松竹伸幸に悪口する(2024年9/14日分)(副題:小路田泰直を批判する) (original) (raw)

『日本通史』あとがきより | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba

〈これで本の趣旨が分かると思います。昨日の画像は書店用のチラシのオモテでしたが、そのウラに「あとがき」の概要を入れています。〉

戦後日本は、(ボーガス注:天皇の象徴化、国家神道の廃止(政教分離)等の政治的激変で)劇的にその歴史観を変える必要に迫られた。
まずは、(ボーガス注:戦前日本において、)天皇という主権者を生み出すために積み重ねられてきた思索の数々(天皇制論)を、悉く封建的・非科学的歴史観として葬り去った。そして全てが天皇制批判に流れ込んでいった。それに大きな貢献をしたのが、丸山眞男であり講座派マルクス主義であった。さらには「小国*1」としての生き方を肯じる歴史観が求められた。故に、日本の帝国主義的膨張を支えてきた大日本主義の片隅にあって、常にそれに異を唱え続けてきた小日本主義が、にわかに脚光を浴びることとなった。そして津田史学*2がたちまち日本歴史学界の中心に躍り出たのである。
そして一九八〇年代になると、再びこの国に、天皇制の存在を歴史の必然と捉える考え方が蘇った。主権者なき「小国」の超克*3に向けての知的営みは実は始まっていたのである。
「網野史学*4」の誕生であった。
(中略)
(ボーガス注:戦前における?)主権者天皇の存在をこの社会の必然*5と捉えたのである(『無縁・公界・楽』*6)。当然歴史学界は激しく反発*7した。そして社会史家としての一面を残して、網野の影響を抹殺*8した。
しかしこの一旦網野が灯した火が消えることはないと、私は思う。それは自己決定能力なき国として今後とも生きていくことに、多くの国民が不安を抱き始めているからである*9。トランプ現象や、ロシアのウクライナ侵攻といった、非常に歪な形でではあるが、世界中が再び国家主権を強化する方向に動いていること*10は、誰しもが感じている。
ただ我々が忘れてはならないのは、かつて自己決定能力を持った「大国」であった日本は、その決定=国策を誤り、世界と日本を不幸のどん底に突き落とした経験があるということである。その一九四五年八月の失敗は繰り返してはならない。ではこの国は、これからどのようにして主権者を持つ自己決定能力のある国になっていくのか。共和制の選択*11も含めた幅の広い検討が必要である。少なくとも大日本帝国憲法体制にそのまま戻ることはできない*12。主権問題*13をおざなりにした、憲法を変えることだけを目的*14にした流行の改憲論ではない、憲法論争が求められる。

戦後の天皇制研究は「戦前の天皇イデオロギーを単純に悉く封建的・非科学的歴史観として葬り去った」というほど単純な代物では無いと思いますし、津田史学についても「マルクス主義歴史学」から「天皇中心主義(実際、津田は明らかに天皇制支持の保守派)」と言う批判があるなど「津田史学がたちまち日本歴史学界の中心に躍り出た」とはとても言えない(そもそも津田は戦前から活動し、戦前において一定の評価を得ていた)、「もっと話は複雑」ではないかと思います。小路田の網野史学理解も正しいか疑問ですが、それはさておき。
第一にこのあとがきからは小路田の「通史」が「通説的見解」とは言いがたい「小路田個人のイデオロギー」に依拠してることが窺えます。
第二にその「小路田個人のイデオロギー」及び「それに依拠した通史」においては「政治史」「天皇制」が重要な位置を占めることも窺えます(つまり文化史など、政治史以外の言及が恐らく少ない)。
つまりは小路田の「通史」はあまりにも「小路田個人のイデオロギー」が強すぎるので素人が「入門的書物」として読めるような代物では無いだろうと言うことです。
「こだわりシェフの本格中華(好きな人間ははまるが一般的中華料理とは言いがたい)」みたいなもんで「もっと一般的な中華料理(「餃子の王将」とか)を望む層」のような「通説的見解にそった手堅い通史を望む層」には「それ、小路田さんの私見にすぎないやろ。通説と大分違うんじゃね?。通史がそういうのでいいの?」「どこまで信用していいか危ういな」感があるかと思います。
それはともかく上記文章からは小路田が「講座派マルクス主義(小路田が誰を想定してるのかは後書きだけでは分かりませんが)」あるいは「戦後左派(社会党共産党など)」に否定的らしいこと、あるいは「天皇制に親和的らしいこと」が窺えます。小路田は極右ではないにせよ、右派ではないか。なるほど「右傾化し、除名された反党分子・松竹」には「お似合いの御仁」かもしれない。正直「後書きだけで読む気を大いに失いました」(松竹の目的は「購読意欲の喚起」でしょうが)。
なお、上記のコメントを投稿しますが恐らくいつも通り掲載拒否でしょう。賛同コメントしか載せない松竹にはいつもながら呆れます。

30数年ぶり歴史学者の手になる『日本通史』 | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba
「30数年ぶり」というのは恐らく「一人の歴史学者が書いた通史」ですね(複数の歴史学者が書いた通史なら30年も遡らなくても存在すると思います)。しかも「一人の歴史学者が書いた通史は30数年ぶり」は松竹の認識にすぎないので実際とは違う可能性があります*15。なお、「歴史学者の手になる」と書いてあるのは「素人のクズ本」なら、網野本以降にも例えば、通史として百田『日本国紀』(2018年、幻冬舎→2021年、幻冬舎文庫)があるからです。なお、問題は「通史として中身が良いかどうか」であり「一人で書いたかどうか」ではない。
なお、松竹が編集した本

◆小路田泰直*16『日本通史:津田左右吉*17・**丸山眞男***18網野善彦*19の地平を超えて』(2024年、かもがわ出版

自画自賛する松竹ですが、そのような「自画自賛が正しいか」は今後、歴史学者等の書評によって明らかになるでしょうし、小生も歴史学素人ですし、そもそも未読ですのでコメントはしません。
但し、この本、最初の副題(予定)は「この国を形づくった政治思想の視点から(アマゾンの表示による)」だったようですし、副題中の「**丸山真男」は政治学者だし、最近の小路田著書も『日本憲法史』(2016年、かもがわ出版)、『日本史の政治哲学』**(2023年、かもがわ出版)と「政治的テーマ」なので、「政治にウェイトがかかった通史(文化など、政治以外がその分、言及が少ない)」のかもしれない。
それにしても「この本はここが新しい、ここがスゴイと思っている」「副題にある津田、丸山、網野について、この本ではこういう問題意識で取り上げた」等ではなく「複数筆者の執筆ではなく、一人の人間が通史を書いたのは稀なことでスゴイ」としか松竹が言わない(言えない?)のがみっともない。
勿論、「プロの小路田」と「素人の百田」を比較するのは小路田に失礼ですが、松竹も書くように「一人の人間が書いた通史」なら百田尚樹の『日本国記』(2018年、幻冬舎→2021年、幻冬舎文庫)もあるわけです。百田本のような「レベルの低い本」なら「複数筆者の執筆ではなく、一人の人間が通史を書いたのは稀なこと」でも何ら評価に値しない。
松竹の主張は「負けたけど、中継ぎ、抑えが投げず、一人で完投したからスゴイ(プロ野球)」レベルにくだらないのではないか。
「一人で完投しノーヒットノーランで勝利」等ならともかく。
なお、

(ボーガス注:一人の執筆で通史を書くという)そういうチャレンジは絶えて久しくなりました。それくらい、ソ連など社会主義国の解体は、原始共同体からはじまって共産主義に向かうという史的唯物論の根幹にダメージを与え、歴史学者を黙らせたわけです。

というのは「右翼分子松竹」らしいですが勿論そういう話ではない。
そもそも『歴史学者イコールマルクス主義歴史学者史的唯物論者』ではない。また、ソ連崩壊前から「史的唯物論」「マルクス主義歴史学」を批判する学者は当然いたし、そもそも「ソ連スターリン粛清やプラハの春弾圧」「中国の文革」等「共産国の否定的な面」等でマルクス主義批判する人間もソ連崩壊前からいた。また「通史を書かなくても、マルクス主義的な歴史研究はできるし、そうした立場の著書も書ける」わけです(現在、そうした歴史学者がどれほどいるのか知りませんが)。
「単独執筆の通史」ですが、第一に昔(戦前からソ連崩壊前の1980年代まで)だって「一人の人間が複数の時代(古代、中世、近世、近代など)、分野(政治、経済、文化など)にまたがる通史を書くこと」は一般的ではない。
一人で書くのは難しいので、複数筆者の執筆がむしろ普通です。そもそも出版社も売れそうな著名学者(松竹が名前を挙げた網野など)でもなければ、そんな売れるか怪しい「単独執筆の通史」企画はしないでしょうし、「出版社が出さないなら自費出版で単独執筆の通史を出す」と言う学者もまずいないでしょう。
第二に「一人の人間が通史を書くこと」が「昔以上に最近されなくなった」のは単に「研究の進展で、学問内容が極めて高度化、専門化し、一人の人間が通史を書くことが昔以上に難しくなった」だけの話です。当然ながら、松竹が高評価する網野通史だって「重要な部分が抜けてる」疑いはあるでしょう。
「たとえは何でもいい」ですが、たとえるなら「昔のプロ野球は投手が一人で完投することが珍しくなかった」が今は「先発、中継ぎ、抑え」と分担で投げるようになったのと同じです。バッターの打撃技術が向上したので一人で抑えることが難しくなったし、スポーツ医学の発展で「投手が長時間投げること」が肩に悪影響を与え投手寿命を縮めることも分かってきた。
そもそも問題は「本の中身がまともかどうか」であって「複数筆者の執筆か、一人の筆者の執筆か」ではない。
複数筆者だと「相互チェックで、明らかな事実誤認が生じる危険性は少ない」ものの「個人個人の意見は当然違う」ので「本としてまとまりのないもの(いろいろな意見を単に並べただけでは?、それで意義があるのか?)」ができるリスクがある。一人の執筆はその逆でしょう。
なお、上記のコメントを投稿しますが恐らくいつも通り掲載拒否でしょう。賛同コメントしか載せない松竹にはいつもながら呆れます。