たとえばにはまだ続きがあって (original) (raw)

明治殺人法廷

昔も今も変わらない、維新とはすなわちならず者の別言を越えない。

時は明治20年、藩閥政治の暴虐に揺れる東京でひとつの条例が発布、そして即日施行される。その言わんとするところは、「皇居または天皇のお出まし先から三里以内に住むものが、内乱を謀ったりそそのかしたり、治安を侵す恐れがあると疑われるときには、警視総監または地方長官、内務大臣の認可により期限つきで退去を命じ、3年間は同距離内への立ち入りを禁止することができる」。

時の警視総監三島通庸によって主導された、この島流し立法の意図は明白だった。治安の二字を錦の御旗に、明治憲法帝国議会の前夜にあって、「再燃し始めた自由民権運動の息の根を止め」る、その宣誓だった。

かくして即日退去を言い渡されたひとりが、仮名文字新聞の探訪記者、筑波新十郎だった。条例が定める三里を超えて横浜にたどり着きはしたものの、警察の監視が依然離れることはない。彼が目的地に定めたのは大阪、そこは「愛国社や社会期成同盟の結成、自由党の解党決議が行われた」地であり、そして何よりあの中江兆民の根拠地でもあった。

そうして東雲新聞に新たに席を得た新十郎は間もなく、一件の凄惨な殺人事件に出くわす。質屋が何者かに襲われ、辛うじて少年と赤子は蔵に隠れて難を逃れたものの、家族や使用人の計6名が斬り殺される。

ところでこの事件には、ひとつ特異な点があった。赤ん坊の泣き声をもって異変を知った警察によってこじ開けられるまで、「戸という戸、扉という扉、窓という窓は、全て内側から施錠されていた」。なにせ舞台は質屋である、ゆえに預かった質草を厳重に管理すべく堅牢に築かれねばならない必然がある。

エドガー・アラン・ポーアメリカとは違う、巷に語られるところでは、日本家屋の開放的な構造上、密室トリックの輸入は横溝正史の『本陣殺人事件』を待たねばならない。それにはるか遡って埋め込まれた本事件の謎など、しかし警察は取り合おうとはしない。なにせ彼らは、「被害者と加害者を取り違え、暴行を加えたばかりか、その過ちをわびるどころか自慢話か笑いものに」して憚らぬ連中である。裁判所も裁判所で、「逮捕拘留され、法廷まで引きずり出されたからには罪があるに決まっており、それをまずは無罪と推定するような発想はどこにもな」い、所詮「司法改革は不平等条約解消のため近代国家の体裁をとる方便であって、内心は少しも変わっていない」。

やがて物的証拠も何もなく単に憶測のみをもって差し出された被告人の無辜を証明すべく、新十郎は弁護士(代言人)の迫丸孝平とコンビを組んで、真相の究明にあたる。

しばしば本邦の探偵小説の父として紹介される黒岩涙香にはもうひとつの顔がある、すなわち、「萬朝報」のファウンダーとしての。新聞記者として名声を博した彼にとっては、海外作品を翻案して本邦向けにリライトした探偵小説もまた、完全に同一線上の仕事だった、つまり、「理詰めに次ぐ理詰め」をもって、社会の闇を明るみに出し「善人を助けて悪人を挫ひしぎ王侯貴族も手の中に弄ぶ」という、その共通点において。

涙香においては、いずれもが啓蒙思想の体現に他ならなかった。そして『明治殺人法廷』は、その延長線上において書かれた。

本テキストのプロットは、もとより専らウェルメイドな密室ミステリーのみを志向するものではない。その狙いは、涙香にもましてあからさまである。

例えば「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」との条文が、例えば「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」との条文が、例えば「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない」との条文が、あるいは例えば「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ」との条文がまともに発動しないときに、法の支配という前提が共有されないときに何が起き得るだろうか、というひとつの思考実験である。そしてその試みは当然に、「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」ことも、「強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない」ことも貫徹されている様子を持たない現代司法を逆照射せずにはいない。

少なくとも表向きの体裁として、こうした条文の少なからぬ部分は、大日本帝国憲法においてすら、既にパッケージングされてはいた。しかしあくまで本書の舞台は、薩長の嵐吹き荒ぶその前夜のことである。

そうでありつつも、この法廷が辛うじて理性の法廷たり得たのは、言い換えれば探偵小説として首の皮一枚成立可能であったのは、ひとえに「日本近代法の父」、ムシュお雇い外国人、ギュスターヴ・ボワソナードの貢献に負う。彼が刑法に刻んだ証拠主義や推定無罪といった原則がもし欠けていたならば、あるいは報道の自由がもし失われていたならば――それは限りなく現在進行形のこの国に似ている。

ルールがクソならばルールを新たに自分たちで作ってしまえばいい、そうして革命フランスはボワソナードを育んだ。翻って彼が送り込まれた極東の田吾作においては――なにせ衰退を来してなお幕府に260年もしがみつき続けた量産型茹でガエルである――ルールがいかにクソであってもただひたすらに泣き寝入る、自称現実主義者の彼らにできるのは己の尊厳なんて投げ捨ててお上に媚びへつらってせいぜいが名君の降臨を待ちわびることだけ、もちろんそんなカレー味のウンコ程度の代物ですらも『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』といった、みすぼらしいフィクション空間にしか登場しない。有史以来変わることのないこの勧悪懲善の前近代的な後進性をもって、劣等民族は唯一その所以をあらわす。

長州の無法者をのさばらせた先に広がる地獄絵図、すなわちこれは明治と寸分違うところを持たない令和のリアル・ドキュメントである。

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脱住宅: 「小さな経済圏」を設計する

19世紀の産業革命以降、人間の生き方を取り巻く環境が急激に変化しました。なかでも最も大きな変化の一つだと私が思うのは、「一住宅=一家族」という住まい方が一つの普遍性を獲得したことです。一つの家族が一つの住宅に住む、そういった住宅の形式が誕生したこと、そしてこれこそ理想の住宅だと多くの人が受け入れていったこと、それこそ「住宅革命」と呼んでいいほどの20世紀の大転換であり、20世紀を象徴する出来事の一つだと考えています。……

夫婦と子どもという単位こそが最適な生活単位だと当時は考えられていました。性生活の単位であり、子どもを産む単位であり、それが同時に育児の単位であるという最もシンプルな単位を生活の基礎単位にするという住み方は、実は大きな問題をその内に含んでいたのです。何かというと、この小さな単位の中にすべてが閉じ込められてしまったのです。すべてというのは、それこそ生活のすべてです。逆に言えば、閉じ込められた生活がすべてだとその「一住宅=一家族」に住む人たちが考えるようになったのです。その閉じ込められた生活がプライバシーです(実際、プライバシーという言葉の語源には「閉じ込められる、隔離される」という意味があります)。

ところで「プライバシーprivacy」という単語には、筆者の指摘に加えて、そうと知ってしまえばいかにもふさわしい、より難儀な語源を有する。そのラテン語privareが意味しているのは、奪う、剥がす、盗む――つまり、どこかしらから自らの領域に引き入れるその排他的な営みこそが、「プライバシー」を表す。

筆者の説に従えば、「一住宅=一家族」のこのモデルの誕生は、家内制手工業からマニファクチュアへの移行を待たねばならない。つまり、大規模な生産体制を可能にするには、都市圏に多くの労働者を住ませることが必要になる。通勤可能なエリアの限られた敷地面積の中で、効率的に彼らの暮らしをデザインするには、そうして生み落とされたのが隣人とすっかりセパレートされた、「一住宅=一家族」の「プライバシー」空間だった。

昨今、かまびすしく叫ばれることばにワーク・ライフ・バランスなるものがある。この語はワークとライフが対立すべき、隔てられるべき概念であることを暗黙に含意している。

「プライバシー」を前提とすれば、必然そうなるのである。同僚と言えば聞こえはいいが、要するに生産性を競い合うライバルでしかない。ワークとはすなわち、ゼロサムゲームの利得を互いにprivareし合って、自らの「一住宅=一家族」というライフ圏内へと取り込む、その衝突関係を表しているに過ぎない。ワークという穏当な表現はその殺伐とした事実を巧みにラッピングする、そんなものは所詮、賃金を得るための苦役laborでしかない。だからこそ、逆説的にライフと切り離されなければならないのだ、そんなものは世を忍ぶ仮の姿、己の真の生業workではないのだ、と。

この構造が何によって作られたか? 筆者に言わせれば、「一住宅=一家族」によって作られた。マルクスに言わせれば下部構造が上部構造を規定する、いみじくも建築のありようがそこに住まう人々のありようを自ずから規定する。

どうしたわけか、このテキストはとことんprivareによって縛られる。つまりこの語は、前述の奪うという意と同時に、義賊ロビン・フッドがあたかもそうしたように、解き放つとの用法を持つ。建築が労働者にプライバシーを与えたように、そしてその引き換えにlaborを科して、この現代のブルシットな閉塞を生み出したのならば、そこからの解放もまた、建築の仕事となる。本書副題「小さな経済圏」とはすなわち、workを回復させるために建築によって遂げられる、そのささやかな試みを意味する。

議論そのものはたぶんそう目新しいものではない。1950‐60年代にジェイン・ジェイコブズとロバート・モーゼスの間で戦われたニューヨークの都市計画論争、地獄のスプロールをほとんどその通りになぞっているといってよい。しかし本書の課題はあくまで抽象的な概念をいかにして具体的な建設へと、いや人々の暮らしへと落とし込むかにある。

筆者にしてみればおそらくは、リビングやダイニングといった用語からして既に「一住宅=一家族」のパラダイムの洗礼を十二分に浴びてしまっている。暮らすこと、食事を摂ること、それ自体が扉の向こう、壁の向こうの「プライバシー」の内部における営為なのだ、と。

ゆえに筆者はそれに代わって「スタジオ」という間取りを提唱する。透明なガラスで可視化された、「個人の小さな経済のための場所=仕事場」である。つまり、ここでは仕事と私生活は互いに排除し合う関係には立たない。そこには、私を私たらしめるworkがあって、そしてそれは外部へと向けて開かれている。ガラス一枚をクッションする、その限りにおいて、そこは他とは画然とprivareされて、しかしあくまで街行く人々へと透明にprivareされてもいる。

従って、「小さな経済圏」は単に個人レベルでのlaborからworkへの換骨奪胎のみを意味しない、そこにはそれ以上の、他者へと向けて互いに開き合うコモンの萌芽を指し示す。

そしてその上で、私たちは立ち止まらずにはいられない。

「プライバシー」のそのデザインが、フィルター・バブル的、ポスト・トゥルース的、現代的なホモ・エコノミクスを作り出したことにもはや疑いはない。しかし、その逆流は可能なのか、と。「プライバシー」になじみ切った人間たちをコモンの明るみへと導くことは可能なのか、と。あるいはこうも言い換えられる、石丸伸二にサブウェイで注文させることは果たして可能なのか、と。

この可塑性についてのいかにも示唆的な嘆きが本書内でも漏らされる。筆者が手掛けた団地の中庭を菜園にしようと構想するも、あえなく断念を余儀なくされる。行政が列挙した理由は「住人が相互に不公平にならないように、あるいは近隣住人とのあいだに不公平感が起きないようにしたい」云々、つまりは協力し合う共有地であるはずのその場所が特定のユーザーの「プライバシー」空間として占拠されてしまうその未来図しか、担当者やあるいは当の住人たちには思い描けなかったのである。損得勘定ではない対話のための端緒となるべきその場所すらも、「プライバシー」というテーゼを前にして挫折を強いられてしまう、まさにその「プライバシー」という病理こそが解体されるべきものであるがゆえに。

映画『関心領域』が教えてくれること、何が漏れ聞こえて来ようとも、人は壁の向こうの見えざる世界に対してはどこまでも無頓着でいられる。

現在進行形の能登に、そのグロテスクな顛末のひとつは観察される。

再建のための何かしらのヴィジョンを提示しないどころではない、瓦礫のひとつも片づけようとしない、そうして豪雨に見舞われてなお、これといった手立てが打たれる気配もない。当たり前である。「プライバシー」を前提とした一般国民において、「一住宅=一家族」のその外側は地続きの空間ではないのだから。被災地のために金が使われるとは単に他のエリアから金がprivareされるという以上の意味を持たない。他面、それは森喜朗千年王国を今なお盲信し続けるしもべを見舞った因果応報であることも否めない。紛れもなく、2024年のこの光景は、コモンをめぐる想像力を喪失した焼け野原の成れの果てとして記録される。

彼らは終生、「小さな経済圏」を回復しない。

建築は誰のためにつくられるか。今、現実に生活している地域社会の住民のためである。そして同時にその未来の住民のためである。建築は一度つくってしまえば長い間その同じ場所に建ち続ける。個々の人間の一生よりも長い間そこに建ち続ける。建築は、その建築が未来の人びとに引き継がれることを期待してつくられる。今、住宅を設計してそれをつくるということは、この住宅に住む未来の住人を考えることなのである。

奇しくも、projectという単語は、日本語でおなじみのプロジェクトの用法から派生して、大規模な住宅群をその意味に持つ。ここでも語源が役に立つ、projectの由来はラテン語proiectus、つまり前に向けて投げ込むこと、建設を計画するとはすなわち、未来に対して責任を背負い込むことを含意する。かつて建国の父たちが過去の苦き教訓からそのヴィジョンを憲法に仮託して制定したように、筆者は「未来の住民」に向けて建築をプロジェクトする。このいかにも自意識過剰なマニフェストは、建築が決して一回性の試みではあり得ない、というその悔悟から発せられる。かつて建築が「プライバシー」の蛸壺をデザインしてしまったのだとすれば、自由な大海へと再び繋がるその可能性もまた、唯一建築を通じて果たされる。

腐り果てた現実を前に「プライバシー」の内側から公平中立の傍観者を決め込んで、そして未来をも台無しにする共犯者になる愚かしさに比べれば、「空想的社会主義者」であってなぜ悪い。

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正力ドームvs.NHKタワー:幻の巨大建築抗争史 (新潮選書)

テレビの普及は大衆に情報と娯楽をもたらしただけでなく、東京のスカイラインにも変化を与えた。テレビの電波をあまねく届けるためには巨大なテレビ塔を必要としたためである。この頃、超高層ビルは林立しておらず、東京の空は広かった。

1958(昭和33)年12月に東京タワーが完成するまで、各局が独自のテレビ塔を建てた。NHKは1953年(昭和28)2月に千代田区内幸町の放送会館に載せた塔(総高73メートル)から送信を始め、同年11月には紀尾井町の高台に設けた高さ178メートルのタワーに移転した。日本テレビ千代田区二番町の局舎敷地内に高さ154メートルの鉄塔を建設し、同年8月の本放送を開始した。この2局から遅れること2年、1955(昭和30)年4月に開局したラジオ東京テレビ(KRT、のちのTBS)は、赤坂に高さ173メートルの鉄塔を設けた。

わずか数年の間に、3本の塔が東京の空に姿を現したことになる。しかも半径1キロメートル以内に近接して建てられた。なぜ、最初から一本に集約しなかったのだろうかと誰もが疑問に思うだろう。

バベルの塔の昔から、仰ぎ見るその高さこそが権勢の象徴だった。

東京タワーからスカイツリーへ、一本の塔の頂からそれぞれの放送局の電波が関東平野にばらまかれる。シーナリーを見れば一目瞭然のこの構図は、しかし歴史のほんの上っ面を表しているに過ぎない。

そもそもが視聴者のパイを奪い合うライバル同士である、このような呉越同舟のぬるま湯をもって満足できるほど、上げ潮昭和の企業人はおとなしくはなかった。

火種は既に東京タワーのあり方そのものに内包されていた。この電波塔で最上位を占めたのはNHK、そしてその下に10、8、6、4と各民放が下って続く。公共放送による勝利の凱歌かのごときこのヒエラルキーに反発を催さずにいられる方がむしろどうかしている。

しかし正気を逸脱しているという点においても、NHKは突き抜けていた。電波をもって大衆たちを従える、彼らの飽くなき野望を満たすに333メートルはあまりに不足だった。1960年代に彼らは既に600メートル超のタワーを構想していた。ワシントン・ハイツの一角を収めた程度では不服な彼らは、次いで代々木公園にすら食指を伸ばし、具体的な完成予想図さえも提示してみせた。

より遠くへと放送を届ける、そんな社会的使命感のみが彼らを突き動かしていたわけでないことは誰の目にも明らかだった。

塔というものがいかにも象徴する男性中心主義的な性質においても、正力松太郎なる昭和の怪物はいかにも傑出してはいた。しかし本書において彼に割り振られるロールというのは、誇大妄想狂すらも突き抜けて、どこかおかしみすら湛えずにはいない。

1958年に日本テレビから公式発表されたのは、「収容人数8万人、建設費50億円の屋根付き球場……当時世界最大規模の屋内施設であったニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデン(1万8000人)を大きく上回る。屋根の高さ70メートルは、ベーブ・ルースが出した最長飛距離の記録(587フィート)をもとに算出されたもので、……この高さを『丸ビルの2倍』と表現する新聞もあった」。アメリカで世界初の屋内野球場、アストロドームが発足するのがようやく1965年のこと、この大風呂敷を可能にするための技術的な裏付けなど、まさかなかった。

このプランが頓挫した程度で折れる正力ではなかった。続いて彼は、なんと4000メートル級のタワーを打ち出す。しかもその塔を支えるためのピラミッド状の構造物の中に100万人を住まわせる、というのである。住宅需要の喫緊する東京にあって、ブレーンのシミュレーションによれば、「多摩ニュータウンは面積3000ヘクタールで計画人口34万人」のところ、この「四面体都市」ならば「100万人をわずか440ヘクタールの土地に収めることができる」。言うまでもなく、「タワーの表面を覆う厚さ30センチの氷、氷が落下するエリアの安全対策、時速400キロの風に耐える構造等、克服すべき技術的課題はあまりにも多かった」。

ほとばしるこの幼稚なまでのナンセンスを気宇壮大などと称賛しなければならないのだろうか。

日本の原発の父のヴィジョンなんて、いちいちが所詮この程度の代物だった。

戦後間もなくの「国際野球場」構想において、その建設地とした白羽の矢が立った不忍池寛永寺の敷地、つまりは江戸幕府、徳川家の縄張りであった。東京タワーにしても徳川家の菩提寺である増上寺の一隅に築かれた。巨大建築物ともなれば当然に広大なる用地を要する。本書において構想された予定地をたどれば、そのことごとくが旧華族・皇族、藩士の旧邸宅や軍用地へと行き着く。地上げ屋が一軒一軒をしらみつぶしに訪ねて回ることはない。昔日の彼らにとっては、敷地面積の大きさこそが自身のプレゼンスの何よりのシンボルだった。

そして戦後社会のプレイヤーにおいて、威信のメルクマールは平面から立体へと書き換えられた。権威の時代からマスの時代、情報の時代へ、わけてもテレビによって牛耳られるゲーム・チェンジの潮目にあって、旧き人々の土地が札束で頬を打つように買い叩かれた。大衆を統合するテレビの電波を放つタワーに向けて視線とマネーが吸い上げられていく、覇を競うNHKと正力がともに高さに憑かれるまま物理的なマウンティングに走るのはもはや必然だった。

階級社会が表向きは解体されたその先で、フラットを志向するどころか、むしろ人々はかえって止めどなき上昇の波を加速させた。たかがコンクリートで築かれた砂上の楼閣は、そうして今日も万人の崇拝と羨望を浴びる。

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岩波文庫的 月の満ち欠け

「だけとあたしは何回死んでも生まれ変わる。アキヒコくんが、よぼよぼのおじいちゃんになっても、若い美人に生まれ変わって現れて、誘惑する」

「不死身?」

「不死身じゃないよ。死ぬのは死ぬ。でも死に方が人とは違う。あたしは月のように死ぬから」

「……?」

「神様がね、この世に誕生した最初の男女に、二種類の死に方を選ばせたの。ひとつは樹木のように、死んで種子を残す、自分は死んでも、子孫に残す道。もうひとつは、月のように、死んでも何回も生まれ変わる道。そういう伝説がある。死の起源をめぐる有名な伝説。知らない?」

「誰に教わったんです」

「何かの本に書いてあるって、いつか見た映画の中で、誰かが喋ってた。人間の祖先は、樹木のような死を選び取ってしまったんだね。でも、もしあたしに選択権があるなら、月のように死ぬほうを選ぶよ」

この一週間後、彼女は地下鉄の駅で轢死した。

その経緯は、一見したところ、あまりに不運なもらい事故だった。プラットフォームで突然に起きた喧嘩のあおりを受けて線路上に押し出された彼女は、滑り込んできた車体によってはねられて最期を迎えた。

事故を報じる新聞記事を通じてはじめて彼女のフルネームを知った彼は煩悶する、これはアクシデントでも何でもなく、彼女もまた、「ちょっと死んでみ」ただけなのかもしれない、と。

そして時は流れ、そのチェンジリングと思しき何者かが彼の周囲――もっともそれはひどくまだるっこしい、決して近しい関係性ではない――に次々と現れる。

「異変が起きたのは、その年の秋である。

それは発熱から始まった」。

7歳の娘に対して下されたかかりつけの医師の診断は、ただの風邪、ただしその高熱は一週間にもわたり続いた。病は癒えた、かに見えた。ところが、妻が言うことには、なにやら様子がおかしい、という。「元気がないとか、そういうんじゃない。おとなしくじゃなくて、どう言うのかな、たぶん、おとなびる?」

例えばテディベアにアキラくんという、友人知人に何ら思い当たるところのない名前をつける。突然に一昔前の流行歌を口ずさむ。クラスメイトの父親が使うデュポンのライターを目利きする。まさか小学校の授業で取り上げられることのないだろう、「君にちかふ阿蘇の煙の絶ゆるとも萬葉集の歌ほろぶとも」という句をノートにしたためる。

もっとも、そのときに夫が疑ったのはむしろ妻の精神状態の方だった。彼の目には愛娘は愛娘としか映らなかった。

それから十余年が経過して、高校の卒業式を終えて間もなくのこと、娘は母とともに自動車事故で亡くなった。

瑠璃も玻璃も照らせば光る、娘の名前は瑠璃といった。それはかつて「月のように死ぬ」といった彼女と全く同じ名前。やがて初老を迎えた夫の前にやはり生まれ変わりを称する少女が登場する。奇しくも彼女の名もまた、るりだった。

セルフ・ネグレクトがゴミ屋敷を作るのではない、ゴミ屋敷がセルフ・ネグレクトを作る。

すべて人格はガジェットを通じて形成される。

作品の中でひとつ興味深いと思えた事象がある。つまり、この「生まれ変わり」が真であることを証明する方法が、すなわち彼女の彼女らしさを証明する方法が、本質的には各種のアイテムの中にしかない、ということである。彼女自身ではない、黛ジュンやデュポンといった小道具によって彼女の変化ははじめて観察される。

映像作品に触れるとき、一般的な観客はしばしばキャストの見事な演じ分けに唸らされる。上場企業の代表取締役や高級官僚に扮したかと思えば、またあるときは身を持ち崩したダメ中年、あるいは例えば叩き上げの刑事であったり、引き立て役のボンクラ医師であったり。たぶん巧みな役者ならば、語り口はもちろん、立ち姿や歩き方ひとつにも工夫を入れているのだろう。しかし、視聴者たちは本当にそのような点に目配せをできているのだろうか。あたかも字幕テロップによって終始その属性が説明され続けているかのように、見る者はそれこそ各種のガジェットや髪型といったあからさまに可視化されたステレオタイプ記号を通じて専らその判断を下す。

この群像劇の人物たちが、瑠璃の中の人が果たしてどの瑠璃なのかをいかにして識別するのか。つまるところ、彼らはツールに頼ることしかできない。どら焼きを食べたか、食べなかったか、そこでの問題はエピソード記憶ではない、どら焼きそのものなのだ、たかがどら焼きが、るりが瑠璃でないことを否定するための彼なりの論拠となる。

身体性やあまつさえことばを超越した――と誰しもが希う――世に心と呼ばれるアプリケーションは、瑠璃が瑠璃であることを何ら証しない。本質なるものが仮にこの世にあるならば、それはすべてコンテンツにこそ宿る。

「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」(マタイ福音書12:39)。

ストーリー・プロットは、つまりは古典落語の「皿屋敷」であり、「立ち切れ線香」であり、「三年目」であり、「野ざらし」である。

恋に恋して死んでも死にきれぬ女が、他人の人生を乗っ取ってまでも、文字通り台-無しにしてまでも、ストーカー丸出しに男の前に再び化けて出る。愛する女と愛される男。なぜに男がそこまでの奉仕を受けるに値するのかは連綿と語り継がれてきたこれらの系譜において決して説明されない。男が魅力的である必要などない、女はとにかく男に尽くすためだけに生み落とされる、ただ男女という非対称な権力関係のみがすべてを独善的に了承させる。男の男による男のためのマスターベーション以上の何かが、先行作と同様にこのテキストにおいても表現されることはない。

「あなたはタオルの代わりにTシャツを貸してくれたよね。あたしがお返しにプレゼントしたTシャツのこと、あなたが八戸のお姉さんに送ってもらったいちご煮の缶詰のこと、憶えてる? ふたりで映画を見たよね。ふたりでお喋りしながら歩いたよね。どこまでもふたりで歩いたよね。

結局、用意してきた台詞を彼女はひとつも口にできなかった」。

あいにくながら少なくとも私は、こんな男根中心主義メロドラマにお付き合いできる感受性をインストールしていない。

そして終盤、彼はもうひとりの生まれ変わりをめぐる懐疑に自身をさらす。

義理の娘からさりげなく日々呼ばれてきた自分の名前が、一度そうした妄想を経験してしまうことで、もはや別の聴こえ方しかないようになる。真偽に惑うその瞬間に、彼の世界は色を変える。

『前世を記憶する子どもたち』なんて、荒唐無稽な話なんてどうでもいい。そんなものにある種の答え合わせを与えようとすれば、上記のような安っぽい感動ポルノに浸るよりほかに落としどころを持てないのがせいぜいである。しかし、あるはずもないそのことに0.1パーセントのもしかしたらの引っかかりを覚えてしまったその瞬間から、空想の前と後とで、世界は決して同じ現れ方をしない。

何も劇的なターニング・ポイントに限らない、どうということのない情報やガジェットひとつで、世界の片隅の見え方が日々変わりゆく。

世界の現れ方が変わるということは、つまり己が変わるということに他ならない。人はしるしを欲しがる、翻って、しるしひとつで人は変われる。私は同じでいられない。現れるその仕方こそが、人の人たる所以を示す。そうして人は時々刻々とチェンジリングを繰り返す。

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アジア発酵紀行

発酵に関わる仕事をすると決めてから、東京農大の先生たちの調査を手伝って地方に行くことが多くなった。……辺境へ辺境へと行くうち、人口数百人の離島や人里離れた山村に、奇想天外な発酵文化がひっそりと継承されていることを知った。現地で手作りしている人にその成り立ちを聞いてみたところ、海の外のアジアの国々とのつながりが出てくることに驚くことがたびたびあった。山の中の発酵茶が、東南アジアの茶の起源を。島の織物が、ミクロネシアの染色技術の起源を宿している。

現代生活から隔絶された日本の辺境で、かつて僕を魅了したアジアのアナーキーさに再び出会ったのだ。僻地で生まれたサバイバルの知恵が、その土地ならではの価値の多様性を生みだしていく。そしてそれははるか海の向こうの文化とつながっている――。

ある日、奄美の島海を眺めている時、僕はアジアの発酵を巡る旅に出ることを決めた。日本の発酵食のルーツと、自分の内に流れるアナーキーさの源流をつきとめるために。

例えば雲南の奥地の牧草地帯にて供されるのは一杯の茶。もっともそれは、「日本人がイメージする、嗜好品としてのお茶とは全く趣が異なる飲料なのだね」。

茶葉はいわゆる後発酵茶、微生物の働きを通じてビタミンやアミノ酸が引き出される。そこに加えられるのがヤクのバター、煮沸殺菌したのち一晩発酵させた乳を撹拌して、「酸味があってチーズとバターの中間のような味」がするという。そこに塩を加えることでミネラルもチャージされる。バター茶というより味噌汁に果てしなく近い、まさに「日常の栄養摂取に欠かせないソウルフードだ」。

中国奥地からチベット、ネパールを経てインドにたどり着く。観光地化されていない辺境の景色を織り込みながら、酒を含む食べ物を訪ねていく旅になるのだろう、そう早合点していた私は虚を突かれる。

そのとき筆者が向かった先はダーリー――大理石の名はこの古都から来ているらしい――の街外れに佇む一軒の工房、その店先には「独特の発酵臭」が立ち込める、それも「徳島の吉野川周辺でよく嗅いだ」という。営まれているのは藍染、「板藍根という植物の葉を生のまま水につけ、石灰を入れて2~3日間発酵させる。次に葉を取り出した青緑の液に、微生物のエサとなる砂糖を加え、さらに2週間ほど発酵を促す。すると液の色が青紫に変わっていく。……この染料液に、綿や麻の布を5~10回繰り返し漬けて染めていくと、ダーリーブルーの藍鼠色が生み出される」。この基本的な手順は阿波藍と共通している、だから似たような香りに包まれる。

もっとも、ジャパンブルーの阿波藍が「グローバル産業として発展したのに対し、沈殿藍はローカル産業に留まった」。筆者が睨むに、それは「携帯可能」性の有無に由来する。後者は「生の葉を原料とするが故に、原料のバンランゲンの葉が採れる場所でしか染色ができない」。

言い換えれば、ダーリーブルーの発酵臭はこの街を訪れなければ嗅ぐことができない、生態系の違いからもたらされる、阿波藍とは似て非なるそのニュアンスは。

阿波藍は「すくも」に旅をさせる、沈殿藍は人に旅をさせる。

中国茶会の作法と言えば、まずは急須や水盂といった基本となる4つの茶器を用意する。

一煎目、急須に熱湯を注いで1分足らずで飲杯に入れる、もっともこれは容器を温めるため、発酵茶の場合はそのまま水盂に捨ててしまう。あくまで茶葉が開いた2煎目からが本番で、3、4煎と重ねていくうちにテイストがみるみる変わっていく。

たかが息抜きでしかないはずの喫茶の手順をまとめているうちに、なぜか私たちはこうしなければいけないのだ、と強迫観念に絡め取られていく。中国から伝来した茶の文化が、道なる概念と合流することでいつしか作法に雁字搦めに収斂していったように、目的と手段がいつしか転倒してしまうのがどうやら日本の習癖らしい。

しかし輸入のちガラパゴス改造の源流、プーアル茶の産地、シーサンパンナでは誰もそんなことは気にも留めない。「夕暮れ前のゆったりした午後の時間……ちょっとバランスを崩すと転げ落ちてしまう安手の椅子に座り、ヒビが入った耐熱グラスとそのへんに置いてあった小皿をフタ代わりにかぶせた即席ポットで、お湯がこぼれるのをお構いなしに茶を入れる。地面にはクチャクチャ嚙み捨てたヒマワリの種の殻と、タバコの吸い殻が散乱し」ているようなその環境で、まるで土方のオッサンの缶コーヒーブレイクタイムのような空気感の中で、ところが生産者たちが「無造作に茶葉を選び、テキトーな所作で淹れたその一杯が飛び上がるほど美味い。……

茶の本質は、心の平穏。俗世の慌ただしさで汗と土埃にまみれた己の精神の伽藍のなかに吹く安らぎのそよ風、それが茶の尊さ。力強い土から生まれた生命力を口にすると、口いっぱいにたおやかな香り、濃厚なうま味、滋味あふれる苦味、まろやかな甘味が万華鏡のように花開いていく。

しかし喉を通る時にはその複雑さは揮発し、穏やかなのに鮮烈な涼やかさがミントのように香って消える。その余韻はほんの一瞬のはずなのに、全神経が持っていかれてしまうような、意識が空に飛んでいってしまうような不思議な味わいなのだった」。

通販で同じ茶を取り寄せて淹れたとしても、この味が決して醸されることはない。その地に住まう細菌叢がその地でしか培うことのできない発酵臭を茶に与えるように、その土を踏みしめることではじめて「不思議な味わい」は放たれる。源流だろうが下流だろうが、発酵の地を訪ねれば訪ねた数だけ、風土と歴史に養われた「不思議な味わい」はきっとする。

山岡士郎に言わせれば、「ワインと豆腐には旅させちゃいけない」。本来ならば、茶だって、酒だって、調味料だって、旅させちゃいけない。モノを旅させちゃいけない。

だから僕らが旅に出る。

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