すごいぞ 関東平野 (original) (raw)
ビジネスパーソン必見…?
グローバルに活躍するビジネスパーソン(誰?)は、忙しいのです。
彼らは、ビジネスに有益な情報や新たな視座を得られそうにないブログなんて、読んでいる暇はありません。
よし今回は、そんなビジネスパーソンも思わずニッコリするような記事でも書いてみるか!
千葉県印西市、千葉ニュータウン区域内の開発予定地にいま、次々とデータセンターが建設されています。
あのGoogleも、日本で最初の自社データセンターを、ここ印西に設けました。
写真中央がGoogle、手前はシンガポール系企業のデータセンター
Googleデータセンター北側 サーバー冷却水の貯水槽も
いまやこの地は、「世界のINZAI」と呼ばれて注目される、データセンター集積地となりました。
Googleの近くにも、別のデータセンターが(豪系不動産会社Goodmanのステージ6)
なぜ、印西なのでしょうか。
印西でデータセンターを運営する企業は、この場所の優位性を自社のホームページでアピールしています。
MCデジタル・リアルティ(三菱商事と米国企業の合弁)(https://www.mc-digitalrealty.com/blog/13)
SCSK(住友商事系IT企業)(https://www.scsk.jp/sp/netxdc/inzai-campus.html)
元々、千葉ニュータウンには金融機関の電算システムの立地があり、電力や通信といったインフラは整っていました。また幸か不幸か、開発が想定より進まず、広大な遊休地もありました。
また、成田空港からも都心からもさほど遠くなく、アクセスも悪くありません。
さらに、データセンターには不可欠な電力インフラも、送電線や変電所の新設増設が急ピッチで進んでいます。
いろいろと理由はありますが、各社とも共通しているのは、千葉ニュータウンが、「地盤の安定した台地上にあり災害リスクが少ない」という点です。
地震や水害に弱い場所は、データセンターに限らず避けたいですよね。
ちなみに、SCSKのホームページには「洪積台地」とありますが…現在では単に「台地」です。
「洪積(diluvial)」が、ノアの洪水を示唆するため、学術用語としてはふさわしくありません。用語の由来となった洪積世(Diluvium)も、現在では更新世(Pleistocene、約260~1.2万年前)といいます。
では、印西の地盤について確認しましょう。
印西の位置する下総台地や武蔵野台地、大宮台地、下末吉台地は、12~13万年前の最終間氷期の海成層を基盤としています。
このころの関東平野は、下末吉海進により海水に没し、島となった房総半島とバリアー島によって太平洋と隔てられた、古東京湾という穏やかで浅いラグーンとなっていました。
古東京湾のイメージ(地理院地図を加工、標高30m以下を紺色で処理)
バリアー島とは、海流により運ばれた砂が堆積してできた、外洋からラグーンをバリアーするような島です。淡路島南東部、由良港の沖にある成ヶ島が挙げられます。(日本にはバリアー島は成立しないと考える研究者もいます。念のため)
バリアー島のおかげで、天然の良港となった由良(地理院地図より)
当時の印西は、外洋と内湾との潮位の差で生じた海水の流れにより成立した潮汐三角州の扇端部にあり、周辺の貝殻が集まり堆積しました。木下貝層と呼ばれる、貝化石を多く含んだ地層は、こうして成立しました。
木下万葉公園(JR成田線木下駅から南東に500m)の木下貝層の露頭は、国の天然記念物にも指定されています。
潮汐三角州だと思いますが…断定は避けます(地理院地図を加工)
木下貝層の下層では、地下水の作用により上層の貝化石から溶出した石灰質が固結した層ができました。木下でのみ見られるこの固結層は、石材に恵まれないこの地域では大変重宝されました。
どれくらい重宝されたかって?興味深い活用例をお見せしましょう。
Googleのデータセンターから北東2km、上宿古墳に来ました。
公道から見える場所に案内板はあるものの、古墳自体は私有地にあるため、見学の際は駐車場用伸縮門扉を開けて入るので、少し緊張します。
門扉からは美しい竹林の中を歩くと古墳に着きます。
上宿古墳(木下駅からは南西へ約1km)
施錠されていないので、石室内に入ってみます。
石室内部 全面、貝化石ですよ
ご覧ください。木下貝層の固結層を切り出して組み上げた石室です。見事ですね。
石室入口の拡大写真 本当に貝だらけ…
関東でよくみられる大谷石のように、表面が風化し簡単に剥離するのかな、と思われるかもしれませんが…貝殻をこれでもかと圧縮したような堆積岩です。
貝化石は鋭利で、指先で触れると痛いです。この立派な石室に葬られたのは、どんな人物だったのでしょうか?ロマンが広がります。
木下貝層を基盤とする印西の地盤は、関東平野の中では比較的強固であることがわかりました。
余談ですが印西市の近くには、「ゆれにくい街」をアピールする自治体もあります。
ところで右下のコラム、「違う水系」って言うけど、3つとも利根川水系だよ…?
というわけで、グローバルに活躍するビジネスパーソンのみなさま、ここまで忍耐強くお付き合い頂き、ありがとうございました。
みなさまに有益な情報と思われる情報を提示したいと思います。たぶん、世界初公開の資料です。それではどうぞ!
印西周辺 データセンター&電力インフラマップ(R6.5時点)
3分クッキングよりも短いミニ番組だったのね
(参考)
・印西付近にデータセンターを設置する各社の公開情報
・通常工期を大幅短縮! トンネル掘削技術の粋を集めた地中送電線シールド工事(https://emira-t.jp/topics/21075/)
・増田富士雄「古東京湾のバリアー島」『地質ニュース』458号、pp.16-27
地形図をフル活用して、市名の由来を探ってみたよ!
埼玉県の南東部に位置する八潮市。
川を挟んで南は東京都足立区に隣接するという立地から、2005年のつくばエクスプレス開業後、住宅地として人気の街です。
さて、八潮市という市名は、昭和31年に八条村と潮止村、八幡村が、いわゆる昭和の大合併で八潮村となったことに由来します。
市名の由来
鎮守であった神社の名前に由来する八幡村はさておき、八条村の「八条」って、なんでしょう?奈良や京都じゃあるまいし…
あと潮止村の「潮止」も…結構内陸なのにね。
というわけで、調べてみました。
まずは「八条」から。
この謎を解くためのカギは、エクセルでパパっと作ったメッシュです。これは、地図上で109mとなるようにしてあります。
エクセルでパパっと
これを、旧八条村、現在の八潮市八條(八条)付近の地図に重ねてみます。
おわかりいただけただろうか(地理院地図を加工)
メッシュと、道路、水路、市境が比較的重なることがわかりますね。つまり、八条地区は一辺109mの碁盤の目の区画割となっています。京都や奈良みたいですね。
結論から申し上げますと、古代から中世にかけて行われた土地の区画制度である条里が、ここ八条には残っているのです。
奈良盆地など西日本では比較的残る条里ですが、関東平野では、河川の氾濫や戦後の圃場整備事業(30m×100mの30aが区画の基準)によって失われているケースが多いです。
条里のシステム
条理では、一辺109mの正方形を「坪」、これを縦横に6つずつ並べた一辺660mの正方形を「里」といいました。里の縦列をややこしいですが一里、二里、三里、横列を一条、二条、三条と数えました。したがって条里が整備された地域では、例えば「八条一里」と呼ぶことで土地の特定が容易にできました。八条村はこの地域の条里での八条だったと考えられます。何里かはわからないけれど…
八条があれば、当然ですが一条もこの付近にあったはず…探してみましょう。この地域では、北から南へ条数が増えていく付番だと仮定すると、(8-1)×660m=4260m北上した場所が一条、となります。
このことから、この地域の条里の範囲は、北は荒川(現在の元荒川)、東は利根川(現在の中川)、西は大宮台地、南は深く侵入した江戸湾であったと推定できます。
推定した条里の範囲
「八条」の謎は解けました。
次は「潮止」について調べてみましょう。
潮止という村名の由来はズバリ、中川がこの付近まで感潮河川となっているためです。
地理院地図の便利機能、「自分で作る色別標高図」で確認しましょう。0mを、濃紺にしてみます。
そりゃあ、このあたりまで海水が遡上するよね
中川は潮止橋付近まで濃紺で塗られています。
つまり、潮止橋付近までは海水が中川を遡上していることがわかります。
市名の由来へのふとした疑問から、意外な事実が明らかになりました。
蛇足ですが、前回の記事から今回まで、投稿間隔が開きすぎですね…
現在の裁判では、好ましくないそうです
裁判になったらどうしよう…
そんなあなたには、何か、後ろ暗いところがあるのでしょうか?
深川は、隅田川の河口に位置し、利根川水系や中川とつながる運河である小名木川の起点でもあります。このような立地から、水運による物資の集積地として栄えました。
隅田川(中央)、小名木川(右上)、河口に豊海橋が架かる日本橋川
地図をよく見てもらうとわかりますが、江東区佐賀は現在でも細い水路が複雑に入り組んでいます。水門で仕切られ、船が通ることもかないませんが、埋め立てられることもなく、現在も残ります。
隅田川右岸の箱崎から左岸の佐賀を見下ろす。水路跡に首都高は造られた
中の堀川(江東区佐賀)、数十年前まで両岸に倉庫が立ち並んでいた
中の堀川児童遊園側から見た中の堀川、静かな水面で水流はない
児童遊園内には、中の堀川に架かっていた旧橋梁を利用したベンチがある
張り巡らされた水路の両岸に倉庫が立ち並んだ風景が、数十年前までは当たり前に見られたのです。
やがて物流の主役はトラックへと変わり、倉庫街はオフィス街へと姿を変えました。
この水路による物流と深く結びついた深川で、重要な判例(判決は大正14年12月)となった、「大豆粕深川渡し事件」は起こりました。
大豆粕(JA全農くみあい飼料株式会社ホームページより)
大豆粕は、ダイズから溶剤によって搾油した残渣を乾燥したものです。
たんぱく質供給原料として重要な飼料ですが、事件が起きた大正時代には、主に肥料として使われました。
また、「深川渡し」とは、当時の商慣習で「深川の売主指定の倉庫で引渡す契約」のことを言いました。引渡場所を具体的に明示せずとも、契約は成立したのです。
売主と買主は、大豆粕の売買契約を「深川渡し」で締結しました。
売主は引渡の準備を整えたのですが、買主は引取に現れませんでした。そこで売主は買主に対し、価格下落分の損害賠償を請求した、というのが事件の概要です。
大豆粕の相場が下落し、引取りたくない気持ちにかられた買主は裁判で、「引渡場所が確定しないから支払できません」と主張しました。しかし買主は、「信義誠実の原則(信義則)」に反するとして敗訴します。
信義則とは、「お互いを信頼し誠実に行動しましょう」という法原則です。
(裏切ったり、不誠実なことはするなよ、と…)
この事件は、「売主に問合せすれば引渡場所が確定できたのに、買主はこれを怠ったので、信義則に反したのは買主だ」という判決だったのです。
ところで…裁判では、「信義則を主張したら負け」とよく言われます。よく考えたら当たり前のことを言っている信義則を主張する前に、個別の法令で解決しましょう、ということです。
契約行為に限らず、生活全般において「信義誠実」に行動したいな、と思います。
ところで、帰りは日没後になったので、ライトアップされた豊海橋を見ることができました。
豊海橋。青くライトアップされているのは永代橋
日本橋川河口に架かる豊海橋は、日本最初のフィーレンディール橋です。
永代橋との景観上のバランスを考慮し、この形式が採用されました。
ちなみに、群馬県の八ッ場ダムのダム直下にも採用されていますよ。
↓
(参考)
飼料事業 | 事業内容 | JA全農くみあい飼料株式会社 (znf.co.jp)
神戸学院大学法学部第36巻(2007年4月)「取引における信義誠実の原則」加藤亮太郎
乗ってみたかったな…
群馬県の一大ターミナルである高崎駅から、長野県と接する甘楽郡下仁田町の下仁田駅を結ぶ、全長33.7㎞の上信電鉄。
沿線には、ユネスコ世界の記憶にも登録された上野三碑、世界遺産の富岡製糸場、奇岩奇勝で知られる妙義山や荒船山があります。
沿線は、観光資源に恵まれている(地理院地図に加筆)
現在では主に地域輸送を担っていますが、沿線の地域資源を生かして観光開発を積極的に進めた過去があります。
いまでは想像もできませんが…ハイシーズンには上野駅と下仁田駅を直通する臨時列車、あらふね号も運行されました。登山客の利便を考え、上野発は夜行列車として設定され、下仁田駅からは山に向かう直営の路線バスに接続していました。
あらふね号ではなく、MAXたにがわ(令和3年廃止)で行ったよ
さて、荒船山の観光開発としては、群馬長野県境の物見平(標高1375m)周辺を「荒船高原」と名付け、直営の宿泊施設「山荘あらふね」を中心に売り出しました。
山荘あらふね、だった建物
開業以来このデザインなのかな?
雄大な荒船山が目の前に迫り、遠くに八ヶ岳も望むという素敵な景色が広がります。
荒船山が眼前に!
八ヶ岳も!
一方で妙義山の観光開発についても、他社と競合しながらも進められました。
山の麓から奇岩で知られる第一石門の直下まで、延長280m、高低差約70mのリフトを建設し、下仁田駅からリフトまで直営の路線バスでつなぎました。石門からは奇岩群を横目にハイキングを楽しみ、妙義神社から下仁田駅や信越本線の駅まで路線バスで戻れる周遊ルートが1963年8月に完成したのでした。
せっかくなので、上信電鉄の開発した妙義観光ルートと、小田急グループの「箱根ゴールデンコース」を比較してみましょう。(えっ?)
箱根と比較するのはあんまりでは…
妙義観光ルートも箱根ゴールデンコースも、ともに風光明媚な標高1,000m付近に連れて行ってくれます。しかしリフトを降りてから徒歩の妙義に対し、箱根はロープウェイです。
また、乗り物として珍しくもないバス区間が長い妙義に対し、日常生活では機会のない多様な乗り物(登山鉄道、ケーブルカー、ロープウェイそして船)を乗り継ぐ箱根はやはり魅力的です。
妙義は、周遊型の観光ルートとしては魅力が乏しいかもしれません。
実際、完成から5年後の1968年4月にリフトは廃止となっています。
原因は、モータリゼーションの進行と妙義山を縫うように走る群馬県道196号線の開通により、自家用車での観光が主流となったためです。
自家用車には、勝てなかったよ…
バス乗り場?から見る妙義の奇岩 階段を上ると…
…リフト乗り場がありました
石門に向かってリフトの支柱の基礎が続きます
荒船高原での観光開発も、1960年代後半以降に頓挫しました。
アクセスとなるバス路線(下仁田営業所-山荘あらふね間)の1968年度の利用者は約9,400人とピーク時の4割まで減少し、翌年には廃止許可申請が出されました。
それでは自家用車での来訪が増えたかといえば、そうでもありません。レジャーの多様化と登山ブームの沈静化、当の申請書にも記された山荘あらふねまでの道路事情の悪さによって、自家用車での観光客も減少したのでした。
1970年には山荘あらふねを佐久市に売却し、上信電鉄は荒船高原での観光事業からも撤退しました。
山荘あらふねは佐久市振興公社運営となるも、令和2年11月閉館
(参考)
高崎経済大学論集第58巻第 4 号 石関正典「高度経済成長期における交通事業者の観光開発と勢力拡大に関する考察−上信電鉄沿線の乗合バス事業と観光開発を事例として−」
今回は、写真多め、文字少なめです。ごめんなさいね…
機会があって、タイトル通り、八ッ場ダム周辺を散策しました。
まずは、ダム湖のほとりにある、道の駅 八ッ場ふるさと館の駐車場です。
国交省の設置した変位計があちこちに
八ッ場ダム水没地からの居住地の移転では、現地再建方式を採用しました。どこか離れた場所ではなく、住み慣れた地区内で水没しない高所への移転です。
ちなみに…ミレニアム(死語ですね)騒ぎの最中(2000年12月)に竣工した神奈川県の宮ケ瀬ダムの場合は、集団移転方式が採られました。
水没した集落は愛甲郡清川村にありましたが、移転先は厚木市宮の里です。現地はしっかりと整備されたニュータウンです。
「宮ヶ瀬の民の里」で「宮の里」
ただ、現地再建方式とするには、それまで非居住地となっていた急斜面を切り、谷を長大な盛土で埋め、平坦地を造成しなければなりません。
変位計は、盛土の異変を察知するためにあります。
対岸の川原湯地区 造成のための切土盛土がよくわかる
八ッ場ダム焼き?
道の駅からほど近くの、やんば天明泥流ミュージアムにも行きましたよ。
天明泥流については、ちゃんと別記事で解説したいと思います。
おしゃれな建物 丸岩は、どこからでも良く見えました
ダムにも、もちろん行きました。
ダム管理事務所では、ダムカードを配布していますが、八ッ場では…
ついコイン投入口を探してしまいますが、無料です
堤体の上から、下をのぞくと…
ダム直下流が、国指定名勝の吾妻峡
上の写真で岩肌が目立つ高さまで、天明泥流は押し寄せたのです。
エレベータで、堤体の下に降ります。
圧巻です
青い空と、コンクリートの白い堤体、そして赤いフィーレンディール橋のコントラストが美しいですね!
フィーレンディール橋はレアな形式ですが、実は都内に何か所かありますよ。
amazingkantoplain.hatenablog.com
発電と、吾妻峡の景観維持のための水量です
吾妻峡 水流のそばに見える固い柱状節理によって峡谷が生まれた
川原湯温泉にも行きましたよ。
貯湯タンクと温泉街…?
温泉街というには、建物や人通りが少なく、ちょっと寂しいですかね…
川原湯温泉の源泉は少し離れた場所にあります
源泉の内部
水位が低いと、昔の温泉旅館の浴槽が見えたり…
水没前の川原湯温泉は、風情があったなぁ…なんて思ったりしますが、とりわけ私の記憶はすぐ改変や美化されるらしいので、当てになりませんね。
繰り返しで恐縮ですが、別の機会に天明泥流について書きたいと思います。お楽しみに~!?
2位じゃダメなんでしょうかって、別にいいんじゃない?
国道130号線。
総延長わずかに約480mと、全国2位の短さを誇る国道です。
(総延長、実延長とも最短なのは、神戸市中央区の国道174号で、約190m)
政令によれば、国道130号の起点は「東京港」、終点は東京都港区芝一丁目、となっています。具体的には、日の出ふ頭と、国道15号(第一京浜)の芝四丁目交差点を結んでいます。
終点は芝四丁目交差点
国道とはいっても、130号は全線が指定区間外なので、道路管理者は東京都です。管理体制はそこら辺の都道と変わりありません。ですので…全国第2位の国道だからと言って、そんなに有難がることもないかと。
表の下のほうを見てね(東京都第一建設事務所管内図より)
それはそれとして、なぜ国道130号の起点である「東京港」が、日の出ふ頭、それもゆりかもめの高架下なのでしょうか?
これは、東京港の歴史を遡れば分かります。
維新以降も、東京に近代的な港湾はなかなか整備されませんでした。
横浜港の猛反対や、遠浅の地形が理由です。
しかし、1923年の関東大震災によって港湾設備の重要性に気づかされ、1925年に東京で初めてのふ頭が完成します。それがまさに、日の出ふ頭でした。
長らく、東京港=日の出ふ頭、の時代が続いたのです。
芝浦ふ頭から見た、日の出ふ頭
日の出ふ頭の倉庫群は1925年以来使用され続けている(グーグルマップより)
ちなみにですが、のちに日の出ふ頭となる、隅田川河口の浚渫土砂によるこの埋立地では、極東選手権競技大会の第3回が1917年に開催されました。バスケットボールなどの競技では、国際試合としては国内初開催だったそうです。ウォーターフロントで新しいスポーツをやりたがるのは、昔から変わらない発想だったのですね。
さて、国道130号の起点が、日の出ふ頭である理由は推察できました。
でも、なぜゆりかもめの高架下なのでしょう?これは、次の図を見ていただければと思います。
ゆりかもめより海側は臨港地区(東京都港湾局ホームページ「東京港臨港地区及び分区」より抜粋)
臨港地区は港湾法に基づき港湾管理者の規制の下にあります。国道130号は臨港地区内には立ち入らないため、起点は臨港地区の入口となっています。
国道130号の起点から、新日の出橋を渡って南に100m、東京港芝浦サービスセンター1階には、「湾岸食堂 波止場」があります。ここまできたら、ぜひ立ち寄ってみてください。
有頭のエビフライ定食 750円!
晴海や豊洲市場を見ながら、ランチができますよ
(参考)
バスケットボールプラザNo.76
(http://jbbs.jp/wp/wp-content/uploads/2017/12/Basketball_Plaza_No76.pdf)
余は、その方らを育てた覚えはないぞ…?
千葉県館山市から木更津市を結ぶ国道410号線。房総半島中央部の丘陵地帯を南北に縦断する国道で、南房総へのドライブの際に抜け道としても使われるそうです。使いました。
千倉や館山から北を目指して走り、鴨川市に入る手前で、千葉県最高峰の愛宕山を主峰とする嶺岡山地に入ります。
コイン式コーヒーマシンもあって、休憩にはよかったです
ちなみに愛宕山は、知る人ぞ知る名峰(迷峰?)です。
まず、都道府県の最高峰の中で、愛宕山は標高408mと最低なのです。都道府県の最高峰の中で1,000mを下回るのは、京都府、大阪府、沖縄県、そして千葉県です。京都や大阪は900m級、沖縄(石垣島の於茂登岳)ですら526mあります。
さらに、これほどまでに低山なのに、とても登りにくい山なのです。高い登山技術が求められるわけではありません。航空自衛隊のレーダーサイト(峯岡山分屯基地)が設けられ、無許可での登頂ができないためです。
それでも、千葉県最高峰なので、レーダーを設置するには都合がよいのです。なぜかって?こちらをどうぞ
amazingkantoplain.hatenablog.com
高所へ行けば行くほど、水平線までの距離が遠くなり、レーダーに探知されないよう海面すれすれで侵入する敵機をより早く発見できるからです。
本題に戻って、嶺岡山地に入ると、ちょっとした驚きをドライバーにもたらす看板が出迎えてくれます。
開港地横浜でも北海道でもなく、房総の山中!?(Googlemapストリートビューより)
看板には、「日本酪農発祥の地」と書かれています。なぜここ、嶺岡山地なのでしょうか?
江戸幕府は、現在の千葉県内に軍馬生産地である3つの牧を所有していました。野田市から習志野市まで広がる「小金牧」。香取市から八街市に広がる「佐倉牧」。そして今回取り上げる「峯岡牧」です。
小金牧や佐倉牧は、江戸から近く、下総台地上で維持しやすかったため、幕末まで管理がおろそかになることもありませんでした。
兵員や物資を当時としては高速で移動できる軍馬は、現代で例えるなら戦車や装甲車のようなもの。牧はある意味、軍用車両の工場です。
しかし、峯岡牧は、嶺岡山地の尾根の上にあり、江戸からも遠い立地です。また、五代将軍綱吉による生類憐みの令発布に伴う軍馬需要の減少や元禄関東地震による損壊もあり、一時期は存続が危ぶまれることとなりました。
その後、八代将軍徳川吉宗による享保の改革の一環として、牧が再興されるとともに、白牛(セブー種、南アジアの牛の一系統で耐暑性が高い)が導入されます。幕府は白牛の乳から白牛酪を生産し、日本橋で疲労回復薬や解熱剤として販売します。
白牛酪は、白牛の乳に砂糖を加え固くなるまで煮詰めて作るそうなので、煉乳かバターに類するもののようですよ。食べたことないけれど
明治に入ると峯岡牧は、新政府の嶺岡牧場として再出発しますが、すぐ民間に払い下げられるとともに、周辺では個人経営の煉乳工場が乱立しました。
江戸改め東京からは、やはり遠い立地なので、濃縮と加糖により輸送性と保存性を高めた煉乳の生産が盛んになりました。当時は、キャラメルなどの製菓材料や軍需用として、煉乳の需要が増大していたのです。
個人経営の煉乳工場が乱立する状態から脱するため、いくつかの工場が合併し房総煉乳となりました。製菓材料を求めていた明治製糖(明治製菓、明治乳業の母体)も出資し、房総煉乳は明治乳業のルーツとなります。
また、森永製菓はミルクキャラメルの原料の国産自給のため、比較的規模の大きな地元企業を買収し、日本煉乳を設立しました。これは森永乳業のルーツとなります。
さらに、日本に進出してきたスイスのネスレが、輸入に頼っていた商品を日本国内で製造するにあたって、1933年に淡路島の藤井煉乳と提携するのですが、この藤井煉乳、発祥の地は峯岡牧近辺でした。
解せぬわけではないが…やはり余ではないぞ?
ここまで、なんと1900文字近くも書いてきましたが、酪農の歴史ブログではないので…そろそろ地形の話をしたいと思います。
なぜ峯岡牧は、嶺岡山地の尾根の上に成立したのでしょうか?解説しましょう。
房総半島は、新第三紀(2300万年前~)以降の付加体からなります。海洋プレートの上に堆積した砂や泥が、海洋プレートの沈み込みの際に大陸プレートに付加した後に隆起して地上に現れた、砂岩や泥岩といった堆積岩です。
しかし、この嶺岡山地は異なります。沈み込んでしまった過去の海洋地殻(プレートとは若干違うのです。地殻+マントル上部=プレート)を構成する、蛇紋岩や玄武岩といった、古第三紀の火成岩からなります。専門用語で「オフィオライト」といいますが、それはそれとして…
嶺岡山地は、他の房総の山々や丘陵とは異なる(地理院地図を加工)
枕状溶岩などに由来する蛇紋岩は、もろく崩れやすいため、分布地域は地すべり地帯となります。また周囲の海成層も断層により破砕され浸食されやすく、鴨川の低地を発達させました。
傾斜量図で見るとわかりますが、嶺岡山地に立地し、峯岡牧を構成する西牧、東牧は、他の山々と違って白っぽい(起伏や傾斜が少ない)です。
こうして、周囲の低地との高低差があり、かつ尾根の上はなだらかという、牧場に適した地形が成立しました。
八代将軍も乳業メーカーも、峯岡牧と地質地形の関係性に、気づいていたかな?
ちなみに、風光明媚な景勝地、鴨川松島では、運が良ければメノウが拾えるそうです。このメノウは、嶺岡山地をつくった蛇紋岩などの火成岩が、この浜辺に打ち揚げられたものです。
行ってみたのですが…拾えませんでした
(参考)
一般財団法人農政調査委員会
「短報・コラム:日本酪農発祥之地「嶺岡牧」の今日的意義(前編)」
「日本練乳製造業の経営史的研究 ー安房地域を中心としてー」佐藤翔平
酒々井町経済環境課商工観光班 「房総の牧」
NPO法人 エコロジー・アーキスケープ 「徳川吉宗再興の江戸幕府直轄牧 嶺岡牧」
温泉科学 日本温泉科学会第 73 回大会特別講演 S4「房総半島南部の地形と地質」高橋直樹
金沢大学理学部地球学科 石渡明「オフィオライトのページ」http://earth.s.kanazawa-u.ac.jp/ishiwata/ophiol_J.htm