珍妃 (original) (raw)

珍妃(ちんぴ、あるいは ちんひ、満州語:ᡠᠵᡝᠩᡤᡝ
ᡫᡝᡞ 転写:ujengge fei、1876年2月27日 - 1900年8月15日)は、光緒帝の側妃の一人。満州八旗のタタラ(他他拉)氏(Tatala hala)の出身。タタラ貴妃ともいう。戸部右侍郎長叙の娘で母は侍妾の趙氏。陝甘総督裕泰が祖父で、伯父は広州将軍長善、従兄にともに進士に登った志鈞・志鋭らがいる。

曖昧さ回避 この項目では、清の光緒帝の珍妃タタラ氏(恪順皇貴妃)について説明しています。清の道光帝の珍妃ヘシェリ氏(珍嬪に降格された)については「珍嬪 (道光帝)」をご覧ください。

姉は同じく光緒帝の妃・瑾妃。姪は愛新覚羅溥傑(光緒帝の甥で、宣統帝溥儀の同母弟)の先妻唐石霞

13歳で姉とともに選秀女へ参加し入選。嬪位が与えられて珍嬪となり、5年後に妃位へ昇進。美人で明るく外向的な性格かつ書画に巧みで囲碁が上手と多才で、光緒帝が最も寵愛した女性。

光緒帝に親政を意見したため、スパイの報告を受けた西太后は逆上、親不孝という理由で虐待され貴人へ身分を落とされた。『国聞備乗』によれば1894年10月28日、懐妊3か月であったにも拘らず西太后から廷杖(裸での棒撃ち,肉体刑の中で最も重い刑罰で死亡する場合も少なくない)を被って滅多打ちにされ全身が痙攣する人事不省に陥り、加えて珍妃付きの宦官や女官数十名が殺害された、その後出産の記録が見えず「清宮医案」では婦人科の障害があったとしている。

戊戌の政変後、西太后により紫禁城内の冷宮に幽閉された。義和団の乱の最中、意見を述べたという理由で逆上した西太后が殺害を命じ、宦官崔玉貴らが井戸へ落とす等して殺害した。享年24。死後打ち捨てられていたが、批判の声が大きく成った為、西太后は遺骨を引き揚げ、宮中で死亡した侍女の集団墓地へ埋めた。

西太后の死後、恪順皇貴妃とされ西陵にある光緒帝の崇陵の妃園寝に改葬された。

珍妃が投げ込まれた井戸は紫禁城内に現存する。生前住居とした景仁宮のそばの仏堂(懐遠堂)に、姉瑾妃が1920年頃書写した「精衛通誠」の扁額が掛かっている。

黄雲仙の写真。長い間、珍妃の写真とみられてきた

夫・光緒帝と同様、後世に伝わる肖像写真はないとされている。

1960年から流れる「珍妃」の写真(右図)は特に有名だが、その女性は珍妃ではないという研究がずっと存在していた。特に額の髪から見ると、皇妃ではなく当時の妓女によく見られた髪型だった[1]。近年、写真の女性は黄雲仙という清末の妓女であることが判明した。この写真は最初に名妓のアルバム『海上驚鴻影』(1910年出版)に収録されていた[2]


出典

  1. 徐家宁 (2024年3月18日). “讲座|再谈珍妃的照片” (中国語). 旧影志. 2024年4月7日閲覧。