シニアノマドのフィールドノート (original) (raw)
明治という日本近代の幕開けの時代における文学界で、「新体詩」という詩作における新潮流の旗手のひとりであった島崎さんの「感じたるままに」綴るという「抒情詩」のテーマとはどのようなものだったのでしょうか。今回参考にした筑摩書房刊の『藤村全集第一巻』(2001年新装版第6刷)の付録にあった島崎さんの詩に関する文芸識者たちのエッセーによれば、封建性に対する闘い、恋愛という生命の躍動、新たな戦争時代における生と死の再生、そして期待を寄せていた近代という時代の理想と現実(「近代の疲労と頽廃」)という近代という新しい時代への「人間感情の発現や、時代のモラル形成」(伊藤信吉「最初の魅惑の文学」)というものであったといいます。さらに、島崎さんの詩には、近代という時代や戦争への懐疑という社会性をもったものでもあった(伊藤信吉「最初の魅惑の文学」)のだそうです。
それら島崎さんの詩に関する解説を読みながら、近代化という新たな時代的潮流の中で、島崎さんたちは、新たな文学を創造していくことで、新しい人間生活や社会創造を実現しようとしていたのだなと、感じました。宮沢さんもまた、近代化という新たな時代的潮流を感じ、新たな仏教とその精神に基づく新たな仏国土建設を実現しようとしていたと感じます。しかも、宮沢さんの場合は、文学だけでなく、近代という時代を象徴する科学という武器によって現実の農業生産や経済生活の改善活動にまで踏み込んで、自分が理想とする社会建設、すなわちこの世における仏国土建設を実現しようとしていました。
では、島崎さん自身は、自分の詩をどのようなものとして位置づけていたのでしょうか。宮沢さんの詩や童話の作品の世界を思い浮かべながら、その特徴が重なるところに注目しながら、決して体系的なものにはなりませんが、思いつくまま、アット・ランダムに記述していこうと思います。
島崎藤村さんに関する知識という点では、島崎藤村さんは余りにも有名で、学校教育の中でも必ず学ばなければならなかったこともあり、純文学には全く関心をもっていなかった私でも、名前だけは知っていたという現状にすぎません。今回はじめて島崎さんの詩の作品を、教科書ではなく、全集を手にとってじっくり読むことを経験しました。これも、宮沢さんに関心をもったことによるものです。宮沢さんに感謝です。また、島崎さんはどんな人で、どのような人生をおくったひとなのかについても近くの図書館で借りた本を読みはじめたところです。そんな私ですが、それでも、第一印象にしかすぎませんが、島崎さんの詩を含む文学は、宮沢さんのそれと共通した性格を有していることに驚いています。
例えば、島崎さんも、自らの詩の創作の方法として、自然の発する声に耳を傾け、それを芸術的に表現するという方法を自覚的に採ろうとしていました。その際、芸術的表現とは、美しさを探究し、それをことばに表現してといくということだと記述していたのです。それで、宮沢さんも、自分はただ美しいものを追い求めていただけだと述べていたことを思いだしました。では、島崎さんはそれらのことをどのように捉えていたのでしょうか。島崎さんは、そのことを、詩集『一葉舟』の「葡萄の樹の蔭」の中で、次のように展開していました。
「自然を研究するは詩人が一生の重荷なり、又希望なり。自然なる言葉の中には幾多の意義ありて、人間以外のものといふ廣き心に用ゐらるヽ時あれば、或は造化萬有なる深き心にて用ゐらるヽ時あり。」
「自然は無盡蔵なり、將又味ひありと言ふべきなり、……想像豐かならざれば趣味深からず、趣味深からざれば洞察明かならず、洞察明かならざれば情熱醇ならず、情熱醇ならざれば自然の最深なる聲を聞く能はず、自然の研究も亦た難いかな。」
「吾等何ぞ一歩を新しき自然に轉ぜざるや。夏は來り潮に流れて夕の夢を洗はんことを促す。見よや見よや新しき花あり、新しき星あり、新人となって新衣を着す、また可ならずや。」
「自然に對する哲學は轉々として變ずると雖も、自然は萬古依然として残れり。されば萬葉の詩人にして始めて高烈雄大なる自然の聲を聽き、蕉門の詩人にして始めて幽玄閑寂なる自然の聲を聽きたまひしなり、自然を友とせしといふバアンスにして始めて鼠の歌あり。自然を神とせしといふウォルヅォ―スにして始めて山家の少女の詩あり。吾等は自然の小兒のみ。されば自然を吾等が母として、其間に優和なる、自然となる。將た又温情の溢るヽ思ひを學ばんと願ふ。/書籍を友としてこそかヽる勝手がましき理窟もつくものなれ、葡萄の樹の陰に彷徨して夕べの空の紫の雲に包まるヽ時、嗚呼優和なる自然は人をして心情の淺きを忘れしむ。/苦しめる人に空想といふものを許せかし、空想時としては言ふべからざる慰藉を與ふることあり、悲しめる人に夢を説くことを許せかし、一夢時としては千行の苦涙を拭ふことあり。浮世に泥土塵埃あるを許せかし、泥土時としては美妙なる聲を放ち、塵埃時としては不朽の詩神を寓することあり。」
島崎さんの詩の作品の中で、『落梅集』の「雲」という作品は、まさしく「都を辭して信濃に赴く時」の雲の観察記です。宮沢さんは自然をどのように探究・観察しようとしたのか、またどのように「自然の最深なる聲を聞」こうとしたのか、またまた探究すべきテーマが浮かんできます。
竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン
これまで、宮沢さんの、とくに詩作に関する方法であった心象スケッチという方法は、宮沢さんが『宗教的経験の諸相』を心理学という科学的方法で探究したW.ジェイムズさんの宗教心理学の方法に依拠することで独自に創りだしたものであると理解してきました。ところが、最近出会った本を読み進めていくことで、宮沢さんの心象スケッチという詩作法は、宮沢さんが生きていた時代に存在していたひとつの文学創作法にも通じるものがあるのではないかと考えるようになってきました。
その本とは、柳田国男さんの産業組合論などの研究者である藤井隆至さんのブックレット新潟大学54『『遠野物語』を読もう――柳田国男が意図したもの――』新潟日報事業所、2010年です。この本の中で展開されている藤井さんの「物語」論が、宮沢さんの文学作品の性格を理解していく上で大いに参考になると感じるのです。その参考になる一つ目の言説は、「『遠野物語』は『現在』の『事実』を記した書物なのです」というものです。
藤井さんによれば、柳田さんにとっての物語における「事実」とは、現在では考えられないことであっても、かつてはそのことを信じている人たちが確かに存在していたという意味での事実ということです。例えば、「〝あの世〟の存在が〝この世〟に現れてくることを信じる人がいる」という事実なのです。
柳田さんによれば、そもそも文字で書かれた「物語」は、「もとは久しい間耳で受け取り、口で引き継ぐという相続をくり返」することで存続してきたものだというのです。それが、文字という書き言葉によって「『眼で視る文芸』となった」ことで、物語となったのです。さらにその物語論を敷衍して言えば、物語とは、さまざまな諸現象の基礎にある本質や真理など、目には見えない存在を書き言葉により見える化したものなのではないでしょうか。その意味では、科学も物語の一種であると言えるのかも知れません。とくに、宮沢さんにとっては。
藤井さんによる柳田さんの物語論に関する議論から参考になる二つ目は、「『語り物』を『物語』とするに当たり、彼(柳田さん)は一つの方法を自覚的に実践しました」〔( )内は引用者によるものです。〕という指摘です。そして、その方法とは、「感じたるまま」書くというものだそうです。
しかも、同じく藤井さんによれば、「『感じたるまま』書く、これは日本文学史の中では、大変重要な言葉です。なぜかというと、新しい文学を担おうとする若者たちの合言葉だったから」なのです。例えば、「一八九七年は、日本文学の新旧交代を象徴する年ともなっています。/同じ年の四月、柳田国男は、田山花袋や国木田独歩らと『抒情詩』を発表しました。島崎藤村も、同年八月に『若菜集』を世に送ります。硯友社文学が頂点に達した年に、新しい世代の新しい文学が台頭しつつあったのです。柳田は、作家志望ではありませんが、新しい文学を打ち立てる上で、花袋や藤村の強力な同調者でした」。
宮沢さんが生まれたのは、日本文学史の流れからすると、藤井さんによれば、まさしく日本文学の新旧交代の年の前年のこととなります。宮沢さんは、その後、とくに高等農林学校入学後は、文学青年として成長していくことになりました。アザリオという同人誌を発行し、切磋琢磨して文学青年としての研鑽を積む活動も展開していました。その宮沢さんは、そうした同時代の日本文学の新しい潮流をどのように見ていたのか、そして自分たちをその潮流の中にどのように位置づけようとしていたのか、そうした視点で宮沢さんの文学が論じられている文献にはまだ出会っていません。もしかしたら、そうした視点は、これまでの宮沢さんの研究史の中ではあまり注目されることがなかったのかもしれません。
ただ残念なことに私自身は、文学史論や文学論には全く疎く、個人としてその課題を探究していくことは、とてもできそうにありません。せめて、当時の「感じたままに」書き言葉によって表現するという文学創作の方法について、宮沢さんの「心象スケッチ」という創作方法はどのような特徴を有しているものなのか、拙いことを承知の上で、少し考察していくことができればと思います。その作業を当時の新文学の旗手のひとりであった島崎藤村さんの「抒情詩」と比較するという形でおこなっていきたいと思います。なぜならば、島崎さんの詩の作品には、千曲川スケッチという旅情詩の作品が存在しているからです。それは、偶然なのかもしれませんが、宮沢さんの詩作法である心象スケッチと重なっている用語となっているからです。
竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン
これまで、宮沢さんの人生や文学作品を少しでも理解するために、修験道という信仰の特徴について学ぼうとしてきました。ここでは、まずその最後に、宮沢さんが、死を覚悟する中で自分は「デクノボー」をめざして生きてきたと書き残したそのことはどのようなことを意味していたのか、これも修験道という信仰との関連という見方から考察しておきたいと思います。その点に関しては、ここまで参照してきた文献の中での、田中さんの次の話が参考になるように思います。それは、修験道における信仰とは、「教義への信仰」ではなく、「共同体のなかで、人々の生活から離れなかった」信仰であったという内山さんの話を受けてのものです。田中さんは言います、
「いま金峯山寺に属している行者さんたちでも、昔のように地域の人々と共にいきている山伏はすくなくなっています。でも、やはり、と私は思っているのです。たとえ都会で生活していても、人が生きていく上での猥雑性を受け入れていける宗教者、人間のさまざまな面に寄り添うことができる宗教者がでてくるかぎり、この社会は山伏を生みつづけるし、拝み屋さんを生みつづけると。修験道は在家主義ですから、修行をしながら社会のなかに埋没するように暮らし、人々の願いを聞きつづける、そういう人たちがこれからも修験の軸でありつづける。出家した人が軸になるのではなく、出家などせずに修行を重ね人々の信頼とともに生きる優婆塞が柱になる。そういう優婆塞信仰とともに展開してきたのです」と。
この田中さんの修験道における修験者と同じ共同体の修験者ではないメンバーとの関係性に関する言説は、宮沢さんが同じ地域で生活している農民の人たちを対象とする苦しむ衆生を救おうとする活動当初の、宮沢さん自身が思い描いていた農民の人たちとの関係性とはどのようなものであったかについて、示唆する話ともなっているように感じます。すなわち、地域の農民たちとともに暮らし、農民たちの願いを聞き続けようとしていたのではないでしょうか。ただ宮沢さんの場合は、修験道の修行を重ねることによってではなく、科学的知見を積み重ねることで農民たちの願いを聞き、その願いを実現しようとしたのではないでしょうか。しかも、それだけでなく、宮沢さんは、芸術活動をひろめることで、宮沢さんが理想としていた農民像や農民たちの生活および社会像の実現にも尽力しようとしていたのではないかと推測します。
しかし、それらの活動はあえなく挫折していくことになっていったのです。上述の二つの活動のうち、後者の活動に関しては、とくに貧しい農民たちには受け入れられず、短期のうちに収束せざるをえなくなっていきました。前者の活動に関しても、自分が修得した農業科学的知見によって当時の農民たちの生産活動を苦しめていた冷害をはじめとする自然災害との闘いに敗北していきました。困窮を極めていた地域経済を命がけで救うための石灰肥料のセールスマンとしての活動も、ただ宮沢さん自身の体力を消耗させることで、これも短期に挫折していくことになっていったのです。それらの結果として、宮沢さんは、自身の願い出会った、出家などせず、科学的知見を基礎に農民たちの生産上の困難を克服し、芸術活動をひろめることで農民たちの生活を改善していくことを通じて、農民たちの信頼とともに生きる菩薩となる夢はかなうことにはならなかったのです。
それは、科学や芸術活動の力で困窮に喘ぐ農民たちの生活改善という菩薩道の挫折を意味するものでした。また、それは、宮沢さんにとって、その点では、自分は何ら農民たちの力になることができなかった「デクノボー」的存在であることを認めざるをえない事態であったことを意味していたように感じます。そしてそのことを自認した宮沢さんは、当時の現実的な農民生活の困窮改善運動においては、自分自身はもはや指導者・主導者としてではなく、農民たち自身の運動や活動を陰から応援し、はげます存在として自分を位置づけようとするようになっていったのではないでしょうか。
ただ、宮沢さんがすごいところは、たとえ自分は農民たちの生活困窮を現実的に改善することができなくても、農民たちの「抜苦与楽」のため最善を尽くす菩薩道を探究しつづけようとしただけでなく、そのことが、自分が追い求めてきた理想の菩薩道であることに気づいていったことです。それは、宮沢さんの菩薩道探究における阿弥陀仏的菩薩道から良寛さん的菩薩道への転換だと言えるように思えます。
次回からその宮沢さんの心境変化の過程を、彼自身の文学の方法であった「心象スケッチ」という方法に着目して辿っていきたいと思います。
竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン
修験道は、ここまで参照してきたように、地域の中の庶民生活に溶け込み、修験者の人たちも日常生活の中では、他の住民たちと、祭祀だけでなく、娯楽も、日々の生活の助け合いもしながら、ともに喜怒哀楽を共有して生活していたとのことでした。なるほど、修験道という信仰は、まさしく、それは何か特別の教義体系を有する宗教というのではなく、庶民の人たちの地域生活とその意識そのもととして展開してきていたのですね。では、そうした修験道における地域の生活組織または集団でもある講の、互助的性格と形はどのようなものだったのでしょうか。それは、社会学を専攻してきたものにとっては非常に興味がそそられるテーマです。
この点に関しては、ここで参照している文献の中での、修験道の「雑行雑修」という性格をめぐる対話が大いに参考になります。お二人の話によれば、修験道は、これまで、既存の仏教諸教団の人たちから「雑行雑修」という性格ゆえに、「程度の低い」もの、または正統ではないものとして見なされてきたというのです。しかし、修験道は「雑行雑修」という性格をもっているからこそ、その信仰のための集団・組織である講は、庶民生活における互助的性格を発揮することができたというのです。とくに、例えば、阪神淡路の大震災のときにも、その性格が遺憾なく発揮されたと言います。田中さんは言います、
「山伏には普通に暮らしている人がお坊さんよりもはるかに多い。大工さんはいるし農家や鍼灸師、会社員もいる。いろいろな職業の人がいるから、何かあったときにそのことがすごい力になる。特殊な労働力も提供できるし、必要なものはだいたい揃えられる。同時にそれぞれの人がネットワークをもっているから、その人脈を利用して、さまざまな職能を持った人を集めることができる」のですと。
この田中さんの話は、苦しむ、または困難に直面している衆生を救うための多様な職能をもった人たちのネットワーク、それが修験道における互助的集団・組織の社会的性格を示唆しているように感じます。そして、この田中さんの話につづく、宮城さんと田中さんの対話が、また宮沢さんの思想を理解するのに大いに参考になります。上記の田中さんの話につづけて宮城さんが次のように発言しています。すなわち、
「雑行雑修と言われたのは修験を程度の低いものとみなそうとしたということかもしれんが、僕は雑行雑修なればこそ、こうしたこと(日常生活における互助活動)ができると思っています。雑多で、さまざまな人たちと歩んでいるからこそ、世の中がよく見えてくる。逆に一本のものだけでいこうとすると、いろいろなものを切り捨ててしまう。それでは僕は駄目だと思う」〔( )内は引用者によるものです。〕とです。
さらに、田中さんが次のように話しをつづけます。すなわち、
「雑行雑修といういい方は、正統ではないという意味もあったと思うのですが、正統を求めれば異端が誕生する。そこにはまた正統を特権化しようとする権力が生まれてしまう。そういう構造を超えていく純粋さだけを求めつづけるのが修験道ですから、修験はすべてを飲み込みながら山へと向かう道のなかにある」ものなのですと。
以上の、修験道における日常生活における互助集団・組織でもある講についての思想的、社会的性格に関する田中さんと宮城さんお二人の対話は、宮沢さんの、彼自身がめざしていた仏国土世界に関する構想とはどのようなものかを理解する上で、大いに参考になるものと感じます。宮沢さんは、極楽浄土世界に関して、何の苦しみも、生活のために働くことも他の人たちと争うこともなく、食料をはじめとする十分な生活物資が提供され、毎日のんびりと、楽器を奏で、歌を歌い、ときにはゆったりと散策を楽しむような夢のような世界を思い描いていたわけではなかったと思います。ましてや、極楽浄土としての仏国土が、金銀財宝がきらびやかに輝いている世界ではだんじてなかったのでではないかとも思います。
宮沢さんが思い描いていた極楽浄土としての仏国土像とは、自然と関わることで生きていくための糧をえながら、他者との関係性において、対等で、平和で、寛容と社会的包摂性に富み、すべての構成員がひとり一人、お互いに自分たちに特異な才能と関心によって磨き上げた知識・技術力によって輝いて生きながら、それらの知識・技術力を生かして協力し合い、相互に助け合うとともに、ただ働くだけでなく、みんなで生きていることの幸せと喜びを感じることのできる「祝祭」のある世界というものではなかったかと推測します。
そのことを、宮沢さん自身の農民芸術論の中の次の一文は、そうした宮沢さんのこの世の娑婆世界における極楽浄土としての仏国土の世界像を、そこに住む個人の生き方を示すという視点で表現していたのではないでしょうか。宮沢さんは宣言します、
「職業芸術家は一度亡びねばならぬ/誰人もみな芸術家たる感受をなせ/個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ/然もめいめいそのときどきの芸術家である/創作自ら沸き起り止むなきときは行為は自づと集中される/そのとき恐らく人々はその生活を保証するだらう/創作止めば彼はふたたび土に起つ/ここには多くの解放された天才がある/個性の異なる幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる」とです。
この一文で、すべての人が自分の個性を十分に伸ばし、輝いて生きていくことで、ひとり一人の人生は輝きすべての人が自分の人生の芸術家となる。そのとき、「地面」(この世)は、「天」(極楽浄土)となると宮沢さんは宣言したのではないかと思います。
竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン
ここでは、庶民による信仰の形という視点で見たときの、江戸期以降の修験道の形である里修験における講とはどのようなものか、そしてそれは、宮沢さんの仏国土建設構想とどのように重なるのかということについて考察していければと思います。
ここまで参照してきた文献によりますと、里修験における講とは、その一つの性格として、在家の山伏の人たちの修行の形であったということでした。宮城さんは、そのことを次のように解説しています。すなわち、
山伏と呼ばれている人たちは、「僧侶ではないけれど、山での修行を積み重ねていった人々です。聖護院がいろいろな修行の行事をするときには、山伏たちが鈴懸(すずかけ)(修験道独自の直垂に似た法衣、上衣)着て参加する。そういう在家の山伏たちがどんな職業に就いているのかといえばさまざまです。在家の山伏たちは講をつくって、講のお仲間と山に行って修行をするというのが昔のかたちです。いまでもそうした講はつづいていますが、最近では個人として山で修行する人も増えてきましたね」とです。
そのように講とは、在家の山伏たちの日常生活レベルにおける修行の場であるとともに、ときおりの山での修行の際の「お仲間」づくりのための組織であったのです。それは、「お仲間」となった地域の人たちから見れば、講とは、修験道(山岳信仰)の信仰集団という性格のものでもあったのです。しかもその信仰集団は、その構成メンバー間の日常的な相互援助・扶助のための組織という性格ももっていたというのです。
その講の形成史を簡単に辿ると、まず、江戸時代にそれまでの游行という修行が幕府の命により禁止されたことにより、「修験者たちは各地に定住し、地元の人たちの願いに応じるようになる。とともに江戸中期に入ると庶民の暮らしも以前よりは余裕ができてくるから、プロの修験者だけではなく、民衆自身も霊山に行って修行するようになった。人々が自発的に修行にいく山と結んだ講(もともとは鎌倉時代に信仰行事を司る自発的な組織としてつくられた。江戸時代に同一信仰をもつ人たちの自発的な集まりとして広がった。……)という組織をつくり」修行に出かけて行くようになったのです。
こうして、「江戸時代になると修験道は民衆自身の修験道として広がりをみせるようになった。信仰する山にはそう度々はでかけることができないから、人々は自分たちが暮らす地域に寺をつくり、不動明王などを祀り、境内に、たとえば富士山を模した小さな山をつくり、そこにお参りすることで日々の信仰の場を形成した。民衆の自発的な組織だから、講も信仰集団を形成するとともに、それは娯楽の場でもあり、助け合いの組織でもあった。信仰は自分たちの生きる世界のなかに、深く、広く染みこんでい」ったのです。
ここまでの修験道における講の解説を読みながら、あらためてこの世を生きていくことは苦しみの連続で、だからこそ、何らかの苦境に陥ったとき、それらの苦境から脱し、生き生きとした日常生活を取り戻すために、願い、祈るということが、科学的思考がこれだけあたりまえになった現代社会でもなお、本当に必要で、大事なことなのだなという思いが湧いてきました。苦しい現状を何とか抜けでて、できればこうなってほしいという思い、願い、祈りは生きていく中で、自然に湧きでてくるものなのでしょう。そうした思い、願い、祈りに応えるということも、苦しむ衆生を救う一つの形なのだなと、しみじみ感じます。
しかも、修験道の講は、単に信仰のための組織というだけでなく、地域の年中行事や祭祀のための組織でもあり、さらに娯楽のための組織でもあったというではありませんか。まさしく、講とは、地域の人たちが、修験者を中心に日常生活を共にし、喜怒哀楽を共有化していた組織だったのですね。これまで地域社会学を専攻してきたのですが、自分自身が自分の最後をどう迎えるかを考えるようになるまで、地域生活のそうした宗教に関する生活のことは全く関心をもっていなかったことに驚きます。日本人はそのほとんどの人が無宗教だと、これまで信じてきました。しかし、宮沢さんに関心をもつようになり、修験道にまで関心が及ぶようになって、日本人は無宗教ではなく、単に苦しいときや悲しいときだけでなく、怒りを感じるとき、そして楽しく喜びの感情で満たされるときにも、何かあると神仏に思いを伝え、願い、祈りをささげるという信仰心に篤い文化を創造してきたということに目を開かせてもらいました。庶民の人たちが自分たちの身の丈に合った宗教を創造してきた、なんとすばらしいことではないかと感じます。宮沢さんは、それを個人の人生の中で、典型的・象徴的に体現しようとした人物だったのだなと、思います。
そして、そのことは、修験道における講が、地域住民相互の互助的組織でもあったということに象徴されているのではないかと感じます。次回は、その点について学びをつづけていければと思います。
竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン
ここでは、修験道というものが、庶民の方々の生活の中に、どのような形で存在していたのか、そのことについて学んでいければと思います。この点で参考となるのが、修験道における修行(参照している著書では「修験」と記述されている。)の形の史的な変遷に関する説明です。いま参考にしている著書の三人の執筆者たちの鼎談の中で、田中さんは、そのことを次のように話しています。
すなわち、江戸時代までは、修験の方法は「廻国(かいこく)修行――霊山を巡りながら、どこかに定着せず移動する修験者として暮らす、行った先々で人々の願いに応えた――が禁止されて、その結果として里修験が出てきた。ところが修験が里に定着した頃に庶民の経済事情がよくなってきて、大峯参りとか富士参りとかをできるようになった。そうして里にたくさんの講のようなものができて、講をとおして人々が山とつながるようになっていった。とともに、かつての村のなかには、山伏的なもの、修験的なものを育む土壌があったから、修験が定着したのでしょう。明治元年に神仏判然令が出され神仏分離が断行されて、さらに明治五年に修験道廃止令もあって、この当時に職を失った修験者の数が十七万人だったといいます」と。
この解説を読みながら、あらためて、かつて日本では、修験者の方々が、庶民の人たちの精神生活を支える大きな役割を果たしていたことを知りました。さまざまな自然災害など、物質的なだけでなく、精神的なものを含め、何か大きな危機に直面した際、多くの人たちが自然を相手に祈りをささげることで、それらの危機を前向きにのりこえるための力をえてきたのだなとの思いがめぐります。また、「里修験」・「講」という用語が気になります。それらは、どのようなものだったのでしょうか。さらに、学びをつづけたいと思います。
まず里修験のルーツに関する解説を参照しておくことにしたいと思います。修験道は、どのような形で庶民の人たちの日常生活の中に溶け込んでいたのか、知りたいと思います。同じく、田中さんは、江戸時代以前における修験者(山伏)と庶民の人たちとの関りを次のように論じています。すなわち、
修験道は思想体系としては「そんな正しく形が整ったものではない。もっともっと庶民に寄り添うかたちで存在していた。ときには神と仏を暮らしに媒介する存在として、ときには祭りを村に媒介したり、お神楽を媒介したり、医者に行く前にお伺いに行く存在であったり、薬について聞きにいく存在であったりした。そんなふうに庶民の暮らしのなかに埋め込まれている存在として、修験道はあったのです。寺に属している山伏もいたし、神社に属している山伏もいた。山伏は地域のなかにいて、全体としては混沌としていたのです。そういう広がりだった。それが組織化されることになったのは江戸時代で、修験道を組織化して管理しようとする幕府の方針があった。そして本山派(天台系修験道、総本山は聖護院)と当山派(真言系修験道、総本山は伏見の醍醐寺にある三宝院)されることになった」のですと。
ではときの幕府権力によって組織化され、公認され、権威づけられ、ある意味教団化された修験道も、いよいよ、他の仏教他派と同じように、それぞれの各派に属している山伏たちは、庶民に寄り添う道を離れ、番々出世街道を歩む僧となっていってしまったのでしょうか。その点に関しては、宮城さんが、次のように解説しています。すなわち、多様な形で存在していた山伏たちが、二つの系統の本山に所属しなければならず、ときの権力者に公認された「集団」の一員とならなければならなくなった。そして、その意味で、
「『集団』というのはひとつの権威団体です。その団体の中で上に上がっていって権威を得る。団体自体が権威として振る舞う。団体に属することで権威を認めさせる。幕府は組織化によって管理しようと考えたんでしょうが、実際には組織化させようとしてもそういう権威団体に入らない山伏がたくさんいた。在地で山伏をし、ときには加持祈祷をし、土地の人たちによってのみ支えられるいろいろなことをしてきた聖たちがいた。そういう人たちがいて、日本の優婆塞信仰も広がった。得度はしていないけれど、修行を積み、人々の願いに応えていく聖たちとともにある信仰があった」のですと。
なるほど、土地の人とともに生活し、「修行を積み、人々の願いに応えていく聖」という存在、そして人間世界と神の世界を媒介する存在、そうした人たちが庶民の人々の、とくに精神生活を支えていたのですね。しかも、それらの聖の人たちは、よろず相談的な活動もしていたとは、まさしく同じ土地の人たちと喜怒哀楽をともにする存在者という人たちが庶民の人たちからあつい信頼をえていたのですね。何人もの良寛さんが日本のいたるところに存在していたのだなという思いが湧いてきます。
ここまでの修験道に関する解説を読みながら、そういえば、青森県恐山の霊媒師の人たち、そして沖縄県の祖先崇拝文化の象徴となっている霊媒師の人たちも、性格的には修験者と同じ存在の人たちであったのではないかという思いが浮かんできました。かつて庶民生活にとって、信仰または祭祀集団は本当に大切な生活組織そのものだったのですね。あらためてそのことを強く感じます。では修験道における里修験の基礎組織である「講」というものはどのようなものだったのでしょうか。興味は尽きません。
竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン
『修験道という生き方』を読んでいて社会学的に興味を惹かれたことは、修験道は、体系的な教義も、その教義に基づいた教団も形成することがなかったなかったという言説です。その理由を、参照している著書の中では、次のように論じられていました。仏教についてほとんど知らない私にとって非常に難しい議論なので、著書にある文章を、そのまま引用しておくことにしたいと思います。それは、次のような文章です。
「修験道は役行者によって完成したのではなく、その後も新しい修験道として成長しつづけたのだと考えた方がよい。大乗仏教や中期密教の思想がもたらされれば、自分たちの自然信仰と矛盾しないかたちでそれを取り込んだ。中期密教が提示した真理の世界に降りていく方法は、修験道では自然のつながりの世界に入っていく行としてとらえなおされる。もちろん自然のなかでの修行は中期密教がもたらされる前から展開していたが、この行が密教を取り込んだ自然信仰として再確立されたとみることもできるはずである。大乗仏教の出家、在家を問わない仏教のあり方をもっともよく継承したのも修験道だった。真理は語ることができないという唯識思想以来の仏教思想も、修験道という文献をもたない信仰のなかで純粋に展開したといってもよい。さらには華厳教学がとらえていた菩薩行=利他行の思想や結び合う世界に本質=真理があり、それはすべての人のなかに存在しているという人間観も、修験道は自分たちのものにしている」と。
なるほど、修験道は、宮沢さんも信仰していた「大乗仏教」を「もっともよく継承」していたのですか。その意味では、修験道とは、日本古来の民間信仰に基礎づけられた「大乗仏教」であると理解できるのではないかと感じます。では、その修験道は、なぜ、その教えの教義を確立し、その教義を土台とする教団を設立しなかったのでしょうか。そのひとつの理由は、庶民の人たちの日常生活の猥雑性を受け入れているからというものでありました。それは、上に引用した文章では、「民衆信仰であるという立場を守りつづけた」と説明されていました。さらに、その体系的な教義も、それを土台とする教団も形成しなかった理由を、参照している著書の中では、次のように説明していました。すなわち、
「教団が形成されれば、その教団は開祖の教えに絶対性を置く。開祖の教えを守ろうとするのである。それは、仏教を、くりかえされた仏教運動とともにある信仰としてとらえるのではなく、完成されたものへと移行させる。それとともに教団は組織の維持と発展をめざし、そこからは教団維持の保守主義が生まれる。教団仏教は整理された思想体系をつくりだすが、くりかえされる仏教運動という性格は衰退していくのである。とともに、教団が確立した真理を民衆に伝えるというかたちができてしまうと、真理を知っている人とその真理を教えてもらう人という『知のヒエラルキー』が発生しまい、民衆は仏教運動の主人公ではなくなってしまう」のですと。
この修験道に関する言説にも、大いに興味が湧きます。教団の設立やそれぞれの教団にとって正統とされる体系的な教義を確立すればするほど、「くりかえされた仏教運動とともにある信仰」が衰退し、そしてそのことは、「民衆が仏教運動の主人公」になる道を閉ざしてしまうとの言説には、惹かれます。さらに言えば、教団の設立やそれぞれの教団にとって正統とされる体系的な教義を確立していくことは、それらの教団間の仏教運動における正統性をめぐる争いごとを発生させていくことにもなっていくのではないかと思います。それらいずれのことも、宮沢さんが嫌ったことだったのではないかという思いがこみ上げてきます。
宮沢さんは、いわゆる「雨ニモマケズ」手帳の中で、けんかや訴訟沙汰があったときには、つまらないからやめろと言うと記していました。また、「どんぐりと山猫」という、どんぐりたちがどのどんぐりが一番えらいかをめぐる裁判による争いごとを主題とした童話作品の中で、そうした争うごとがいかにつまらないことなのかを描写していました。また、宮沢さんは、自身の農民芸術論の最後を、「永久の未完成これ完成だ」という文章によって締めくくっていました。それらは、宮沢さんが修験道の思想を、そのことをどれ位自覚していたかについては確証することができないのですが、自己の世界観に取り入れていたことを示しているように感じます。
竹富島・白くまシーサー・ジャンのいちファン