第2章:学生時代──海外遊歴の謎・文学への目覚 (original) (raw)

2-1. 父アレクサンドル没後の動向

1902年2月11日から12日にかけての夜、父アレクサンドルが亡くなった。おそらく清が小学校三年生を終える頃のことだった。アレクサンドルは、「記録文書の証言によると、(…)死に先立って遺言を口述筆記し、「日本にいるその一子の世話」をマリヤ・マトゥヴェーエヴナ・ロリス=ダマンスカヤに託し」た(グザーノフ氏p.44)。それでは具体的にどのような「世話」がなされたのだろうか。

まず、アレクサンドルの遺産の一部が清に託されたということは事実だろう。このことはグザーノフ氏(p.45)も「死んだ少年の父親の遺言で、マリヤ・ダマンスカヤがかなりの遺産を取得した」と述べているほか、大泉黒石「放浪の半生 (文壇数奇伝─その一─)」においても「伯母達から貰った父の遺産(七八千円位しかなかった)」が「長崎の香港銀行」に預けられていたとされている。これは「長崎における唯一の外国銀行」であった香港上海銀行のことだろう[1]。この銀行は「長崎の財界とは直接の関係は薄く、在留外国人、とくに貿易商を主な取引先として、外国為替やロンドン、上海、香港における外貨の売買を主要業務とした特殊外国為替銀行であった」という[2]。「七八千円」というのを仮に信じるとして、当時のそれがどのくらいのものであったかというと、1894年及び1907年の公務員の初任給が「五十円」、1911年で「五十五円」とのことなので、少なめに見積もって7000円の貯金があったとしても、公務員の11年分の年収程度はあったということになる[3]。少なすぎるというほどではないが、1902年の父の死からまもなくこれが得られたとして、高校を卒業するまでの生活が充分に保障されるほどの額ではなかったといえるだろう(『俺の自叙伝』に書かれているように、遺産の多くはロシア側の親族に持っていかれたのだろう)。なお、彼の経済状態に関する回想には例の如く一貫性があまりなく、「七つ八つから質屋通いの味を覚えた」とか[4]、中学校時代でさえ月謝滞納で悩むほどに貧乏だったという回想がある一方で[5]、大泉氵顕氏によると「銀行利子だけで成人するまでを過せる額であったと父親は私に話したことがある」という。いずれにせよ、第三高等学校に通う頃にはほとんど貯金が底をついていたようで、挙句の果てに退学することになったようだ。

それから、大泉黒石の作品には父の没後にロシア側の親類によって諸外国へ連れていかれたというエピソードが度々登場する。例えば、『俺の自叙伝』では父の埋葬のためにウラジオストクまでついて行って、そのままロシア…フランス…スイス…イタリア等を転々とした。曾祖母の死を受けて帰国して、「長崎の中学の三年級」に入学(ところで『俺の自叙伝』では曾祖母の死はトルストイの死=1910年11月20日と同時期だったとされているが、一方でトルストイの死を日本で知ったとする随筆もある[6]。曾祖母に関しても、彼が日本にいる時期に亡くなったという記述が見られる[7])。21歳で中学校を卒業した後、再びオデッサ…モスクワ…ペテルブルグと転々して、1917年に三月革命を受けて再び帰国したという。また「放浪の半生 (文壇数奇伝─その一─)」では、やはり父の没後にロシア側に親族に引き取られて、モスクワやパリの学校に通った後、曾祖母が死んだ時に一度帰国。再び海外へ行ったようだが、国籍は日本にあることから「兵隊前にはどうでも故郷へ戻らねばならない」ため、「十八か十九」で長崎に戻った(実際に清が徴兵されたのかは不明)。「それきり私は再び父の国へは行かない(四年前シベリヤには行ったが)」とあるため、ここでは『俺の自叙伝』における中学校卒業以降のロシア行及び革命との遭遇は暗に否定されているといえる(シベリア行に関しては「大泉黒石の〈シベリア行〉追跡」参照)。長崎に帰ってからは鎮西学院の「四年級」に入学したという(『俺の自叙伝』と一学年違う)。

以上のような海外遊歴については、グザーノフ氏とШаронова氏の論文にも一応は書いてあることだが、確たる証拠は示されておらず、いずれも推測の域を出ていない(グザーノフ氏は全て推定という形で書いている。一方、Шаронова氏は事実のように書いているが、典拠は示されていない。おそらく前述のグザーノフ氏や中本信幸氏によるロシア語文献を参考にしたのではないかと思われる)。

清の家族には、彼の海外遊歴について否定的な意見を持つ者が多い。志村有弘氏の聞き取りによると、「黒石の遺児大泉湧は、生前の母から聞いた話だがと断って、(…)「俺の自叙伝」中に於けるロシアの話は、黒石の妻美代が生前にあれは全く虚構であるとも語っていた」という[8]。三男の大泉滉氏は、大河内昭爾氏との対談の中で、大泉黒石『俺の自叙伝』のパリに関する話が出たとき、「その点、ちょっと信憑性がない」と述べ、また大河内氏がトルストイと黒石の関係について訊くと、滉氏は「私の兄にいわせると、あれは嘘だ」と答え(氏の兄は長男の淳氏か次男の氵顕氏)、大河内氏が黒石の父の故郷について「トルストイの家の傍」だったかということについて問うても、滉氏は「それもわからない」と答えている[9]。大泉氵顕氏もまた、清の海外遊歴について「私の生まれる前のことだからその真実は全くの所不明である」としており、そのうえで「若し虚構であるとするならば素晴しい創作と見なす可き」と述べている[10](この意見は四方田犬彦氏の「もし黒石の自叙伝にいささかでも虚構があるのだとしたら、彼の文学はそれゆえにいっそう輝いていると、現在のわたしは考えている」という見解に通ずる[11]。これに関して私も全く同意見である)。

清の海外遊歴についてはこれといった証拠が見出せない一方で、1902年春から1912年春(本章第4節「鎮西学院中学部時代──文学への目覚め」参照)までの約十年間、彼がどこで何をしていたのかを示す史料はほとんど発見されていない。この頃の消息が窺えるものとしては、1910年夏に長崎で描いたスケッチ[12]、1911年初夏にシベリアで描いたスケッチ[13]、1912年冬にウラジオストクで描いたスケッチ[14]等が挙げられるが、これらは絵の中に年数が書かれているというだけのことなので、信憑性に欠ける(掲載されている絵が本当にその当時描かれたのかどうかを確かめる術はないし、実際に昔に描いた絵であっても年数だけ後から書き足すこともできる)。

この空白の十年間の一時期にロシア側の親類によって海外へ連れていかれていたという可能性は十分にある。父の遺産を譲り受けていたらしいこと、ロシア側の親族の写真を清が持っていたこと(自叙伝などに掲載されている)、また生前のアレクサンドルに関する情報が自叙伝的作品に盛り込まれていること等を鑑みると、アレクサンドル没後にロシア側の親類と日本にいる清との間に何らかの連絡があったことは確実である。そのようなロシア側の親類との交流を自由自在に膨らませたのが『俺の自叙伝』の「少年時代」であったとみるべきだろう。

ここで、清の海外遊歴について考える示唆となる文献を紹介しておく。詳しくは第4章、第5章にて紹介するが、彼は「大泉黒石」として活動する前にもいくつかの筆名で作品を発表していた。その一つが1917年8月に「大谷清水」という筆名で発表した『午』(日吉堂本店)である。表紙や口絵に「大泉」という判があること、そして何よりその内容に清の来歴や大泉黒石の作品と酷似する点がいくつも見出せることから、これが清によるものである可能性は極めて高い。

本書は現代で言うところの「自己啓発本」にあたるような内容の本で、章ごとのテーマに沿って偉人の故事や名言、著者自身の経験や見聞を紹介しつつ、処世訓・人生訓風にまとめるといった趣向のものである。本書の随所に筆者自身の過去に関する記述が見出せるが、その最たるものが最初の章「午の生い立ち」である。これはさながら「もう一つの自叙伝」とでもいうべき内容のもので、一度でも大泉黒石『俺の自叙伝』を読んだことがある者ならば目を見張らざるを得ないことがつらつらと語られている。

まず初めに自分の年齢について「二十五歳の今日」と書いてある。数え年だとすれば、これは当時(1917年)の清の年齢と一致する。さて筆者は「十三四歳」の頃、新井白石『折焚く柴の記』を「非常に(…)耽読した」という。そして、「今でも判然(はっきり)記憶(おぼえ)て居る」といって、暗記している白石の文章が長々と引用されている。この記述から、「黒石」というペンネームの由来は単純に新井白石に拠るのではないかと推測できる[15](もしそうであれば、新井白石の幼名「君美」を名付けられた由良君美氏との運命的な一致だといえよう[16])。

ここから筆者の幼少期について長々と語られているが、ほぼ全ての記述が大泉黒石のそれと酷似している。「私には乳呑子の時から両親が死んで居ない。伯父も伯母もない兄弟もない、老祖母と只二人で其時分から暮らして来た」(清には伯母と曾祖母もいたが、二人は彼が幼い頃に亡くなった)。この老祖母は「片盲目」だった。小学校二年生の頃には『千字文』に熱中した(このエピソードは大泉黒石の自叙伝的作品には見られない)。自身のルーツを知ったきっかけについては次のように語っている。「尋常一年生から二年生になろうとする頃、ふとした事で、横文字の存在を始めて知った」。「それは、古い支那鞄の中から、父が残して逝った手紙があったから」であった。それで、その文字を分からないなりにも真似して書いていたが、「弘化年間に生れた老祖母」(弘化年間は西暦で1845-1848年なので、祖母は当時五十代半ばくらいだろう)も、尋常小学校の先生も、そこに書かれていることを解読することができない。「到々、その儘解らぬなりで翌年の尋常三年生になるまで、持ち越して、丁度九ツの年、外国の学校へ入学してからやっと解った。それは、英語だ英語だと信じていたのだが、豈図らんや、露西亜語であったのだ」。これを読む限りでは、「外国の学校」に入るまでは自分の父がロシア人であるということさえ知らなかったらしく、やや不自然ではある。しかし「古い支那鞄」から「露西亜語」の手紙が出てきたということは、清の父アレクサンドルが天津や漢口の領事をしていたという事実と符合する。「翌年の尋常三年生になるまで、持ち越して」というのは分かりにくいが、「馬の主張」という章では「私は尋常の二年を修業した計りで、それで中学の三年の編入試験を受けて…」(115頁)と書いてあるため、『午』によれば小学三年生を修了する前に退いたということになる。もっとも、1900年(明治三十三年)の小学校令によって三年制の尋常小学校は廃止され、全て四年制に統一されており、これは1899年に入学したと推測できる清の場合も例外ではなかったはずである[17]。参考までに清と同年生まれかつ同年に小学校に入学した者の年譜を見てみると、市川房枝獅子文六、土師清二、福田正夫南洋一郎村岡花子、百田宗治は尋常小学校を四年間通っていたことが分かる[18]。ということは、清もまた本来は四年間の就学義務があったはずで、途中で退学するということが可能であったのか、よく分からない。

さて問題は彼が入学したという「外国の学校」だが、これがなんと長崎の学校なのである。

その外国の語学校というのは、生れた土地、──肥前国長崎の町──に外国人(主として仏国の天主教宣教師)が建てている白壁造りの学校であった。教える人も外国人、自分と一緒に習う人も皆外国人で日本語を饒舌る男は自分計りで、自分は、此外国人連中の間へ飛び込んだ事は飛び込んだものの、外語が解らぬから、二ヶ月余りは、まるで啞のように黙って居る。すると、物好きな西洋人の少年が集って来て、自分を取り巻き乍ら、毎日々々、面白そうに饒舌っている。無論何を言って居るのか解らぬ。それが毎日つづくのだから私は堪ったものでない。十歳になった計りの自分は、時々、腹が立って、泣き出しそうになることがあったけれども、やがて、三月半年と経つに従って、怪しい仏語とも英語とも、また露西亜語ともつかぬものを饒舌り始めるようになった。

尋常三年生位の頭脳である。仏語と英語で、物理化学を詰め込まれるもには、全く以て、閉口せざるを得なかったが、それでも、落第せずに十四歳、どうやら卒業できた処を見ると、甚だ不思議の感に堪えない。

其時習った先生は、大部分死んだ。残る人は欧州大乱に兵士として出征したが、多分戦死でもしたのであろう。杳として便がない。…

長崎には宣教師による学校がいくつかあるが、ここに書いてある条件を満たすのはフランスのマリア会が経営していた海星学校である。1898年9月に東山手にて落成した校舎は、まさに「白壁造りの学校」だった[19]。当時、長崎で外国人の小学生を教育しているのは海星のみであったため、各所から子どもを海星に寄宿させる外国人が多く、特にロシア領事官やロシア正教の教会、ロシア人の住宅は海星にほど近い南山手にあったため、ロシア人子弟が多かったという[20](ただし1905年度の生徒・教員の内訳は「日本人上級」65人、「外国人小学生」25人、「商業学校生」209人、教員23人のうち欧米人14人で、外国人生徒は年を経るにつれて減る一方であったようなので、教師はともかく「自分と一緒に習う人も皆外国人」という回想には幾分か誇張が含まれていると考えるべきだろう[21])。日露戦争が始まってもロシア人生徒達は引き上げることなく、また日露生徒間の対立も起こらなかったようだ[22]。教師はほとんどがマリア会から派遣されたフランス人で、英仏語が必修であったほか、日本人教師が担当した国語、漢文、習字、商業科(海星商業学校への改編以降)を除いて全ての授業(数学、物理化学、会計学、歴史、地理、体操、図画、用器画、音楽、修身、道徳教育など)が「外国語まじり」で行われた[23]。さらに、多くの教師は日常の規律から成績の採点まで、あらゆる点で厳格であった。そのため、きちんと海星の学科を修了した者は近隣のどの学校の卒業生よりも英仏語に堪能になったという。もし清がここに通っていたとすれば、たとえ『俺の自叙伝』に書かれているような海外の学校に入らなかったとしても、さながら「国内留学」の如く様々な言語が飛び交う空間において幼い時期を過ごしたことになる。コスモポリタン的感覚、キリスト教への興味、彼の生真面目な一面なども、ここで培われたのかもしれない。

「午の生い立ち」をよく読むと、この学校に入学した時期については「丁度九ツの年」と「十歳になった計り」という記述が混在している。仮に満年齢と数え年が混ざっていると考えて、これを清の生年と重ね合わせれば、入学は1902年のことだったと推測できる。同校は1903年4月27日には甲種商業学校として認可され、「海星商業学校」となり、「商業予科二年、本科四年」と「日本人小学校四か年」に組織された[24]。この時、1904年の卒業を望んだ少数の生徒を除き、海星学校時代から通っていた者は「それぞれ相当した各学年に横すべり」になったという。9歳で入学、14歳で卒業ということは、予科と本科の両方に通ったと考えられ、卒業は1908年3月だったと推測できる(海星商業学校になってからは4月始業、3月終業だった[25])。

そして実際、『海星同窓會々員名簿』の海星商業学校の「第八回(明治四十五年)」の卒業生の一人として「大泉清」と書かれている[26]。これは同姓同名の他人ではなく、黒石大泉清その人である可能性が極めて高い。なぜなら、新名規明『長崎偉人伝 永見徳太郎』(長崎文献社)によると、海星同窓会々報『窓の星』第十四号(1927年12月10日)収録の豊島晴利「長崎のちゃんぽん」の中で海星学園の同窓生として「大泉黒石」の名前が挙げられており、また海星同窓会々報第三十号(1937年12月25日)にも「海星出身者として大泉黒石の名前があがっている」という[27]。さらに大泉滉氏への取材記事によると、清は「長崎商船学校で学んだ」という[28](当時長崎に「商船学校」は無かったが、商業学校は「市立長崎商業学校」と「私立海星商業学校」があった)。以上から、彼が海星商業学校に通っていたことはほぼ確実である。

では、なぜ彼はここに通ったことを語らなかったのか。深読みすれば海外遊歴のエピソードが実は海星での体験を膨らませたものであったからだとも考えられるし(例えば後述のように『俺の自叙伝』におけるモスクワの小学校の記述は『午』における海星での学生生活の記述に酷似している)、単に話を単純にするために海星での体験は省略して語っていたとも考えられる(ただしそれにしても、彼が終生海星について言及しなかったのは不自然ではある)。

気がかりであることは、「午の生い立ち」の記述からの推測と、名簿に書かれている卒業年が一致しないことである。今のところ、この齟齬をいかに解釈すべきか判断ができないため、海星学園に保存されているらしい商業学校時代の学籍簿を確認次第、再考したい[29]。どのような形にせよ、彼が変則的な学生時代を送ったことは間違いない。

「午の生い立ち」によると、「十四歳」で海星らしき学校を卒業した後、「日本語の稽古だと、それから中学の三年級へ跳んだ。それから早稲田大学へ(…)一年、自分の学ぶ処でないと思って、京都の三高へ一跳。三高は駄目だと感じて、今度は東京の一高へ一跳」、それをも退いて現在は「社会の濁浪へ一跳する元気を養っている」という。清の学歴に当てはめれば、「中学の三年級」というのは鎮西学院の中学部である。海星を修了した後に他の中学に中途入学したというのは一見不自然ではあるが、当時の海星は商業学校としてしか認可されていなかったので、仮にここを修了しても上級学校への進学においては商業系統への受験資格しか認められなかった。しかし彼に高等商業学校へ進学する意思は無かった[30]。そこで、高等学校への受験資格を得るために鎮西学院に入学したのだと推測できる。ただし、海星商業学校を1912年3月に卒業し、その年に鎮西学院中学部の「三年級」に編入された場合、第三高等学校入学(1914年9月)の時点で未だ鎮西学院中学部の五年生であったことになり、おかしい。また、三高入学までの間に早稲田大学に一年通ったということにも無理が生じる。仮に「放浪の半生 (文壇数奇伝─その一─)」で語られたように編入が四年生であったとすれば、1914年3月の卒業以降に一度上京して、9月に第三高等学校に入学するまでの間に、早稲田大学で聴講生のようなことをしていた時期があったと考えられる(本章第5節「鎮西学院卒業後の進路」参照)。以上から、鎮西学院中学部の四年生に編入したとするのが妥当ではないかと考えられる。

2-3. 『午』から読む黒石大泉清──作品の類似・睡眠論・借金論

前述のように『午』には清の幼少期、学生時代の経験、大泉黒石の作品との類似点が多く見られる。いくつか興味深い点を指摘しておく。

大泉黒石の作品との類似点では、例えば先に引用した「午の生い立ち」の「外国の語学校」に関する部分は、ほとんど表現はそのまま、大泉黒石『俺の自叙伝』では「モスクワの小学校」に入学した時のこととして描かれている。

俺はモスクワの小学校へ放り込まれたが、露西亜語が満足に解らないので、半年の間啞で通した。何と謗られても平気でニコニコしていた。困るのは運動時間に露西亜人の子が、不思議な奴が来たというので、俺の周囲に、うようよ集って勝手な熱を吹いていたことだ。それがうるさくって仕様がない。露西亜人で露西亜語が解らないなんて、天下の奇観だ。しかし三年たったらやっと解った。

同級生の外国語が分からないから「啞」のように黙っていたということ、それでも同級生達が集まってくること、そのうち分かるようになってきたことなど、表現から全体の流れまで「午の生い立ち」とほとんど一致している。海星学校とモスクワの学校のいずれが事実だったかについてはひとまず問わないとしても、二つの記述が同一の体験から導き出されている、あるいは『俺の自叙伝』の文章が『午』のそれを基にしていると推測することはできるだろう。他に「よし!!!」(石川島造船所での転落事故)、「靴十万足」(ロシア用の軍靴製造での失敗談)という章に、大泉黒石『俺の自叙伝』や『人生見物』に登場するエピソードの原型が見出せる。

黒石の作品の登場人物と同姓同名の人物も登場している。「桑の弓」という章には「私を助けて呉れた。長崎香港上海銀行支配人ゼームス、アドロン氏」という人物が登場している。一方、大泉黒石『俺の自叙伝』にもほぼ名前が同じである「ゼームス・アズロン」が登場しているが、こちらは「俺の叔母が巴里で金を預けていた銀行の支配人で、叔母がスイスへ去る時、面倒だろうかと言って俺の保証人になって貰った」人物になっている(全集65-68頁、文庫95-98頁)。自叙伝では、アズロンは黒石と旅行したり、折に触れて学業の様子を聞いたり、「もし相談があったら自分の家へ来てくれ給え」と言ったりと、海外を転々としていた黒石の世話役をしている。また大泉黒石「僕の腕白時代」では、学生時代に「遥々英吉利のロンドンからアヅロンと云う男爵」が「小使い」を送ってくれていたという[31]。大谷清水『午』には「私を助けて呉れた」と書いてあるが、目の不自由な祖母との二人暮らしをしていた彼に対して、アズロンはさながら庇護者のようにふるまっていたのかもしれない。実際に香港上海銀行長崎支店の「支配人」として「ゼームス・アズロン」なる者がいたのかについてはまだ確認ができていない[32]

睡眠について触れた章「一尺を一寸に」では、著者は昼寝を活用しつつ「毎夜四時間位しきゃ寝ずに十年余りやって来た」という。また、「雨だれと洪水」という章では、十歳の時に「午前五時、我は天に誓って、仏語文典十頁を、午前七時迄に全部暗誦す」という誓いをしてこれを守り通し、「今日では、それが、如何位私を助けて居るか解らない」と述べている。おそらく海星に通っていた時期のことだろう。これらの記述を信じれば、彼はいわゆるショートスリーパーだったのかもしれず、それならば彼の驚異的な執筆量にも納得できる。彼が早起きであったということは事実のようで、四女の淵氏は「父は、年中四時に起きましたが一人でコトコトとコーヒーを沸かす音で五人の子供達は目を覚ましました。みんな起き出して窓ガラスに額をくっつけて待ってると父が出て来て、庭の真中に立ってじーっと中天を仰いでるの。冬には空一ぱいの星よ。「やってるやってる」って子供達は息を呑んで見てると、父は天を仰いで手を打つでもなく、合わせるでもなく、中点を仰いだままおもむろにあごをまわすの。それが礼拝らしいのよ。きっと宇宙と一体になってたのねえ。父といえばその姿を思い出すわ。碧い眼の一つ星を・・・。」と回想している[33]。ちなみに、大泉滉氏も自己流の健康法として「四時間以上寝るな」と主張しており、これは清の遺伝かもしれない[34]

「仕事小言」という章の後半は借金論になっており、後の清の生涯とも考え合わせられ、様々な点で興味深いものになっている。「ハズリット」(ウィリアム・ヘイズリット)によると、世間には二種類の人がいる。「金を昵乎(じっ)として握って居る事が出来ない人」と「他人の金から手を放すことの出来ない人」である。前者は「其人の眼前に出て来る物に向って構わずにどしどし金を投げ棄てるから」、「絶えず金がない」。後者は、「自分の金は費(つか)い尽して了って金でも貸そうと云う気のある人からは、常に借り廻っている」。ところで清は明らかに後者だった。津田光造(辻潤の妹の夫)は、「大泉氏は金に困っても、何時か金は入るものと楽天的に構えて、困った様な顔をして居た事がない」と評している[35]。このような性向は大泉黒石の自叙伝的作品や随筆にも窺える。

さらに、「借金の天才は、長い月日の内に、遂に身を亡ぼして了うのである」として、ウォルター・スコットが借金の返済のために原稿を書き続け、借金を完済した日に疲労で死んでしまったという話が紹介されている。スコットは「彼の自重心自尊心義務と云う観念」から、友人が義援金を募ろうとしたのを「断乎として断って了った」というが、その一方で清は友人からもよく金を借りていた。これに関して、若い日の大泉滉氏が岸田今日子宅で彼女の「ベッドにもぐりこんで」いたら、「オヤジの岸田國士が出てきて、えらいおっかない顔してる」、それで何を言うかと思ったら「あなたのお父さんに貸したお金十五円早く返してくれ」と言ってきた……という本当なのか嘘なのかよく分からない話まである[36]。また清はスコットと違って、後半生は貧苦にあえぎながらも、ろくに原稿料を稼ごうとしなかった。おそらく書けなくなっていたのだろう(第6章参照)。「借金の天才」であった清は、幸い温泉宿の主人や農家の人々に助けられていたが、家庭は崩壊してしまった。

自身の借金の経験も語られている。ジョージ・ハーバードの「借金のある人は嘘(うそ)吐(つ)きだ」という言葉を引いた後、「これは恐らく真実であろう」として実体験が綴られる。「十五歳の時分、或人から金を十円借りた事がある、その利子が積り積って、元金合計で五六十円になって、やっと返すことが出来るまでと云うものは、殆ど、貸主に対しては勿論のこと、誰に向っても嘘ばかり吐(つ)いていた。最初は其嘘を吐くのが良心の手前、随分苦しかったけれども、嘘言う事が度重なるにつけて、段々平気になって了っているのに気がついて、自ら呆れざるを得なかった。」このように、清の虚言癖ないし造話能力は他人への疚しさによって開花したのかもしれない。さらには、「平気で嘘が吐ける人には、必ず今か昔に借金があるとみていいと悟った。」これもやはり自身の後の生涯を予言しているかのようだ。

最後に、借金に関する教訓が述べられている。「借金をせずに済む道があるならば、それは、自分の実際の境遇より以上に、他人に見せつけぬことである」というが、これは清と考え合わせると、どうだろうか。『俺の自叙伝』をはじめとする自身の境遇や来歴に関する彼の誇大ともいうべき語り口は、見栄っ張りといえば見栄っ張りだが、そこには強い願望や嫉妬心のようなどろどろとしたものはあまり感じられない。むしろさっぱりとしている。この点、同じ虚実綯い交ぜの自伝でも、寺山修司の『誰か故郷を想はざる』とは好対照をなしているようだ。家庭の欠如という境遇や、虚言癖、模倣癖なども含めて、両者は意外と共通点が多く、比較してみたら面白いかもしれない[37]。教訓はもう一つある。ソクラテスは「宝石や立派な家具などが山の如く車で運ばれて行く貴族の引越」を見て「何て、俺(わし)の嫌な物ばかりあるんだろう」と言ったというが、これは「通帳(かよいちょう)」や「掛け」で生活する人への警告なのだという。しかし、「これは宝石や自働車を見るなというのではない」、むしろ「大いに見る可し」だという。「それを見て起る胸中の感は、其人の一生を預言す可きものである。(…)「瓢箪から駒」は出なくとも、一本の腕、一抱えの頭から、城が出(いで)、馬車が出、ダイヤモンドは出る」。実際、この本を書いてから約五年後に彼は『老子』の成功によって成金じみた生活を体験することになる。ただし、そのわずか数年後には再び窮境へ陥った。果たして彼の「胸中の感」は自身の「一生を預言す可きもの」であったか。

2-4. 鎮西学院中学部時代──文学への目覚め

海星商業学校を卒えた後、何年生に編入したのかは詳らかでないが、『第三高等学校一覧』や『第一高等学校一覧』において清の最終学歴として「鎮西学院」「私立鎮西学院」と記されていることから、彼が鎮西学院の中学部に通っていたことは確かである(1912年4月から四年生として入学、1913年4月に五年生に進級、1914年3月に卒業という流れが最も自然である)。鎮西学院キリスト教系(北米メソジスト教会プロテスタント)の私立学校であり、宗教教育に熱心な学校であったという[38]。宗派こそ違えど、彼は海星、鎮西と連続してキリスト教に親しみの深い学生生活を送ったことになる。彼が学んだ課程は正確には不明だが、参考までに「明治四十一年度鎮西学院要覧」を引くと、第四学年の課程は「修身」は「人倫道徳ノ要旨」(「毎週教授時数」は二)、「国語漢文」は「講読文法及作文」(五)、「英語」は「読方、訳解、会話、作文、書取、文法」(七)、「歴史」は「西洋史」(二)、「地理」は「亜弗利加 亜米利加」(二)、「数学」は「代数 幾何」(四)、「博物」は「重要ナル動物」(二)、「物理及化学」は「化学」(二)、「図画」は「自在画 用器画」(一)、「体操」は「普通 兵式」(三)。第五学年の課程は「修身」は「同上 倫理学ノ一班」(二)、「国語漢文」は「講読、文法、作文、国文学史ノ一班」(五)、「英語」は「同上」(七)、「歴史」は「西洋史 日本史」(三)、「地理」は「地文学一班」(一)、「数学」は「幾何 三角法」(四)、「博物」は無し、「物理及化学」は「物理」(四)、「法制経済」は「現今法規ノ大要、理財、財政ノ一班」(一)、「図画」は無し、「体操」は「普通 兵式」(三)であった[39]

鎮西学院中学部時代に関するいくつかの回想を読む限り、ここではそれなりに友人に恵まれ、和気藹々とした学生生活を送っていたようだ[40]。この頃から後々まで関係が続いた友人に服部武雄がいる[41]。この人物は、鎮西学院での修学旅行を滑稽に描いた大泉黒石「失敗旅行記」では「服部武夫」として登場しているほか、『俺の自叙伝』では「松原圭吉」として登場している。それだけでなく、「大泉黒石」以前の筆名「丘の蛙」としての作品においても「服部武雄」という本名で登場している(第4章第4節「『一高三高学生生活 寮のささやき』──剽窃と記憶」参照)。『俺の自叙伝』等に登場する圭吉のモデルが服部武雄であったことは、黒石自身がある随筆で「京都の大学で服部と云えば、あああの圭吉さんですかと云う位有名だよと、本人が自慢をする。服部は滅多に嘘を云わぬ男だから大方本当かも知れない」と明かしている[42]。そして実際に、当時の服部の関係者の間で『俺の自叙伝』が話題になっていたということは複数の回想からも窺える[43]

また、「失敗旅行記」と同じく鎮西学院時代を描いた大泉黒石「僕の腕白時代」には「古賀千里」という体育教師に叱られたというエピソードがあるが、実際に同名の体育教師が鎮西学院におり、『鎮西学院百年史』によれば「生徒の躾には実に厳しく、悪いことでもするとひどく叱られ拳固が見舞ってくるので、この点で鬼の様にこわがられた」というので、このエピソードはおそらく実体験だろう[44]。同作品には「漢文の半白の佐多という老人」が登場するが、これも実際に国語漢文の教師として「佐多猛」という教師がいたことが確認できる[45]

文学に興味を持ち始めたのも中学生の頃だったようだ。「ひとりごと」という随筆には中学生時代の読書経験が綴られている[46]

中学一年生といえば、スマイルスやマアデンの立志物語に感奮する年頃だ。僕もその一人であったが、何とかという大学者の伝記を読んで、俺も一つ真似をして物に成ってやろうかという恐ろしい了見を起し、毎日一冊主義というものを奉じた。書物と名のつくものなら、何でも構わず毎日一冊読み終わらなければ寝床に入らないという主義で、毎日一冊読めそうなものを、図書館から借りて来て、豆ランプの光で貪りよんだものだ。一二年は無理に押し通したが、結果は近眼になるを得るに止まり、読み上げたものは、ほとんど頭に残っていない始末だから、考えて見ると馬鹿なことをしたもので、肝腎の学校の首尾は決して香しかろう筈がないとある。

この生真面目さは、後の「大泉黒石」から考えると意外にも思える。しかし、その奔放な『俺の自叙伝』で文名を上げた後も、「年令に関係なく子供に話す時は正座して正調標準語を崩」さなかったり[47]、知人への書簡でも丁寧な言葉遣いをしたりと[48]、実は真面目で几帳面な一面は健在であった。また、彼は何度か講演を行ったが、実際に目の前で話している黒石と、文章上の「大泉黒石」のイメージとはかなりの違いがあったのか、聴衆が「どうもこんな温順しい話をする人だとは思わなかった」とがっかりして帰ってしまうこともあったという[49]。黒石大泉清という人間を考えるにあたっては、この二面性に着目しなければならないだろう[50]

それはさておき、具体的にはどのようなものを読んでいたのだろうか。

テニスンバイロン。ワアズワアス。ミルトン。スコット。ヂッケンスと近づきになったのも其頃である。シェクスピアの「マクベス」に喰いついて見たところが、どうにも歯が立たない。のべつ幕なしに辞典を引くのが厭になって、とうとう投げ出した。シェクスピアには悸毛をふるって以来今日に到るまでシェクスピアのものは「ハムレット」以外に知らないのである。その「ハムレット」を読む気になったのも、例のドンキホーテハムレットに関するツルゲニェフの論説に興味を感じたからで、学校を出てからのことだ。(…)こういうと文学の書物にばかり熱中したように思われるが、あながちそうではない、しかし記憶に残っているのは、むしろ忘れてもいい文学ものばかりで、それも、少年の頭にわかり易くて面白いウエル・ジュルン[ジュール・ヴェルヌ]の冒険旅行小説やウオター・スコットの歴史物であったようだ。

英文学ばかり挙げられているのは、シェイクスピアについて語られているように原文で読んでいたからだろうか。海星では英仏語混じりの授業を受けてきただけあって、この頃は既にかなりの語学力があったのだろう(後に第三高等学校や第一高等学校に好成績で合格していることからもその英語力は窺える)。色々読んできたなかでヴェルヌやスコットの作品が記憶に残っているというのは、いかにも彼らしい。

一方で、彼は外国文学ばかりにうつつを抜かしていたわけではなかった。同時代の日本文学にも十分に目を配っていただけでなく、この時期から早くも作家に憧れていたらしいということは、当時の文壇の登竜門であり、多くの作家を送り出した投稿雑誌『文章世界』の懸賞に彼も数回投稿していることから窺える。「ひとりごと」によると、「中学三年の末頃、はじめて文章のようなものを作って「文章世界」に投書したところが何等かに当選した」という。おそらくこれにあたるものが、1912年3月号(7巻4号)の懸賞に「秀逸」として大きく掲載された「大泉きよ」の「一人の女」である(筆名は女性を装ったか。また、1912年3月といえば、正しくは海星商業学校を卒業して鎮西学院中学に編入する前のことであったはずである。そのため、海星時代にも少なからず文学に興味を持っていたと考えるべきだろう)。住所として「長崎市伊良林四八三」が掲げられていることからも、これが清によるものである可能性は極めて高い[51]。おそらくこれが活字になった彼の最初の作品だろう。『文章世界』の懸賞には論文から詩歌まで様々な部門が設けられていたが、清が「秀逸」として選ばれたのは「短文」部門で、選者は相馬御風である。「秀逸」になった作品には部門ごとに賞品が用意されていたが、「短文」の賞品は「一円以下の図書」で、彼は「テニスンの詩研究」を貰ったという[52]。「短文」部門に「秀逸」として選ばれた「一人の女」全文を引いておく。

一人の女は今日も絵師の軒先に彳んで一枚の油画を眺めていた。画板には白壁の土蔵と低い古瓦の家の後が描いてあった。石垣の上の二棟には黄色い日が落ちていた。埃の白い瓦の上に青空が濁っていた。檐の生えた淋しいペンペン草の影が灰色の玻璃窓に力なく動いていた。干乾びた土の淡色、壊れた烟突の煉瓦の色、錬(ママ)びた扉の重い土蔵の沈んだ香が、若い女の胸に染々淋しく懐しかった。

小暗い一枚の画を背負って巡る髪の長い男は雲の様に古い都会の影を着た漂流者だ、男の心細い生活を想えば悲しかった。一人の女は淋しい町を通る毎屹度一枚の画を眺めた。

御風の評は「小川未明氏の作に見るような淋しいうちに慰めのある、悲しいうちに喜びのある人の心持が、しんみりした書き方のうちに溢れて居る。ただ技巧に煩さ(マ)は(マ)れて自然の情懐を傷つけるような傾のあるのはとらぬ」というもので、ここに大体言い尽くされている感がある。「一人の女」が初投稿であったのか、それ以前にも何度か投稿していたのかは不明だが、初めて掲載されたものが「秀逸」であったことは彼に大きな自信を与えただろう。この後も立て続けに投稿したようで、同巻6号(5月)に「ベンチの春」が、同巻8号(6月)に「雲」が「短文」(選者は相馬御風)の「佳作」として掲載されている。いずれも淋しげな風景と心情を描写したもので、『文章世界』の自然主義的傾向に影響を受けていたのかもしれないし、あるいは当選のために文体模倣をしたのかもしれない。

以上のように『文章世界』の懸賞で立て続けに掲載されたということは、若い彼に文学への志を起こさせるに十分であっただろう。このように一面において典型的な文学青年であったというところに彼の悲劇があった。上京後、彼は方々の書店へ原稿を売り込むのだが、彼の風貌が全く日本人らしくないために、中身すら問題にされず突き返されてしまう(第4章第2節「清と赤本屋──門前払いの苦悩」参照)。そうした「混血児」としての苦悩において、〈大泉黒石〉が生まれたのである(第5章第6節「〈大泉黒石〉の誕生」参照)。

ところで、受験が近づくにつれて、文学書ばかりを読んでもいられず、勉強に本腰を入れなければならなくなってきた。彼は幼い頃から、「友人や親戚」達に「お前は並の日本人より、いくらか肩身が狭いのだから、悪いことをするなら、勉強をせろ(ママ)。でないと他人様と一様に世渡りが出来ないぞ」と教えられてきたという[53]。また清自身にしても、「将来のことを考えて見て、土地にいたところで仕方はなし、さし当り東京へでも出たら、またそこにいい分別がつくだろう」という考えがあった[54]

ちなみに、伊良林にあった大泉家の近所には、同年輩の河村杏盃という男が住んでいた(本名は未詳)。清が中学の「卒業前で、毎日、数学とか物理とか化学とか、そうしたものに悩まされている」頃、杏盃は「呑気な顔をして小説を読んでいた」[55]。杏盃は気に入った小説や脚本の切り抜きを清に読ませに来るが、清にとっては有難迷惑で、「うん、その脚本ならまだ読まないが、読んでもつまらない」などと適当にあしらっていたという。杏盃は『文章世界』や『学生』(冨山房)の懸賞に数回掲載されているのが確認できるほか、大泉黒石「帰郷記の断章」によれば彼の短編小説「黄夫人の手」の構想の一部となったという人でもあり、後には九州日報の門司支局長になった。ただし1924年夏の旅行を書いた「長門峡谷」では「つい先頃まで九州日報の支社をやっていた」とされているため、この時までには退いていたのかもしれない[56]。「長門峡谷」では彼を「竹馬の友」と呼んでおり、「家族的の交際仲」で、「九州へ下るときは必ずこの友の家に足を留めるのが例になっている」という。

2-5. 鎮西学院卒業後の進路

鎮西学院の中学部を卒業した後、清は一度上京したらしい。このことは『俺の自叙伝』にも「一旦東京へ来てそれから京都の高等学校に入った俺は物凄い貧乏で、…」と書かれているほか(全集235頁、文庫325-326頁)、「放浪の半生 (文壇数奇伝─その一─)」では長崎から上京して一高に受験したが失敗、「三重吉と云う小説家」が英語を教えていた「神田の或私立大学」(=中央大学)に行き、翌年三高に合格したとされているし、前述のように大谷清水『午』においても三高以前に早稲田大学に一年いたことになっている。「丘の蛙」という筆名で発表した『一高三高学生生活 寮のささやき』の「はしがき」においても第三高等学校入学以前に一度上京したとされている。内容はまちまちであるものの、丘の蛙、大谷清水、大泉黒石という三つの筆名を通じて第三高等学校入学以前に一度上京したと述べられているため、三高入学以前に上京したということ自体は事実だろう。

三高入学以前の上京時の動向については、真偽はともかく、「放浪の半生 (文壇数奇伝─その一─)」が最も詳細である。これによると、鎮西学院中学部卒業後、祖母を呉にいる親族に預け、清は一人で上京した(呉の親類というのは、別の文章では「私の家内の叔母(私の親類)」とされている[57])。彼は「築地の端にある××寺」に下宿を借りて一高受験を試みたが失敗した。東京にいる間には「三重吉と云う小説家」が教えていた「神田の或私立大学」(=中央大学)に通っていた。その翌年、三高に合格したという。彼が第三高等学校に入学したのは1914年9月であるため[58]、「放浪の半生 (文壇数奇伝─その一─)」の記述にしたがえば、その前の上京は1913年のことだったと考えられる。しかしそうなると、1912年に海星商業学校を卒業したとして、鎮西学院には一年しか通っていないことになり、これはおかしい。上京自体は事実であったとすれば、1914年の鎮西学院卒業後=4月以降、三高入学以前=9月以前に一定期間上京していたと考えるのが最も現実的だろう。

2-6. 結婚と第一子の誕生

通説では、清は第三高等学校時代にミヨと再会し、結婚したとされている。その場合、清が第三高等学校に入学するのは1914年9月のことなので、1914年9月以降、1915年末までの間に再会して結婚、それから東京へと駆け落ちしたのだと考えられる。

ところが、1913年5月に二人が結婚したとする文献が存在する[59]。これにしたがえば、三高入学以前どころか、どうやら鎮西学院在学時に結婚したということになる。私自身、これを初めて発見した時は疑問に思ったが、「大正二年五月」に結婚したとする文献が二つ存在すること、またそのうちの一つ(現代婦人録)は本人の回答を基に書かれていることを考えると、単なる誤記とも考えにくい。

その後、第一子である大泉淳(きよし)氏の生年が「大正三年」(1914年)とされていることに気が付いた[60]。そこで念のため氏について調査し直すと、『人事興信録』に同姓同名の人物が発見できた[61]。しかも、その父は「清」、母は「みよ」である。生年月日はやはり大正三年で、7月10日とある。学歴として「昭和13年北大工学部機械学科卒業」とあるが、確かに氏自身も「父、黒石の思い出」において1928年に青山学院中学に入り、その後北海道帝大に入ったと述べており、「祖父のこと、母のこと、弟達のこと」において「技術育ち」だとされている[62]。以上の一致から、『人事興信録』に掲載されている「大泉淳」は清とミヨの第一子の大泉淳氏であると考えられる。

そして、第一子の生年月日が1914年7月10日であれば、二人が1913年5月に結婚したと考えることは少しも不自然ではない。少なくとも清が第三高等学校に入学する以前に再会していた可能性はかなり高いといえる。ミヨは、清がまだ学生だった頃に結婚したと回想しているが[63]、これを信じるのであればやはり清が鎮西学院に通っていた時期に二人は再会、結婚したと考えるしかない。ミヨは結婚当時の清を「美男子だった」と回想したそうだが[64]、その言の通り二人は恋愛結婚をしたのであった。当時のミヨには、彼女自身にとっても清にとっても親類にあたる許嫁がいたらしい[65]。そのため、1914年3月に清が鎮西学院を卒えた後に夫婦で東京なり京都なりへ駆け落ちしたのだろう(ミヨ自身、淵氏などに「お父様とわたしは駆け落ちしたのよ」と語ったという[66])。

ところで、『人事興信録』をはじめとして淳氏に関する文献ではその出生地が東京とされていることが多い。1914年7月10日はまだ清が三高に入学していない時期であるし、また三高入学以前に上京した時期があったというため、その間に氏が生まれたと推測することもできる(ただし7月8日から10日の間に第三高等学校で体格試験、11日から14日まで第三高等学校で選抜試験があったため、その出生時、少なくとも清は京都にいただろう[67])。しかし、淳氏は清の祖母に「生れ落ちる時から随分世話になった」という[68]。目の不自由な祖母がそう易々と京都や東京を行き来できたとは考えにくいため、やはり出生地が東京だということについては疑問が残る。氏が物心つく頃には既に一家で東京に暮らしていたはずなので、それで出生地も東京だと申告しているのかもしれない。

さて、三高入学以前に既に第一子まで生まれていたとなると、清が三高に通っていた時期は妻子はどこで生活していたのかが気になるところである。祖母を含めて、あるいは祖母を除いて一家で同居していたと考えられなくもないが、ろくに生活の資を稼げなかったであろう学生時代の清では、とても一家を養うことはできなかっただろう(三高時代の労働については『俺の自叙伝』や『人生見物』に京極の基督教青年会館で英語を教えていたという記述が見られるが、学費さえ十分に賄えなかったようだ)。彼と妻子が別居していたとすれば、さしあたり三つの可能性が考えられる。一つ目が、大泉氵顕「大泉ミヨ伝」にある如く京都にいたミヨの伯母のもとに住んでいたということである[69]。しかしこの場合、許嫁に背いて恋愛結婚したことをどう説明したのかという疑問が残る。二つ目が、大泉黒石『俺の自叙伝』や「放浪の半生 (文壇数奇伝─その一─)」で二人の再開の場所とされている京都基督教青年会館に仮寓していたのではないかということである。ここには清の鎮西学院からの友人である服部武雄もいたようなので、色々と便宜を図れただろう。ただし服部は清の一年後に三高に入学しているため、いつ頃から青年会館にいたのか詳らかでない。三つ目が、「放浪の半生 (文壇数奇伝─その一─)」では祖母を預けていたという呉の親戚(「家内の叔母」)の元に身を寄せていたのではないかということである。育児のことを考えれば、清の祖母をはじめとする年長者が暮らしていた呉に行くことは現実的な選択肢だっただろう。ただし、やはり許嫁に背いたことをいかに説明したのかという疑問は残る。

2-7. 第三高等学校

1914年9月、第三高等学校の第二部甲類(工科)一組に入学した[70]。第二部甲類の合格者68人のうち13番での合格だった[71]。同級生の同組には、後に「分離派建築会」を結成した石本喜久治、森田慶一や、東洋紡績(現=東洋紡)の社長・会長になった阿部孝次郎がいた。第二部の別組には、大政翼賛会の幹部を歴任、戦後は日本原子力産業会議初代事務局長になった橋本清之助、乙・丙類には生物学者・政治家となった山本宣治などがいた。同年第一部(法科・文科)には、ゲーテ等を研究した独文学者の奥津彦重、東洋学・書誌学者となった神田喜一郎、後に辻潤を介して知り合うことになる作家の木蘇穀もいた(ただし木蘇は前年に入学しており、留年していた)。2年生には神学者となった菅円吉、T・S・エリオット等を研究した英文者の深瀬基寛、トマス・ハーディ等の翻訳をした森村豊、独文学者となった番匠谷英一、鹿島建設社長となった永富(鹿島)守之助。3年生には社会主義者として活躍した赤松克麿、作家・英文学者として広く活躍した峰人矢野禾積、同じく英文学者となった山本修二や石田幸太郎らがいた。以上の人々について彼はいかなる言及もしていないため(ただし木蘇は除く[72])、学生時代に交流があったのかは詳らかでない。

第三高等学校一覧 大正三年九月起大正四年八月止』の「第三章 学科課程」によると、第二部の一年生は「修身」(「毎週授業ノ時数」が「一」)、「国語」(三)、「英語」(八)、「独語」(八)、「数学」(五)、「図画」(四)、「体操」(三)となっている。各教科を受け持つ教員は複数人いるため、清がいずれの教師の授業を受けていたのかを特定することは困難だが、『俺の自叙伝』に登場する厨川白村辰夫は英語、橋本青雨忠夫は独語を教えていたため、彼らの教えを受けた可能性はある。授業風景について彼はほとんど言及しておらず、わずかに「放浪の半生 (文壇数奇伝─その一─)」に「親ゆづりの金をはたいて了うまで毎日毎晩機械の製図と高等数学の研究をつづけていた」という記述があるくらいである。

三高時代については専ら貧乏生活について述べているものが多い。そもそも、その住いにしてからが「南禅寺の小屋」(俺の自叙伝)、「京都のお寺」(人生見物)、また「丘の蛙」という筆名で書いたものでは「泉涌寺の破れ庵を借りて自炊」(滑稽俳句 海鼠の舌)等、寺の境内の貧相な下宿に住んでいたという。ただし、寄宿舎に住んでいたという記述もある[73]。なお、清が「丘の蛙」という筆名で書いた『一高三高学生生活 寮のささやき』には三高での学生生活に関する記述があり、後述のように本書の大半は剽窃によって成り立っているものの、その一部には実体験が反映されているかもしれない。

鎮西学院中学で仲の良かった服部武雄(≒「松原圭吉」)は翌年に入学しているが[74]、その頃清は既に第三高等学校に在籍していないため、二人の在学期間は重なっていない。それにもかかわらず、なぜ『俺の自叙伝』等の自叙伝的作品において彼と「圭吉」の交流が描かれているのか、よく分からない。おそらく服部は京都基督青年会館かどこかに下宿を借りてそこで受験勉強をしていたのではないか。あるいは、大泉一家はこの年の冬までは関西にいたようなので、1915年9月の服部の入学以降、大泉一家の上京以前に交流があったのかもしれない。

いくつかの作品から、三高時代にも作家じみたことをしていたことが窺える。例えば、『俺の自叙伝』では圭吉に「大阪朝日の京都版の、国太郎」の「助手」の職を紹介された(国太郎が黒石の小説にあきれたため、結局助手の話は無くなった)。また『人生見物』では、「圭吉などの文章と来てはトント見られたもんじゃないが、俺のものだけは恥しくないという定評があった」ため、黒石が「短編小説を作って売り捌く役目を引き受け」て、まず仏教新聞『中外日報』の文芸欄の「石丸梅外」(石丸悟平のことだろう)に売り込んだが断られ、「大阪朝日の京都支社」の「主任の国太郎」にやはり断られたという。以上の記述を裏付ける術はないが、この頃から文筆で生計を立てようという志はあったのかもしれない。

[1] 立脇和夫『在日外国銀行百年史 1900-2000年』日本経済評論社、2002年、63頁。

[2] 十八銀行百年史編集委員会編『百年の歩み』十八銀行、1978年、299頁。

[3] 週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史 上』(朝日文庫)朝日新聞社、1987年、583頁。

[4] 大泉黒石「妖画帳」『現代』1巻3号、168頁。

[5] 大泉黒石「俺の落書「少年時代に書いた絵」と「自讃」」『雄弁』11巻2号、322頁。

[6]「私なども中学時代には、よく隠れて[蕎麦を]食いに行ったし、トルストイ翁が死んだという読売新聞の記事を見て驚いたのも、その蕎麦屋の二階で大晦日の蕎麦をすすりながらであった。」大泉黒石「蕎麦から宝船まで」『苦楽』7巻1号、プラトン社、1928年、461頁。

[7] 伯母の死後、「後に生き残っている家族の人数を清算して見たら私を加えてたった三人[清、祖母、曾祖母]になっていたから、この家[八幡町]では、ちと広すぎるし、それに家賃が高いと云うので、今度はぐっと場末の西山と云う田舎町の片ほとりに引越して、邪魔にならなくても余計な物はどんどん売って了った調子に乗って私が頼りにしている曾祖母までが死んで了ったから驚いた。彼女は八十四だった。」大泉黒石「妖画帳」『現代』1巻3号、168頁。

[8] 志村有弘大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』208頁。

[9] 大河内昭爾「食いしん坊対談7 家庭菜園こそわが栖 ◉大泉滉」『私のマドレーヌは薩摩揚』學藝書林、1988年、174-175頁。

[10] 大泉氵顕「大泉黒石伝」『文人』2号、131頁。

[11] 四方田犬彦氏『大泉黒石 ──わが故郷は世界文学』10頁。

[12] 大泉黒石「戯づら書き」『現代』1巻2号、91頁。「睡れる少女の顔」という絵の中に、小さいうえに掠れているが、「1910」と読める文字がある。説明文から夏頃に描いた絵であることが分かる。

[13] 大泉黒石「戯づら書き」『現代』1巻2号、94頁。「露西亜の女」という絵の説明文に「西伯利亜の淋しい村」「初夏の景色」とあり、絵の中に「1911」と書いてある。

[14] 大泉黒石露西亜寺院と親爺の墓」『雄弁』11巻6号、198-199頁。絵に「1912」「浦汐郊外」「寒いゝ」等と書いてある。

[15] 「私のペンネーム」(『東京』2巻2号、実業之日本社、1925年)というアンケートでは、「黒い石はチェルノイ・カメン即ち(黒い仮面)という意味ではないかという人があります。是はあまりコヂつけ過ぎる。新井白石の向うを張ったんではないかという人もあります。まさか!黒石という硯材からとったのではないかという人もあります。硯屋さんの伜ぢゃあるまいし!また、碁石の黒を取るという意味ではないかという人もあります。碁はやらないから、そんなことは考えたこともない。では何だ?ブラック・ストーンのピエル・ノワールその由来は?おゝ!読者諸君よ。あなたがたはそれをきいたら屹度ビックル(ママ)するに違いない/何故かと言えば、私自身それを知らないからだ!」とはぐらかしているが、実際はやはり新井白石にあやかったのではないか。あるいは、「丘の蛙」(清の筆名)の作品の随所に夏目漱石が現れているため、白石だけでなく漱石にもあやかっているかもしれない。「黒」に関しては、単に白の逆として使用したか、あるいは四方田犬彦氏が推測しているような「黒」の象徴性──アナキズム老子の「玄」──に惹かれてのことであったかもしれない(『大泉黒石 ──わが故郷は世界文学』203頁)。

[16] 四方田犬彦『先生とわたし』新潮社、2007年、45頁。

[17] 仲新監修、伊藤敏行、江上芳郎編『学校の歴史 第2巻 小学校の歴史』第一法規出版株式会社、1979年、35-36頁。

[18] 市川房枝研究会編『市川房枝の言説と活動 年表でたどる婦人参政権運動 1893-1936』公益財団法人市川房枝記念会女性と政治センター出版部、2013年、36-38頁。「獅子文六年表」『獅子文六全集 第一巻』朝日新聞社、1969年、622頁。磯貝勝太郎編「土師清二年譜」『大衆文学大系11 長谷川伸 土師清二 集』講談社、1972年、772頁。福田正夫福田正夫年譜」『福田正夫詩集 第五輯』福田正夫詩集刊行会、1928年、657頁。二上洋一編「南洋一郎年譜」『少年小説大系 第20巻 南洋一郎集』三一書房、1992年、565頁(ただし南は「学校が好きで、毎日学校へ遊びに行っていたため、他の人より五ヵ月早く」、1898年11月に入学)。村岡恵理「村岡花子関連年表」『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』(新潮文庫)新潮社、2011年、414頁。成田孝昭「百田宗治」『日本の詩歌13 山村暮鳥 福士幸次郎 千家元麿 百田宗治 佐藤惣之助』(新訂版)中央公論社、1979年、418頁。

[19] 橋本国広『海星八十五年』海星学園、1978年、44頁に落成したばかりの頃の写真がある。同書43頁に掲載されている落成当時に書かれた手紙には「長崎病院の向うの緑の丘の上に、あたりをへいげいして真白の新しい記念館様の建物が建った」とある。他に、手軽に見られるものとしてはNDLデジタルコレクションにある嘉村国男『アルバム長崎百年』長崎文献社、1984年、100頁がある。

[20] 橋本国広『海星八十五年』48、55頁。

[21] カトリック・マリア会編『マリア会日本渡来八十年』マリア会出版部、1968年、156-171頁。1905年の海星学校の人口については165頁。

[22] 『海星八十五年』56-57頁。

[23] 同68-69頁。

[24] 同54頁。

[25] 同69頁。

[26] 宮川伊喜松編『海星同窓會々員名簿』海星同窓会、1949年、26頁。

[27] 新名規明『長崎偉人伝 永見徳太郎』長崎文献社、2019年、46-47頁。

[28] 「この人たちのご先祖さまを知っていますか」『週刊平凡』17巻32号、平凡出版、1975年。

[29] 新名規明「永見徳太郎 ──長崎文化の伝道者──」『芥川龍之介の長崎』長崎文献社、2015年、185頁。同校には商業学校時代の学籍簿の他、同窓会誌『窓の星』『海の星』も保存されているという(179頁)。なお、著者の新名氏は元海星学園教諭である。

[30] 大泉黒石「放浪の半生 (文壇数奇伝―その一―)」『文章倶楽部』7巻2号、29頁。鎮西学院卒業後の進路についての文脈だが、「高等の学校といえば[長崎には]高商と医専きりで、そのいずれも私には向かなかった」という。

[31] 大泉黒石「僕の腕白時代」『少年俱楽部』8巻3号、大日本雄弁会1921年、6頁。

[32] 立脇和夫「香港上海銀行の対日戦略」(『東南アジア研究会報』29号、長崎大学東南アジア研究所、1987年、3頁)に歴代の支店長の一覧があるが、この中に「ゼームス・アドロン」らしき人物は見当たらない(1870-1871年にやや名前が似ている「Adrian&Co」が支店長として挙げられているが、時期が合わない)。県立長崎図書館編『幕末・明治期における長崎居留地外国人名簿』1~3巻にはやはり「蘭 アデリアン商会 Julius Adrian」があるが、これが「ゼームス・アドロン」にあたるかどうか分からない。なお「ゼームス・アドロン」の調査に際しては、レファレンスを通して長崎県立長崎図書館郷土課の方にご協力していただいた。

[33] 「恋しいわたしのおばさま芙美子 大泉渕さんの話」池田康子『フミコと芙美子』市井社、2003年、404頁。

[34] 大泉滉『ぼく野菜人 自分で種まき、育て、食べようよ!』光文社、1983年、194頁。

[35] 津田光造「大泉黒石氏と宮島資夫氏の印象」『文壇』1巻1号、小西書店、1924年、103頁。

[36] 大河内昭爾「食いしん坊対談7 家庭菜園こそわが栖 ◉大泉滉」『私のマドレーヌは薩摩揚』178頁。

[37] 田澤拓也『虚人 寺山修司伝』文藝春秋、1996年(文春文庫版は2005年)等を参照。

[38] 1889年から1893年(明治二十二〜二十六年)に在学した吉岡誠明による回想を参考までに引いておく。「宗教教育はなかなか行き届いたもので、毎日の礼拝以外に毎夕の祈禱会、それに一週一回は活水女学校と連合の祈禱会、また毎月一回、外国伝導会の講演などあって、宗教的の雰囲気は頗る濃厚であった。故に鎮西に三、四年も在学すれば、大方受洗して信者となった。」(鎮西学院編『鎮西学院百年史』鎮西学院、1981年、57頁)また、1923年から1927年に在学した百年史執筆者によると、「我々全生徒は、正門の左手に在ったチャペルに集って毎朝二、三十分間聖書の話をきき神に祈る時間をもっていた」という(同59頁)。

[39] 清が通っていた時期のものではないが、発見できた限りで最も直近のものであるためこれを引用した(鎮西学院編『鎮西学院百年史』鎮西学院、1981年、269頁)。念のため第三学年の課程を引くと、「修身」は「人倫道徳ノ要旨」(二)、「国語漢文」は「講読、文法、作文、習字」(七)、「英語」は「読方、訳解、会話、作文、書取、文法」(八)、「歴史」は「東洋史」(二)、「地理」は「欧羅巴地理」(一)、「数学」は「代数 幾何」(四)、「博物」は「人体構造 生理及衛生 重要ナル動物」(二)、「物理及化学」は無し、「図画」は「自在画」(一)、「体操」は「普通 兵式」(三)。

[40] 『俺の自叙伝』、「失敗旅行記」『少年倶楽部』7巻13-15号、「僕の腕白時代」『少年倶楽部』8巻3号、「僕のわんぱく時代」『世界少年』4巻8-10号など。

[41] 服部武雄は1895年に愛媛県に生まれ、鎮西学院中学を経て、1915年(清の入学の一年後)に第三高等学校に入学し、1918年に卒業した。同年、京都帝国大学経済学部に入学し、1921年に卒業した。卒業後は自動車関係の職に就いたことや、キリスト教徒であったということも含め、『俺の自叙伝』等に登場する松原圭吉の経歴とほぼ全て一致している。服部武雄について、詳しくは校友調査会編『帝国大学出身名鑑』校友調査会、1932年、ハ33頁。また清野静『伊予の事業と人物』愛媛通信社、1934年、174頁を参照。帝大生の時には「日本基督青年会同盟」主宰の「同盟総会」に参加した記録もある(「第八回同盟総会記録」『開拓者』15巻8号、開拓社、1920年、221頁)。

[42] 大泉黒石「サンドウィッチの紀行」『現代』2巻7号、1921年、142-143頁。

[43] 佐々木勘次郎編『京都帝国大学基督教青年会四十周年記念誌』京都帝国大学基督教青年会、1941年、40、45頁。伊藤祐之と金関丈夫(!)の回想。

[44]鎮西学院百年史』60-61頁。

[45] 「財団法人鎮西学院中学部一覧」『鎮西学院百年史』310頁。同一覧に「古賀千里」も確認できる。なお『俺の自叙伝』には「監督教師」で「大酒飲みの国学者」の「板倉」が登場するが(全集246-248頁、文庫341-343頁)、ここにはそれらしき人物は見当たらない。

[46] 大泉黒石「ひとりごと」『騒人』3巻4号、騒人出版局、1928年、123-124頁。

[47] 「恋しいわたしのおばさま芙美子 大泉渕さんの話」池田康子『フミコと芙美子』402頁。

[48] 例えば、日本近代文学館神奈川近代文学館長崎県立長崎図書館郷土資料センター所蔵の書簡。菅野青顔(千介)への書簡(中本信幸「大泉黒石異聞」長塚英雄責任編集『ドラマチック・ロシアin JAPAN 3』東洋書店、2014年、334頁)、永見徳太郎宛の書簡(大谷利彦『長崎南蛮余情 永見徳太郎の生涯』長崎文献社、1990年、290-291頁や越中哲也「夏汀永見徳太郎宛書簡」『長崎市立博物館々報』14-15号)など。

[49] 大泉黒石「サンドウィッチの紀行」『現代』2巻7号、145頁。

[50] この二面性が鮮やかに現れていて興味深いのが1923年に日本大学で行われた「ニヒリストの生活」(『日本法政新誌』19巻12号に収録)という題の講演の速記である。弥次郎兵衛と喜多八が当時の「道徳」の徹底的な批判者であったということ、一夫一婦制や家族制度への批判、「アベリチェンコ」という諷刺作家の寓話など、場合によっては官憲から取締を受けかねないような話を、実に丁寧な口調で語っているのである。羽太鋭治によると、黒石の講演には「とぼけた処」もあったようだ。「大泉黒石氏の講演振りも随分変っている方だろう。尤も氏の講演は非常に時によって出来栄えが違う。多少は誰でもそうだが、氏の場合はそれが極端だ、無論それは氏の気分の上から来るのに相違ないが、檀上に於て氏はどうかすると、くるくると廻ったり、後頸部へ両手を持って行って「一寸今考えますからね」などと言い出す。その辺佐藤春夫氏のやり口と一寸似ているが、佐藤氏よりとぼけた処がある。悪く言えば、図々しいのだが、よく言えば非常に天真爛漫であり、自由な気持に充ち満ちているとも云うべきであろう。」(羽太鋭治『チャームとモーション』南海書院、1928年、251頁)

[51] 中学生の頃に祖母と二人で伊良林に住んでいたということは、大泉黒石「放浪の半生 (文壇数奇伝―その一―)」(『文章倶楽部』7巻2号、29頁)や、「帰郷記の断章」(『表現』2巻5号、表現社京都局、1922年、161-162頁)にも書かれている。

[52] 石川林四郎テニスンの詩研究』(研究社)の出版は1921年である。本書は雑誌『英語青年』1911年10月号(26巻1号)から1913年9月号(29巻12号)まで連載していたものをまとめたものであるため、清が景品として貰ったのは『英語青年』の方だろう。『英語青年』の定価は「一部 拾銭 郵税五厘」「十二部(半年分) 前金 一円貮拾銭 郵税共」「廿四部(一年分) 前金 貮円参拾銭 郵税共」であったため、半年分程度のバックナンバーが贈呈されたのだと考えられる。

[53] 大泉黒石「俺の見た日本人」『中央公論』34巻12号、70頁。

[54] 大泉黒石「放浪の半生 (文壇数奇伝―その一―)」『文章倶楽部』7巻2号、29頁。

[55] 大泉黒石「帰郷記の断章」、『表現』2巻5号、表現社京都局、1922年、162頁。

[56]長門峡谷」『峡谷を探ぐる』春陽堂、1929年、151頁。ここでは「河村杏(きょう)花(か)」として登場している。

[57] 大泉黒石「怪異漫談」『心霊知識』1巻3号、菊花会、1931年、51頁。

[58] 第三高等学校編『第三高等学校一覧 大正三年九月起大正四年八月止』第三高等学校、出版年月不明、229頁。

[59] 大阪毎日新聞社編『大正十二年度 婦人宝鑑』大阪毎日新聞社、1923年、602頁。「現代婦人録」『女性日本人』4巻1号、政教社、1923年、附録6頁。

[60] 志村有弘大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』262頁。

[61] 『人事興信録 第25版 上』人事興信所、1969年、お109頁。

[62] 大泉淳「父、黒石の思い出」『文人』5巻、文人の会、1982年、50-51頁。同「祖父のこと、母のこと、弟達のこと」「『大泉黒石全集』刊行案内書」緑書房、1988年、16頁。ちなみに「父、黒石の思い出」によると氏は執筆当時68歳であり、ここから逆算してもやはり生年は1914年になる。

[63] 志村有弘大泉黒石の文学と周辺」『近代作家と古典 ──歴史文学の展開──』208頁。

[64] 「恋しいわたしのおばさま芙美子 大泉渕さんの話」池田康子『フミコと芙美子』409頁。

[65] 大泉氵顕「大泉黒石伝」『文人』2号、131頁。

[66] 大泉淵「数奇な運命の人」(連載 父の肖像(197) 大泉黒石(上))『かまくら春秋』418号、23頁。

[67] 『官報』第525号、1914年5月1日、33頁。

[68] 大泉黒石「帰郷記の断章」、『表現』2巻5号、158頁。

[69] 大泉氵顕「大泉ミヨ伝」『赤い泥鰌』54-56頁。

[70] 第三高等学校編『第三高等学校一覧 大正三年九月起大正四年八月止』第三高等学校、出版年月不明、229頁。

[71] 「入学許可 第三高等学校…」大蔵省印刷局『官報』第597号、1914年7月27日、712頁。

[72] 大泉黒石諸行無常」(初出『雄弁』11巻9号、1920年。『天女の幻』盛陽堂書店、1931年にも収録)に「木曾部美部的」として登場するが、三高時代に同級であったことについては触れていない。

[73]大泉小生「三校生活 冬の夜がたり」『中学世界』20巻1号、博文館、1917年、付録26-27頁。

[74] 第三高等学校編『第三高等学校一覧 自大正四年至大正五年』第三高等学校、1916年、118頁。