快慶 (original) (raw)

快慶(かいけい、生没年不詳)は、鎌倉時代に活動した仏師運慶とともに鎌倉時代を代表する仏師の一人である。この流派の仏師は多く名前にの字を用いるところから慶派と呼ばれる。快慶は安阿弥陀仏とも称し、その理知的、絵画的で繊細な作風は「安阿弥様」(あんなみよう)と呼ばれる。三前後の阿弥陀如来像の作例が多く、在銘の現存作も多い。

快慶作 阿弥陀三尊像 兵庫県浄土寺

快慶作 僧形八幡神像 東大寺

地蔵菩薩像 東大寺

地蔵菩薩像 メトロポリタン美術館

快慶の生没年や出自は明らかでない[1]。史料上の初見は寿永2年(1183年)の「運慶願経」である。「運慶願経」とは、仏師運慶が願主となって制作された法華経で、全8巻のうち巻一は亡失、巻二から巻七が京都・真正極楽寺蔵、巻八が個人蔵(ともに国宝)となっている。この巻八末尾の奥書に結縁者の一人として「快慶」の名が見える。

現存する作品のうちもっとも古いものはボストン美術館蔵(旧興福寺)の弥勒菩薩立像で文治5年(1189年)の作である。この作品には、理知的な表情、細身の体型、絵画的に処理された衣文など、快慶の特徴的な作風がすでに現れている。現存する2番目の作品である醍醐寺三宝院弥勒菩薩坐像(建久3年・1192年)からは作品に「巧匠アン阿弥陀仏」(「アン」は梵字)と銘記するようになる。快慶風の様式の仏像を「安阿弥様」というのはこれによる。この銘記は快慶が法橋の僧位に任じられる建仁3年(1203年)まで続く。快慶は日本の中世以前の仏師の中では例外的に多くの作品に銘記を残している。自ら「巧匠」と名乗っていることとも合わせ、快慶は「作者」としての意識の強い仏師であったことがうかがわれる。また「アン阿弥陀仏」と称し、阿弥陀如来像を多数残していることから、熱心な阿弥陀信仰者であったことがわかる。

快慶は運慶とともに、平重衡の兵火(治承4年・1180年)で壊滅的な被害を受けた東大寺、興福寺など南都の大寺院の復興造仏事業にたずさわった。建久5年(1194年)には東大寺中門の二天像のうち多聞天像を担当したが、これは現存しない。建仁3年(1203年)には東大寺南大門の金剛力士(仁王)像の造営に運慶らとともに参加している。東大寺での修二会(お水取り)の際、過去帳において快慶は「大仏脇士観音並広目天大仏師快慶法眼」と文字数も長く読み上げられ、功績が際立って大きかった事が示されている。

快慶は東大寺大仏再興の大勧進(総責任者)であった重源と関係が深く、東大寺の僧形八幡神坐像、同寺俊乗堂阿弥陀如来立像など、重源関係の造像が多い。三重・新大仏寺の如来像(もと阿弥陀三尊像だが、江戸時代の土砂崩れで脇侍が失われ、本尊も体部が大破したため、頭部をもとに盧舎那仏坐像に改造)、兵庫・浄土寺の阿弥陀三尊像なども、重源が設置した東大寺別所の造像である。

快慶の作品は、銘記や関係史料から真作と判明しているものだけで40件近く現存し、制作年が明らかなものも多い。また、東大寺、興福寺、醍醐寺のような大寺院だけでなく、由緒の明らかでない小寺院にも快慶の作品が残されている。

快慶の没年は明らかでない。ただし、京都府城陽市・極楽寺の阿弥陀如来立像(快慶の弟子・行快の作)の胎内から発見された文書に嘉禄3年(1227年)の年紀とともに「過去法眼快慶」の文言があることから、この時点で快慶が故人であったことがわかり、この年が快慶死去の下限となる[2]

銘記等から真作と確認されているものの一覧である[3]。「重文」は「重要文化財(国指定)」の略。

ボストン美術館弥勒菩薩立像内納入経巻奥書

初期(「仏師快慶」銘)

「巧匠安阿弥陀仏」時代

「法橋快慶」時代

法橋叙任は1203年(建仁3年)

「法眼快慶」時代

法眼叙任は承元2 - 4年(1208 - 1210年)の間

奈良国立博物館の「特別展 快慶」(2017年開催)では、以下の作品を快慶作としている[13]

このほか、銘記はないが、作風から快慶作の可能性が高いとされている像として以下のものがある。


  1. 「新指定の文化財」『月刊文化財』489号、第一法規、2004、pp.22 - 23
  2. 東京国立博物館ほか編 『ボストン美術館 日本美術の至宝』展図録、2012年、76-77,242頁。
  3. この像内銘は後世に書き直されたものだが、像の制作は1200年頃とみられる(『運慶・快慶とその弟子たち』による)
  4. 熱海市伊豆山浜生活協同組合所有(伊豆山郷土資料館保管)の菩薩像2躯は本像の脇侍であったものと推定される。
  5. 興福寺が所蔵する明治39年(1906年)撮影の古写真2枚には、かつて興福寺の所蔵であった多数の仏像が写っている。2018年、奈良国立博物館学芸部でこれらの古写真の高精細画像を作成して分析したところ、従来は不明であった多くの仏像の移動先が判明した。(参照:山口隆介・宮崎幹子「明治時代の興福寺における仏像の移動と現所在地について - 興福寺所蔵の古写真をもちいた史料学的研究 - 」『MUSEUM』676、東京国立博物館、2018)
  6. 金剛院深沙大将立像の像内や八葉蓮華寺阿弥陀如来立像の納入書状にも「ア阿弥陀仏」とある。
  7. 「新指定の文化財」『月刊文化財』585号、2012
  8. 『運慶・快慶とその弟子たち』(展覧会図録、奈良国立博物館、1994)は、本像の台座は室町時代の後補であり、台座に記された快慶の銘記も当初のものではないが、醍醐寺の不動明王坐像(快慶作)と作風が近いことから、本像も快慶作である可能性が高い、としている(同図録pp.141 - 142)