『DUNE/デューン 砂の惑星』(※追記あり) (original) (raw)

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、ティモシー・シャラメ、レベッカ・ファーガソン、オスカー・アイザック、ジェイソン・モモア、ジョシュ・ブローリン、デイヴ・バウティスタ、ゼンデイヤ、ハビエル・バルデム、ステラン・スカルスガルドほか出演の『DUNE/デューン 砂の惑星』。

10191年。銀河を支配する帝国の皇帝に貴重な香料(スパイス)の産地である惑星アラキス(別名“デューン”)統治を命じられたレト・アトレイデス公爵(オスカー・アイザック)は、妾妃のジェシカ(レベッカ・ファーガソン)と彼女との間の息子ポール(ティモシー・シャラメ)、そしてアトレイデス家に仕える軍隊を伴って居城を移す。しかし、前任者ハルコンネン男爵(ステラン・スカルスガルド)は、アラキスにおけるスパイスの利権を奪い返しアトレイデス家との長年の因縁に決着をつけるため罠を仕掛ける。

ドゥニ・ヴィルヌーヴがフランク・ハーバート原作の「デューン」を撮る、という情報をいつ頃知ったのかもう忘れましたが、リドリー・スコット監督の『ブレードランナー』(1982) の続篇を撮った人だけに、なるほど納得な人選だと思いました。

もっとも、僕はその『ブレードランナー 2049』は結構酷評してしまったんですが。

いや、VFXは見応えがあったし、あの映画が好きだという人もいるから、あくまでも僕個人の評価ですが、上映時間ずいぶんと長かったなぁ、と。その長さに見合った面白さを残念ながら僕は感じることができなかった。

ただ、あの映画が不利だったのは、リドリー・スコットが撮ったオリジナル版の正統な続篇だったこと。だからどうしたって前作と比較されてしまうのは避けられないし、そうすると何かと不満が出てくるのはしょうがないでしょう。

その点、今回の場合は1984年に作られたデヴィッド・リンチ監督による同名映画の続篇ではなくて「再映画化」なので1からヴィルヌーヴ監督が作り上げられるし、リンチ版とは別物として観ることができる。

また、数年前にはリンチ版の前に企画されていたアレハンドロ・ホドロフスキー監督版についてのドキュメンタリー映画も作られて、「デューン」最新版実現への道は着々と整いつつあった。

だから37年ぶりの「デューン」映画化を楽しみにしていたのです。

先日観た007映画の新作もそうだったように、コロナ禍のために再三の延期を余儀なくされて、ようやくの公開。とても待ち遠しかった。

僕は原作小説は読んでなくて映像作品でしか触れていませんが、一応先ほどのリンチ版と、2000年に作られたTVドラマ版及び2003年のその続篇を観ています。

リンチ版はDVDを持ってて何度も観返してますが、TVドラマ版はレンタルで借りたのを通して1度観たきりなので、どんな内容だったのか覚えていません(何しろ正続篇合わせると500分を超える大長篇なので)。2003年の続篇では、ポール・アトレイデスの息子レトII世を若き日のジェームズ・マカヴォイが演じていた。

原作の方を知らないからそれとの比較はできないし、今回のヴィルヌーヴ版が原作のどのあたりを改変しているのかもわかりませんが、ところどころ、ほとんどリンチ版そのまんまな台詞もあったので、あれは原作通りってことなのかな。

さて、007映画とともに期待していた作品だし、僕は『デューン』の方はドルビーシネマで観たんですが、台数が限られるIMAXキャメラを『TENET テネット』のクリストファー・ノーランと奪い合ってまで撮った映像をできればIMAXでも観たいと思っています。

大きなスクリーンで観るための作品だから、ってのもあるし、あとで理由も述べますが、一人でも多くの人が劇場に足を運ぶ必要がありますから、ご興味があるかたはぜひどうぞ。

リンチ版をご覧になったことがあるかたはそれとの比較が楽しいでしょうし、観ていないかたは新鮮な気持ちでこのSF叙事詩を味わえるでしょうから、劇場鑑賞を推奨したうえで作品の感想を述べていきます。

これからご覧になる予定のかたは、鑑賞後にお読みいただけると幸いです。

デヴィッド・リンチ監督版の内容にも触れていますので未鑑賞のかたはご注意ください。

「リンチ版と比較しないで済む」と思っていたんですが、映画を観ながらどうしてもリンチ版を重ね合わせずにはいられなかった。

そして、あらためてリンチ版の素晴らしさを実感したのでした。

デヴィッド・リンチ版ってちまたでは「失敗作」扱いされているし、事実興行的には成功しなかったんですが、僕は好きなんですよね。癖になる作品だと思う。

リンチ版は劇場公開時には上映時間が137分。のちにTV放映用に劇場版でカットされていた場面を加えた長尺版が189分。

なので、「長大な原作をまとめ切れずにダイジェストのようになってしまった」という評価はわかるんだけど、それでも1本の映画で物語は完結している。

特に原作ファンの人にとってはエピソードが端折られたり改変されたりしているのが不満、ということなのだろうけど、原作を知らない僕にとっては充分異世界ファンタジー映画として魅力的だった。映像面でリンチのヴィジョンが爆発している。

だから、もしもリンチ版をまだ観ていなくて、このドゥニ・ヴィルヌーヴ監督による『DUNE/デューン 砂の惑星』に感動されたかたは、ぜひリンチ版も観て両者を比べていただきたいです。

実は今回のヴィルヌーヴ版『DUNE』のタイトルには「PART ONE」という表記がある。つまり、続きがあるってこと。この1本だけではお話が終わらないのです。リンチ版の途中あたりで映画は終了してしまう。

以前はヴィルヌーヴ本人が「2部作」であることを語っていたけど、最近はそのことを口にしなくなっていたし、映画の宣伝でも2部作だとは言っていない。


裏で皇帝が糸を引いているのを知りながらも惑星アラキスの新しい領主となったアトレイデス家だったが、当主のレトはお抱えの医師ユエの裏切りで暗殺され、宿敵ハルコンネンの来襲で一族は崩壊してしまう。

ジェシカとポールは砂漠に捨てられそうになって脱出、砂漠の先住民フレメンたちと出会う。そして仲間として迎えられて…おしまい。

まさかここで終わるんじゃないだろうなぁ、でも時間的にはそれっぽいぞ…と思いながら観ていたら、ほんとに終わってしまった。

ここまでで155分。…長いなぁ(;^_^A

ジェイソン・モモア演じるダンカンの出番がリンチ版よりも多少増えてたり、またリンチ版ではマックス・フォン・シドーが演じたリエト・カインズ博士(シャロン・ダンカン=ブルースター)がやはりもうちょっと長く出てはいるものの、ストーリー自体は概ねリンチ版と同じ。

だから物語そのものに新鮮味や意外性を感じることはなかった。

そうすると映像の方でそれを感じたいわけですが、まずリンチ版にまったく出てこないメカ、オーニソプター(羽ばたき機)が面白かったですね。

トンボのように何枚もの羽をはばたかせて飛ぶ飛行機。…40秒で支度しな!

こういう、ユニークなテクノロジーが当たり前のように使われている世界って、観ていて気持ちいい。異世界を自然なものに感じさせてくれる。

メッセージ』でも『ブレードランナー 2049』でもそうだったように、ドゥニ・ヴィルヌーヴはVFXを丁寧にやっているので、そちらでの粗は特にないし、155分という時間を使って観客をはるか未来の、僕たちが今住んでいる世の中とはルールも人々の価値観も異なる世界の中へいざなってくれる、そういう映像体験は快感だし、特に前半はリンチ版で描かれた世界をこちらではこう描いたか、という楽しさがあったのも確かで。

ただ、要約するとたいした長さではないストーリーがこうやってじ~っくりと時間をかけて描かれると、広大な砂漠の映像が続くこともあって集中力を保つのが難しくて。

リンチ版ぐらいさくさくとある程度テンポよく進んでくれた方が個人的にはありがたい。

それに、どんなに迫力があっても、やっぱり僕たちが今見ている映像はVFXを駆使した作り物に過ぎないわけですから。

「デューン」って、ホドロフスキーが映画化を企画する前にはデヴィッド・リーンが監督する計画もあったんだそうで、デヴィッド・リーンといえば『アラビアのロレンス』の巨匠なわけで、まんまかい、と思ったんだけど(笑)、『アラビアのロレンス』の方は本物が写ってるんですよね。

砂漠も荒野の中の町も要塞も馬もラクダも人も、映像に写っているものはすべて現実にセットが建てられて撮影現場に用意されたもの。

それらは撮影後に加工された映像とは違う(無論、『デューン』だって砂漠でのロケ撮影はしてるでしょうが)。

『アラビアのロレンス』も4時間近くある大長篇ですが、正直なところ『DUNE/デューン 砂の惑星』を大画面で観るよりも同じ大きさのスクリーンと音響設備の整った劇場で『アラビアのロレンス』を観た方がよっぽどありがたみがある。

一方でリンチ版の『デューン』は見るからに作り物ですが、「作り物」ならではの面白さがあるんですよ。美術にもキャラクター造形にも。

これはデヴィッド・リンチとドゥニ・ヴィルヌーヴという映画監督の資質の違いでもあるし、監督の「キャラの濃さ」の違いでもある。

『ブレードランナー 2049』ではリドリー・スコットと比べられて、今度はデヴィッド・リンチと比べられてお気の毒ですが、そういう企画にかかわってるんだからしかたがない。

リンチ版を観たかたはわかると思うんですが、あちらは限られた上映時間で、出番も少ない登場人物であってもみんなキャラが個性的なので記憶に残るんですね。

ヴィルヌーヴ版は全体的にみんなキャラが薄い。

主演のティモシー・シャラメをはじめ有名俳優がたくさん出演しているから、役者陣の問題ではない。彼ら一人ひとりに別に文句はない。ただ演出が薄味なのです。

ジェシカの師であるヘレン・モヒアム教母を演じてるのはシャーロット・ランプリングだけど、ずっと顔をヴェールで隠してるから事前に知らないと気づかないし、チャン・チェン演じるユエ博士も、『ザ・スーサイド・スクワッド』のデヴィッド・ダストマルチャン演じるメンタートのパイターもほとんど台詞もないうえにあっという間に死んでしまうので記憶に残らなくて、魅力的なキャラクターと感じることもない。

ほぼ同じ内容でもリンチ版の方がはるかに映画として「面白い」んですよね。

アトレイデス家に仕えるハワト(スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン)がなぜか和傘のようなものを持って日除けしていたり、ユエが中国語のような言葉を話したり、違和感のあるようなことをあえてやってるけど、あまり意味を感じなかった。この映画を製作したレジェンダリー・ピクチャーズは中国資本だから台湾出身のチャン・チェンを起用したり謎の日本要素を一瞬入れたのか?と思っちゃったほど。

それから、これは観る前から気になっていたんだけど、リンチ版ではホセ・フェラーが演じた皇帝や、スティングが演じたハルコンネン男爵の甥フェイドが予告篇に出てこないばかりか、映画サイトやWikipediaにもキャストが記されていないので不可解で、出演者を極秘にしているんだろうか(それにしては、すでに観た人たちも誰一人言及していないのがあまりに不自然)、と思ってたら、観てみたらなんと皇帝もフェイドも劇中に登場しなかった。

繰り返すように僕は原作を知らないし、原作にかなり忠実だといわれるTVドラマ版の内容ももはや覚えていないので、もしかしたら彼らの登場はわりと遅めなのかもしれませんが、なんだろう、このガッカリ感。

じゃあ、ハルコンネン男爵やもう一人の甥ラッバーン(デイヴ・バウティスタ)は活躍するのかといったら、これもそんなに出番はないんですよね。ラッバーンが暴れる場面もほとんどないし、ハルコンネン男爵はメシ食ったりユエを刺したり真っ黒い湯船に浸かってるだけで、リンチ版で怪演したケネス・マクミランのようなアクの強いユーモアや醜悪さもない。

空中に浮かんだ時に垂れ下がる衣服のせいで、まるで背が伸びる「ねば~る君」みたいに見えてちょっとだけ面白かったけど。

あと、リンチ版では有名なナヴィゲイター(航宙士)も出てきませんでしたね(もしかして、ハルコンネンの城にいたあの真っ黒な“カオナシ”みたいな奴がそうなのか?)。TVドラマ版でもデザインの異なるナヴィゲイターが出てましたが。

しかも、全宇宙が求める“スパイス”は宇宙航行に欠かせない、と説明されるにもかかわらず、その宇宙航行の様子が描かれないんですよ。

これはさすがにあまりにもストイック過ぎないだろうか。

派手派手だったリンチ版とは違うものを作りたい、ということかもしれないけど、それでせっかくの見せ場を削っちゃったら意味がないのではないか。

リンチ版もそうだったように、このヴィルヌーヴ版『デューン』には天文学的な制作費がかかっているようだけど、どこにそんなに大金を使ったのか不思議でならない(まぁ、セットや衣裳にはお金かかってそうだけど)。

チャニ役のゼンデイヤが撮影に参加したのはわずか4日間だったそうだし、ハビエル・バルデム演じるスティルガーだって出番はけっして多くはない。

もちろん後篇の撮影も終わってるんですよね?まさか、この映画がヒットしたらまた撮影再開する気なの(ゼンデイヤが4日間しか参加してないってことは、続きはまだ撮ってないってことだと思うが)?

いつもより多めの料金払ってクリアな画質と音声で観たから、それはそれでいい体験にはなっていますが、作品に対する満足度はぶっちゃけそんなに高くはなかった。

ティモシー・シャラメはリンチ版の主演のカイル・マクラクランに比べるとより少年っぽいし(胸も薄くて体格もそんなにたくましくはない)、だからこそ、今後「救世主」として覚醒する彼に成長の跡が見られれば物語としても効果的だろうし、「今、なぜ“デューン”の映像化なのか」ということが感じられるような後篇を望みたい。

60年以上も前に書かれた原作の物語をただ単にトレースするだけでは、「EPIC」な作品として観客の心に刻み込まれることはけっしてないでしょう。

「夢は物語を作るが、人は目を覚まして大事を成す」

これはまさしくドゥニ・ヴィルヌーヴが目を覚まして夢を実現しようとしたプロジェクトだし、なんだかんだ言いつつも後篇も(この映画が期待されたほど集客がなければ続篇の制作も危うくなるんで、どうぞ皆さん映画館へ足を運んでみんなの力で続篇を実現させましょう)観るつもりですが、ハッキリ言わせてもらうけど、リンチ版が失敗作だとされていることに僕はいまだにまったく納得がいかないし、もしもこのヴィルヌーヴ版が世の中で絶賛されるなら、リンチ版もそれと同等かそれ以上に高く評価されなければおかしいと思う。

ヴィルヌーヴ監督、必ず後篇は作って公開してくださいね。

その時こそ、この前篇と合わせて歴史的な作品となることを願っています。

追記:

その後、IMAXレーザーで再鑑賞。

映像が見応えあったのはドルビーシネマでも同様だったし、だからIMAXでもその辺は充分に堪能。

一度目の鑑賞でストーリーの流れもラストも知っているのでそんなに長さを感じなかったし(それでも終盤あたりでウトウトしてしまったが)、二度目は前回で目に留まらなかったところに注目することができました。

2回観たことで、ようやくデヴィッド・リンチ版をちょっと忘れることができたのもよかった。

物語の方は、劇中で何度も映し出される雄牛の頭の壁掛けと闘牛の置物、闘牛で命を落としたというポールの祖父のことなど、あらためてこれは「力(ちから)」をめぐる闘争劇であることが意識された。

一度目の鑑賞のあと、リドリー・スコット監督の新作『最後の決闘裁判』を観たんですが、あの映画で描かれていたこととこの『デューン』で扱われているものは共通していて、圧倒的な権力を持つ者に仕える者たちが地位と富を奪い合う。また、どちらにもラスト近くには命を懸けた決闘の場面がある。

『最後の決闘裁判』ではそんな男たちによる「マウンティング大会」の中で犠牲を払わされる女性の視点から「強さ」を追い求める行為を批判的に描いていましたが、『デューン』では、人を殺すことは一度自分を殺すことなのだ、として、“決闘”は主人公の通過儀礼の一つとして描かれる。

ポールは殺した相手の持っていた知恵を得る。

ゼンデイヤ演じるチャニが「ジャミスは強いわ」と言ってたわりにはあっちゃりポールに殺されちゃうのはどうなんだろ、とは思ったけど。あれはポールがダンカン(ジェイソン・モモア)に鍛えられてきて格闘の技術を学んだ成果、ということでもあるんだろうけど、それにしては砂漠の民のくせしてジャミス(バブス・オルサンモクン)弱過ぎだろ、と。

ジャミスはデヴィッド・リンチの189分長尺版でもポールに決闘を挑んで負けるので、その部分は原作通りなのかもしれませんが。

『デューン』では「力」を求めるのは男性だけでなく、ポールの母ジェシカ(レベッカ・ファーガソン)が属する女性だけの集団“ベネ・ゲセリット”が人々の交配に介入して超人“クウィサッツ・ハデラック”を産み出そうと画策している。

ベネ・ゲセリットだけが持つ“ヴォイス”(声で相手を操る能力)を男であるポールが持つことに教母は怖れを抱いている。

この1作目ではまだ生まれていないが、ポールにはその後、妹アリアができて、彼女は母の血を受け継ぎ、また砂虫が吐き出す“生命の水”の影響も加わって特殊な力を持つようになる。

父レト・アトレイデスの跡を継ぐことに長らく躊躇していたポールは、先住民のフレメンと出会って彼らとともに生きることを決意する。

劇中では、ポールが皇帝を目指すようなことも口にしていた。その意味するものはなんなのか。

ポールを演じるのが中性的で少年の面影を残したティモシー・シャラメであることにも意味が込められているのでしょう。

同じ回を観ていた男子二人組が、ダンカンが死んでしまったことにショックを受けていて「まさか死ぬとは思わなかった」と語り合っていてちょっと微笑ましかった(^o^)

ダンカン役のジェイソン・モモアはティモシー・シャラメとは対照的でたくましくていかにも「戦士」といった風貌の人だから(何しろ“アクアマン”ですからw)、その彼が死んでポールのようなキャラクターが生き残っていくことは、今後、ヴィルヌーヴ監督が描こうとしているものを示唆しているように思える。

アラキス統治の前任者ハルコンネンのように武力や圧制による支配ではない、別の道を進むことを選ぶのであろうポールの“未来”は、ひとえにこの映画の興行収入にかかっているが(笑)

僕はヴィルヌーヴ監督の前作『ブレードランナー 2049』には激しく違和感を覚えて酷評に近い感想を書いたんですが、おそらくあの映画で描かれていたものと(あれもまた、親子や遺伝子についての物語だった)ヴィルヌーヴ版『デューン』は繋がっているのだろうし、リドリー・スコットの『最後の決闘裁判』を観たあとに再度『デューン』を鑑賞したら面白さが倍増したのはとても興味深い。

リドリー・スコットはドゥニ・ヴィルヌーヴにとって父(レト)のような存在であり、また師(ダンカン)でもあるのでしょう。

また、『デューン』の音楽を担当したハンス・ジマーはクリストファー・ノーランの『TENET テネット』を断わってこちらを選んだんだけど、ヴィルヌーヴとノーランはずっとIMAXキャメラの争奪戦を繰り広げていて、ヴィルヌーヴはノーランにIMAXキャメラを独占されて悔しい思いをしている。

まるでスパイスを獲り合っているアトレイデス家とハルコンネン家のようでw そんでハンス・ジマーはスパイスww

じゃあ、ノーランはハルコンネンなのか?^_^;といったら、多分、そうでもあるし、もしかしたら、続篇で登場する(…んだよね?それともキャラを削っちゃうのか?)ハルコンネンの甥フェイドがその役割を担うのかもしれない。

物凄く個人的な動機で映画を作っている。念願の企画だっただけに。

力をめぐる銀河全体を舞台にした戦いを自分の人生に重ねるという、なかなか壮大な妄想。

デヴィッド・リンチ版『デューン』を僕は宇宙を舞台にした「ファンタジー映画」として楽しんできたんですが、ヴィルヌーヴ版はより現実の世界を反映させている点でどこか「現代アート」(デザイン面でも)の趣きがある。

感想の中ではデヴィッド・リンチ版と比較して批判的なニュアンス(というか、評判の悪いリンチ版の全面擁護)で書きましたが、リドリー・スコットの『最後の決闘裁判』と併せて観て、このヴィルヌーヴ版『デューン』について急に何か腑に落ちたところがあって、続篇がますます楽しみになってきたと同時に、父であり師であるリドリー・スコットが新作で描いた「強さ」への妄執の正体やそれがもたらすものをヴィルヌーヴがどう受けとめて次作へ繋げていくのか、興味は尽きない。

第94回アカデミー賞作曲賞(ハンス・ジマー)、音響賞、美術賞、撮影賞、編集賞、視覚効果賞受賞。

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