美暴録(National Degital Library) (original) (raw)
哲学は基本的にはソクラテスのかたちしかないと思うのです。十人か二十人かを相手に向かってしゃべる。そこで、あのひとがしゃべっていることは基本よくわからないけれど、パッと世界が開ける感じがしないでもない、ということになって、だんだんひとが集まってきたりする。記録されてもされなくてもどうでもいい。そしてなにか知識が蓄積していくものでもない。そういう行為はどのような時代にもあって、そのようにふるまうひともいる。そのうちのだれかがすごくすぐれているわけではないけれど、たまたま歴史に残ったひとはいて、哲学の伝統というのは要はそういうものでしかないのではないか。おそらく哲学とはそういうものでしかない。
ぼくには公共性がない人間でも社会をうまく回すにはどうしたらよいかという社会思想史的なテーマがあるといえばあって、いちおうそれに関心を持ち続けているのだけど、さらに本質的なところにいくと、ほんとうはそれすらどうでもいいんですよね。というか、ぼくには公共性がそもそもないんだから、そんな問題意識も持てるはずがない。そして哲学もそもそも公共的な役割なんてない。大切なのはよりよく生きることだけです。究極的にはそれに関わるようなことがやりたいなと思っています。
ぼくは、有用性がないということ、役に立たないということに戻りたい。それに人間とはそもそもなにかといったら、究極的には全員有用性なんてない。多くの人たちは有用性の中でいきているけれど、それ自体が錯覚なんですよ。
本当は批評というジャンルは存在せず、したがって批評史などというものも存在しないんですよ。……危機的な局面において人々の頭を解きほぐす行為としてしか批評は存在し得ないわけですから。
危機の言葉としての批評は、あくまでも健康を取り戻すためにあるわけですから、回復してしまえばもう批評は必要とされません。批評家は同じ顧客集団を相手にし続けることはできないし、そもそもそうすべきではない。批評は個別的な治癒のプロセスとしてしか存在しえないからこそ、批評家は孤独だし、批評史は存在しないんです。
国会図書館デジタルで読める本つづき
『カフカ全集1~12』(マックス・ブロート編集、新潮社、1980)
『フロイト/ユング往復書簡集 上・下』(ウィリアム・マグァイア編, 平田武靖訳、誠信書房)
『ミハイル・バフチン著作集』
『ロシア・アヴァンギャルド芸術 : 1910-1932』(リブロポート、1983)
『レニ・リーフェンシュタール : 芸術と政治のはざまに』(グレン・B.インフィールド 著, 喜多迅鷹, 喜多元子 訳)
『Nuba』(レニ・リーフェンシュタール写真, ピーター・ビアード, 虫明亜呂無 文、PARCO出版)
『Matisse』(アンリ・マチス [画], ジョン・ヤコブス 解説, 島田紀夫 訳、美術出版社)
『ラスプーチン』(コリン・ウィルスン、サンリオSF文庫)