権田保之助ん家 (original) (raw)

法政大学の大原社会問題研究所で公開された権田保之助資料「第一回活動寫眞説明者講習会講習録」によると、大正10年(1921年)2月21日~28日に行われた「第一回活動寫眞説明者講習会」は、中田俊造が開会の辞を述べ、続いて権田保之助の活動写真劇の真美的観察」、星野辰男の「活動写真の技術的考察」、大島正徳の「国民道徳と現代思潮」、乗杉嘉壽の「社会教育と活動写真」、橘高広の「活動写真の取締について」、菅原教造の「説明者と講習」、乗杉嘉壽の閉会の辞という内容です。

書籍「活動写真弁士」(片岡一郎著、(株)共和国)によると、活動寫眞説明者講習会では講義だけでなく、朝日新聞社を訪問したり、懇話会を行ったりと実地研修科目も多数用意され、東京内外から集まった約100名の弁士が受講したようです。

また、大正10年(1921年)11月に発行された冊子「活動時報」では日本初の活動写真展覧会が開催されることが紹介されていますが、活動写真展覧会協賛会役員の中に、乗杉嘉壽、菅原教造、権田保之助、橘高広、星野辰男などがいます。権田保之助は「民衆娯楽としての活動写真」を文部省社会教育調査員として寄稿しています。
さらに、大正12年(1923年)~昭和2年(1927年)の関西弁士協会・説明者協会の会報と月報にて、権田保之助は「説明芸術の誕生」を、橘高広は「社会事業と活動写真」を寄稿しています。

権田保之助自宅の書斎にて(一番左が権田保之助、左から2番目が橘高広さん)

権田保之助の次男速雄氏が保管していた写真の中に、大正12年(1923年)12月12日に権田保之助自宅の書斎で橘高広と権田保之助が一緒に写った写真があります。

テーブル上の映画ポスター

テーブル上の映画ポスターに「・・大震火災・・」、「大グリフィス氏作 世界の心 リリアン、ドロシー・ギッシュ」の文字が読めます。
大正12年といえば関東大震災が起きた年。「・・大震火災・・」はドキュメンタリー映画『大震災記録:大震火災』(1923年)でしょうか、「東京大震火災の實寫」でしょうか。

映画チラシ「震災火災」(国立映画アーカイブより)

映画チラシ「東京大震火災の真実」(国立アーカイブより)

関東大震災を題材にしたドキュメンタリー映画
『震災と復興』(1923年)
『大正関東大震災記録』(1923年)
『大震災記録:大震火災』(1923年)
『帝都の大震災』(2013年)
関東大震災 1923年9月1日』(2023年)
関東大震災の記録と教訓』(日本映画新社)
関東大震災と都市復興』(東京大学地震研究所)

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また、権田保之助が渡欧する際に開かれた1924年夏の渡欧送別会に橘高広さんも出席しています。
橘高広と権田保之助は映画に関してきっと深く交流したのでしょう。

権田保之助の渡欧送別会(前列左から2番目が権田保之助、前列一番右側が橘高広)

権田保之助は、1939年(昭和14年)10月に発行された日本映画 第4巻第10号「映画法記念10月特別号」にて「映画劇出生陣痛期」を寄稿しています。

日本映画「映画法記念10月特別号」

その中で現代映画人にとってバイブルともいえる「活動写真劇の創作と撮影法」とその著者 帰山教正(かえりやまのりまさ)氏が何度も登場しているのが興味深い。というよりも、これは映画劇誕生にまつわる帰山教正氏のエピソードそのものです(驚き)。

以下、「映画劇出生陣痛期」の抜粋。

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・日本映画史における映画劇の誕生のための陣痛は随分長く続いたものだ。この陣痛期は大正4,5年頃に始まって9年までも続いたものであって、その面倒な産婆役を勤めたのがわが帰山教正君だったのだ。
・この間、帰山君に会った時にも話がでたが、一体「映画」という言葉が今日一般に使われているような意味で使われ出したのはそもそも何時頃からだったろうかと言うと、僕らが普通に考えているようなそんなに古いことではないようだ。
・日本における映画劇の創成に最も示唆に富んだ刺激を与え、没すべからざる原動力となったものは、帰山君が大正6年の夏に出版した「活動写真劇の創作と撮影法」だったと言える。
・帰山君をしてこの憤慨を一層大ならしめたものは、当時の外国映画が比較にならぬ程に立派な事であった。
・今でもなおその頃の映画ファンに懐かしい思い出となっている青鳥映画がどれ程帰山君の心を打ったことだろう。
・そこでこれらの鬱憤が遂に爆発したのが帰山君のあの著書だった。しかしこの帰山君の主張は当時中々一般の耳には入らなかった。
・ところがここに帰山君達に時節到来したのである。当時日活を向こうに廻して目覚ましい争覇戦を戦っていた天活は業界の新人によって時代に卓でようとして、帰山君に目を付け、その外国部員に招聘した。帰山君はここに青山杉作、近藤伊代吉、村田實等と共に映画芸術協会を設立して、いよいよ積年の宿題を成就しようと思い立った。
大正7年の夏クランクを始めた。映画は「生の輝き」と「深山の乙女」の2つ。花柳はるみが我が国最初の映画女優として出演したことが特に注意されてよい。
・この映画女優が初めて出演し、初めてスポークン・タイトルを使って、外国映画と同じ式に説明された純活動写真劇なるものはどんな反響を当時の映画界に与えただろうか?
世間はただポーとして狐につままれたような食い足りないような気持で、黙って引き下がっているのだった。そして「活動画法」という雑誌のある号の投書欄の隅っこに「深山の乙女はこれまでの様々な新派物よりも余程すぐれています」という6号活字の評言が出ただけで終わった。あまりにも無残な幻滅だ。
・けれど帰山君のこの苦心はやがて大正9年 松竹キネマが創立され、小山内薫氏を所長とする松竹キネマ研究所が設立されて映画劇がようやく一本立ちになるようになったことで報いられたのだった。

・そしてわが帰山君は?・・・昨夜「日本映画」の会合の後を君と2人並んで日比谷公園の傍を静かに歩いた。陰暦19日の月が中天に懸かって、映画技術者協会の健全なる発達を熱心に考えている帰山君の広い額を照らした。

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本文中に「わが帰山(教正)君」という記載が2か所あります。

帰山教正と権田保之助はきっと親しい映画仲間だったのでしょう。

七夕古書大入札会というイベントが毎年この時期に東京古書会館で開催されます。
文字通り、古書のオークションで、夏目漱石川端康成といった文豪の自筆原稿、手塚治虫赤塚不二夫など漫画家の原画、助監督が所持していた「ウルトラセブン」の台本、「メトロポリス」など戦前映画のチラシやパンフレット、浮世絵や新版画など貴重な古書を実際に手に取って見ることのできる貴重な機会なのです。

2年前の2022年7月開催の七夕古書大入札会では権田保之助の「民衆娯楽問題」他10冊と橘高広の「現代娯楽の表裏」他5冊の合わせて15冊が出品されていました。
購入しようかどうか少し迷いましたが、権田保之助の書籍はほとんど所持していたので購入は控えました。

権田保之助の民衆娯楽関連書籍他(2022年 七夕古書大入札会カタログより)

今思うと、所持していない書籍もあったので、迷わず購入しておけば良かったかも知れません。もちろんオークションですから希望しても購入できるとは限りませんが。

古書というのは不思議なもので一期一会だったりするんです。

一方で、古書は売買されて誰かが大切に保管し、いずれまた売買されて、他の人が大切に保管し、...を繰り返して、長きに亘って存在し続けていくように思います。
なので、いずれまたお会いすることもあるかも知れません。

古書店で、長年探していた古書に偶然出会うこともあります。
その時の喜びは格別です。
それだから古書店巡りはやめられないのかもしれません。

追記:オークションでは未だ購入したことがありません(苦笑)。

STOP MAKING SENSE(チラシ)

先日、40年ぶりにロックグループ トーキング・ヘッズの映画「ストップ・メイキング・センス」を映画館で観た。一場面一場面がとても懐かしかった。

STOP MAKING SENSE(40年前のチラシ)

前回は1985年に観ている。
そして1992年5月17日にNHKホールでデイヴィッド・バーンの日本公演を観ている。
おまけに映画「ストップ・メイキング・センス」のレーザーディスクを購入している。
当時はトーキング・ヘッズに夢中になっていたようだ。

STOP MAKING SENSE(レーザーディスク

ところが、肝心の「ストップ・メイキング・センス」の意味を未だに知らないことに気づいた(汗)。

映画の字幕では「意味をなさない」と訳されていたが、
映画パンフレットの解説では「道理にかなうことはやめろ」、「センスなんて関係ない」、「正気でいようとするのはやめろ」と解説者によってさまざまだ(苦笑)。
ちなみにGoogle翻訳すると「意味をなすのをやめなさい」と訳される。

いったいどれが正しいのか...

私が映画を観た感想では、
40年前に観たときは、何となく「頭で考えるな(体で感じろ)」といった感じで捉えたが、今回観たときは「道理にかなうことはやめろ」が一番近いように感じた。

米国に住んでいた経験のある知人に伺ってみたところ、「お行儀良くしていたら生まれないような音楽」といった程度の意味ではないか、とのことでトーキング・ヘッズがどういうグループでデイヴィッド・バーンがどういう人物かを理解した上でないと適切な翻訳はできないとのコメントがあった。

なるほど、
映画の字幕とパンフレットの解説が翻訳者によって異なるのは、翻訳が間違っているのではなく、翻訳者がそう捉えている、ということだ。

最近思うのだが、正解が1つだと決めつけてはいけないように思う。
いろいろな答えがあって良いのではないか。

いずれまた、この映画を観たときには、今とは異なる捉え方をするかも知れない。
だから面白いのだろう。

さて、大正時代に映画(活動写真)に魅了された権田保之助は、当時、映画をどう観たのか。
ヒントは、権田保之助がプライベートで書いた「映画鑑賞日記」にあるように思う。

「映画鑑賞日記」
https://yasunosukenchi.hatenablog.com/entry/2021/01/01/000031

(おまけ)
以下のサイトの最後の方に「デイヴィッド・バーンからのメッセージ」として
「観客を力づけるのは「ことば」じゃない。ステージ上のバンドを観て感じる、その体験だ。」
が書かれています。
ストップ・メイキング・センス」の意味のヒントが隠れているかもしれません。

そして、バーチャルなネット情報に溢れている現代において、
「頭だけで考えるな。体で感じろ」という大事なメッセージのように感じます。

https://hillslife.jp/culture/2021/06/25/a-chronicle-of-hope/

NHK連続テレビ小説「ブギウギ」から目が離せない。
笠置シズ子をモデルとしたドラマで、かなり現実に即しているようだが、ドラマティックに脚色しているところも多い。
視聴者はそれを承知でつい見入ってしまうのだろう。

笠置シズ子の恋人である吉本興業の吉本穎右は1923年(大正12年)生まれで、シズ子と出会った1943年(昭和18年)当時は20歳で、まだ早稲田大学の学生だった。
1945年(昭和20年)5月の東京大空襲で焼け出されたシズ子と穎右は荻窪のフランス人宅に間借りし、愛情溢れる生活を送った。
終戦後の1946年(昭和21年)10月、シズ子は妊娠する。
1947年(昭和22年)、肺結核が悪化した穎右は西宮の実家に戻って療養に専念するが、1月14日に東京駅で穎右を見送ったのが今生の別れとなってしまう。
5月19日、穎右が亡くなったとの報せが入る。
6月1日、シズ子は女の子を無事に出産する。
そしてシズ子は、服部良一に「センセ、頼んまっせ」と声をかけて新曲を依頼したそうだ。
服部はシズ子のために、苦境を吹き飛ばす華やかな再起の場を作ろうと決心し、何か明るいものを、心がうきうきするものを、平和への叫び、世界へ響く歌、派手な踊り、楽しい歌、それは、シズ子のためだけではなく、日本人の明日への力強い活力につながるかも知れないと考える。こうして「東京ブギウギ」が誕生するのです。

権田保之助は関東大震災(1923年9月1日)の前から東京都中野へ転居し、中野で終戦(1945年8月15日)を迎えました。
終戦当時、保之助には6人の子息がいましたが、当時15歳の5男は結核を患い、1948年10月に18歳という若さで亡くなってしまいました。
当時、結核は不治の病だったのでしょう。

NHK連続テレビ小説「ブギウギ」は、権田保之助の生きた時代と重なるようだ。

菱川師宣記念館の案内

菱川師宣記念館の入口

先週、千葉県鋸南町にある菱川師宣記念館へ行き、特別展「浮世絵美人 時代を彩る女性たちを描いた絵師」を観てきました。

鈴木春信、喜多川歌麿などの美人画の名品が並べられ、絵師たちも工夫しながら時代に適応した美人画を書き続けた様子が感じられました。
特に歌麿筆「松葉屋喜瀬川」の髪の毛の生え際の産毛の描写は何度見ても「素晴らしい!」のひと言でした。
何よりも美人画の名品を真近でゆっくりと、しかも出品者の解説を聞きながら観られるのが至福のひとときでした。
他にも、菱川師宣の「見返り美人図」、「石山寺紫式部図」、また江戸後期「源氏物語」のパロディ読物「偐紫田舎源氏」(にせむらさきいなかげんじ)の大ブームにより流行した錦絵「源氏絵」から、「其姿紫の写絵」全54枚シリーズが特別公開されています。

そして、菱川師宣が1694年(元禄7年)5月に保田の別願院に寄進した梵鐘(ぼんしょう)の拓本がありました。
梵鐘には師宣の家族の名前が刻まれ、故郷と家族への感謝が込められた貴重な資料でしたが、残念ながら太平洋戦争中、金属回収令により1943年(昭和18年)に供出されてしまい現存していません。
菱川師宣記念館前に復元された梵鐘が設置されています。

菱川師宣寄進の梵鐘(復元)

権田保之助は、1917年(大正6年)8月末に別願院を訪ねて、この梵鐘(実物)を観て、梵鐘に刻まれた文字を全文書き写しています。
詳細は浮世絵専門誌「浮世絵」第29号(大正6年10月発行)に掲載されています。

私が菱川師宣記念館で購入した冊子にも梵鐘に刻まれた全文書が掲載されているので見比べたところ、いくつかの文字が異なっていることに気づきました。
当時、権田保之助が書き写し間違えたのか、浮世絵専門誌「浮世絵」の原稿で誤植が生じたのか、菱川師宣記念館で購入した冊子の文字に何らかの間違いが生じたのか分かりません。
機会があれば、もう一度、梵鐘(ぼんしょう)の拓本を確認したいと思います。

(梵鐘文字の相違箇所)
浮世絵専門誌「浮世絵」 菱川師宣記念館の「冊子」

アマ千代清空也影 アマ千代清空西影
ヲイス 同妻妙木 ヲイヌ 同妻妙本
ヲカマ正勝寺室 ヲカマ正膳寺室

浮世絵専門誌「浮世絵」記載の梵鐘文字(その1)

浮世絵専門誌「浮世絵」記載の梵鐘文字(その2)

菱川師宣記念館の「冊子」記載の梵鐘文字

(追記)
その後、菱川師宣記念館の館長に知人から問合せをしていただいたところ、次のような返事が来ました。

「梵鐘の銘については権田氏の写し間違いと思われます。記念館には梵鐘銘の拓本(大正期に採拓)も展示しています。」
もし再度、来館されたら、記念館に展示されている梵鐘銘の拓本(大正期に採拓)を確認されることをお勧めいたします。

つまり、菱川師宣記念館の冊子は、大正期の梵鐘銘(実物)の拓本をもとに作成しているので間違いないとのことです。
大正6年に権田保之助が書き写し間違えたのか、浮世絵専門誌「浮世絵」の原稿で誤植が生じたのか、原因は定かではありませんが、浮世絵専門誌「浮世絵」第29号(大正6年10月発行)の記載に4か所の誤字があることが令和6年に発見されました(苦笑)。

アルセーヌ・ルパンという名前をご存じの方は多いと思います。
そう、ルパン3世のお祖父さん、怪盗ルパンです(笑)。

アルセーヌ・ルパンはモーリス・ルブラン(1864~1941年)というフランスの作家が1905年に生み出した怪盗です。

アルセーヌ・ルパンが日本で最初に紹介されたのは、1909年(明治42)に「サンデー」に掲載された「巴里探偵奇譚・泥棒の泥棒」(訳者:森下流仏楼)という作品で、ルパンは「鼬(いたち)小僧・有田龍三」となっていたようです。

(以下のサイトに詳しく掲載されています)
https://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/lupin/lupinjapon1.html

権田保之助も翻訳し、ドイツ語と日本語を対比した独和対訳形式の文庫『アルセーヌ・ルパンの冒険』を1929年に出版しています。

ルパンの代表的な翻訳者である保篠龍緒(本名:星野辰男)は、「日本映画の父」として知られる牧野省三が設立した「教育映画」の製作会社「ミカド商会」ならびに「牧野教育映画製作所」に対し、同社の顧問となった人物で、権田保之助も星野辰男とともに協力していたようです。

独和対訳小品文庫「第三冊 アルセーヌ・ルパンの冒険」(翻訳:権田保之助)