『春期限定いちごタルト事件』米澤穂信 地味に静かに暮らしたい!「小市民」シリーズの一作目! (original) (raw)
祝『冬期限定ボンボンショコラ事件』刊行と言うことで、「小市民」シリーズの旧記事をアップしていきます。
米澤穂信の「小市民」シリーズ
2004年刊行作品。『氷菓』『愚者のエンドロール』『さよなら妖精』に続く、米澤穂信の四作目。米澤穂信が東京創元社向けに書き下ろした新シリーズである。本シリーズは全て文庫版となっており、単行本版は存在しない。
本作は「小市民」シリーズと呼ばれ、その後2006年に『夏期限定トロピカルパフェ事件』2009年に『秋期限定栗きんとん事件(上下巻)』そして、2020年に11年ぶりの新作『巴里マカロンの謎』が上梓、更に2024年に完結編となる『冬期限定ボンボンショコラ事件』が刊行されている。
このシリーズが書かれ始めたころは、米澤穂信は駆け出しの新人作家であったから文庫からスタートというのも納得感のある話だったが、ここまで人気作家となってしまうと、版元的にまずは単行本で出したくなるよね。安く読めるから読者的にはありがたいけど。
表紙イラストは片山若子が担当。水彩画による独特のタッチが実に味わい深く、もはやこのシリーズには欠かせない存在となっている。
あらすじ
諸般の事情から地味な高校生活を指向する小鳩君と小佐内さん。しかし彼らの前には何故か不思議な事件ばかりが舞い込んでくる。それは無くなったポシェットの行方だったり(羊の着ぐるみ)、残された一枚の絵の謎解きだったり(For your eyes only)、美味しいココアの入れ方の探求だったり(おいしいココアの作り方)、試験中に落ちた瓶の謎(はらふくるるわざ)と様々だ。そして盗まれた小佐内さんの自転車。事件は意外な展開を遂げていくことになる(狐狼の心)。
逆高校デビュー?の二人が主人公
中学時代を地味に過ごした人間が、高校からいきなり社交的な人物を演じ、外見や性格を改善して、華やかな高校生活を謳歌しようとする姿を「高校デビュー」と呼ぶ。しかし、本作はその逆なのである。
小賢しさが極まってウザイ男になってしまった小鳩常悟朗(こばとじょうごろう)と、執念深さが度を過ぎて危険な少女になってしまった小佐内(おさない)ゆき。中学時代に本性のままに行動してしまい、深刻なトラウマを負った二人の主人公は、せめて高校時代は「小市民」として地味に静かに暮らしていこうとする。
しかし、生まれついた性格を矯正することは難しく、ふと油断すると地の自分が顔を出してしまう。このあたりの匙加減が面白いところで、古典部シリーズに比べるとややコメディタッチに描かれている。
本作は連作短編の構成をとっており、五編の短編作品で構成されている。各編はいちおう独立したストーリーとなっているが、すべて合わせて読むことで大きな一つの物語が完成する仕掛けである。
では、例によって各編ごとにコメント。
羊の着ぐるみ
「小市民」シリーズ、記念すべきファーストエピソードは女子生徒(吉口さん)の消えたポシェットをめぐる物語である。小鳩くんの小学校時代の友人、堂島健吾(どうじまけんご)が初登場。
「小市民」の星を目指しているのに、溢れ出んばかりの自己顕示欲を封印できず、やっぱり推理してしまう小鳩くんが可笑しい。「推理したのね」とすかさず突っ込む小佐内さんがいい感じである。「羊の着ぐるみ」のタイトルは、本来の自分を隠して「小市民」化している主人公二人のことを暗示しているのだろう。
お互いを「逃げる時の言い訳にしていい」とまで決めた二人の中学時代に何があったのか、この時点ではまだ明かされていない。
でも、この二人、傍から見たら、どうしたって付き合ってるようにしか見えないよね。
For your eyes only
タイトルの「For your eyes only」は「あなただけに」的な意味合いかな。美術部OBが描いた、世界で一番高尚な絵『三つの君に、六つの謎を』の謎にまつわるお話。
『春期限定いちごタルト事件』全体を貫く、サカガミによる、いちごタルト強奪事件が始まっており、こちらは連作形式で少しずつエピソードが進行していく。
ちなみに、絵を描いた大浜先輩の普段の画風は高橋由一風ということなので、高橋由一の代表作「鮭」をwikipedia先生から引用。でも、今回の絵はこれとは全くスタイルが異なるパステルタッチの作品であったようだ。
今が最高!という一瞬があったとして、それを本来評価しうる存在に届けることができなかったとしたら?最高の瞬間も時を経てしまえば色褪せてしまう。「ゴミなのね」と絵を引き裂いてしまう勝部先輩の嘲笑めいた笑みが読後感を苦々しいものにしている。
サカガミに奪われてしまった「春期限定いちごタルト」もまた、最高の瞬間を賞味されることがなかった失われた存在を意味しているのであろう。
おいしいココアの作り方
堂島健吾と、その姉、千里が登場。おいしいココアの入れ方(淹れ方ではダメなのである)をめぐるエピソード。
小佐内さんの変装癖や、カメラ付き携帯への機種変。泥棒に入られた五百旗頭(いおきべ)さんの話がさりげなく配置されており、その後の伏線となっている。
ところで、健吾はどうして小鳩くんを家に招いたのか?小学校時代から全く変わってしまい「小市民」となり果ててしまった小鳩くん。その違和感を払拭するためだったのか?
ちょっと油断するとすぐに「知恵働き」をはじめてしまう小鳩くん。本来の自分に戻ろうとする動きを、小佐内さんは決して縛らない。互恵関係にはあるが、依存状態ではない。この二人の関係性が見て取れるお話である。
はらふくるるわざ
試験中に落ちた栄養ドリンクの瓶。その意味は?収録作品中でも特に短い、20頁程度の小品。最終エピソードである「狐狼の心」へとつながる導入編のような内容になっている。
タイトルの「はらふくるるわざ」は兼好法師の『徒然草』の第19段が典拠。進学校の生徒はこういう引用がスラスラでてくるから怖ろしい。
原文
おぼしき事言はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝあぢきなきすさびにて、かつ破やり捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。
現代語訳
思ったことを言わないで我慢すれば、お腹がふくれて窒息してしまうに違いないからだ。
小佐内さんは思うことはあるのだろうが、まだ多くを語ろうとしない。しかし言いたいこと、したいこと、本来の自分を抑えて生きるのはつらいものである。その後の小佐内さんの行動を暗示する意味深なやり取りと言える。
狐狼の心
本作の最終章であり、メインエピソードでもある。盗まれた小佐内さんの自転車。犯人であるサカガミの謎の行動。果たしてその真意は?
小佐内さんに迫る危機?堂島健吾に助けを求める中で、小鳩くんの抑圧されてきた心情が初めて吐露される。
人が真剣に思い悩んできたことに外部から口を出して、いとも簡単に解決してしまう。しかし、それは必ずしも歓迎されることではない。「下らない思いをするぐらいなら、無芸で現状に満足する」。賢しらに振舞うことで受けてきた、小鳩くんの心の傷は相応に深いのであろう。しかしそのポリシーも、小佐内さんの危機には撤回せざるを得ない。「前のお前は嫌なやつだったが、俺は、嫌いじゃなかった」とまで言ってしまう、健吾がいい人すぎる!
そして、これまで明かされてこなかった小佐内さんの真の姿が明らかになる。執念深く、受けた屈辱はかならず報復を行う。しかしその背景事情までは細かく描かれず、これは今後のシリーズ続巻までお預けとなっている。
なお、このエピソードのメイントリック(というかオチ?)にもなっている、小鳩くんのケータイ(ガラケー)が画像表示できなかったという状況。刊行当時ならいざ知らず、いまの読者にどれだけ伝わるか微妙なところである。画像が表示できない携帯端末なんてあるの?と、あと10年も経過すると、完全に意味が通らなくなってくるかもしれない。
小鳩くんと小佐内さんが食べたもの
スイーツ描写の数々は本シリーズの魅力の一つでもある。せっかく再読したので、本作で小鳩くんと小佐内さんが、作中で飲み食いしたものをまとめてみた。
お気に入りの喫茶店(羊のきぐるみ)
小鳩くん:コーヒー
小佐内さん:レモネード いちごタルト
新しいクレープ屋(羊のきぐるみ)
小鳩くん:チョコバナナクレープ
小佐内さん:アップルジャムクレープ
アリス(For your eyes only)
小佐内さん:春季限定いちごタルト(サカガミに盗まれて食べられず)
堂島健吾宅(おいしいココアの作り方)
小鳩くん・小佐内さん:おいしいココア
ハンプティ・ダンプティ(はらふくるるわざ)
小鳩くん:コーヒーとモンブラン
小佐内さん:コーヒー、スタンダードシフォン、ミルフィーユ、パンナコッタ、ストロベリーショート、パンプキンプディング、ベイクドチーズケーキ、タルト、ティラミス
適当な喫茶店(エピローグ)
小鳩くん:モーニング(トースト)
小佐内さん:モーニング(ホットケーキ)
余談「小市民VS古典部」編が読みたい!
千反田えるVS小佐内さんみたいな話、読んでみたい!何かの誤解から、千反田に復讐しなくては!と思い込んでしまった小佐内さんを、不承不承助けてしまう小鳩くんと、成り行きから千反田のガードにまわる奉太郎!みたいなやつ。後半は、より大きな巨悪が出てきて、小市民&古典部で協力して事件の謎を解く的な展開を希望。同人作品で誰か書いていないかしらん。
コミカライズ版はオリジナルエピソード追加
本作のマンガ版が2008年に登場している。作画は饅頭屋餡子(まんじゅうやあんこ)。初出はスクウェア・エニックスのマンガ雑誌月刊「Gファンタジー」で、前編が2007年5月、9~10月、12月号分、後編が2008年4月、8月、11~2009年1月号。おおむね原作に忠実なコミカライズだが、オリジナル短編の「小市民の休日」が追加されている。『三つの君に、六つの謎を』をビジュアルで確認できるのも楽しい。
また、原作になかった要素として米澤穂信による「あとがき」が前後編、それぞれに追加されている。
前編のあとがきには「頓悟」型の名探偵と、「斬悟」型の名探偵についての見解が示され、前者が小鳩常悟朗であり、後者は折木奉太郎であるとしている。瞬時に結論に到達してしまう「頓悟」型は、作品構成上扱いが難しい。そんな「頓悟」型の特性を生かすために書かれたのが「小市民」シリーズであるらしい。なるほど。
後編のあとがきでは、米澤穂信による「職業としての小市民」が提示されているが、これはマックス・ウェーバーの『職業としての学問』のパロディだろうか(無学なのでよからず……。)
〇古典部シリーズ
『氷菓』/『愚者のエンドロール』/『クドリャフカの順番』/ 『遠回りする雛』/『ふたりの距離の概算』/『いまさら翼といわれても』 / 『米澤穂信と古典部』
〇小市民シリーズ
『春期限定いちごタルト事件』/『夏期限定トロピカルパフェ事件』 / 『秋期限定栗きんとん事件』 / 『巴里マカロンの謎』 / 『冬期限定ボンボンショコラ事件』
〇ベルーフシリーズ
〇図書委員シリーズ
〇その他
『さよなら妖精(新装版)』/『犬はどこだ』/『ボトルネック』/『リカーシブル』 / 『満願』 /『儚い羊たちの祝宴』 / 『追想五断章』 / 『インシテミル』 / 『Iの悲劇』 / 『黒牢城』 / 『可燃物』