興福寺 (original) (raw)

興福寺

奈良市にある仏教寺院


曖昧さ回避 この項目では、奈良市の興福寺について説明しています。その他の興福寺については「興福寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗大本山寺院山号はなし。本尊は中金堂の釈迦如来南都七大寺の一つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

概要 興福寺, 所在地 ...

興福寺
東金堂と五重塔(共に国宝
所在地 奈良県奈良市登大路町48
位置 北緯34度40分59.7秒 東経135度49分52.2秒
山号 なし
宗派 法相宗
寺格 大本山
本尊 釈迦如来
創建年 天智天皇8年(669年
開基 藤原不比等
札所等 西国三十三所第9番(南円堂)西国薬師四十九霊場第4番(東金堂)大和北部八十八ヶ所霊場第62番(菩提院)南都七大寺第2番神仏霊場巡拝の道第16番(奈良第3番)
文化財 五重塔、木造弥勒仏坐像、乾漆八部衆像ほか(国宝)南円堂、木造薬王菩薩薬上菩薩立像ほか(重要文化財世界遺産
公式サイト 法相宗大本山 興福寺
法人番号 7150005000123 ウィキデータを編集
興福寺興福寺興福寺 (奈良市)
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興福寺

興福寺

興福寺

南円堂(本尊・不空羂索観音)は西国三十三所第9番札所、東金堂(本尊・薬師如来)は西国薬師四十九霊場第4番札所、菩提院大御堂(本尊・阿弥陀如来)は大和北部八十八ヶ所霊場第62番札所となっている。また、境内にある一言観音堂は南都七観音巡拝所の一つである。

歴史

創建

藤原鎌足夫人の鏡王女が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた[注 1]。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。

その後も、天皇皇后、また藤原氏によって堂塔が建てられ、伽藍の整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営が国家の手で進められるようになった。天平10年(738年)3月28日には山階寺(興福寺)に食封千戸が朝廷から施入されている。

南都北嶺

興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社(藤原氏の氏神)の実権を持ち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺と共に「南都北嶺」と称された。寺の周辺には無数の付属寺院の子院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。中でも天禄元年(970年)に定昭の創立した**一乗院寛治元年(1087年)に隆禅の創立した大乗院**は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。

しかし、興福寺は創建以来、度々火災に見舞われその都度再建を繰り返してきた。特に中金堂は失火や兵火、落雷により七度も焼失している[2]。中でも永承元年(1046年)12月24日の大火では北円堂を残して全山が焼失している。治承4年(1180年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平重衡による南都焼討による被害も甚大で、東大寺と共に大半の伽藍が焼失した。

この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走し、朝廷や藤原氏との交渉の結果、平氏政権が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺側へ返却され、朝廷と藤原氏長者、興福寺の3者で費用を分担して、復興事業が実施されることとなった。現存の興福寺の建物は全てこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。

鎌倉時代室町時代には武士の時代になっても大和武士[注 2]僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、鎌倉幕府室町幕府守護を置くことができず、大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1,000余とされた。また、江戸幕府からも寺領2万1,000石を認められた。

江戸時代享保2年(1717年)にまたしても大火災が発生し、中金堂、西金堂、講堂、南大門などが焼失した。しかし、時代背景の変化もあって再建資金を捻出できず、大規模な復興はなされなかった。その後、約100年たった文政2年(1819年)、町屋の篤志家達の寄付によって仮堂ではあるがようやく中金堂が再建された。

近現代

慶応4年(1868年)に神仏分離令が出された[3]。興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は還俗し、それぞれ水谷川家松園家と名乗った(奈良華族)。18か寺あった末寺とは本末関係を解消し、83か寺の子院、6つの坊が廃止され、僧は全員自主的に還俗し「新神司」として春日社に神職として仕えることとなった。

明治2年(1869年)に東大寺が興福寺の管理を行いたいと申し出たが、元僧らはそれを断って、西大寺唐招提寺に興福寺の管理を任せている。寺領は明治3年(1870年)12月の上知令で堂塔のみ残して接収となった[3]。明治4年(1871年)から一乗院は奈良県庁となり、中金堂の方も警察署や奈良県庁、郡役所として使用されていたが、1883年(明治16年)に興福寺に返還されている。

1880年(明治13年)2月14日に旧興福寺境内は、築地塀が取り払われて樹木が植えられ奈良公園となった。一乗院跡は現在は奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。一時は廃寺同然となり、五重塔三重塔も売りに出されていた。五重塔は250円(値段には諸説ある)で買い手が付いたといわれ、当初買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうと考えていたというが、延焼を心配する近隣住民の反対で考えを変えたという。また延焼の心配だけでなく、塔を残しておいた方が観光客の誘致に有利だという意見もあったという[4]。しかし、五重塔売却の話自体が伝承の域を出ないという説もある。

1881年(明治14年)2月9日、興福寺の再興が許可された[3]1884年(明治17年)には金堂基檀から奈良時代の鎮檀具が発掘された[3]

1897年(明治30年)6月10日の古社寺保存法の発布で北円堂・三重塔・五重塔が特別保護建築物に指定された[3]1900年(明治33年)に五重塔、1907年(明治40年)には三重塔の修理があった[3]

1937年(昭和12年)10月30日の東金堂解体修理中に銅像仏頭(旧山田寺講堂本尊像)が発掘された[3]

1959年(昭和34年)に食堂後に宝物収蔵庫(国宝館)が建設された[3]1965年(昭和40年)に北円堂の解体修理があり、1970年(昭和45年)には菩提院大御堂の改築があった。1979年(昭和54年)に三重塔の修理があった[3]1996年(平成4年)には南円堂の修理があり、また興福寺会館が竣工した[3]

1998年平成10年)に世界遺産に登録され[3]1999年(平成11年)から国の史跡整備保存事業として、発掘調査が進められた。平城京での創建1300年を機に中金堂[5]と南大門の再建が計画され、中金堂は2018年(平成30年)10月に落慶法要を迎えた(7日 - 11日)[6]の大木が国内で入手困難なため、宮大工棟梁の提案で中心部の巨柱はカメルーンを使用した[2]

2023年令和5年)に五重塔の大規模修理を開始した。屋根瓦の吹き替え・漆喰の塗り直しなどを2031年〈令和13年〉にかけて行う予定[7]

建築物の年表

建築儀式 番匠

興福寺のような高貴な建物を建てる棟梁を「番匠」(ばんしょう)といい、2014年(平成26年)、興福寺において番匠棟上槌打という儀式が披露された[8]。この儀式を保存するため、1968年(昭和43年)、番匠保存会が設立された[8]。番匠は、建築の全てに携わるものに災いが起きぬよう邪気を祓い去る陰陽道の祭祀祭礼の儀法を持ち合わせ、戦国時代陰陽師が迫害を受けても刀鍛冶と同様、高い地位に位置付けられた「番匠」が口述伝承し、のちに書物化した「木割書」(きわりしょ)から、家相は生み出されたものであると、名古屋工業大学名誉教授内藤昌は述べている[9]

門跡

興福寺には「興福寺両門跡」と呼ばれる2つの子院があった。一乗院大乗院である。

一乗院門跡は、平安時代後期の第6代門主覚信関白藤原師実の子息だったことをきっかけに、代々摂関家あるいは皇族が門主を務める門跡寺院の一つとなった。その後、五摂家分立以降は近衛家の管領するところとなり、近衛家流(近衛家・鷹司家)の子弟が門主となる例が多かった。足利義昭は、元々近衛尚通猶子として法名「覚慶」を名乗り一乗院の門跡となっていた。兄である足利義輝の殺害にともない還俗し、織田信長の援助を得て室町幕府将軍となったのである。大和の国衆で後に戦国大名化した筒井氏は一乗院の衆徒の筆頭であった。江戸時代に入って、後陽成天皇の皇子尊覚法親王が門主となったのをきっかけに親王が門主を務めるケースも増えた。たとえば、久邇宮朝彦親王は、元は一乗院の門主で、その後に青蓮院へ移ったのである。摂関家や親王家と同様に諸大夫以下の専属の家司もおり、摂関家・親王家と同格の立場を誇っていた。また奈良だけではなく、京都今出川の桂宮邸と御所の間に「里坊」と呼ばれる屋敷を持っていた。

大乗院門跡は、これも藤原師実の子息である尋範が門主となったのをきっかけに門跡寺院となった。こちらは九条家の管領に属し、九条流(九条家・二条家一条家)の子弟が門主を務めるところであった。戦国時代には、日記『大乗院寺社雑事記』で著名な門主尋尊一条兼良の子)が出ている。また、足利義昭が将軍の地位を追われた後と、義昭のひとり息子が出家して法名を義尋と名乗り、大乗院の門主となっている。一乗院が筒井氏を衆徒としたように、大乗院も古市氏を衆徒としている。諸大夫以下の家司や里坊を有し、摂関家・親王家と同様の格式を誇ったことは一乗院と同様であるが、親王が門主となった例はない。

興福寺の最高職である別当は、一乗院門主と大乗院門主が交互に就任する習わしだった。ただし、平家による南都焼討直後の時期に第44代別当となった信円[注 3] に限っては、例外的に一乗院門跡と大乗院門跡の双方を、他の幾つかの院家と共に兼帯している。また、両門跡に属する門主以外の者が別当に就任した例もある。

また、興福寺がその権限を行使していた大和国守護職については諸説ある。別当が権限を有していた説、両院の門主が共同で権限を行使していたとする説、門主が別当の時は別当が全権を行使し、それ以外の者が別当の時は別当と両院が共同で権限を行使していたとする説である[10]。江戸時代には世俗的権力を失い、江戸幕府から一定の知行(一乗院が1,492石、大乗院が951石)を与えられた単なる寺院となった。両院とも明治の廃仏毀釈で廃寺となった。

中金堂

2018年平成30年)10月再建。9代目。創建当初の建物は藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定される。後に東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれるようになった。創建以来たびたび焼失と再建を繰り返したが、江戸時代享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)、町屋の篤志家達の寄付によってようやく再建された。この文政再建の堂は仮堂で、規模も従前の堂より一回り以上小さかったが、1959年昭和34年)の国宝館の開館までは、高さ5.2メートルの千手観音立像をはじめ、国宝館で現在見られる仏像の多くを堂内に安置していた。また、朱色に塗られていたため「赤堂」として親しまれていた。あくまで仮の堂として建てられたため、長年の使用に不向きである安価な材が使用され、瓦も安物が使われており、経年による雨漏りは年々ひどくなっていった。そこで、仏像への雨漏り被害を防ぐために1974年(昭和49年)11月23日に中金堂北側の講堂跡地に仮金堂(現・仮講堂)として薬師寺の旧金堂を移築し、本尊の釈迦如来坐像などがそちらに移された。文政再建の仮堂の中金堂は老朽化のため移築再利用も不可能と判断され、一部の再利用できる木材を残して2000年(平成12年)に解体された。その後、中金堂解体後に発掘調査が行われ、創建当初の姿を再現した新・中金堂の建設と境内各所の整備が始められた。創建1,300年となる2010年(平成22年)に中金堂再建工事が着工され、2017年(平成29年)、翌年に中金堂が完成するのを見越し仮金堂内の諸仏を早くも中金堂に移し、2018年(平成30年)10月に9代目となる中金堂が落慶した[11]

東金堂

国宝。応永22年(1415年)再建。5代目。平面は桁行七間、梁間四間。屋根は一重、寄棟造、本瓦葺である[14]1897年明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定[15]1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている[16]西国薬師四十九霊場第4番札所。東金堂は神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正上皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する堂として創建された。治承4年(1180年)の兵火による焼失後、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵・東金堂衆は飛鳥山田寺(現・奈良県桜井市)にあった天武天皇14年(685年)に蘇我倉山田石川麻呂の冥福を祈って造立されたものと思われる講堂の本尊・薬師三尊像を強奪し、それを新たな東金堂の本尊として安置した。東金堂はその後、応永18年(1411年)に五重塔と共に焼け、現在の建物は応永22年(1415年)の再建となる室町時代の建築である。様式は、唐招提寺金堂を参考にした天平様式。平面規模は、創建時の堂に準じている。堂内には以下の諸仏を安置する。

五重塔

国宝。応永33年(1426年)再建。6代目。本瓦葺の三間五重塔婆である[14]。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(旧国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当))に指定[15]。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている[16]。創建は天平2年(730年)で、光明皇后の発願によるものである。現存の塔は、応永33年(1426年)の再建であるが、高さは50.1メートルで、現存する日本の木造塔としては東寺五重塔に次いで高いものである。

明治初期、廃仏毀釈政策に基き、奈良県令四条隆平より塔撤去の命令が出て、頂上に網をかけて引き倒そうとしたが、叶わず、焼却のため周りに柴が積まれたが、類焼を恐れた近隣住民の反対により中止された[17]

1905年(明治38年)7月には三重目の東北隅肘木に落雷が命中し黒煙をはくが、大事には至らなかった。これにより、1907年(明治40年)8月に避雷針を設置している。

1902年(明治35年)に修理を終えて以来、2024年(令和5年)7月からおよそ120年ぶりに本格修理が始まっている。

北円堂

国宝。承元4年(1210年)再建。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂である[14]1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定[15]1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている[16]。北円堂は養老5年(721年)8月、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇・元正天皇の両女帝長屋王に命じて創建させた。現在の建物は承元4年(1210年)の再建で、興福寺に現存する中で最も古い建物である。法隆寺夢殿と同様、平面が八角形の「八角円堂」である。かつては回廊の復元を計画されたこともあり、現在はその基壇が復元されている。

南円堂

伝・行賀像/法相六祖像の1躯

重要文化財。寛政元年(1789年)再建。4代目。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂で、正面に拝所が付属する[14]1986年(昭和61年)12月20日 、文化財保護法に基づく重要文化財に指定されている[18]西国三十三所第9番札所。南円堂は藤原北家藤原冬嗣が、父・内麻呂追善のために弘仁4年(813年)に創建した八角堂である。創建時の本尊は、もと興福寺講堂に安置されていた不空羂索観音像であった。この像は天平18年(748年)、その前年に没した藤原房前の追善のため、夫人の牟漏女王、子息の藤原真楯らが造立したものであった。堂は西国三十三所第9番札所として参詣人が絶えないが、堂の扉は常時閉ざされており、開扉は10月17日の大般若経転読会という行事の日のみである(2002年(平成14年)秋、2008年(平成20年)秋、2013年(平成25年)春に特別開扉が行われた)。堂内には本尊である不空羂索観音坐像の他、四天王立像と法相六祖像を安置する。堂の前に生える「南円堂」は南都八景の一つで、毎年、美しい花を咲かせている。

国宝館

阿修羅像/八部衆像の1躯

山田寺仏頭

文化財の収蔵と展示を目的とする耐火式収蔵施設で、1959年(昭和34年)に食堂及び細殿の跡地に建てられた。鉄筋コンクリート構造であるが、外観は創建時の食堂と細殿、すなわち奈良時代の寺院建築を模したものとなっている。国宝館の内部には、食堂の本尊であった巨大な千手観音立像(高さ5.2メートル)が中央に安置され、仏像を始めとする多くの寺宝が展示されている。2010年(平成22年)3月にリニューアルオープンし、従前に比べ展示点数が増えた。文化財に与える悪影響が少ないLED照明が採用されたことにより、多くの仏像がガラスケースなしで見られるようになった。その後、2017年(平成29年)1月から12月までの1年間休館して耐震改修工事を施工、2018年(平成30年)1月に再度リニューアルした[21]。館長には小西正文や金子啓明が歴任し、現在は当山貫首が兼務している。詳細は興福寺の仏像を参照。

伽藍

中金堂(左)と東金堂(右)

中金堂

東金堂

東金堂内の諸仏

西金堂跡

五重塔

北円堂

南円堂

三重塔、秋景

かつての興福寺には、中金堂(ちゅうこんどう)、東金堂(とうこんどう)、西金堂(さいこんどう)という3つの金堂があり、それぞれに多くの仏像を安置していた。寺の中心部には、南から北に、南大門、中門、中金堂、講堂が一直線に並び、境内東側には、南から、五重塔、東金堂、食堂(じきどう)が、境内西側には、南から、南円堂(なんえんどう)、西金堂、北円堂(ほくえんどう)が建っていた。この他、境内南西隅の一段低い土地に三重塔が、境内南東部には大湯屋がそれぞれ建てられた。これらの堂宇は創建以来火災に度々見舞われ、焼失と再建を繰り返してきた。明治時代以降、興福寺の境内は奈良公園の一部と化し、寺域を区切っていた塀や南大門もなくなり天平時代の整然とした伽藍配置を想像することは困難になっている。「興福寺の仏像」も参照。

菩提院大御堂

大湯屋

文化財

木造十二神将像のうち、伐折羅像(左)と波夷羅像(右) 木造不空羂索観音坐像(南円堂)

木造四天王立像(東金堂)のうち、広目天

華原磬

金堂鎮壇具(東京国立博物館展示)

現在の境内と合わせて奈良公園の一部にまたがる旧境内が国の史跡に指定されている。所有する国宝は27件になる。

国宝

(建造物)

(彫刻)

(工芸品、書跡典籍ほか)

阿修羅像は「乾漆八部衆立像 8躯」のうちの1躯である。

重要文化財

(建造物)

(彫刻)

(参考)広島県尾道市生口島)の耕三寺所蔵の木造釈迦如来坐像(1901年重文指定)はもと興福寺にあり、第二次世界大戦後に耕三寺に移ったものである。

(絵画、書跡典籍ほか)

典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。

国の史跡

奈良県指定有形文化財

奈良市指定無形民俗文化財

主な行事

上記の他、春と秋の一定期間 (約2週間)、北円堂が特別開扉される。また、通常非公開となっている諸堂の特別公開が行われる。

近代以降の住職・貫首

前後の札所

西国三十三所

8 長谷寺 - 9 興福寺南円堂 - 10 三室戸寺

西国薬師四十九霊場

3 般若寺 - 4 興福寺東金堂 - 5 元興寺

大和北部八十八ヶ所霊場

61 春岳院 - 62 興福寺菩提院大御堂 - 63 白毫寺

南都七大寺

1 東大寺 - 2 興福寺 - 3 元興寺

神仏霊場巡拝の道

15 春日大社 - 16 興福寺 - 17 大安寺

真言・御詠歌

南円堂(不空羂索観音)

東金堂(薬師如来)

一言観音

拝観

アクセス

近隣施設

その他

ドキュメンタリー


脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. [注 1]
    なお、において「弘福寺」が「興福寺」と改名された事例があるとして、通説では平城遷都後も飛鳥に留まったとされる川原寺(弘福寺)を移転・継承する意図も含まれていたとする説もある[1]
  2. [注 2]
    室町時代になると、十市氏を刀禰とする長谷川党、箸尾氏を刀禰とする長川党、筒井氏を刀禰とする戌亥脇党、楢原氏を中心とした南党、越智氏を中心とした散在党、平田党の六党が割拠し、その中でも筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏の四氏が「大和四家」と呼ばれる勢力に成長していった。
  3. [注 3]
    信円は松殿家の始祖となった松殿基房の同母弟で、近衛家の始祖となった近衛基実と九条家の始祖となった九条兼実の異母弟にあたる。彼は「奈良僧正」と呼ばれ、後白河法皇、兄の松殿基房、それに九条兼実といった院や摂関家の有力者との関わりが深かったことが『玉葉』などの記述に見える。
  4. [注 4]
    これら3体の写真は、『週刊朝日百科 日本の国宝 55 興福寺1』の5-141頁および5-143頁にある。
  5. [注 5]
    食堂は明治の廃仏毀釈により取り壊されその跡地に国宝館が建っている。
  6. [注 6]
    当初指定時(1956年)は「9巻」。1999年に巻四が追加指定され「10巻」となった。(平成11年6月7日文部省告示第139号)
  7. [注 7]
    文化庁サイトの「国指定文化財等データベース」に「紺紙金字唯識論」とあるのは誤りで、「紺紙金字成唯識論」が正当。

出典

  1. [1]
    加藤優「興福寺と伝戒師招請」関晃先生古希記念会編『律令国家の構造』、吉川弘文館、1989年
  2. [2]
    多川俊映(1)中金堂落慶/300年ぶり 天平の規模に/事業開始から四半世紀私の履歴書】『日本経済新聞』朝刊2018年11月1日(2019年10月20日閲覧)。
  3. [3]
    興福寺の歴史”. 興福寺. 2023年8月24日閲覧。
  4. [4]
    磯貝誠「廃仏毀釈と興福寺」『興福寺 美術史研究の歩み』所収、pp.39 - 44
  5. [5]
    興福寺整備計画
  6. [6]
    「興福寺 300年ぶり再建の中金堂落慶法要」産経WEST(2018年10月7日)2018年10月10日閲覧。
  7. [7]
    【重要】当山五重塔修理工事に関するお知らせ
  8. [8]
    小池 2015, p. 86.
  9. [9]
    小池 2015, p. 85.
  10. [10]
    田中慶治「室町期大和国の守護に関する一考察 -幕府発給文書を中心に-」(初出:矢田俊文 編『戦国期の権力と文書』(高志書院、2004年) ISBN 978-4-906641-80-2/所収:田中『中世後期畿内近国の権力構造』(清文堂、2013年) ISBN 978-4-7924-0978-4
  11. [11]
    落慶~奈良・興福寺~”. ザ・テレビジョン (2019年1月13日). 2021年4月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月10日閲覧。
  12. [12]
    『興福寺国宝展』(東京国立博物館、1997)、p.197
  13. [13]
    興福寺の四天王像がお引っ越し 奈良朝日新聞』2018年2月16日
  14. [14]
    国指定文化財等データベース - 文化庁
  15. [15]
    明治30年12月28日内務省告示第87号(参照:国立国会図書館デジタルコレクション))
  16. [16]
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  17. [17]
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参考文献

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