本とITを研究する (original) (raw)
とてつもない大作。
一度は読んでみたいと思いつつ、なかなか手を出す機会がなかった。
今回一気に読ませていただいた。
この大作を5歳児に向けて要約するとどうなるのだろうか。
いま話題のChatGPTに聞いてみた。
---
**「オリエンタリズム」ってどんな本?**
「オリエンタリズム」っていう本を読んだよ。
この本は、昔から西洋(ヨーロッパやアメリカ)の人たちが、東洋(アラブの国や中東の国)の人たちをあまりよく思っていなかったことについて書かれているんだ。
西洋の人たちは、東洋の人たちを「弱い」とか「だめな人たち」と思って、たくさん支配してきたんだ。
この本は、それがどうしてそうなったのかを考えた本なんだよ。
たとえば、アラブの国々は、長い間、西洋の人たちとたくさん戦ったりしてきたんだ。でも、日本はあまり戦っていなくて、ちょっと違う立場だったんだよ。
この本を読むと、「どうして差別が生まれたのかな?」とか、「みんなが平等になれるためにはどうしたらいいのかな?」って考えることができるんだ。ちょっと難しいけど、世界のことをもっと知るためには大事な本だよ。
---
本作は一言でいうと、西洋の東洋に対する差別の経済学である。
ここでいう東洋(オリエント)とは、中東アラブ諸国を指す。
西洋(イギリス、フランス、アメリカ)が中東アラブ諸国を支配するための思考ロジック(西洋は優れていて東洋は劣っている)が、文学や東洋研究などさまざまな文献に登場し、それらが引用などで学問として社会化し、はては政治経済へと組み込まれるという事象が連綿と続き、西洋優位・東洋劣位のマインドが西洋社会の中に埋め込まれていく。
こうした差別マインドそのものとそれが社会に埋め込まれる構造全体を、本作ではオリエンタリズムと呼んでいる。
差別はフーコーの言うパノプティコン(見る者としての西洋と見られる者としての東洋の一方向性)から行われ、差別意識は東洋が西洋の手で記述(ディスクール)されることで重層的に形成されていくことをサイードは考えの基本に持つ。
こうした過程と問題が、膨大な文献の引用と解釈がサイードの義憤を通して、2段組み370ページの書物として提起される。
翻訳が読みづらかったり(あとがきによると原文が読みづらいとある)、話が飛んでたり(十字軍遠征に言及していないないなど、西洋対アラブの基礎知識が必要)と、癖の多い作品ではあるが、ここでいわれるアラブ諸国としての東洋と、極東に位置する我々日本とは、対西洋の立ち位置が相当違うのだということもよくわかった。
アラブ諸国は西欧白人たちとフルコンタクトで1000年も広範囲にやり合っているわけで、やはり日本は極東で、西洋から見たら遠くにある神秘的な謎の国である。
本作は1978年に発表されており、日本が世界の表舞台に躍り出る1980年代の直前であるが、翌年の1979年には奇しくもエズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が発刊されている。
さしずめいまの西洋の日本に向けたオリエンタリズムの目は、アニメやコスプレ文化なのかもしれない。
そして23年後の2001年9月11日、アメリカのWTCがテロ攻撃を受け、本作の謝辞にもあがっているノーム・チョムスキーは「ほら言わんこっちゃない」「オリエンタリズムはこうなるんだ」と、9.11を機に声を高く上げていたことも思い出す。
人種的な支配を正当化させるために、優位・劣位という非対称的な人間関係を作り上げることが支配であるとともに差別であるという、いま起こっているパレスチナの人種問題の根底に流れているメンタリティも、本作を通してよく見えてくる。
日本版が登場したのは1986年。すでに40年近い年月を経た古典である。発刊当時といまとでは社会構造がずいぶん変わったとはいうものの、本作が出たことで明らかに、世界が西洋と東洋という意識で分断されていることや、分断は差別と支配のメンタリティで行われていることが言語化され、意識化されたという点に大きな貢献がある。
分断がますます進行するであろうこれからの世界を読み解くにあたって、本作は読者に多くの知恵を与えれくれるはずだ。
文庫版では456ページ+474ページの2巻ものという大著で、皆さん読んでくださいと言いづらい作品である。が、世界の精神構造の舞台裏を覗き見るという知的好奇心の強い人、AIやクラウドが支配する混迷の時代に自分の判断軸を持ちたいという気概のある人には、ぜひお勧めである。
三津田治夫
本作には、音楽家、グスタフ・マーラー(1860~1911年)を評し称えた、当時西洋で発表された関係者による雑誌記事や論考が便覧的に収録されている。
大きく分けて、マーラーの活躍時代、没直後、没後数十年の、3時代からの記事が掲載されている。
寄稿者は、文筆家ではトーマス・マン、シュテファン・ツヴァイク、ロマン・ロラン、フーゴ・フォン・ホーフマンスタール、エルンスト・ブロッホ、マックス・ブロート。
音楽家ではチャイコフスキー、ショスタコーヴィッチ、リヒャルト・シュトラウス、ヤン・シベリウス、オットー・クレンペラー、レナード・バーンスタイン、ブルーノ・ヴァルター、アルバーン・ベルクなど、各々の時代を画した偉人の名前が多くみられる。
カフカの編集者であるマックス・ブロートのマーラー論では、マーラーをユダヤ人の代表として紹介する論調が彼らしかった。能力のあるユダヤ人をメディアで拡散し、ユダヤ人を社会の上層に引き上げようとしたマックス・ブロート強い意図が見えてくる。
マーラーという人物評を通し、彼が生き抜いた19世紀末から第一次世界大戦の直前までの空気が手に取るようにわかる。
いろいろなマーラーの入門書に手を出すよりも、これ一冊で十分、という印象も得た。
素朴な疑問にも答えてくれる。
さほど多作でもないマーラーはどうやって食べていたのかとずっと疑問に思っていたが、彼は職業指揮者として大成した人物で、指揮に取り組む彼の姿が関係者により細かに描かれている。神経質で完璧主義者の彼ゆえ、50歳という短命だったのかもしれない。
「マーラー教」という言葉も本作中でたびたび出てくる。
音楽家としての彼の存在は一種の宗教、崇拝の対象だった。
彼を評する多数の文章の中から、マーラーという人間が発する精神のエネルギーと活力が、あたかも音楽のように伝わってくる。
文章を読むことでマーラーの音楽に対する見方も変わり、それ以前はほぼ興味がなかった「大地の歌」を、感銘を受けながらたびたび聴きかえすようになった。
最後に、本著作から、マーラーのクリエイティビティを端的に表明した、彼の名言を一言。
「伝統とは自堕落のことである」
三津田治夫
今回は記念すべきキリ番の第50回目である。
皆さんは「アメリカ」という国の名前を聞いて、なにをイメージするだろうか。世代により国名から響くイメージが相当異なるはずだ。
たとえば戦中派は、「外国の象徴」だったり「カッコいい」「憧れ」のイメージだったりする。
戦後世代だと「資本主義の象徴」「戦勝国家」「権力」「観光地」だったり、私のような昭和世代になると、アメリカの消費文化を紹介する『週刊POPEYE』のイメージや、1950年代のアメ車やファッションなどの50's、平成世代以降ではシリコンバレー文化や留学したい国など、より身近な憧れの対象といったイメージだろう。
戦中派の母親は私に小学生時代、「アメリカは外国だけれど中国は外国じゃない」といつも言っていた。
日本はアジアの中心であり中国という国土も八紘一宇に内包された国であると、旧満州大連生まれの母親は奉天で商いを営む祖父に教育されていたのであろう。
前回のテーマであったアメリカ文学(E.A.ポオ)を受けて、2025年1月にはドナルド・トランプが米政権を握ることになり、とかくアメリカが気になる。
そこで今回は、書籍のテーマそのものをアメリカに焦点当てる、という試みに取り組んだ。
取り上げた書籍は『アメリカ映画の文化副読本』である。
映像メディア作品を通して、いまのアメリカという国家をカジュアルにとらえられる著作だ。
以下7つの章から構成されており、アメリカ映画を題材におのおののテーマを語る、という内容である。
======
Ⅰ 都市と地域
Ⅱ 社交と恋愛
Ⅲ 教育と学歴
Ⅳ 信仰と対抗文化
Ⅴ 人種と民族
Ⅵ 政治と権力
Ⅶ 職業とキャリア
======
著者の渡辺将人氏の経歴を簡単に。
慶應義塾大学のメディア研究科准教授である著者はアメリカ政治を専門とし、米下院議員事務所勤務や、テレビ東京報道局経済部、政治部記者などを経験している。研究者→政治秘書→ジャーナリスト→大学教員という、たいへんユニークなキャリアパスを経てきた方だ。
そんな著者が、アメリカ生活の重層的な経験と、多くの映画作品を通して眺めた、アメリカという広大な国家の肖像が本作である。
アメコミとドラマ、私のアメリカ体験
私個人にとってのアメリカというと、義弟はアメリカ人なのに私は本土には一度も行った経験がなく(結婚式でハワイに一度行ったのみ)、行ってみたいという気持ちがありながらもなかなかその機会がない。
今回の選書『アメリカ映画の文化副読本』で作者が紹介しているように、私としてもメディアを通したアメリカのイメージが最も強く、いわば近くて遠い国である。
メディアを通した私のアメリカ体験は、まず、子供時代にはアメコミにはまった。
小遣いを貯めて、(いまはなき洋書の総本山)銀座のイエナ近藤書店にDCコミックやマーベルのペーパーバックを買いに行き、ぼろぼろになるまで何度も読んで(眺めて)いた。
学校に持っていったらクラスメイトたちから「なんだこれは」と質問攻めにあうことがしばしばだった。
英語などできもせず学ぼうともせずであったが、バットマンやスパイダーマンの、日本のマンガにはない躍動感のあるフォント(“Boom”や“Zip”など見たこともないオノマトペ)や肉太なタッチ、画風に、ワクワクとしながら触れていた。
このころは日本語版のお笑い雑誌『MAD』(『MAD マッド傑作選』(監修:小野耕世、マッド・アマノ、片岡義男、TBSブリタニカ、1979年))を図書館で借りて(高額書で、書店でもほぼ見かけることがなかった)何度もむさぼるように読んでいた。
表紙の少年「What me worry?」の馬鹿面がなんともいえず、アメリカ人の描く絵ってってなんと滑稽なのだろうと、ワクワクと何度も読み返していた。
この本はいまでも手に入れてぜひ読んでみたい。
もう一つは、テレビドラマである。
1時間物の連続ドラマには相当はまった。
小学生時代に本放送をちらちらと見て、中学生時代にビデオデッキ(自宅には東芝「ビュースター」があった)が普及したころに、お小遣いでベータのテープを買って、録画しては観て重ね撮りして観てを繰り返していた。このころに蓄積したアメリカ連続ドラマ体験は濃厚だ。
たとえば、(戦争ドラマ『コンバット!』主役)ビック・モローの遺作としてリメイクされた映画『トワイライト・ゾーン』の原案となった『ミステリー・ゾーン』(1963年)や、超人サイボーグ人間が主人公の『600万ドルの男』(1973年)、男尊女卑がまだまだ根強かった日本でスーパー女子が悪漢の男どもをばたばたと倒すという『ワンダーウーマン』(1975年)は面白かった。ワンダーウーマンの吹き替えが由美かおるだったのも印象深い。
超人女子ものでは、600万ドルの男の恋人という設定で『地上最強の美女バイオニック・ジェミー』(1976年)も全回見た。パラシュートの落下ミスで瀕死の事故に遭った女性が人体改造手術を受け超人になるという設定は前代未聞で斬新だった。
超人といえば映画でリメイクされた『超人ハルク』(1977年)にもはまった。原作マンガと同様、放射線で甲状腺に異常をきたした男が怒らせると巨人に変身するというお話。本ドラマ版では事件に巻き込まれ暴行を受けるなどして変身し、地方の悪漢たちをやっつけて他の街に逃げ放浪していくという薄暗いロードムービーだった。
このときハルク役をやっていたビル・ビクスビーが主演の『ザ・マジシャン』(1973年)も全回見た。これも事件解決ものドラマの一種。事件解決の手段はバイオレンスではなくマジック。主人公の魔術師がマジックを使って悪者をケムにまいたり罠にはめたりする勧善懲悪ものだ。
日本人にとって、勧善懲悪ものは『水戸黄門』や『赤穂浪士』『遠山の金さん』に慣れ親しんでいるのでわかりやすい。
そしてアメリカのドラマで最後にはまった作品は『特攻野郎Aチーム』(1983年)だった。
こちらも勧善懲悪ものの荒唐無稽アクションドラマ。本放送では土曜の15時から観ており、その前には正午から13時まで『独占!女の60分』を毎週欠かさずに観ていた。
主人公のジョージ・ペパードが『ティファニーで朝食を』(1961年)でオードリー・ヘプバーンの恋人役をやっているのを見たときには、「ハンニバル軍曹がこんな二枚目やっていたんだ」と驚きを隠すことができなかった。
子供心に、上記作品を熱中して観てはいたものの、アメリカがどんな国なのか、あまりイメージはついていなかった。
強いて言えば『超人ハルク』と『特攻野郎Aチーム』のイメージが強かった。
アメリカには独特の地方文化があり、地方には利権にぶら下がった愚連隊がいて、よそ者に対しては敏感かつ全力で排除にかかり、バイオレンス多発。そんなイメージが強い。
『アメリカ映画の文化副読本』にも、アメリカという国家は州ごとの独自性だけではなく、地方や地域によっても独自性が強いとは随所に書かれていた。アメリカ在住の経験がある日本人からもたびたびそんなことは耳にする。
いままでもなんとなく、巨大な移民の国なんだな、ぐらいのぼんやりとイメージは持っていた。
「なぜか同じTシャツ着ている集団がいる」
『アメリカ映画の文化副読本』に関し、会場からはどのような声が上がったのだろうか。
今回の参加者は、KNを筆頭に、KM、SM、KS、SM、SK、KA、HH(敬称略)、そして私の、総計9名だった。
いつもなら著作そのものに関する印象が口にされるが、今回はのっけから個人的意見を中心に、激しいフリートークが交わされた。
「アメリカのガイドブックよね!」
「「Ⅵ 政治と権力」は面白かった」
「観ていない映画ばかりが紹介されていてよかった」
と、本作に対する純粋な意見が出てきた。
また、
「思い込みが否定された」
とあったように、アメリカはとかく近くて遠い国と言おうか、日本人にとってステレオタイプにとらえられがちだが、そうした意識を塗り替えてくれるために本作は寄与してくれた。
「アメリカはポピュラーな映画ばかりで、インディ系はほぼない」
アメリカというお国柄、自主映画を撮影して収益を回収して再生産し回す、という文化はなかなか成立しない、という発言もあった。
「ニューヨーク、西海岸、それ以外というイメージがある」
と、アメリカ人の地域に対するメンタリティや、
「日本のように“右だ左だ”と十把ひとからげに言えないのがアメリカの面白いところ」
というように、多様な人種が生み出す多様な価値観に興味を示す発言もあった。
また、私があげたようなドラマに関する印象も聞こえてきた。
「アメリカには『白バイ野郎ジョン&パンチ』(1977~1983年)や『刑事コロンボ』(1968~1978年)など、ドラマの時代があった」
1997から2000年までサンフランシスコ在住経験があるSKさんからの「本書と経験が重なる」とする発言は、たいへん説得力が高かった。
「少し情報が古い」
「書籍全体、とくに後半、単調かも」
「アメリカならではのキャンセル・カルチャーやLGBTを扱っていなかったところは残念」
と本作を評しながらも、
「当時すでに国家は分断していた」
「報道に国際ニュースがあまり出てこない」
「サイレント・マジョリティの声が出づらい」
といった、アメリカの大衆文化や、意外と海外に興味が薄いアメリカ人の実体が語られた。
世界で最も語学学習欲の低い人種はアメリカ人だとは、たびたび耳にする。
バイリンガルのアメリカ人は相当少ないと思う(TVプロデューサーのデイブ・スペクターや元メガデスのマーティ・フリードマンなどは激レア)。
「テキサスはマスク禁止」
と、日本人のようなマスク文化がテキサスにはなく、むしろ犯罪を助長するものとして禁止されているという。
なぜテキサスでそうなのかは、土地柄なのか、もう少し聞いておきたかった。
また以下のように、政治にまつわる参加者の研究結果も声としてあがってきた。
「1970年からの、東部や中西部の「ラストベルト」での貧困があり、ニクソンは貧困白人層をとり込んでいた。トランプも同様の戦略をとっている」
「いわばオリガルヒ対奴隷のような二極対立構造がある」
「地域特性の対立もありで、中道政策は上手くいかないアメリカ」
「共和党には黒人奴隷を解放したという歴史もある」
以下はここで初めて知ったことで後でYouTubeで観たのだが、短時間ながら深いディストピアな内容だった。
「『1984年』にインスパイアされたリドリー・スコットの1984年のAppleのCMが素晴らしかった」
アメリカという国は宗教や人種だけではなく、出身大学や所属コミュニティなど、なんらかのソサエティに属していないと「ヤバい人間」として相手にされないという。以下はそれを反映した発言である。
「アメリカにはなぜか同じTシャツ着ている集団がいる」
前半ラストは、アメリカを知るための以下参考図書をあげることで締められた。
「アメリカ料理は美味くない」
が、一方で
「アメリカの中華料理は旨い」
らしい。
そもそもアメリカ料理とはなんだろうか。
昔赤坂のホテルニュージャパン跡の隣にストーン・クラブの爪(カニのハサミの部分)を食べさせてくれるお店(東京ジョーズ)があって、あれは美味かった。
ちなみにこのころには「アンナミラーズ」が近隣にあったことは付け加えておく。
「アメリカはあこがれだったのに、住んでみたら常時緊張で疲れた」
とは、在住経験のあるSKさんの発言。
その他にも、
「入るの大変。自由でオープンであると思い込んでいたいたアメリカ社会はけっこうクローズ」
「彼らは本音を言わない」
「格差はやはり大きい」
「サンフランシスコ人、ロス人、仲悪かった」
「現地に行くとダーティ・ハリーをリアルに感じ、恐い国であることがよくわかった」
と、メディアからなんとなく見え・聞こえてくる印象を、体温のある言葉で伝えてくれた。
「“そもそも型がない”はNGの文化だった」
と、前述の「同じTシャツ着ている集団」を示唆する内容の発言も聞こえてきた。
アメリカでインターン経験があるSKさん曰く、
「インターン活動はキビシイ。日本の比ではない」
と、現場体験活動的な日本式インターン制度との対比を口にしていた。
いつもは文学・哲学・歴史談議に花が開くが、最後にきてようやく
「21世紀のアメリカ文学には興味ある」
「トマス・ピンチョン、フォークナーは作風が前衛的で奥深い」
という声があがってきたのには少し安心した。
また余談で、渡米歴複数のKSさんから
という、なかなかうらやましい発言もよかった。
自由と多民族をハリウッド映画に仮託するアメリカ
私にとって、アメリカ映画と言われてもなかなかイメージがわかず、映画というよりはアメリカはドラマの印象が強い。
いろいろと考えてみたら、大変なアメリカ映画を思い出した。
『スター・ウォーズ』である。
初期シリーズ3作はいずれも映画館やビデオで延べ100回以上観た。
『スター・ウォーズ』(エピソード4/新たなる希望)(1977年、日本公開1978年)はリアルタイムで10歳のときに父親と映画館で観た。
X型の羽根を持つ戦闘機が激しいドッグファイトを繰り広げたり、ロボットが人間と対等に交わったり、ならず者の異星人たちがたむろする柄の悪い居酒屋で一介の変わり者であるベン・ケノービがライトセーバーをふるったり。最後にデス・スターの心臓部にプロトン魚雷を落として帝国軍をやっつけるというストーリが、内容はともかく映像と世界観に驚きで、子供心に手に汗を握った。
『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』(エピソード5/帝国の逆襲)(1980年)では、雪上を四つ足で歩く巨大な戦車が登場したり、切断されたルーク・スカイウォーカーの手が機械で再生されたりと、これもまた映像に圧倒された。
『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』(エピソード6/ジェダイの帰還)(1983年)では、連邦軍(連邦軍が正義であるという解釈もアメリカらしい)のお姫様がほぼ裸の腰蓑姿で悪者の奴隷にされたり、ハン・ソロはカーボン漬けにされ、スマートな賞金稼ぎのボバ・フェットがあっけなく人喰い穴に落ちてしまったり、森林を高速移動する空飛ぶバイクでチェイスをしたり、表面的なディテールが子供時代の自分の脳裏に強烈に焼き付いている。
しかしながら、年をとって再見してみる。
すると、改めて異なる印象を受ける。
たとえば、ダースベーダーや帝国軍の幹部のビジュアルはどことなくナチスをイメージさせるし、雑多な異星人は多民族のメタファーを感じさせる。
1944年生まれのジョージ・ルーカスは上記満州帰りの私の母親の一歳年上で、戦争の体験者というよりもむしろ戦争真っ只中の両親に教育された人物である。
日本では戦争を反映した映画に『ゴジラ』(1954年)があまりにも有名だ。
放射能を浴びた動物が巨大化して東京を襲うというコンセプトはいまだに強烈で、世界中の観客たちを震撼させたし、当時のアメリカ人からしたら、自国が投下した原子力爆弾(原爆)で被爆した国が制作した、アメリカ人に対する嫌味で怪しからん映画ととらえられる向きもあった。
哲学者、フリードリッヒ・ニーチェは、戦争とは破壊の力であり、同時に創造の力でもあるという。
スペース・オペラ『スター・ウォーズ』も、『ゴジラ』も、生みの親は戦争という破壊の力である。
ニーチェの19世紀、戦争は創造の力、という意見もあった。しかしいまはどうだろうか。
戦争は破壊以外に、力を持つのだろうか?
その点を深く考えさせられるのが、アメリカ映画との個人的な出会いと対話であった。
* * *
次回もまたまったく趣を変えて、日本文化とオカルトの関連性を考えてみることにする。
選書は、『霊的最前線に立て! オカルト・アンダーグラウンド全史』(武田崇元、横山茂雄 著、国書刊行会刊)である。
読書会もついにここまで来てしまったのかとも思うが、どのような方々が参加し、どのような意見が飛び交うのか、興味津々でもある。
次回も、お楽しみに。
三津田治夫
OpenAIが、標準規格「MCP」(モデル・コンテキスト・プロトコル:Model Context Protocol)を採用すると発表し、世間を騒がせている。
MCPとはなんなのだろうか。
簡単に言うと、複数林立するCahtGPTやGeminiなどのAIどうしを連結し、AIに問い合わせができる機器をあらゆるモノ(パソコンやスマートフォンだけではなく)にまで広げましょう、という標準規格(プロトコル)である。
MCPは「USB端子のようなもの」
ある開発者のたとえによると、MCPは「USB端子のようなもの」であるという。
USB端子とはご存じのように、パソコンなどデジタル機器に備え付けられているもので、そこにケーブルや本体を接続すると、ハードディスクやメモリ、ブルーレイ、SDカード、SSD、電源など、異種混合のさまざまな外部機器がワンタッチで接続できる。
「そんなの当たり前じゃないか」と言われそうだが、1990年代前半、それは当たり前ではなかった。
というのも、パソコン(当時スマートフォンは存在しなかった)を上記のような外部機器に接続するには、パソコンに専用の機器を購入する必要があったり、機器を使うための設定ファイルを自分で書き換える必要があったり、決してワンタッチではなかった。
そこに登場した規格が、USB(Universal Serial Bus)だった。
USBはWindows95が登場した翌年の1996年1月にリリースされ、Windows98で正式サポートが表明された。
当時は「プラグアンドプレイ」といって、「接続するだけでワンタッチで外部機器が使えます」を売りに、革命的な技術として発表された。
コンセントや蛍光灯のソケットが共通であることと同じぐらいに、画期的かつ当たり前になった標準規格がUSBである。
こうした標準をAIの世界で実現しようというものが、MCPである。
USBはあらゆる外部機器をオンライン接続できるように進化を続けた。
同様に、MCPもあらゆるIT機器とAIをつなぐために進化するという役割をになっているのだ。
あらゆるIT機器とAIがつながる意味
MCPを通し、あらゆるIT機器とAIがつながるとは、具体的にどういうことを指すのだろうか。
たとえば、自動車や家電などに搭載されたIoT機器とAIの接続が考えられる。
自動車の運行情報や燃料の消費情報などはMCPで共有・処理され、センターに蓄積される。
蓄積された情報は再利用されAIでさらに解析される。
自動車であれば最も安全な運転の方法や、燃費効率の高い経路などの解析・共有が可能となる。
家電であれば最も安全で省電力な使い方の解析・共有が可能となる。
IoT機器とAIは無線で接続されるため、事実上、IoT機器が収集したすべての情報がAIで解析・共有されることになる。
収集される情報は、地球上にあるものに限定されない。
人工衛星、火星探査ロケットなどに搭載されたIoT機器が収集した情報は、AIにより解析・共有される。
これはなにを意味するのだろうか。
MCPを通し、地球外にも広がる膨大な情報のオープン化が実現されるのである。
MCPの普及でもう一つ考えられるのは、より個人的な情報のオープン化である。
つまり、医療情報のオープン化だ。
個人の既往歴や病気の罹患リスクなどといった、人命にかかわる情報がオープン化し、共有される、ということである。
医療情報とは秘匿性の高いプライバシー情報だ。
しかしながら、こうした情報がMCPを通して共有され、活用され、人類の健康の未来に貢献する形になるとしたら、どうだろうか。
ガイドラインの設定や団体間での協議など、さまざまなハードルを超えながら、個人の医療情報もいずれオープン化する。
オープン化はイノベーションの発端である
ITの発展において、オープン化はつねにイノベーションの発端になる。
ソフトウェアでいうと、WindowsやMacOSはマイクロソフトやアップルが持つ商材であるが、これに対するソフトウェアとして、OSS(オープンソースソフトウェア)が登場した。
営利組織が商品として占有せずに、誰もが無料で利用し、一定の条件のもとで自由に改変・配布が可能なソフトウェアである。
クラウドで使われる標準OSの1つであるLinuxや、CMSのWordPress、それを構成するプログラミング言語のPHP、その稼働環境であるWebサーバーApacheは、代表的なOSSである。
これらおなじみのOSSによるサービスなしには、ビジネスや政治経済など、情報を通した社会的なイノベーションは起こりえなかった。
イノベーションの発生には、上記のようなソフトウェアやハードウェアの新しい使われ方や考え方の進化をはじめ、それを開発・使用する人間の発想やメンタリティの進化が複雑に入り組んでいる。
イノベーションとはこうした、集合知の進化の一つの成果である。
MCPは、集合知の進化によるイノベーションをさらに加速させる標準技術である。
MCPによりありとあらゆる情報がAIに結合され、解析される。
それが当たり前になる。
あたかも、USBやChatGPTが当たり前になったように。
向こう10年、情報とAIを通した人類の進化を見ることが、とても楽しみである。
三津田治夫
読書会などの場で議論している日渡健介さん。
最近はIT企業との仕事も始めたとのことで、どことなく元気がないIT業界をなんとかしたい、という対話が増えてきた。
そこで、いまのIT業界や、日本全体の産業の停滞についてもう少し話しましょうと、対談を提案したところ、快諾をいただいた。
そこで今回は、本とITの可能性をテーマに、「文化へのアクセスが産業を活性化させる」「本の文化が人と社会をつなぐ」の二部構成でお話をいただいた。
パート1:本とITと文化について ~文化へのアクセスが産業を活性化させる~
三津田(以下「三」):今回日渡さんとは、「本とITの可能性」に関して話できたらとお越しいただきましたが、そもそも日渡さんとの接点は、飯田橋読書会でしたよね。
日渡(以下「日」):参加したときの選書は『テヘランでロリータを読む』(アーザル・ナフィーシー著)でした。
三:早いもので、2022年。あれはいろいろな意味で賛否両論の本で。日渡さんに来ていただいて読書会活動の幅も広がったと思っています。
山川菊栄『幕末の水戸藩』(岩波文庫)の選書もしていただきましたし。あれは大変面白い本でした。そもそも、日渡さんは読書会の活動をしていたのですよね。
日:本で知を活性化させる活動の一環としてNPO法人Talkingを立ち上げ、メンバーを集めて課題図書をテーマに議論していました。企業に呼ばれてワークショップ「概念思考」を実施したり、書店のコンサルをしたり、本を起点にいろいろな活動をしています。最近は某大手上場企業で、新規事業開発ののプロジェクトに参画しています。
三:本のようなアナログでスローなものが、企業の新規事業開発につながるとは、すばらしいです。どこの企業もいまは価値創出に四苦八苦していますから。
そう、日渡さんは版元にいらっしゃったこともあるのですよね。
日:縁あって、岩波書店でアルバイトしていたこともあります。
三:日渡さんの活動が一貫して「本」であるところは大変興味深いです。
日:今回のテーマにつなげると、いまはIT企業から依頼があって、社会人を集めた読書会型の研究会をファシリテートしています。
本来ITは知的な産業ですから、もっと本を読んでもらいたいなという思いもあり。
そんな活動中で驚いたのは、IT関係者でも、アラン・ケイの名前を知らない人がけっこう多いんです。
三:IT出版をやっている私の周りでも、知らない人は多いです。とくに40代以下の人たちは。
私ぐらいの年代になると、ダイナブック構想の発案者として、Smalltalk言語の開発者として、それは神様みたいな人ですよ。
日:アラン・ケイは音楽もたしなみます。仲間とジャズ演奏しながら、IT文化を作り上げるんですよね。シリコンバレーではITが文化の1つです。でも、日本の場合はそうでないと感じています。
三:ITエンジニアのなかには文化的な意識がある人もいますが、産業全体としては、職人さんたち、手作業をする人たち、というイメージが大きいでしょう。
ときには、ITエンジニアの仕事は3K職種といわれたりもしますし。
日本でITエンジニアと一言でくくるにはいささかおおざっぱですが。ITエンジニアに向けて本をプロデュースする立場としては、非常に残念なところではあります。
日:シリコンバレーのITエンジニアたちには「ITを使って社会をよくする」という強い動機があると感じます。テクノロジーを使って社会問題に取り組むマインドですよね。日本の場合はそうではなく、とくに、ソフトウェアでのテクノロジーは、なにかをなすための手段というよりも、一つの目的になっているというか。
三:日本のテクノロジーといえば、自動車のような物理的なものづくりですから。昔は半導体とかIBM互換大型汎用機など、たくさん作っていましたし。家電もそうです。1980年代は東芝のラジカセをハンマーで打ち壊しているアメリカの労働者の映像もたびたび報道されていました。日本にもそんな時代がありましたね。
個人的には、日本のIT文化は、社会を変えるではなく、個人的な楽しみを満たす、という方向にシフトしたと考えています。アキバ文化、ですよね。
あそこには昔コンピュータ少年たちが集まっていました。僕も小学生時代にはパソコン触りに行ったり、小遣い貯めて電子部品を買いにラジオデパートに行ったりなど、アキバには通いまくりました。
いまのアニメやマンガ、コスプレというファンタジーの文化に、IT文化が変形したのではないでしょうか。
日:日本では、そもそも社会はうまくいっているし、あえて働きかけてよくする必要はない、という感覚が強いのではないでしょうか。
アメリカのパソコン文化をつくり上げたスティーブ・ジョブズもカウンターカルチャーからでしたし。よくない社会に対するカウンターとしてのパソコンです。
三:日本でカウンターカルチャーというと反社会的で、産業やビジネスとは真逆、やってはいけないヤバいこと、というイメージが強いです。
たしかにジョブズもそうですし、オープンソースの父であるリチャード・ストールマンもカウンターカルチャーですよね。オープンソースがなければ、いまの世界のITはまずありませんでした。
上記カウンターカルチャーが産業や経済を生み出しましたよね。
日:文化に加えもう一つは、コンピュータサイエンスですよね。日本のIT業界とコンピュータサイエンスとの断絶は相当深いように、外から見ていて感じます。
三:そうかもしれません。だから、先ほど言った、ITエンジニアの仕事は3K労働や手作業職人とかいわれる向きがあるのかもしれません。3K労働も手作業職人と言われるお仕事も社会が回る上で欠かせない存在ですが、ITエンジニアとは本質的にちょっと違うな、と思っています。
そんな疑問をある人に投げかけたことがあり、日本はITエンジニアが専門職とみなされていないからそうなのだ、と返答されたことがあります。弁護士や医師、税理士は専門職ですが、ITエンジニアはそうではないと。
その意味でITエンジニア向けのいろいろな資格試験が提供されているのでしょうし、企業もそれを支持するのでITエンジニアは必死に資格取得に励んでいます。だからといって「専門職」とみなされることはまずないでしょう。資格取得者の年収が少しは上がるでしょうが。
日:資格云々は本質的な問題ではなく、僕は文化の有無が重要だと思っています。
三:産業における文化の軽視が日本のIT社会・IT経済を停滞させたのでしょうきっと。
パート2:日本の再生は地方社会から ~本の文化が人と社会をつなぐ~
三:日本の社会や経済を停滞させた一要因としてもう一つ、意思決定が遅いという課題も気になりませんか?
日:そうですね。意思決定が遅いというレベルをこえて、意思決定が機能していないという感覚があります。意思決定が遅い企業同士が取引をすると、お互いに意思決定が遅延し続けるので、物事が永遠に決まらない。僕の参画しているプロジェクトでは、多様な人的ネットワークがどんどんつながっていくことで、組織がつねに進化し続けています。
三:文化的な面、意識的な面、さまざまな側面から経済活動のゴールが見失われてきていますよね。
日:明治維新以降は「国家の近代化」が、太平洋戦争以降は「戦後復興」が、経済活動のゴールでしたし。いまの日本の経済活動のゴールは貨幣獲得。
「お金儲けのためのお金儲け」がゴール化している。利益を出すことが目的になっていても、利益が生まれる領域がなくなってくるので、どこも八方ふさがりになっているのだと思います。
三:貨幣文化の象徴というとアメリカを想起しますが、あの国を建国した人たちは欧州から逃げてきたピューリタン(清教徒)ですから。
彼らのゴールは魂の救済で、お金はそれを実現するための手段や、一つの指標にすぎません。
日:儲けたお金は魂の救済の副産物であるゆえに、彼らはよく寄付をしますよね。お金を集めた日本人が寄付すると、やれ節税だ、企業イメージアップだなど、逆に、企業収益を図るための道具、私利私欲ではないかと揶揄されます。
三:そんな日本を救済できる糸口はありそうでしょうか。
日:僕は、地方経済にヒントがあると理解しています。地域の未来についての価値のある社会ビジョンを掲げて、地方企業が自らの事業領域を再定義することです。これにより大都市圏と地域経済の関係性が再構築されていくストーリーが生まれたら、社会は大きく変わります。
三:たしかに、都市経済一極集中を分散させましょうという考えは、COVID-19を経験した私たちにとって、とくに切実な問題でもあります。
地域に依存しないで動かせるIT企業も、地方経済の活性化と親和性は高いです。地方でコーディングして都市にシステムを納品する、農業DXの成果物を都市に流通させることも、いまでは普通ですし。
日:地方ではいろいろなまちづくりが試みられていますが、いま僕が取り組んでいるのは「文化」を動力にしたまちづくりです。
三:文化というと、僕は都市をイメージしますが。
日:島根県の津和野町はご存じでしょうか? 文学者の森鴎外や哲学者の西周を生み出した文化の町です。近代日本の文学と哲学を作り上げた人材を輩出した町ですが、書店がなくなってしまいました。
そんな地域で本へのアクセスが困難になっているのは、残念ですよね。
三:地方文化をそうやって見つめ、見直すことが、地域全体の、ひいては地域企業の再定義にもつながりますよね。また地元の人に、「よそ者め」と思われないような信頼関係の構築や導線づくりも大切です。
ちなみに僕は出身が葛飾区なのですが、立石でつげ義春が育ったことや、青砥に吉本隆明が通勤していたことが最近はたびたび取り上げられます。僕が子供のころは、寅さんの町、こち亀の町といった、大衆映画やマンガのイメージが強かったですから。
日:津和野町でいうと、図書館や書店などの「知の拠点」を復活させることが、文化と経済の両輪を支えると考えています。やはり本は強力ですよ。本には人と人とをつなぐ強い力があります。
三:Kindleじゃだめなんですか?
日:本という物体が人と人とをつなぐんですよ。Kindleはデジタル空間にしか存在しません。だからこそ、本を扱う物理的空間が人と人の関係性を新たに作り出し、地域再生や文化形成に重要な役割を果たす。そう考えています。
三:僕も出版プロデュースの会社を経営したり、読書会を運営する立場から、この発想にはとても共感します。
日:「採算がとれるのか」「売上はどうなのだろうか」ばかりの議論では、地域文化の再生や新規事業の芽は生まれづらいです。
経済をゴールにしてしまうとかえって経済が委縮し、おもしろみのない社会になる。お金や物にとらわれた思考をマルクスは「物象化」とよんでいますが、このような思考パターンは、経済のダイナミックな動きを抑制してしまいました。
三:未来のことに対して、採算や売り上げといった「過去に出た結果」が問い出されると、人は思考が停止しますし。
日:「この地域は30年後どうありたいか?」といった未来のイメージから逆算して考えるべきです。
本や文化的な活動は、観光・産業・教育などの土台になる。
資金面では、たとえば企業が共同で資金を出し合って地域に貢献するということも考えらえます。これをリターンばかりで測るとダメ。理念からスタートしたまったく新しい価値観をつくりだすことが必要です。
三:貨幣や物体に価値を置きすぎると、クリエイティブな力が生まれないですし、物象化にとらわれない人こそが高いパフォーマンスを発揮できるという点は、僕も会社を経営することで、ようやく実感できています。
目先を追うとたいてい失敗します。
言い換えると、求められるのは経営者の見守る力、踏ん張る力、ですね。
日:新しい価値観という意味で、若い世代の価値観にも目を向けています。世の意志決定者の多くを占める50〜60代のいわゆる「おじさん世代」は、物象化思考から抜け出せない。
若い世代はそういうロジックにうんざりしています。
世代間の価値観のギャップは対話しながら埋めていかなければなりません。
若者と文化に根差した新しい経済モデルが必要です。
三:経済ロジックに頼りすぎると本質を見失うし、目に見えない価値を信じることが大切。
日:本の文化は人と人とをつなげ、社会を変える力があると僕は信じています。
* * *
三:ところで、2024年11月にスイスの国際経営開発研究所(IMD)が発表した「世界デジタル競争力ランキング」で日本は31位という、G7先進国でほぼ最下位という惨憺たる結果でした。
しかし日本のITが文化として社会浸透することで、せめてこの10年で20位ぐらいにまで上昇すればいいな、と夢を抱きながら私は本をプロデュースする活動をしています。
日:20位とは言わず、3位以内にまで目指しましょうよ。社会を底上げする文化の力はそれだけ強力なものだと僕は信じています。
三:では、私の引退までに20位までに引き上げて、次は日渡さんにバトンをお渡しします。そこから一気に3位まで持って行ってやってください。
対談者紹介:日渡 健介(ひわたし けんすけ)
1986年茨城県生まれ。慶應義塾大学文学部卒。
大学時代に友人とはじめた読書会を15年にわたって継続。読書会による知的探求を通して、哲学をはじめ多様なテーマの研究に取り組む。
「概念思考」という独自のメソッドを開発し、リベラルアーツをビジネスに接続する研修を提供。2024年よりVOOXリサーチャーをつとめる。
三津田治夫
当社株式会社ツークンフト・ワークスがプロデュースさせていただいた『ゼロからわかるITほんき入門+マンガ 生成AIのなかみ』の重版が決定した。
本シリーズ第一弾の重版である。
著者の黒川なおさん、監修の橋本泰一さんの筆力やサポート力はもとより、マンガ家ヤギワタルさんのクリエイティビティ、そして大橋義一さんのブックデザイン、DTP・編集・校閲部隊、そして出版社の制作・営業部隊、全国書店の店員さんなど、全員の力が掛け算となって本に力を与え、多くの読者にご購入いただいた結果である。
生成AIを扱った競合書がこれだけある中で、本作が選ばれたのは上記の「掛け算」の力に他ならない。
この場を借りて厚くお礼を申し上げる。
各章に見開きでマンガをお描きいただき、ITのことがまったく分からない人、興味はあるのだが苦手意識が強い人にも、無理なく手に取り読み進めていただけるようなつくりになっている。
本シリーズを通して、1人でも多くの人がITに親しみを持ち、ITの面白さに興味を持っていただき、ひいてはITの世界に飛び込んでいただき、日本のIT産業・文化を支える一員になってもらいたい。
書店で本作を見かけたら、ぜひ手に取っていただきたい。
三津田治夫
当社、株式会社ツークンフト・ワークスがプロデュースさせていただいた新刊、『ビジネスリーダーのための意思決定の教科書』が読者から評価をいただき、発売後2週間で重版が決定した。
◎2025年4月23日付の日本経済新聞に掲載された広告
企画立ち上げ当初は、著者の川口荘史さんへ「「知」をテーマに「新しい知の流通」と「人の新しい知の在り方×テクノロジー」を書籍にまとめることはできないか」、という依頼をしたことが発端だった。
企画や本づくりに関する川口さんのブログ記事は、以下noteに掲載されている。
著者視点による本づくりの裏側が見え、また著者が本作を書いた意図や企画の根底に横たわる考えを知ることができる貴重な記録である。興味のある方はぜひ読んでいただきたい。
本作が発刊されるまでに、川口さんご自身の会社での立ち位置が変わり、同時に世の中も大きく変化した。
世の中の変化の最たるものが、ビジネスに生成AIが導入されたことだ。それに伴い、「知」の再定義が起こったことだ。
こうした変化に直面し、川口さんとの議論と本づくりの中で日々確信を深めたものは、「人間にしかできないことは意思決定だ」という、本作を通し読者に伝えたいことの核心だった。
生成AIの台頭で恐怖や戸惑いに襲われる人々は少なくない。ビジネスにおいては「仕事が奪われる」という危機の声をいまだに耳にする。
そうした声への回答の1つが、本作『ビジネスリーダーのための意思決定の教科書』である。
生成AIが出してきた提案のどれを選択するかは、人間の意思を通してのみ決定できる。
ビジネスにおいては、どんな根拠で意思決定がなされたのかを、人間が組織とコミュニケーションをとり、人間の言葉で伝えていかなくてはいけない。
言い換えると、人間は意識して意思決定をし、意識してその根拠を伝える必要があるのだ。
生成AI時代の中で、人間的に考え、生きるための手がかりとして、『ビジネスリーダーのための意思決定の教科書』を、ぜひ手に取っていただきたい。
三津田治夫