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赤阪清隆

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赤阪 清隆(あかさか きよたか、1948年昭和23年〉8月24日 - )は、日本外交官公益財団法人フォーリン・プレスセンター理事長。国際連合の元広報担当事務次長。

2011年6月

2007年2月、潘基文国際連合事務総長により広報担当事務次長に指名され、広報局 (Department of Public Information) のヘッドとして、情報戦略、コミュニケーション、ニュース、メディア、アウトリーチ、情報管理、国連ダグ・ハマーショルド図書館などの活動に責任を持ち、世界中の国連広報センターを統括した。

略歴

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大阪府出身。大阪府立富田林高等学校を卒業(19期[1])し京都大学に入学。1970年昭和45年)9月、外務省公務員採用上級試験に合格。1971年3月、京都大学法学部を卒業し翌4月、外務省に入省。以後、

2012年(平成24年)3月末、国連事務次長を退任。同年8月、公益財団法人フォーリン・プレスセンター理事長[3]2023年(令和5年)4月、瑞宝中綬章受章[4]

人物

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2003年から2007年まで、経済協力開発機構 (OECD) 事務局事務次長として、開発、環境、持続可能な開発目標 (Sustainable Development Goals: SDGs)、他の国際機関とのパートナーシップの構築と持続というようなテーマに取り組んだ。

1997年から2000年まで、大臣官房外務参事官(審議官)兼総合外交政策局国際社会協力部として、気候変動枠組条約締約国会議での京都議定書に関する運用ルール等について交渉にあたった。

それ以前にも国際機関の内外で豊富な経験を持ち、1988年から1991年まで関税と貿易に関する一般協定 (GATT) 事務局で、また1993年から1997年まで世界保健機関 (WHO) 事務局に勤務した。

その経験を基に、2019年令和元年)に国際原子力機関 (IAEA) 事務局長の天野之弥が亡くなって以降、日本人の国際機関トップ不在の現状を憂い、1988年中嶋宏が日本人として初めて国際機関トップに選ばれたことを思い出して、WHOを再び目指すべきだと主張。中国が続々と国際機関に進出している現在、「国際機関に冷淡とされる米国世界銀行やユニセフを絶対に手放さない。日本もそういう組織があってよいはずです」と産経新聞に語り、「だからこそ政府が戦略を持ち一丸となって臨む必要がある」と訴えている[5]

そのほか、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジから経済学修士の学位を授与された。

共著として_The GATT and the Uruguay Round Negotiations_、_The Cartagena Protocol on Biosafety_などがある。また雑誌や新聞に貿易、環境、持続可能な開発などに関する論文を多数発表してきている。

同期


脚注

[脚注の使い方]

  1. [1]
    学校パンフレット”. 大阪府立富田林中学・高等学校. 2020年9月11日閲覧。
  2. [2]
    赤阪清隆新広報担当国連事務次長略歴”. 外務省. 2011年4月23日閲覧。
  3. [3]
    赤阪 清隆 | 国連広報センター
  4. [4]
    『官報』号外第93号、令和5年5月1日
  5. [5]
    【一筆多論】ひたひた迫る「中国流」 長戸雅子”. 産経新聞長戸雅子) (2020年5月15日). 2020年9月11日閲覧。

関連項目

外部リンク

先代近藤誠一 経済協力開発機構事務次長2003年 - 2007年 次代天野万利