の「伯」とは長兄とされ、大兄という言葉の意味とも一致する。

朝鮮半島における400年代前半の石碑や墓誌に登場する「河伯」や「大兄」という官名と、日本書紀において河伯が登場する仁徳天皇・十一年の時代がほぼ一致することは興味深い。

↓は高句麗の牟頭婁墓誌、大兄の官名がみられる

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続いて難波の堀江について。

■難波の堀江
先述の通りで仁徳天皇・十一年に難波の堀江が築かれたことが記されている。

ヤマト王権は4世紀末~5世紀初頭ごろ、奈良盆地から瀬戸内海に面した難波に都を移したと考えられる。

古墳時代はどのように展開したか。

おそらく、先行して到来していた丹波~纏向あたりの民族がいた。
これに対し卑弥呼、台与の後継の勢力である九州のヤマト国のヤマトタケルが東征する。そののち奈良盆地に新たなヤマト国を定め、ヤマト王権の新政権が築かれたとみられる。

やがて奈良盆地から難波に拠点を移した。
本拠となる難波高津宮(なにわのたかつのみや)は上町台地(うえまちだいち)。

古墳として最大規模の大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)は5世紀中頃の築造とされる。
大仙古墳はかつて仁徳天皇陵古墳と呼ばれた。
現在は世界遺産登録を期に大仙古墳とした。

被葬者は本当は誰なのだろうか。
仮に仁徳天皇が実在の人物であったとしても、古事記の示す仁徳天皇の394年~427年よりもう少しあとの時代の人物が祀られていると考えられる。

<参考>
日本書紀
三国史記 - Wikipedia
三国遺事 - Wikipedia
難波の堀江 - Wikipedia
上町台地 - Wikipedia