ビート・ジェネレーション (original) (raw)
ビート・ジェネレーション(英: Beat Generation)は、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国の文学界で異彩を放ったグループ、あるいはその活動の総称。1940年代終盤から1960年代半ばにかけて、この文学運動の思想や行動様式に影響を受けたライフスタイルを実践する者はビートニク(Beatnik)と呼ばれた。主な著作は1950年代に発表され、特に1955年から1964年頃にかけて、文化・政治に対して大きな影響力を及ぼした。生年でいうと、概ね1915年から1929年までの、第一次世界大戦から狂騒の20年代までに生まれた世代に相当する。
アメリカ合衆国および西洋世界などにおける主な世代区分
(世代の範囲はピュー研究所[1]などの区切りに基づく)
最盛期にはジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグそしてウィリアム・バロウズ(彼らは1944年にニューヨークのコロンビア大学で出会い、1950年代半ばにサンフランシスコへ移住し、サンフランシスコ・ルネッサンスに合流した)を初めとするビート・ジェネレーションの作家たちは多くの若者達、特にヒッピーから熱狂的な支持を受け、やがて世界中で広く知られるようになった。彼らは、ボヘミアン快楽主義、非同調主義(個人主義)、自発的創造性を追求・開拓した。そしてまたポエトリー・リーディングの活動も有名である。
この運動の中心地は、ニューヨーク(知識人の集うコロンビア大学、アングラの中心地帯であったタイムズスクエア、アメリカのボヘミアと呼ばれたグリニッジ・ヴィレッジ)、サンフランシスコおよび他の西海岸北部の都市であった。
1959年のカリフォルニア州ヴェニスのビートニクたち。左からMichi Monteef, Sammy McCord, Patti McCrory, Shaunna Lea and, in rear, Jan Vandaveer。"[2]
ビート・カルチャーの主な思想は、標準的な物語の価値の拒否、スピリチュアル世界の探究、西洋と東洋の宗教の融合、経済的物質主義の拒否、人間の条件(人間という存在の根本条件、誕生・成長・死・感情・希求・葛藤など)の明示的な描写、サイケデリック・ドラッグを使用した精神実験、性の解放と探究、などである[3][4]。これらの要素は、1960年代に、より大きなカウンターカルチャー運動であるヒッピー文化に取り込まれていった。
また、以降のロックやポップミュージシャンにも広く影響を及ぼした(ビートルズ、ボブ・ディラン、ドアーズなど)。後の文学界ではケン・キージー、トマス・ピンチョン、トム・ロビンスなど、サイバーパンクやスラム詩、ポスト・ビート詩人たちに影響を与えた。
ビート・ジェネレーションの作家を特徴付ける要素は以下のようなものがある。
性の解放と自由恋愛
当時のアメリカやキリスト教の伝統的のような厳格な性の規範に反幕し、男女とも自由恋愛を標榜した[5][6]。また、ゲイやバイセクシャルにもオープンであった。
ドラッグの使用
新たな精神状態の開拓と創造性の向上という知的な目的のため[7]、マリファナ、アンフェタミン、モルヒネ、メスカリン、アヤワスカ、そしてLSDなど様々なドラッグやアルコールを使用した[8]。ドラッグの合法化も主張した。
ロマン主義
パーシー・ビッシュ・シェリー、ウィリアム・ブレイク、ジョン・キーツなどのロマン派詩人から影響を受けていた[9][10][11]。
シュルレアリスム
アントナン・アルトー、アンドレ・ブルトン、ギヨーム・アポリネール、アルチュール・ランボー、シャルル・ボードレールなどのシュルレアリスム詩人から影響を受けていた[12][13]。夢幻的なイメージや解離したイメージのランダムな並置などのスタイルが見られる。
モダニズム
ガートルード・スタイン、マルセル・プルースト、アーネスト・ヘミングウェイ、シャルル・ボードレールなどのモダニズム作家から影響を受けていた[14]。
アメリカの古典
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、ラルフ・ワルド・エマーソン、ハーマン・メルヴィル、ウォルト・ホイットマン、エドガー・アラン・ポー、エミリー・ディキンソン、ジャック・ブラックから影響を受けていた[15]。
ジャズ
文学スタイルはジャズの即興性やインスピレーションから影響を受けていた。
反戦
第二次世界大戦の経験から、軍隊や産業・政治システムの歯車になることへの反対が強調されている作品も多い。
東洋の宗教・哲学
仏教の無常の概念とアメリカの自由主義を融合させる試みを行った[16]。
ビート・ジェネレーションという語は、1948年前後に「ニューヨークのアンダーグラウンド社会で生きる非遵法者の若者たち」を総称する語として生まれた。1952年にニューヨーク・タイムズ誌に掲載された、小説家のジョン・クレロン・ホルムズ (英語版)のエッセイ『これがビート・ジェネレーションだ』(_This is the Beat Generation_)と、彼の小説『ゴー』(_Go_)が、この語が一般のメディアに出た最初で、この言葉を思いついたのはジャック・ケルアックだといわれる[17][18] 。
ジャック・ケルアックは、ビーティフィック・ソウルや、幸せをあなたに(beatific)と言った考え方を提唱した。一方でケルアック自身は保守的なカトリックの家庭出身であり、ヒッピーが大嫌いで反共産主義、反ユダヤであり、ベトナム戦争にも賛成の立場だった[19][注釈 1]。
ビートニク
ビート・ジェネレーションと、1957年に打ち上げられアメリカ社会に衝撃を与えた、人工衛星スプートニク1号の名を合わせて、ビートニク (Beatnik) という呼称がサンフランシスコ・クロニクル1958年4月2日版にてHerb Caenによって造語された。これは、ビート・ジェネレーションのメンバーのことを指すが、ビート・ジェネレーション文学運動が開拓した当時の社会通俗に反抗する思想や行動様式が徐々に大衆文化に浸透してゆき、ライフスタイルやファッション化した側面がある。ビートニクのステレオタイプは、規範的な服装や行動を嫌い、反体制的・反商業主義的な議論を好み、ドラッグや性に開放的で、ボンゴを打ち鳴らしダンスするといったものである。このライフスタイルがさらに大衆化したものがヒッピーである。
1914年 - ウィリアム・バロウズ生誕。
1922年 - ジャック・ケルアック生誕。
1926年 - アレン・ギンズバーグ生誕。
1944年 - デヴィッド・カーメラー死亡事件の被疑者ルシアン・カーの共通の知人であったギンズバーグ、バロウズ、ケルアックがニューヨークで出会う。バロウズとケルアックはこの事件を題材に『そしてカバたちはタンクで茹で死に(英語版)』を共著し、1945年に完成するが未発刊。この作品はバロウズの死後にアンソロジーの一編として発刊された。ケルアックはこの事件の重要証人として拘留中にエディー・パーカーと結婚。バロウズもまたジョーン・ボルマーと同棲を始め、そこにケルアック夫妻が転がり込んできて、アパートの一室での奇妙な共同生活が始まるが、それはすぐに崩壊する。ケルアックは数ヶ月でエディー・パーカーとの結婚生活が破綻し、バロウズもまたハーバート・ハンケの影響でモルヒネ常習者になった。ケルアックはギンズバーグの家に転がり込んだ。
1945年 - ギンズバーグが既に放校処分になっていたケルアックを部屋にかくまった件と寄宿舎の窓に過激な言葉を書き付けた件で、コロンビア大学を放校処分になる(のちに復学)。
1946年 - バロウズがボルマーと彼女の娘とともに、テキサス州のニューウェーベリーに転居する。ニール・キャサディ、ケルアックと出会う。ケルアック、『町と街(_The Town & The City_)』を書く。ケルアックの父が死去。
1947年 - ギンズバーグ、ケルアック、キャサディ、コロラド州のデンバーでともに一夏を過ごす。キャサディ、キャロライン・ロビンソンと出会う。ギンズバーグとキャサディがギンズバーグ家を訪問。バロウズ、二ヶ月ニューヨーク、ダカール(セネガル)を旅行。ケルアック、サンフランシスコを小旅行。バロウズとボルマーの間に第一子が誕生。
1948年 - バロウズがケンタッキー州レキシントンのアメリカ合衆国麻薬患者更生センターに一時的に入所する。ジョン・クレロン・ホルムズ、ケルアック、ギンズバーグに出会う。ギンズバーグ、コロンビア大を卒業。臨時の仕事としてウィリアム・ブレイクのヴィジョン[_要曖昧さ回避_]に関する書籍の研究に着手する。ケルアック、キャサディと旅行。
1949年 - ケルアック、キャサディ、ルゥアン・キャサディ、アル・ヒンクルがルイジアナ州にバロウズを訪ねる。バロウズ、麻薬と拳銃の不法所持で逮捕され、メキシコシティに移送。のちに定住し、メキシコシティ大学で学び始める。ギンズバーグ、ハンケによって盗品が部屋に蓄えられていたこと/それを隠蔽しようとしたことで逮捕され、ニューヨーク州立精神病院に8ヶ月入院させられる。ここでカール・ソロモンに出会う。出所後、ニュージャージー州で父親と同居し、そこでウィリアム・カーロス・ウィリアムズと出会う。
1950年 - バロウズ、『ジャンキー』(_Junkie_)に着手。原稿をたびたびギンズバーグに送る。ケルアック、『町と街』(_The Town & The City_)が出版され、作家デビュー。ジョーン・ハーバティと結婚するが半年で破局。デンヴァーで傷心旅行ののち、キャサディとともにメキシコ・シティにバロウズを訪ねる。キャサディ、ケルアックとバロウズの影響を受け、『ジョーン・アンダーソンへの手紙』(_Joan Anderson Letter_)を書く。完成するが未発刊。
1951年 - ギンズバーグ、ケルアック、ニューヨークでグレゴリー・コーソに出会う。ケルアック、『路上』(_On The Road_)を書く。バロウズ、過失による発砲でボルマーを殺害。ケルアック、仏教に興味を持ち始める。
1952年 - ケルアック、『コーディの幻想』(_Visions Of Cody_)を完成し、キャサディ、ロビンソンとサンフランシスコで共同生活を始める。ジャン・ケルアック生誕。メキシコ・シティにバロウズを訪ね、ともに一夏を過ごし、ケルアックは『ドクター・サックス』(_Dr.SAX_)、バロウズは『おかま』(_Queer_)を書く。バロウズはメキシコ政府から「危険外国人滞留者」と通告を受け、メキシコを離れ、放浪の旅に出る。
1953年 - バロウズ、中央アメリカ・南アメリカを旅行。旅先でギンズバーグと往復書簡を交わす。『ジャンキー』(_Junkie_)が出版され、作家デビュー。作家の肩書きを得て初めての作品『ルーズベルト就任顛末記』[20](_Roosevelt After Inaugration_)を書く。ケルアック、ニューヨークで『マギー・キャシティ』(_Maggie Cassidy_)、『地下街の人びと』(_The Subterraneans_)を書く。ギンズバーグ、ケルアック、バロウズ、短期間ニューヨークで共同生活。ギンズバーグとバロウズ、アイリーン・リーとアラン・アンセンの協力を得て、旅行の際の往復書簡『麻薬書簡』(_The Yage Letters_)を編纂する。バロウズ、モロッコのタンジールに移住。麻薬中毒患者の記録『裸のランチ』(_Naked Lunch_)を書き始める。ゲイリー・スナイダーがカリフォルニア大学バークレー校に入学する。
1969年 - ジャック・ケルアック死去。
1997年 - アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ死去。
2001年 - グレゴリー・コーソ死去。
アレン・ギンズバーグ 『吠える(英語版)』
ウィリアム・バロウズ 『裸のランチ』
ゲーリー・スナイダー - "Fresh Planet"というコンセプトでエコロジカルな社会意識を高めた
ビートニクたちのカルチャー。
詳細は「_en:Beatnik#Beat culture_」を参照
ビートニクたちのアート。
詳細は「_en:Beatnik#Beatniks art_」を参照
_The Beat Generation_のポスター (1959)
- en:The Beat Generation
- グリニッチ・ビレッジの青春
- 死にたいほどの夜
- バロウズの妻
- en:Howl (2010 film)
- en:William S. Burroughs: A Man Within
- オン・ザ・ロード (2012年の映画)
- キル・ユア・ダーリン
- 『ビートニク』(原題 _The Source_)
- 『肉体市場(英語版)』(英題 _Flesh Market_)- 六本木に蝟集した日本の「ビート族」の男女たちを描いたピンク映画。
ベトナム戦争の反戦、公民権運動(性の解放、精神の解放の思想は、女性・黒人・性的マイノリティの解放運動につながった)、そしてヒッピー文化やアメリカン・ニューシネマに大きな影響を与えた。
影響を受けた人物
アメリカン・ニューシネマ
注釈
- 作家ジョン・スタインベックや、元野球選手ジャッキー・ロビンソンらもベトナム戦争賛成の立場だった
出典
- Los Angeles Times, August 27, 1959
- Charters, Ann (2001). Beat Down to Your Soul: What was the Beat Generation?. Penguin Books. ISBN 0141001518
- Morgan, Bill (2011). The Type Writer Is Holy: The Complete, Uncensored History of the Beat Generation. Berkeley, CA: Counterpoint
- Prothero, Stephen (1991). “On the Holy Road: The Beat Movement as Spiritual Protest”. The Harvard Theological Review 84 (2): 205–222. doi:10.1017/S0017816000008166.
- McClure, Michael. Scratching the Beat Surface.
- "Throughout these interviews [in _Spontaneous Mind_] Ginsberg returns to his high praise of William Blake and Walt Whitman. Ginsberg obviously loves Blake the visionary and Whitman the democratic sensualist, and indeed Ginsberg's own literary personality can be construed as a union of these forces." Edmund White, Arts and letters (2004), p. 104, ISBN 1-57344-195-3, 978-1-57344-195-7.
- "Ginsberg's intense relationship to Blake can be traced to a seemingly mystical experience he had during the summer of 1948." ibid, p. 104.
- According to William Lawlor: "André Breton, the founder of surrealism and Joans's 〔ママ〕 mentor and friend, famously called Joans the 'only Afro-American surrealist' (qtd. by James Miller in _Dictionary of Literary Biography_ 16: 268)", p. 159, Beat culture: lifestyles, icons, and impact, ABC-CLIO, 2005, ISBN 1-85109-400-8, 978-1-85109-400-4. Ted Joans said, "The late André Breton the founder of surrealism said that I was the only Afro-American surrealist and welcomed me to the exclusive surrealist group in Paris", p. 102, For Malcolm: poems on the life and the death of Malcolm X, Dudley Randall and Margaret G. Burroughs, eds, Broadside Press, Detroit, 1967. There is some question about how familiar Breton was with Afro-American literature: "If it is true that the late André Breton, a founder of the surrealist movement, considered Ted Joans the only Afro-American surrealist, he apparently had not read Kaufman; at any rate, Breton had much to learn about Afro-American poetry." Bernard W. Bell, "The Debt to Black Music", Black World/Negro Digest March 1973, p. 86.
- Allen Ginsberg commented: "His interest in techniques of surreal composition notoriously antedates mine and surpasses my practice ... I authoritatively declare Lamantia an American original, soothsayer even as Poe, genius in the language of Whitman, native companion and teacher to myself." Allen Ginsberg, Bill Morgan, Deliberate Prose: Selected Essays 1952–1995, p. 442, "Philip Lamantia, Lamantia As Forerunner", HarperCollins, 2001, ISBN 9780060930813.
- "In 'Author's Introduction,' which is included in Lonesome Traveler (1960), Kerouac ... goes on to mention Jack London, William Saroyan, and Ernest Hemingway as early influences and mentions Thomas Wolfe as a subsequent influence." William Lawlor, Beat culture: lifestyles, icons, and impact, 2005, ISBN 1-85109-400-8, 978-1-85109-400-4 p. 153. "And if one considers The Legend of Dulouz, one must acknowledge the influence of Marcel Proust. Like Proust, Kerouac makes his powerful memory the source of much of his writing and again like Proust, Kerouac envisions his life's literary output as one great book." Lawlor, p. 154.
- Ted Morgan, Literary Outlaw (1988), p.36-37 of trade paper edition, "When Billy [William Burroughs] was thirteen, he came across a book that would have an enormous impact on his life and work. Written by someone calling himself Jack Black, You Can't Win was the memoirs of a professional thief and drug addict."
- 山形浩雄訳『現代詩手帳』1997年11月。pp10-26