光明元年 (original) (raw)

昨年の冬頃からぼちぼち短歌を作っており、今年の短歌研究新人賞には初めて連作(数首から数十首の短歌を並べてひとまとまりの作品とする形式)を作って応募した。今後改作してどこかに出すこともなさそうなので、記録としてここに置いておく。

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before becoming bones

はだかになって磔になって強い白い光を浴びるビルの一室

仕事中に揺れても誰も顔を上げない私たちの皮剥げば骨

A4を超えない範囲の感想文 可処分時間の中で作る詩

このベンチいつも異様に鳩がいる みんな黒くて血走っている

三食を線で結んで一日を暮れさせたくなく一食を抜く

手帳には使わずに死ぬだろう札幌の路線図があるお守りにする

善人の車掌が痴漢防止の文言を朗々と読み上げる バリトン

密室で薄い酸素を分け合う私たちきっと立派な兵隊になる

防波堤 私がこの場で形をなくし誰かの土地を濡らさぬための

池袋駅に便は撒かれてそのひとのこころのなかの乙女の祈り

電車のゲロ改札の糞システムのバグわたしのからだのうえのアトピー

(剥き身では殺し合ってしまうわれわれが)かぶれるために纏わせる皮膚

正月のお笑い番組あと何回見られるだろう 死ぬのが怖い

生きるのがこわい何もないかもしれない中空に着地するのがこわい

床のしみ 産まれるあてのない子供 かつて犬死にした犬の名は

生き延びるではなく生きたい信号を守っても守れるのは信号だけ

泥濘をゆける体で墓碑銘をうつくしく推敲したりしないで

彗星のように訃報は巡りきて物言わぬ生者たちを照らした

触るための器官を備えた二人は触り合う 使い古されたやり方で

橋は落ちてこちらの岸では森が燃えて 熊に遭ってもいい、山に向かう

踊り場の慟哭ののちこの星の金色の産毛をつくづくと見る

人数分の豆を挽きながら粉骨の打ち合わせをする、挽歌、と思う

おまえの毛並みは海のようだねこの海はやさしい海だ 炎をあげる

やわらかい草がくすぐる 燦々と陽射しを浴びる白い白い骨

思いがけない日向 踊り場 光芒の野 すべての川は寛解に向かう

トートバッグに搦め捕られてみじめな身 これがないよりあるほうがまし

待合に船は来らず 誰からも頼まれていない出立の朝

道行きは青く沈んで分け合えない石と分け合うスパムおにぎり

この現実に帰化することに決めたから夢遊歩行もじき上手くなる

年賀状出すだけ出すよ返さなくていいから いまも修羅でいますか

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この連作を作っていた2024年の1月頃はこれまでの人生の中でも最も鬱々としていた時期で、今の時点から見返すとその感じがありありと出ていると思う。

しかし、こうして形に残すことでその頃の感覚を思い出すことができる。こうした記録は個人的には重要だ。

例えば、今日で私は30歳になったが、20代最後の日に何をしていたかなんて、すぐに思い出せなくなるだろうと思う。別にそれはそれでいい。実際、仕事して帰りに本屋に寄ってラーメン食べて少し日記を遡って付けたくらいだし。でも、20代最後の日に何をしていたかを忘れても、20代の日々が自分にとってどんな時間で、そこにどんな光や影や屈折があったのか、文字通りそれはどのような光陰だったのか、ということはおぼえていたいと思う。

そのために、短歌なり、日記なり、小説なり、フォーマットはなんでもいいが、自分なりのやり方で形にして残しておくことには代え難い意味がある。今後もぼちぼち続けていきたいと思う。

29年間生きてきてはじめて、自分の体という容れ物に魂がぴったりおさまって調和している感覚がある。それまで世界の中にバラバラに存在し私を混乱させたものたち、図書館のブラインドからさす光、時間的にも空間的にも離れたところで誰かが書いた一行、そうしたもののすべてが有機的に繋がり、世界が私に話しかけてきた。ただ生きていることがうれしい。

6月に医学書院の「ケアをひらく」シリーズから出る『安全に狂う方法 アディクションから掴みとったこと』という本が気になっている。

出版社のコピーは「愛と思考とアディクションをめぐる感動の旅路!」。良すぎる。ちなみにこの本の元になったと思われる雑誌「精神看護」2022年9月号の特集タイトルは「表現の中で安全に壊れること」。

元の雑誌のほうを読む限り、この本の著者(赤坂真理さんという作家)はアディクト的な傾向を持ちながらヘビーな依存症にまでは至らず、自分で手当しながらどうにかやっている人で、同じように「普通なんだけど、なんか窒息しそう」な人に向けて書かれている本のようだ。それって本当に多くの人に当てはまることのような気がする。

いつかぐっと呑み込んだ何かが、体の中で澱のようになって溜まってしまうことがある。

澱んだ血が体の内側でぐるぐる巡って行き場をなくすとき、人によってはそれをリストカットやOD、薬物・アルコール依存、手の皮が剥けるほどの手洗い、繰り返される病みツイート、やけくそなセックス、かきむしり、食べ吐き、蕁麻疹、幻覚、発作、眉毛全部抜く、などなどの形を取って外側に表現するんだろう。

いい感じの回路から外に出すことができないとき、体の外へと通じる出口までのルートがバグっているときに。

あるいはそれを言葉で表現するための語彙がないとき、語るための言葉を持たないとき、症状という形で語るんだろうなとなんとなく思った。言葉はその排泄方法の一パターンでしかないんだろう。

言葉だけで考えてると袋小路にはまり込む危険があるからあんまり言語化に心血注ぎすぎるのもよくないけど、出せるなら言葉でもどんどん出したら良いんだと思う。言葉で外に出すのは私にとってはわりと必要な運動だと思うから、出そう。

とかなんとか言いながら、ここ数日は、こんなこと本当は言いたくないんですけど…とかっていかにもな留保をつけながらゲロを吐くように弱音を吐いてたくさん聞いてもらったりしていた。

そんなこと考えたこともなかったけど、もしかしたら今までゲロ吐きたくて酒飲んでたのかも?と思った。

千人針で誰か一人の安心毛布を作れたらいいんだと思う。私も誰かの毛布に一針入れたい。

よーしきちがいになったるでー

と思ったら元気が出てきて、

自分の中にだけ存在する筋を通す 以外のすべての観点から見て間違っている行動をしたりした。

・夢と現の境界に澱んでいる間はどちらの国の言葉も完全に理解できる。

・どちらか一方に醒めた時にはもう一方の世界の理をだんだん忘れてしまう。

・けどそれでいい(というかそれしかない。それこそが正解)。あまり長く境界に澱んでいることはできないから。

明日朝から出かけるから早くシャワー浴びないといけないのに深夜まで布団でぐずぐずうたた寝していて、ようやく意を決して起き上がった時にはなぜか上記のような確信を手にしていた。てかそれ千と千尋じゃん、と徐々にはっきりと目覚めて顔を洗いながら思った。

縁のない土地でノスタルジーの入り込む余地のないガパオライスを食うことでだけ癒される心の部分がある。

自分の血でしか絵が描けないから青い海もなつかしい緑の草原も描けない。描けるのは赤茶けた日没あるいは夜明け。

まだ自分が崖の上にいるような気がしているが、ここは崖ではなくすでに海。

ここにはないものはないが、あるものはある。寝ている間にゴキブリが口の中に入っていたとしてもかまわないのだ。

同じ言葉の羅列に句読点を打ち、散文ということにすれば狂人で、改行して詩ということにすれば芸術らしい。譫言を57577の定型に収めればそれは短歌だ。短歌というのは定型に収まった譫言のことだから。

去年の11月頃からふと短歌を作り始めて、2月頃までに100首ほど作った。なんでいまさら短歌なのか自分でもよくわからない。11月にコロナにかかって高熱にうなされながら雪舟えまの「地球の恋人たちの朝食」を読んだからかもしれない。

そうして作った短歌の一つの上句に「生きのびるではなく生きたい」というものがあった。"生きのびる"ことや"死なない"ことを志向する言葉は最近の流行りだ。生きのびるための事務、生きのびるためのデザイン、生きのびるための建築、生きのびるブックス、一見、それらはとっても感じ良く見える。共感する。読みたい。そういうのを求めてた。でも何かを覆い隠しているような気がする。砂糖壺の中にひとさじの嘘が混ざっていて、毒じゃないからといってそれを見過ごして一度体内に入れてしまったら、もう嘘を嘘だとわからなくなってしまうような。

その短歌を作った時は本心からそう思っていた。「私は生きのびたいわけじゃなく今生きたい」と。でもそれは実のところ「生きのびる」でも「生きる」でもなく死へ向かう道だと、じわじわわかってきた。

情けなく、理想からはほど遠く、どちらの極にも振れなくても生きている自分を許すことが「生きのびる」ことなのかもしれない。理想を妥協させまいとするなら死ぬしかないみたいなことになる。それをどう妥協させるのか、あるいはどの部分を妥協させ、どの部分をどのように妥協させないのか、それがその人の人生になり文学を作る。それがいつか成熟にもつながる。そう信じている。いや、信じていない。信じられないから祈っている。そう信じられますようにと。大げさだよね〜。でもしょうがない。そういう性分ですから。運命ですよ。

今日読んだ本の一節。

河合 いまは、それが流行ってるんです。また、変わると思いますよ。それから、時代精神に合う人生を送る巡り合わせの人がいるんですよ。そういう人は、調子がいいんですね。それを、調子がいいから「軽薄だ」というのは、おかしい。その人は、時代精神に合うパターンの人なんだから、どうぞ、と思ってたらいいんじゃないですか。と、ぼく、この頃思うんですけどね。ぼくらはだいたい時代精神に合わない人ばかりと会ってるわけじゃないですか。だから以前はそういう人たちが頑張って生きてるのを見てたら、時代精神に合ってスイスイやっている人を見ると腹が立っていたんです。あいつは「表面的だ」と。でも、よく考えると、表面的ではないんですよ。それは、その人に合っているだけのことで。

吉本 たまたま時代にすんなりと一致しちゃって。

河合 以前はなんとなく腹が立ってましたが、この頃はいいと思うようになりました。いま時代に合っている人たちも、戦国時代だったらむちゃくちゃになっていたかもしれんから。これは、しょうがない。運命ですよ。

河合隼雄吉本ばなな『なるほどの対話』新潮文庫、2005年、p.112)

ちなみに、「生きのびる」と「生きる」問題は穂村弘がずっと前に「社会の言葉と詩の言葉」という文脈で話題にしていたことをあとから知った。ほむほむー!