シニアノマドのフィールドノート (original) (raw)

仏道に関しても、古来さまざまな考え方があったのではないかと思います。例えば、座禅を組み、瞑想に耽るというのも、よく知られた成仏への道の一つです。その点で、宮沢さんの成仏道におけるもう一つの方向性は、自然の中を散策し、自然に浸りながら、自然の心に触れ、自然の心を感じ、そして自然の心を読む旅をつづけることではなかったかと思います。まさしくそれは、詩や童話創作のための資料収集の旅ともなった、心象スケッチの旅です。この心象スケッチ法という宮沢さんの文学創作法に関しては、これまで数多くの研究や論評がおこなわれてきました。ただそれらの先行研究に触れても、これまでは何となくでも、あ、そうなのかと十分納得する議論には出会えていませんでした。しかし、今回、鳥山敏子さん著の『宇宙のこころを感じて生きる 賢治の学校』という書籍に出会うことができました。それを読み進めていくうちに、宮沢さんの成仏道とは、自然と交流・交感することによって自然と一体になる体験を積み重ねることだったのだと、納得していったのです。

この著書に出会って初めて知ったのですが、鳥山さんは、宮沢さんがめざした「教育」、すなわちすべての子どもたちの「天の才」を発揮させることをめざす教育を、ご自身の教員時代および退職後を通じて一貫して全国に広めようとして活動されてきた方です。その著書の著者紹介には、そのことが次のように記されています。

鳥山さんは、「八、九歳ごろ賢治の『雨ニモマケズ』に出会い、自分の生きたい姿勢を言葉化してもらった。一九六四年東京都の公立小学校の教諭としてスタートし、一九九四年三月退職するまでの三十年間、教室を『賢治の学校』にすべくさまざまな試みをする。……現在、雑誌『賢治の学校』(世編書房)編集代表。各地に賢治の学校を創立すべく東奔西走の日々を送」っていますと。

そうした経歴の基礎となっているのが、鳥山さんの宮沢さん理解です。鳥山さんは、宮沢さんは、自然と一体となることのできる体を有していたと論じています。すなわち、「自然をただの風景として眺めるのではなく、その全体が自分なのだと感じる。そう感じるからだを賢治はもっていたの」です。だから、宮沢さんにとって、「自分の目がとまる外界、こころひかれる外界はただの外界ではなく、自らの内界の表現でもあるのだ。賢治の外界描写は、すべて賢治の内界の表現そのもの」なのです。そうした体を持っている宮沢さんの生き方は、「自分のからだが感じたものに忠実であろうとした」生き方でした。

鳥山さんは、確信をもって、論じます。「賢治は、自分のからだが感じたものに忠実であろうとした。それを裏切ってまで人に理解されようとは考えなかった」。農学校の教師時代、「同僚の教師が『宮沢さんには本当は一人も友だちがいなかった』と証言しているが、自分を理解してくれる人がいるかどうかなどで賢治は生きてはいないのだ。賢治はもっと別次元で生きていた。そう、おそろしく真剣な生命の世界、生まれるべくして地上に生まれた自分のいのちとひたすら正直に向き合うことが賢治にとっていちばん大切なことだったから」ですと。

なるほど、確かに、宮沢さんの生き方は、鳥山さんが論じているように、人はどうすれば自分の「天の才」に気づき、そしてその「天の才」に従っていきることができるようになるのか、これからの子どもたちの教育にとって最も大切になるように思われる手本となるような生き方を示しているのですね。そして、その生き方こそ、宮沢さんの成仏道だったのではないでしょうか。鳥山さんのご示唆に感謝です。

しかし、鳥山さんの議論の中でひとつだけ納得できない議論がありました。それは、そうした生き方を自分のものとしていた宮沢さんは、全く孤独感を感じていなかったという議論です。個人的には、宮沢さんは、大きな孤独感を常に感じていた、非常なさびしがりやでもあったのではないかと推測しているからです。それも、宮沢さんの人生を理解する上で、大切なテーマだと考えます。ここでは、その議論には深入りせず鳥山さんの主張に耳を傾けておくことにしたいと思います。

竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン

人はどのようにすれば成仏することができるのかという問題も、宮沢さんにとっては、一生涯をかけた難問だったように感じます。それは、宮沢さんが残した詩や童話を、そうした視点で鑑賞することで分かってくるようになるのではないかと思います。宮沢さんが、はじめて法華経に出会い、この世に極楽浄土世界を建設することを自分の使命として受け止め、その実現を国柱会へ入会し、その一員として夢見ていたときには、日蓮さんの教えに従い、「説伏」や太鼓を打ち鳴らしながら南無阿弥陀仏の念仏を大声で唱えながらの街歩きのなどの「修行」に夢中になっていたこともあったのです。

しかし、国柱会の一員としての活動を諦め、帰花して以降、宮沢さんは、上記の問題に納得のいく回答をえようと、悪戦苦闘しつづけていったのではないでしょうか。その出発点は、やはり、国柱会への入会を志していたころの宮沢さんの思いにあったのではないかと考えます。そのときは、後に大いに反省することになるのですが、自分は仏によって選ばれる存在であると捉えていました。大切なのは、そう捉える根拠でしょう。その点に関して、心友保阪さんへの当時の手紙の中で次のように披歴していたことを思い出します。

1918年3月20日前後の手紙では、「南無妙法蓮華経と一度叫ぶときには世界と我と共に不可思議の光に包まれるのです」と書き送っています。同年6月27日では、「私は前の手紙に階書で南無妙法蓮華経と書き列ねてあなたに御送り致しました。あの南の字を書くとき無の字を書くとき私の前には数知らぬ世界が現じ又滅しました。あの字の一一の中には私の三千大世界が過去現在未来に亘つて生きてゐるのです」と記しています。そして、1921年1月中旬ごろの手紙で、以前の手紙で書いた「不思議の光」の意味することについて次のように書き送るのです。「すぐもう私共一同の前に、鋭い感覚を持った生物が、数万度の高熱の中に封ぜられ一日に八万四千回悶きながら叫び乍ら生れ、死に、生れ死にしなければならないといふはっきりした事があるのです」と。そして、そのときこそ、私が「遂に……一切を得」るときなのです。

仏によって選ばれた自分が、南無阿弥陀仏の念仏を唱えるとき、不思議な光に包まれ、その中で、仏からの啓示により、「遂に一切」をえることができると、心友保阪さんへの上記の手紙を書いていたこのときには、宮沢さんは考えていたのではないでしょうか。しかし、その成仏道は、はかない夢と終わってしまったのではないかと思います。なぜならば、その後、自分は傲慢であり、敗北者であると自認しなければならなくなっていったからです。そうではあるのですが、同時に、ここで引用させていただいた保阪さんへ聖業への参加を呼び掛ける一連の手紙の内容は、その後の宮沢さんの成仏道の歩みを示唆していると考えられるのではないでしょうか。

すなわち、宮沢さんの考える成仏道に関するエッセンスには、他者救済、「数万度の高熱の中」での、「一日に八万四千回」の「悶」、そして生きながらの自己再生というテーマが関係していたのではないかと感じるのです。それらのエッセンスは、宮沢の成仏譚と考えられる幾つかの童話に表現されていたのではないかと思われるのです。しかし、重要なことは、宮沢さんの成仏道に関する思想探究においては、上述のエッセンスとは異なる方向の成仏道探究の試みもあったのではないかという点です。それは、どのような方向性の探究であったのか、そのことについてさらに考えてみたいと思います。

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前回まで、宮沢さんの極楽浄土像とはどのようなものかについて考察してきました。それらの作業を受けて、では、宮沢さんは成仏への道をどのように考えていたかについて推測していく作業をしていこうと思います。この点についても、仏教史の中で、南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも成仏し、極楽往生できるという浄土教の教えをめぐって多くの論争が繰り広げられてきたようです。宮沢さんのめざした「新信行」とはどのようなものであるかを推測するという視点で見ると、長く仏教界でつづけられてきた以下の二つの論点をめぐる論争が気になります。

その一つは、本当に誰もが成仏できるものなのかどうか、いわば成仏への努力の必要性と素質の有無の問題です。そして、二つ目は、どのようにすれば成仏できるのか、またあるものが成仏したということはどのようにすれば分かるのかという問題です。これらの問題を解いていく上で、とくにそのことを十分に理解していた宮沢さんにとって悩ましかったことは、仏教で言う自然の真理とは唯一絶対的な真理というのではなく、正邪という基準をとっても、美醜という基準をとっても、相反する性格の矛盾的統一体として存在しているというものでした。これら二つの問題をめぐって、宮沢さんは、自らの文学作品を創作していくなかで、相当悩んで試行錯誤的思索を重ねていかなければならなかったように感じます。これら二つの問題に関しては、宮沢さんは自分の人生の最後の最後まで悩みつづけなければならなかった問題だったのではなかったかと推測します。なぜならば、宮沢さんは、どんな人であっても南無阿弥陀仏の念仏さえ唱えれば極楽往生し、成仏できるという浄土教的考え方に挑戦しようとしていたからです。自然界、宇宙世界に存在しているものすべては兄弟的関係性によりつながっていることを確信しながら、だからと言って、南無阿弥陀仏の念仏さえ唱えれば、いとも簡単に成仏できるというのでは安易すぎはしないかと、宮沢さんは悩みに、悩んだのではないでしょうか。

これら二つの問題の内、前者の問題に関しては、宮沢さんは、成仏に向けての何の意志も努力も無しに、さらには仏教で説いている悪行を積み重ねていても、南無阿弥陀仏とさえ唱えれば、誰でもが成仏できるとはとらえてはいなかったのではないかと考えられます。また、少なくとも初めの内は、成仏への素質の違いもあるととらえていたのではないかとも考えられるのです。なぜならば、宮沢さんには、当初、自分は仏から選ばれるはずの存在であるとの自負心に充たされていたように思われるからです。例えば、宮沢さんは、国柱会での活躍を夢見て一刻も早い上京を考えていたときのことを次のように記しています。すなわち、「何としても最早出るより仕方ない。あしたにしやうか明後日にしやうかと二十三日の暮方店の火鉢で一人考へて居りました。その時頭の上の棚から御書が二冊共ばったり背中に落ちました。」それは、「いよいよ成仏を成し遂げるために仏さんから呼び出された」瞬間であったとです。

さらに、宮沢さんは、手紙の中で、心友保阪さんに、一切の自然・宇宙の真理をものにし、「憐れな衆生」を救おうと呼びかけています。すなわち、「私は愚かな鈍いものです 求めて疑つて何物も得ません 遂にけれども一切を得ます 我れこれ一切なるが故に悟った様な事を云ふのではありません 南無妙法蓮華経と一度叫ぶときには世界と我と共に不可思議の光に包まれるのです」。ここに至り、貴方に呼びかけます。「一緒に一緒にこの聖業に従ふ事を許され様ではありませんか。憐れな衆生を救はうではありませんか」と。

このときの宮沢さんは、後に自ら自分は非常に傲慢であったとの自己反省をおこなっていますが、英雄的自己像に酔っていたのかもしれません。人には(一方的に)救う存在の人と救われる存在の人に二分されるという捉え方にそのことが示されています。そして、そのことは、どのような人が成仏できるのか、しかも特別な人ではなく、より多くの人が成仏できるのでなければこの世における仏国土の建設は難しいことを考えれば、成仏できる資格をめぐる問題は、宮沢さんにとっても、難問中の難問だったのではないでしょうか。

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ここでは、宮沢さんがどのような極楽浄土像をもっていたかについて推測する作業をしようと思います。そして、そのことを通して、宮沢さんが、極楽浄土とは、南無阿弥陀仏と念仏を唱えることで阿弥陀仏によって死後に導かれる、あらゆる苦しみから救済され、解放される理想社会といういわゆる極楽浄土に関する「常識」といかに向き合おうとしていたかを想像していこうと思います。

その作業を進めていこうとすると、古来この世に極楽浄土的世界を建設しようとする努力が幾多として試みられてきたのではないかという思いに至ります。その歴史的経過を体系的に描き出すことは非力な自分にはとてもできませんが、観光を通じて個人的な経験だけからも、断片的になりますが、そのように言えるのではないかと感じます。

まず、ときの権力者たちによるかずかずの極楽浄土の風景を表している寺院建設をあげることができるのではないかと思います。そして、それらの寺院建設にはそれぞれ権力者の人たちの願いが込められてきたと言われています。それらの中で、例えば、宇治の平等院鳳凰堂は、ときの権力者藤原氏一族の、現世における栄華・栄達を謳歌した生活が死後の世界でもつづきますようにとの願いが込められていたのではないかと思います。奥州平泉の黄金に輝く中尊寺を中心とするこの世の極楽浄土世界の建設の場合はどうでしょうか。その端緒となった奥州藤原氏の「清衡公の中尊寺建立の趣意書」によれば、「11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め」るため、「仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というものでした。」

また、日本における仏教受容期には、山間の郷に寺院が建立され、静かな自然の中で仏教信仰を中心とする生活が営まれていた地は、極楽浄土の聖地と見られていたのです。例えば、いまでも岩船寺浄瑠璃寺の古寺や多くの石仏が存在している京都木津川市当尾地区は、そうしたこの世の浄土の性格を有している地です。その浄土的性格をもつ生活風景を守り、後の世代に継承しようとして活動している「当尾を守る会」発行の「当尾(とおの)の石仏」というパンフレットによれば、当尾地区は、「やさしい起伏が連な」り、「古くから自然の中での人々の生活があった。奈良に都が移り、大寺が営まれるようになってからは都に近い聖域、仏たちの浄土という性格をもつ。それが近世まで続いて、いろいろな仏教文化財を生み、また、それを守り伝えてきた」のです。

さらにこのパンフレットには、「当尾(とおの)へおこしのみなさまへ」次のようなメッセージが表記されているのです。すなわち、「小さな草花や、小鳥や虫たちも/一つ一つが尊い生命と美しい姿を持っています。/よく観察し、大切に扱って下さい。」とです。そして、この呼びかけは、宮沢さんの文学の創作精神そのものを示しているようにも思えるのです。

宮沢さんが生きていた同時代にも、しかも同じ文学者の中にも、この世に理想社会(宮沢さんのことばによれば極楽浄土世界と言えるかと思います。)建設を実践した方がいました。それは、宮沢さんも傾倒していた、トルストイさんに傾倒していた武者小路実篤さんです。インターネットの情報によれば、それは、「新しき村」の建設です。すなわち、「『新しき村』は、大正7年(1918年)に、文豪・武者小路実篤とその同志によって、『お互いが人間らしく生き、むつみ合い、そしてお互いの個性を尊重し、他人を傷つけることなく、しまも天命を全うすることができる』理想郷を目指し」開村されたものです。武者小路さん自身もその村で6年間暮らし、農業に従事しながら、文筆活動もおこなっていたのです。

宮沢さんが抱いていた極楽浄土像は、上記のようなこの世における極楽浄土像と多くの点で共通していたのではないかと推測します。その上で、宮沢さんの独自性は、この世の極楽浄土世界を創り出す担い手を自然と関り、格闘しつつ生活する世界に生きている農民の方々に求めていたというところにありました。単に生きるためだけの労働生活ではなく、労働と信仰、そしてそれらに基づく芸術への従事という、宮沢さんの目から見ると美しい人生を送ることで、自ずとそれらの生活世界は極楽浄土的世界を構成していくものと、宮沢さんは考えたのではないでしょうか。羅須地人協会の活動の中で農民の方々の音楽活動を重視していた光景は、宇治平等院を訪れた際見た阿弥陀仏の来迎図を想起させます。なぜならば、その図には、まさに死に望もうとしている人を迎えに、雲に乗って迎えにきている阿弥陀仏一行の天使たちが、さまざまな楽器を演奏し、聖なる音楽を奏でている光景が描かれていたからです。

「農民芸術概論要綱」はこの世における極楽浄土建設のための宮沢さんによる宣言書であり、羅須地人協会の活動はそのための実践活動であったと言えるのではないかと思えるのです。

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では、鈴木正三さんの仏教の世俗倫理化とはどのようなものだったのでしょうか。それは、松尾さんによれば、「プロテスタントのカルビンらの思想にも類似し」た職業倫理の首唱でした。すなわち、「鈴木正三は、主著の『万民徳用(ばんみんとくよう)』(一六六一年刊)の中で、士・農・工・商のそれぞれが職分を果たすことは仏行(仏道)であることを説」いたのです。そして、そうした「鈴木正三の思想は、世俗権力優先の立場を内包するとはいえ、各職業を天職とし、職業に従事することが仏道であるとする主張」は、「日本の明治維新の近代化」を思想的に準備する性格を有しており、仏教界において画期的なものであったと評価できるのです。

それでは、農業従事者にはどのような教えを説こうとしたのでしょうか。これも松尾さんの論述をお借りすることになりますが、鈴木さんは、「『農業はすなわち仏行であり、心得が悪い時は賤業となり、信心堅固である時は、菩薩の行』『農人と生を受くる事は、天より授けたまわる世界養育の役人なり』などと説いたのです。」

松尾さんの紹介による以上のような鈴木さんの教えで注目されることは、以下の二点ではないかと思います。その第一は、「農人は世界養育の役人」であるという教えです。ここでは、宮沢さんがめざした極楽浄土像を推測するという視点から、その教えを、「農人」は、自然と人間生活が相乗的に融合したこの世の極楽浄土「世界養育の役人」であるというように理解しておこうと思います。第二の点は、農業は常に成仏のための修行(仏行)となるのではなく、心得次第で、ときには「賤業」となってしまうこともあれば、「菩薩行」ともなりえるという教えです。その際の「心得」とは、「農人」は自らの生産活動を通して自らが対象としている自然と向き合ったらよいのかということに関わるものではないかと受け取ることができるように思います。

これまで宮沢さんがそれまで勤めていた農業学校を退職し、本物の農業人となることを宣言し、羅須地人協会の活動を展開するようになった理由として、教え子たちに学校卒業後農業に従事することを勧めていたが、自分だけは農学校の教師でありつづけていることへの忸怩たる思いがあったこと等が指摘されてきました。それらの理由もあったのでしょうが、同時に、退職後農業人になることに、自分が自分の天職と思いつづけてきた、自己の完成(成仏)とこの世の極楽浄土建設の未来図が具体化したことも大きな理由の一つなのではないでしょうか。

とくに、宮沢さんにとっては、鈴木さんの思想を超える思想が存在していたと言えるように思います。それは、自然を観察し、自然の真理を自分の感性と直観力によって悟ることのできるのは、日々の生産活動をとおして必然的に大自然と格闘しなければならない農業従事者でなければならないという思想ではないかと感じます。さらに、仏教思想の変遷という視点で見たとき、この点に関しては、すでに戦国期から近世にかけての時代、「生産力の増大がある水準に到達したとき、人は自然から相対的に自立した人間社会の存在を自覚する」になり、「自然―人―社会の関係の中で、人はおのれ自身をみつめ直すにいたるの」です。そして、そのことは、「人は社会的存在であることを自覚しつつ、かつ、人と社会との矛盾(矛盾)・葛藤(かっとう)をも自覚するようにな」っていくのです。

それは、思想的には「天道思想」の流行として現れました。そうした歴時代の変化と人々の神仏觀の変化との関係を論じているのは、『日本幼児史――子どもへのまなざし』吉川弘文館、2013年の著者である柴田純さんです。柴田さんによれば、天道思想とは、「『神仏』の思想や儒教の天の思想などが結合して生まれて」きた思想で、それまでは自然災害から人間同士の戦争までこの世のすべての災いは自然現象であり、それらから逃れる術は神・仏に祈るしかなかった考え方を革新する性格を有していたというのです。

とくに、「戦国期から近世初頭に活躍した儒学者藤原惺窩(せいか)(一五六一~一六一九)」の天道思想は、宮沢さんがめざしていた仏教思想革新の内容を推測するのに参考になります。これも、柴田さんによれば、藤原さんは、天道(宮沢さんの視点で言えばそれは、自然の仏教思想における真理または法ということになるかと思います)を、「自然と人のうちに内在する『天地万物の理』(自然界の道理)たる天道に転換させ」、万物の「運命を司(つかさど)る天道が人間的世界を一方的に支配するのではなく、天道は人の心に内在するとして、人間的世界では人の努力いかん、すなわち、己(おの)が心己が力こそが問題なのだと、人の主体的営為の問題に転換させたの」です。

実は、宮沢さんも、そうした思想をどのような経緯でもつようになったかについては分からないのですが、自然の真理・法は、やはり人間の心にも内在していると捉えていたと言われてきていたのではないかと思います。そして、そのことの意味することとは、宮沢さんにとって、極楽浄土世界とは仏や自然によってのみ与えられるものではなく、この世における極楽浄土世界は、人間自らが創造していかなければなないものと考えていたということではないかと思います。問題は、この世の極楽浄土像をどのように構想するのか、そしてそれをどのように実現していけばよいのかということだったはずです。

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ここでは、これまでの考察を踏まえ、宮沢さんの「新信行」の構想とはどのようなものであったかについて、さらに推測する作業を進めていきたいと思います。その第一歩は、やはり宮沢さんが生きていた時代の仏教革新の潮流の中で、宮沢さんが法華経と出会いを契機にとして、日蓮さんの教えに傾倒していったことの内実をどのように見ればよいかということではないかと思います。そしてその内実は、まずなによりも、そのことは松尾さんも論じていたことですが、平安時代以降の、とくに阿弥陀仏信仰が浸透してくるなかで、衆生の真の救済は死後の阿弥陀仏が住む仏国土である極楽浄土世界の中にしかないという、いわゆる多くの人たちにとって「常識」化していた仏教の教えを変えなければならないという思いに関係していたのではないかと推測します。

宮沢さんがめざしたのは、まずその常識を変えるということではなかったかと推測します。日蓮さんによれば、真の仏国土は、あの世ではなく、この世にこそ存在しているというものではなかったかと思います。なぜならば、仏教の創始者であり、久遠の命をもつお釈迦さまが苦しむすべての衆生を救うために「常在」している世界こそこの世だからです。それは、法華経に説かれている、仏教における第一の真理なのです。宮沢さんがはじめて法華経を読み、感涙にひたったと言われていますが、それは、その第一の真理が説かれていることを自分自身で確認できたことによるものだったのではないでしょうか。

この法華経が説く真理によれば、釈迦仏が常在しているこの世が、ただ単に地獄絵図一色に染まっている世界ではないはずです。だとするとこの世における生活世界には、必ず、極楽浄土的絵図も存在しているはずなのです。しかも、あの世も含めて、すべての世界は、それがたとえ仏国土の世界であったとしても、矛盾体として存在しているはずなのです。すなわち、地獄と極楽は、全く別々の世界として存在しているのではなく、すべての世界における、矛盾する二つの局面を表していることばなのではないかと思います。そういえば、以前見た「君はどう生きるか」という題名のジブリ映画の主題も、これらのことに関係しているように感じます。すなわち、その映画は、この世は地獄で、あの世は極楽というのでは、決してないということを示そうとしたのではないでしょうか。だとするならば、今自分が生きているこの世の世界を、自分たちの手でなんとか極楽にしようと努力すべきであると、その映画は訴えたかったのではないかと思います。

ただこの世に極楽浄土を建設するためには、より多くの人たちが成仏し、仏たちの住む仏国土を意識的に建設してようになることが必要条件となります。そうしたことは、既成の仏教思想からすれば、全くの不可能事であったでしょう。なぜならば、俗世のあらゆるしがらみを断ち、ひたすら経典の学習・研究、瞑想、座禅などの成仏のための修行を積み重ねても、生きながら成仏することは非常に難しいこととされていたからです。この点に関しては、宮沢さんは、大まかに以下の二つの視点を持っていたのではないかと推測できます。その一つ目の視点は、誰か一人の人が生きながら成仏することに成功するならば、成仏者の感化力によって、単に人間だけでなく、この世のすべての存在が成仏することができるようになるだろうというものです。また、その誰か一人の人の成仏するための修行道に関しても、宮沢さんが生きていた時代の以前の近世期から、新しい考え方が主張されるようになっていました。

これまで参照してきた松尾さんによれば、それは、仏教思想の世俗倫理化という動きです。この動きの中で、主張されていったのが、衆生こそ成仏することのできる存在であるという教えでした。例えば、そうした教えによる「民衆教化」に努力した一人に「白隠慧鶴(はくいんえかく)(一六八五―一七六八)」さんという僧侶の方がいたそうです。この白隠さんは、民衆こそ仏であるとの次のような「和讃」を著していたのだそうです。すなわち、

衆生本来仏なり、水と氷の如くにて、/水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし、/衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ、/たとえば水の中にいて、渇を叫ぶが如くなり、/長者の家の子となりて、貧里に迷うにことならず、」とです。

また、この時期、では衆生はどのような修行をすれば成仏することができるのか、その道を説く教えも出現してきます。それは、「曹洞禅の鈴木正三(すずきしょうぞう)(一五七九―一六五五)」さんです。鈴木さんは、島原の乱後まもなく肥後天草にゆき、「キリスト教を批判しつつ、仏教の布教に努め、三年後に江戸に戻」っています。ではその教えとはどのようなもので、それは宮沢さんの極楽浄土建設の試みとどのように関わるのでしょうか。

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ここでは、宮沢さんの称した「新信行」とは、どのような既存の仏教の革新をめざしたものであったのか、とても体系だった検討はできませんが、思いつくまま幾ばくかの考察をおこなっておきたいと思います。そのために、日本仏教史に関しては全く不案内なために、すでに参照させていただいていた松尾剛次さんの著書『『お坊さん』の日本史』に依拠させていただこうと思います。

この松尾さんの著書に出会ったことで、仏教の教えには本当に多様な解釈と考え方があることに気づかされました。それらの中で、宮沢さんがめざそうとした仏教とはどのようなものだったのか、大まかにでも理解することなしには、宮沢さんの文学作品とされているものを、少なくとも宮沢さんの視点に立って理解することはとてもできそうにありません。ここでは、まず、「往生」と「成仏」は同じではなく、違いがあるという松尾さんの指摘に関心を向けてみたいと思います。

松尾さんによれば、「一般に、往生も成仏も同じように思われがちですが、実は本来別ものなのです」。すなわち、成仏とは、「成仏をめざす人(仏教用語で菩薩といいます)が、修行をへて仏となること」です。それに対し、往生とは、「死後、阿弥陀西方極楽浄土などに生まれ行くことを意味」するのです。しかも、極楽浄土に行った後に、「修行をして成仏をめざす」のです。言い換えれば、往生とは、死後に「成仏するための修行をするのに理想的環境である浄土」に行くことです。

さらに、松尾さんは、往生について次のように論じます。すなわち、成仏の修行の場としての極楽浄土とは阿弥陀仏の住む「西方極楽浄土」ただ一つだけではないと。すなわち、「仏教では、多くの仏の存在を認めたために、仏国土が数多くあるわけで、往生の地も数多いはずなのです」。しかし、「日本古代では往生というのは、弥勒菩薩兜率天(とそつてん)に往生することをめざす場合と西方極楽浄土への往生をめざす二つがメイン」となっていたのですと。さらに、成仏のための修行は必ずしも往生後だけ行うべきことではなく、それが可能であるならば、いやむしろ生前から行うべきことなのです。ただ成仏するには想像をはるかにこえた長期の修行が必須とされていたために、生前の成仏はほぼ不可能なこととされていました。

このように極楽浄土とは、決して成仏できた人が行けるあらゆる苦悩が存在しない理想的な仏国土というのではなく、自分という意識が存在している限り、しかもそれが死後の世界であっても必然であり、自分という存在を超越し、あらゆる存在自身である自然と一体化するようになることで成仏するまで修行をつづけていくための理想的修行の場としての空間世界を意味するものだったのです。宮沢さんも、そうした極楽浄土論を自分のものとしていたのではないかと、推測できるのです。

そして、そのことは、宮沢さんが強く法華経の教えに傾倒していたことと関係しているように思います。同じく、松尾さんは、歴史的見ると日本の仏教界では、阿弥陀仏信仰と釈迦仏信仰が歴史的に対立関係として展開してきたと言うのです。そのことに関して、松尾さんは次のように論じています。すなわち、

日本における仏教の歴史において、「仏教は、釈迦が説いた教えに基づくはずなのに、釈迦ではない阿弥陀仏に帰依し、阿弥陀仏のたてた四十八の願にすがって極楽往生を勧める阿弥陀信仰が、古代末・中世に隆盛しました。それは、悟りを開き、成仏することが困難であると考えられたからです。」そして、そうした「阿弥陀信仰に対抗するかたちで、釈迦信仰が高揚した」のですと。しかも、松尾さんによれば、それら二つの仏にたいする信仰は厳しい対立的性格も有していたのです。例えば、釈迦信仰の立場に立つ日蓮さんが、「法華経至上主義の立場から『念仏を信じると無間地獄に堕ちるぞ』」などと、「強烈な」他宗派非難をしていたことは有名なことです。その日蓮さんの教えに心酔するようになった宮沢さんも、大きく言えば阿弥陀信仰者であった父親と信仰をめぐる激しい対立関係に陥ったことも知られていることです。

ここまでの簡単な検討だけでも、仏教の教えをどのように理解するかに関しては、実に多様な考え方が存在してきたし、これからも新しい考え方が次々と誕生していくものと考えられるのです。では、宮沢さんは、自称「新信行」によってどのようなことを構想していたのでしょうか。それは、非常に興味あるテーマです。

竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン