小笠原長重とは - わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)

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凡例小笠原 長重
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 慶安3年5月7日1650年6月5日
死没 享保17年8月1日1732年9月19日
改名 兵助(幼名)→長重
別名 采女(通称)、峰雲(号)
戒名 竺仙院英嶽崇雄居士
墓所 東京都文京区本駒込龍光寺
官位 従五位下佐渡守従四位下侍従
幕府 江戸幕府小姓、寄合旗本、御書院番番頭、奏者番寺社奉行京都所司代老中
三河吉田藩主→武蔵岩槻藩
氏族 小笠原氏
父母 小笠原長矩菅沼定芳の娘養父:_小笠原長祐_
兄弟 長祐長重
正室:**細川興隆の娘**
長道、**長煕**養子:_養女_(本多助芳継室)
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小笠原 長重(おがさわら ながしげ)は、江戸時代前期から中期の旗本譜代大名老中三河吉田藩第4代藩主、のち武蔵岩槻藩初代藩主。忠知系小笠原家4代。

生涯

慶安3年(1650年)5月7日、三河吉田藩第2代藩主・小笠原長矩の次男として生まれた。

寛文4年(1664年)3月22日、江戸幕府4代将軍徳川家綱に謁見し、以降は譜代大名の次男坊として幕府に出仕した。寛文10年(1670年)7月11日に中奥小姓に就任し、12月28日には切米500俵を支給された。寛文12年(1672年)4月25日に御側小姓に移り、12月28日に従五位下佐渡守に叙任された。延宝5年(1677年)11月6日、延寿国吉の刀を賜った。延宝8年(1680年)に将軍家綱が薨去すると職を免ぜられ、一時寄合旗本に列したが、天和元年(1681年)7月6日には御書院番の番頭として復帰した。天和2年(1682年)5月21日、切米1000俵を加増されて都合1500俵となる。

貞享2年(1685年)7月9日、三河吉田藩第3代藩主である兄・小笠原長祐の子の長千代が早世し、長祐自身も病がちであったため急遽養子となり、12日に支給されていた1500俵を幕府に返還した。元禄3年(1690年)6月17日、兄・長祐が死去したことにより遺領を相続、同年10月10日に三河吉田藩4万5000石の第4代藩主となった。

幕府内の役職では、元禄3年(1690年)12月3日に奏者番寺社奉行となり、元禄4年(1691年)閏8月26日に京都所司代に就任する。また、この時に従四位下侍従の官位を受けた。同年10月10日、任務で京都へ赴く際に5代将軍・徳川綱吉から備前兼長の刀と時服五領、羽織一領、黄金二十枚を賜った。同年11月25日、はじめて参内して東山天皇に拝謁し、天盃を下賜された。元禄10年(1697年)閏2月6日には有栖川宮幸子女王の入内があり、天皇からその慶賀として京都所司代としては異例の従四位上へ昇進させてもよいという叡慮があったが、長重は拝辞している。4月19日、京都所司代として在京のままで幕府から老中の任命を受けた。また、武蔵岩槻へ1万石加増転封された。

また、元禄15年(1702年)12月14日、赤穂浪士による討ち入りの前日に開かれた吉良家茶会には主賓として出席している。宝永2年(1705年)8月27日、江戸城西の丸に入った6代将軍・徳川家宣に従って西の丸老中に転じ、1万石加増で都合6万石を知行する。

宝永6年(1709年)5月18日、眼病のため職を辞した。更に宝永7年(1710年)5月18日には隠居し、嫡男の長煕に家督を譲る。ところが、享保期になると8代将軍・徳川吉宗は支持基盤強化のために譜代大名、老中経験者たちの前官礼遇という形をとり、隠居していた酒井忠挙稲葉正往と共に前代の遺老・学識豊かな経験者として特に優遇された。長重にも時々登城して御用部屋(老中の執務室)に顔を出すように指示があった。享保7年(1722年)7月22日、将軍・吉宗から鷹狩で捕獲したを下賜された。

享保17年(1732年)8月1日に江戸で死去。享年83。愛知県豊橋市臨済寺に廟がある。

剣術

大名ながら、若い頃から新陰流小野派一刀流を学んだ剣術の達人で、その剣風は「手強風」と呼ばれて恐れられたという。また、家宣政権では、綱吉時代に廃止された新陰流と一刀流の年始の稽古はじめの儀式や、御前での演武などの儀式の復活に尽力した。宝永6年(1709年)には辻月丹に入門し無外流も修行した。

経歴

官歴

系譜

父母

正室

子女

養女

京都所司代
17世紀 奥平信昌1600-1601 板倉勝重1601-1619 板倉重宗1619-1654 牧野親成1654-1668 板倉重矩1668-1670 永井尚庸1670-1676 戸田忠昌1676-1681 稲葉正往1681-1685 土屋政直1685-1687 内藤重頼1687-1690 松平信興1690-1691 小笠原長重1691-1697 松平信庸1697-1714
18世紀 水野忠之1714-1717 松平忠周1717-1724 牧野英成1724-1734 土岐頼稔1734-1742 牧野貞通1742-1749 松平資訓1749-1752 酒井忠用1752-1756 松平輝高1756-1758 井上正経1758-1760 阿部正右1760-1764 阿部正允1764-1768 土井利里1769-1777 久世広明1777-1781 牧野貞長1781-1784 戸田忠寛1784-1789 太田資愛1789-1792 堀田正順1792-1798 牧野忠精1798-1801
19世紀 土井利厚1801-1802 青山忠裕1802-1804 稲葉正謖1804-1806 阿部正由1806-1808 酒井忠進1808-1815 大久保忠真1815-1818 松平乗寛1818-1822 内藤信敦1823-1825 松平康任1825-1826 水野忠邦1826-1828 松平宗発1828-1832 太田資始1832-1834 松平信順1834-1837 土井利位1837-1838 間部詮勝1838-1840 牧野忠雅1840-1843 酒井忠義1843-1850 内藤信親1850-1851 脇坂安宅1851-1857 本多忠民1857-1858 酒井忠義1858-1862 松平宗秀1862 牧野忠恭1862-1863 稲葉正邦1863-1864 松平定敬1864-1867