外務省スパイ事件とは - わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)

外務省スパイ事件(がいむしょうスパイじけん)とは、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)によるスパイ事件[1][2][3]1967年昭和42年)11月23日摘発(検挙)[1][2][3]在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)傘下の在日本朝鮮人商工連合会幹部(政治部副部長)であった北朝鮮工作員の李在元こと李載元(当時37歳)が外務省欧亜局東欧課の職員を情報源として獲得し、およそ1年間にわたり外務省保管の機密資料を入手した[3]

概要

李載元は1956年(昭和31年)3月、法政大学を卒業後、東京大学農学部研究室に籍を置いた経歴を有している[3]1963年(昭和38年)3月、それまで勤務していた群馬朝鮮初級学校の教員を辞職して在日朝鮮人商工団体連合会に勤務することとなり、1966年ころから、名目上は同連合会に籍を置きながら、朝鮮商工新聞社を拠点として対南工作にたずさわるようになった[1][2][3][注釈 1]

李載元は、1966年9月ころ、法政大学在学中に知り合った友人Dが外務省国際資料調査課に勤務していることを知り、Dから外務省保管の秘密資料を入手することを企て、旧交を温める口実で酒宴をひらいて彼を招き、金銭をあたえて秘密資料の提供を受けた[3][注釈 2]。その後、Dは欧亜局東欧課の事務官に異動となったが、李載元は毎月1回か2回程度酒食で彼をもてなし、月額2万円程度の現金を謝礼として手渡して多数の極秘情報を入手した[3][注釈 3]

警視庁は、1967年11月16日にDを、11月23日に李載元を、それぞれ逮捕した[3]

Dは、1968年8月6日東京地方裁判所において、国家公務員法違反、横領および業務上横領の罪で懲役1年6カ月、執行猶予5年の判決を受けた[2][3]

李載元は、1969年3月18日東京高等裁判所において、国家公務員法違反、横領教唆、業務上横領教唆、贓物収受で懲役1年の判決を受けた[2][3]1970年(昭和45年)、李は北朝鮮に自費出国した[2]

脚注

注釈

  1. ^ 群馬朝鮮初級学校は1964年4月1日に中級部を併設している[4]
  2. ^ 李載元がDと知り合ったのは朝鮮文化研究会のサークル活動を通じてであった[3]
  3. ^ 欧亜局は2001年1月に改組され、それ以降、東ヨーロッパは外務省欧州局の担当となっている。

出典

  1. ^ a b c 清水(2004)p.219
  2. ^ a b c d e f 高世(2002)p.301
  3. ^ a b c d e f g h i j k 『戦後のスパイ事件』(1990)pp.75-76
  4. ^ 学校法人群馬朝鮮学園 群馬朝鮮初中級学校「学校案内」

参考文献

関連文献

日本における北朝鮮スパイ事件
1950年代 第一次朝鮮スパイ事件 第二次朝鮮スパイ事件 第三次朝鮮スパイ事件 第3鎮海丸事件(幻のスパイ団事件) 富田商会事件 弘昇丸事件 国府台事件 新光丸事件 第四次朝鮮スパイ事件 滝事件
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1970年代 不審船発砲事件 八王子事件 石原事件 加賀市沖不審船事件(篠原新町事件) 足立事件 温海事件 2児拉致事件 水山事件 中川事件 北総事件 切浜事件 文世光事件 在日韓国人スパイ事件 鶴見寺尾事件 濁川事件 布施事件 豊島事件 宇出津事件 アベック失踪事件 アベック拉致未遂事件 日本人拉致事件
1980年代 水橋事件 磯の松島事件 辛光洙事件 伏木国分事件 日向事件 六郷事件 男鹿脇本事件 西新井事件 日向灘不審船事件 東明商事ココム違反事件 夢見波事件 渋谷事件
1990年代 美浜事件 能登半島沖不審船事件(日本海不審船追跡事件)
2000年代 新宿百人町事件 九州南西海域工作船事件(奄美沖不審船銃撃事件) 東中野事件 布施寿町事件 北朝鮮タンクローリー不正輸出事件 直流磁化特性自記装置不正輸出未遂事件
2010年代以降 朝鮮学校問題に係る在日スパイ被疑事件
関連項目 北朝鮮工作員 対日有害活動 背乗り 土台人 洛東江 (秘密工作機関) ユニバース・トレイディング 清津連絡所 元山連絡所 南浦連絡所 大町ルート 北朝鮮による日本人拉致問題 国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案