東山天皇とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 (original) (raw)
東山天皇 | |
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第113代天皇 | |
在位期間1687年5月6日 - 1709年7月27日貞享4年3月25日 - 宝永6年6月21日 | |
即位礼 | 1687年6月7日(貞享4年4月28日) |
大嘗祭 | 1687年12月20日(貞享4年11月16日) |
元号 | 貞享元禄宝永 |
時代 | 江戸時代 |
征夷大将軍 | 徳川綱吉 |
先代 | 霊元天皇 |
次代 | 中御門天皇 |
誕生 | 1675年10月21日(延宝3年9月3日) |
崩御 | 1710年1月16日(宝永6年12月17日) |
陵所 | 月輪陵 |
追号 | 東山院(東山天皇) |
諱 | 朝仁 |
称号 | 五宮 |
元服 | 1687年3月6日(貞享4年1月23日) |
父親 | 霊元天皇 |
母親 | 松木宗子 |
中宮 | 幸子女王 |
子女 | 秋子内親王(伏見宮妃)一宮二宮寿宮慶仁親王(中御門天皇)福宮閑院宮直仁親王公寛法親王光明定院宮聖祝女王 |
皇居 | 平安宮(京都御所) |
親署 | ![]() |
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東山天皇(ひがしやまてんのう、1675年10月21日〈延宝3年9月3日〉 - 1710年1月16日〈宝永6年12月17日〉)は、日本の第113代天皇(在位: 1687年5月6日〈貞享4年3月25日〉- 1709年7月27日〈宝永6年6月21日〉)。諱は朝仁(あさひと)。幼名は五宮。追号の「東山」は陵所泉涌寺の山号にちなむ。
霊元天皇の第四皇子。母は内大臣松木宗条の女で霊元典侍の松木宗子(敬法門院)。
治世
東山天皇の治世は、朝幕間が融和し、また後水尾上皇以来の朝儀復興への努力が開花した時代であった。武家伝奏の人事権を幕府から朝廷に取り戻す嚆矢となり、皇室領はこれまでの1万石から3万石になり、朝廷は財政面でも著しく好転。 山陵(天皇陵など)の修補も行われた[1]。
生涯
霊元上皇による院政
天和2年(1682年)3月に儲君となり、12月に親王宣下があった。しかしこれは次期天皇として朝幕間で内定していた一宮(済深法親王)を大覚寺に入寺させての強引なものであった[2](小倉事件)。
天和3年(1683年)2月に直仁親王(崇光天皇皇太子、南朝により廃される)以来300年ぶりの立太子礼を経て皇太子となる。貞享4年(1687年)1月に元服し、同年3月21日に霊元天皇の譲位にともない践祚した。同年4月に即位式をあげた。さらに11月16日には長く廃絶していた**大嘗祭の儀式**を復活させた。この背景には朝儀復活や王政復古運動に尽力していた父の霊元天皇の意向が強く働いていた。霊元の活動はかなり強引であり、幕府や関白を軽視し、鷹司房輔が「所詮当時の躰、摂家滅亡なり、これすなわち朝廷大乱のあいだ」と嘆く状況であった[3]。
霊元上皇は東山践祚の後は院政を敷くつもりでいた。しかし幕府は譲位もなかなか認めようとせず、譲位にあたっても「東宮御即位以後御作法の儀、万事院御所尾御差し引き遊ばれるように、関白、両伝を持って申し上げられるべく候(皇太子が即位した後は霊元上皇は口出しを控えるように、関白と武家伝奏が申し上げるように)」と釘を刺した[4]。しかし、霊元は精力的に介入し、元禄7年まで天皇が行う儀式である四方拝を自らが行い、左大臣近衛基熙が「二主あるがごとし」と批判している[5]。
こうしたことから摂家・武家伝奏・議奏といった禁裏執行部からは元禄4年(1694年)以降度々政務移譲を迫られるようになったが、逆に霊元は皇室への忠誠を要求する誓詞に血判させ、彼らの憤激を買っている[6]。元禄4年4月23日には前関白一条冬経が朝廷政務に上皇が一切関わらないようにという勧告を行ったが、霊元上皇は重大事項には関与し続けるという意思を示している[7]。5月23日、近衛基熙邸にて関白・武家伝奏・議奏・京都所司代・禁裏附という京都における公武の代表者が一堂に会合を開き、改めて譲位後の院政は不可であり、関白が中心として朝廷運営を行うべきであるとする幕府の方針が確認された[8]。
この会合以降、霊元上皇は表向きでは政治的な発言を控えるようになるが、一方の東山天皇も元禄4年時点でまだ17歳であり、実際には当面の間は近衛基熙が朝廷の運営を行い、並行して京都所司代や禁裏付の支援を受けながら親政への移行準備を進めることとされた[9]。霊元上皇は表向きは反対をせず、元禄5年(1692年)には上皇から仙洞御所に持ち出された国史や記録を禁裏文庫に返還したいとの意向が示され、6月には仙洞御所にある文献の目録が天皇に贈られるが、朝廷内部より禁裏文庫の補修・増築の必要性が指摘されたために実際の返還は親政開始に合わせることになった[10]。元禄6年9月12日には天皇の親政開始を前提として議奏の追加(中御門資熙・久我通誠・清水谷実業)が行われている[11]。
ついに元禄6年(1693年)10月23日には、譲位後に霊元が政務に口出ししてはならないという将軍の意思を無視しているという抗議が幕府から行われた(ただし、前述のように院政は事実上停止しており、親政への移行作業には京都所司代なども関与している)。これを受けて11月26日には政務の完全な移譲が行われた。しかし霊元上皇は裏面からの介入を諦めようとははしなかった[12]。
親政期
東山天皇は父と対立した朝幕協調派の関白近衛基熙を信任しており、父の霊元上皇の介入を防ごうとしていた。元禄7年(1694年)4月には霊元派の議奏勧修寺経慶と清水谷実業を辞職させた[13]。さらに元禄10年(1697年)には母の松木宗子(敬法門院)の信任の厚かった議奏中御門資熙を更迭させるよう京都所司代松平信庸にはたらきかけているが、所司代の同意が得られず失敗している[13]。この背景として、江戸幕府や松平信庸は霊元上皇の影響力を排除するために、宗子や中御門資熙を親幕府派に取り込もうと働きかけていたこと(前述の勧修寺経慶・清水谷実業の辞職の際にも、彼らを辞めさせたのは宗子であるという説が信じられていた)[14]、また、当時の江戸幕府においても将軍の生母の桂昌院や側用人の柳沢吉保が絶大な権勢を振るっており、幕府が朝廷内において桂昌院や柳沢吉保と同じ立ち位置にある宗子や中御門資熙を支持は出来ても排除することが困難であったとする指摘もある[15]。摂家の反対を押し切って、有栖川宮幸仁親王の王女である幸子女王を入内させて正妃としての地位を確立させたのも、宗子の意向と言われている[16]。その宗子の片腕として動いていたのが「准后之執権」(『基熙公記』元禄11年5月4日条)の異名を持っていた中御門資熙であった。勧修寺経慶・清水谷実業の失脚後、蔵人頭(頭弁)を経験して朝廷実務に通じている議奏は中御門資熙のみであった。現任の関白を含む摂家や武家伝奏が天皇と公式に会見するためには事前に議奏を通じて天皇に申し入れる必要があったが、奏上・宣下に関する事務や会見の設定などは実務を理解している中御門資熙が一人で行っている状態であったために、中御門資熙の意向に沿わない案件については天皇に取り次がないもしくは天皇の意向を伝えないなどの振る舞いが可能であった(勿論、他にも天皇と廷臣の連絡経路は存在していたが、法的に有効な決定は行い得なかった)[17]。しかし、幕府側(特に京都所司代)はこの状況について天皇の恣意的行動を宗子や中御門資熙が制していると理解していたようで、正親町公通の日記『公通記』には、小笠原長重(松平信庸の前任)と松平信庸が東山天皇の行状の良さや親政の円滑ぶりは(宗子が後見し、中御門資熙が補佐している)現在の体制によるものと評価を述べていると記している(前者は元禄9年9月17日条、後者は元禄10年7月18日条)[18]。
しかし天皇は諦めず、大奥のルートを使って将軍徳川綱吉に直接働きかけた(近衛基熙と大奥上臈御年寄の右衛門佐局が縁戚になったことで天皇・中御門基熙と綱吉の間に非公式の意思伝達が可能になったことによる)。元禄12年(1699年)5月に中御門資熙に議奏を辞任させ、8月には幕府より逼塞の命を下させた。更に霊元派であった武家伝奏正親町公通の排斥も幕府に働きかけ、元禄13年(1700年)に辞職に追い込んでいる[19][20]。なお、中御門資熙の議奏辞任の直前には宗子と中御門資熙が東山天皇に代わって弟の京極宮文仁親王を擁立しようとしているという風説が流され、中御門資熙が処分された元禄12年8月には宗子の実母の東二条局(河鰭秀子)が宮中からの退出を命じられている。このため、翌年の正親町公通の辞職も含めて霊元派の排除と言うよりは幕府の信任を背景に形式的な「親政」を確立しようとする宗子派と実質的な「親政」の確立を目指す天皇派の対立とする見方もある[21]。
元禄14年(1701年)3月、東山天皇が江戸へ派遣した勅使の柳原資廉・高野保春の接待をめぐって接待役の赤穂藩主浅野長矩が指南役の高家・吉良義央に斬りかかり、浅野が即日切腹となるという松之大廊下の刃傷事件が発生する。
近衛基熙の日記によると、近衛基熙が東山天皇にこの凶事について報告をしたときの天皇の反応について「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」と記している[22]。ただ、のちに近衛や東山天皇が浅野家断絶に同情したり、赤穂義士の快挙に喝采した様子(日記への記載)は一切見られない。そのため、野口武彦は「武家同士の紛争もしくは幕府の不祥事を面白がったのだ」とする仮説を立てている[23]。また、「帰洛した勅使両名及び院使の清閑寺熙定の3人を、参内禁止の処分を行った」と記される。
宝永元年(1704年)6月、痰の持病のため灸治療を行いたいとして、5歳の姫宮(後の秋子内親王)への譲位を行いたい意向を伝えたが、幕府は東山治世の継続を願い許可しなかった[24]。天皇には8歳になる第三皇子(後の公寛法親王)がいたが、その実父が京極宮であるという噂が流され、疑いを抱いた天皇は元禄13年に第三皇子を寵愛する霊元や宗子の反対を無視して、円満院門跡にすることを決めて、事実上皇位継承から外していた。天皇は同年誕生したばかりの第四皇子の寿宮を次の天皇とする考えであったが、元禄14年(1701年)に寿宮が早世してしまった。しかし、その直後に第五皇子の長宮が生まれたことで、将来の皇位継承者とすべく長宮の成長を待っている状態であった。この段階で唯一成長していた第三皇子に代えて第五皇子を儲君にすることは小倉事件の再燃が危惧されるところであったが、天皇の意を受けた近衛基熙が幕府に対する説得をして同意を得ることに成功する[25]。
宝永4年(1707年)3月、長宮慶仁親王を儲君と定め、翌年立太子させた[26]。立太子直後より天皇から幕府に対して譲位の相談があり、幕府も一旦は同意していたが、宝永6年(1709年)1月に徳川綱吉が亡くなったために、幕府は新将軍である徳川家宣への将軍宣下後の譲位を求めた。武家伝奏や京都所司代による公式の交渉と並行して、近衛基熙と間部詮房の間でも秘密交渉が持たれた結果、綱吉の五十日の御忌が明けた後の5月に将軍宣下を行い、その後で譲位を行うことで合意をみた[27]。宝永6年(1709年)6月、譲位を行い、長宮が即位した(中御門天皇)。自ら院政を開始する意向があったと見られるが、その後まもなく天然痘にかかって崩御[26]。宝算36(満34歳没)。なお、その12日後には新天皇の生母の櫛笥賀子も同じ病で亡くなっている[28][29]。
系譜
東山天皇の系譜 |
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16. 誠仁親王 8. 第107代 後陽成天皇 17. 勧修寺晴子 4. 第108代 後水尾天皇 18. 近衛前久 9. 近衛前子 19. 宝樹院 2. 第112代 霊元天皇 20. 園基任 10. 園基音 5. 園国子 22. 谷衛友 11. 谷衛友の娘 1. 第113代 東山天皇 24. 花山院定熙 12. 松木宗保 6. 松木宗条 26. 広橋兼勝 13. 広橋兼勝の娘 3. 松木宗子 28. 持明院基久 14. 河鰭基秀 7. 河鰭秀子 |
系図
107 後陽成天皇 | ||||
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108 後水尾天皇 | 近衛信尋 | 高松宮(有栖川宮)好仁親王 | 一条昭良 | |
109 明正天皇 | 110 後光明天皇 | 111 後西天皇 | 112 霊元天皇 | |
有栖川宮幸仁親王 | 113 東山天皇 | 福子内親王 | 有栖川宮職仁親王 | 吉子内親王 |
正仁親王 | 114 中御門天皇 | 閑院宮直仁親王 |
后妃・皇子女
- 中宮:幸子女王(承秋門院)(1680年 - 1720年)
- 典侍:櫛笥賀子(新崇賢門院)(1675年 - 1709年)
- 典侍:冷泉経子(1678年 - 1755年)
- 掌侍:高辻(菅原)長豊の娘
- 第三皇女:光明定院宮(1707年、即日没)
- 第四皇女:聖祝女王(1709年 - 1721年) - 曇華院
直仁親王の子の鷹司輔平は鷹司家の養子となり、その子孫には大正時代の元老の西園寺公望もいる。
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある**月輪陵**(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
御製・宸筆
脚注
- ^ 米田雄介『令和新修 歴代天皇・年号事典』吉川弘文館、2019年8月20日、318頁。ISBN 978-4-642-08357-7。
- ^ 藤田覚, 2018 & Kindle版、位置No.全5609中 1645 / 29%.
- ^ 藤田覚, 2018 & Kindle版、位置No.全5609中 1622-1636 / 29%.
- ^ 藤田覚, 2018 & Kindle版、位置No.全5609中 1681 / 30%.
- ^ 藤田覚, 2018 & Kindle版、位置No.全5609中 1724 / 31%.
- ^ 藤田覚, 2018 & Kindle版、位置No.全5609中 1744-1754 / 31%.
- ^ 藤田覚, 2018 & Kindle版、位置No.全5609中 1764 / 31%.
- ^ 石田 2021, pp. 55–56.
- ^ 石田 2021, pp. 56–59.
- ^ 石田 2021, pp. 58–59.
- ^ 石田 2021, p. 59.
- ^ 藤田覚, 2018 & Kindle版、位置No.全5609中 1772-1785 / 32%.
- ^ a b 藤田覚, 2018 & Kindle版、位置No.全5609中 1980 / 35%.
- ^ 石田 2021, pp. 60–62.
- ^ 石田 2021, p. 63.
- ^ 石田 2021, pp. 61–62.
- ^ 石田 2021, pp. 63–66.
- ^ 石田 2021, pp. 67–68.
- ^ 藤田覚, 2018 & Kindle版、位置No.全5609中 1994 / 36%.
- ^ 石田 2021, p. 68.
- ^ 石田 2021, pp. 68–71.
- ^ 「『応円満院基煕公記』百五十二(元禄十四年自正月至三月)」。
- ^ 野口武彦「城明渡し―一家離散―潜伏」『忠臣蔵 赤穂事件・史実の肉声』筑摩書房、1994年。
- ^ 藤田覚, 2018 & Kindle版、位置No.全5609中 2100-2109 / 37-38%.
- ^ 久保 1998, pp. 170–173.
- ^ a b 藤田覚, 2018 & Kindle版、位置No.全5609中 2109 / 38%.
- ^ 久保 1998, pp. 173–176.
- ^ 久保 1998, pp. 176–177.
- ^ 石田俊(著)、朝幕研究会(編)「近世の天皇・朝廷研究 第三回大会成果報告書」、2010年。 /所収:石田 2021, p. 79
- ^ 紙本墨書掛幅装「東山天皇」(香川県立ミュージアム)
- ^ 重要文化財・指定年月日:1944年9月5日
参考文献
- 宮内省図書寮 編『東山天皇実録』ゆまに書房、2006年。ISBN 4-8433-2032-3。
- 藤田覚『天皇の歴史6 江戸時代の天皇』講談社〈講談社学術文庫〉、2018年。ISBN 978-4065116401。
- Kindle版:ASIN B07CZCXLZB, 天皇の歴史6 江戸時代の天皇 (2018年5月)。
- 石田俊「元禄期の朝幕関係と綱吉政権」『日本歴史』725号、2008年。 /所収:石田俊『近世公武の奥向構造』吉川弘文館、2021年、53-76頁。ISBN 978-4-642-04344-1。
- 久保貴子『近世の朝廷運営 ―朝幕関係の展開―』岩田書院、1998年。ISBN 4872941152。
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、**東山天皇**に関連するカテゴリがあります。
東山天皇 ![]() |
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日本の皇室 | ||
先代霊元天皇(識仁) | **皇位![]() |
次代中御門天皇(慶仁) |
表話編歴![]() ![]() |
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伝承の時代古墳時代 | 1 神武天皇 2 綏靖天皇 3 安寧天皇 4 懿徳天皇 5 孝昭天皇 6 孝安天皇 7 孝霊天皇 8 孝元天皇 9 開化天皇 10 崇神天皇 11 垂仁天皇 12 景行天皇 13 成務天皇 14 仲哀天皇 15 応神天皇 16 仁徳天皇 17 履中天皇 18 反正天皇 19 允恭天皇 20 安康天皇 21 雄略天皇 22 清寧天皇 23 顕宗天皇 24 仁賢天皇 25 武烈天皇 26 継体天皇 507?-531? 27 安閑天皇 531?-535? 28 宣化天皇 535?-539? 29 欽明天皇 539?-571? 30 敏達天皇 572?-585? 31 用明天皇 585?-587? 32 崇峻天皇 587?-592? | ![]() |
飛鳥時代 | 33 推古天皇 592-628 34 舒明天皇 629-641 35 皇極天皇 642-645 36 孝徳天皇 645-654 37 斉明天皇 655-661 38 天智天皇 661-671 39 弘文天皇 671-672 40 天武天皇 673-686 41 持統天皇 686-697 42 文武天皇 697-707 | |
奈良時代 | 43 元明天皇 707-715 44 元正天皇 715-724 45 聖武天皇 724-749 46 孝謙天皇 749-758 47 淳仁天皇 758-764 48 称徳天皇 764-770 49 光仁天皇 770-781 | |
平安時代 | 50 桓武天皇 781-806 51 平城天皇 806-809 52 嵯峨天皇 809-823 53 淳和天皇 823-833 54 仁明天皇 833-850 55 文徳天皇 850-858 56 清和天皇 858-876 57 陽成天皇 876-884 58 光孝天皇 884-887 59 宇多天皇 887-897 60 醍醐天皇 897-930 61 朱雀天皇 930-946 62 村上天皇 946-967 63 冷泉天皇 967-969 64 円融天皇 969-984 65 花山天皇 984-986 66 一条天皇 986-1011 67 三条天皇 1011-1016 68 後一条天皇 1016-1036 69 後朱雀天皇 1036-1045 70 後冷泉天皇 1045-1068 71 後三条天皇 1068-1072 72 白河天皇 1072-1086 73 堀河天皇 1086-1107 74 鳥羽天皇 1107-1123 75 崇徳天皇 1123-1141 76 近衛天皇 1141-1155 77 後白河天皇 1155-1158 78 二条天皇 1158-1165 79 六条天皇 1165-1168 80 高倉天皇 1168-1180 81 安徳天皇 1180-1185 | |
鎌倉時代 | 82 後鳥羽天皇 1183-1198 83 土御門天皇 1198-1210 84 順徳天皇 1210-1221 85 仲恭天皇 1221 86 後堀河天皇 1221-1232 87 四条天皇 1232-1242 88 後嵯峨天皇 1242-1246 89 後深草天皇 1246-1259 90 亀山天皇 1259-1274 91 後宇多天皇 1274-1287 92 伏見天皇 1287-1298 93 後伏見天皇 1298-1301 94 後二条天皇 1301-1308 95 花園天皇 1308-1318 | |
南北朝時代 | 南朝 96 後醍醐天皇 1318-1339 97 後村上天皇 1339-1368 98 長慶天皇 1368-1383 99 後亀山天皇 1383-1392 北朝 北1 光厳天皇 1331-1333 北2 光明天皇 1336-1348 北3 崇光天皇 1348-1351 北4 後光厳天皇 1352-1371 北5 後円融天皇 1371-1382 | |
室町時代 | 100 後小松天皇 1382-1412 101 称光天皇 1412-1428 102 後花園天皇 1428-1464 103 後土御門天皇 1464-1500 104 後柏原天皇 1500-1526 105 後奈良天皇 1526-1557 | |
安土桃山時代 | 106 正親町天皇 1557-1586 107 後陽成天皇 1586-1611 | |
江戸時代 | 108 後水尾天皇 1611-1629 109 明正天皇 1629-1643 110 後光明天皇 1643-1654 111 後西天皇 1654-1663 112 霊元天皇 1663-1687 113 東山天皇 1687-1709 114 中御門天皇 1709-1735 115 桜町天皇 1735-1747 116 桃園天皇 1747-1762 117 後桜町天皇 1762-1770 118 後桃園天皇 1770-1779 119 光格天皇 1779-1817 120 仁孝天皇 1817-1846 121 孝明天皇 1846-1866 | |
近現代 | 122 明治天皇 1867-1912 123 大正天皇 1912-1926 124 昭和天皇 1926-1989 125 明仁 1989-2019 126 徳仁 2019- | |
前の数字は代数。南朝を正統とする。 名前の赤背景は女性天皇。 第37代斉明天皇は第35代皇極天皇の、第48代称徳天皇は第46代孝謙天皇の重祚。 後の数字は在位年。なお、江戸時代以前は日付までを考慮した厳密な和暦からの換算は行なっていない。 ![]() |