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渤海使

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ぼっかいし

728年から922年までの間、渤海から日本を訪問した使節のこと。

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戦国日本の津々浦々 ライト版18日前

契丹犬 きったんけんモンゴル高原東部に居住していた契丹族が、狩猟等に用いた犬。渤海を経由して平安時代の日本にももたらされている。 契丹族と犬 渤海を経て日本へ 参考文献 契丹族と犬 モンゴル高原東部の遊牧民である契丹族は、狩猟や遊牧動物の管理のために犬を用いた。それは「契丹犬」とよばれる有能な犬だったとされる。 14世紀に編纂された遼朝(契丹)の歴史書『遼史』には、猟犬の記載が多いという。たとえば興宗(耶律只骨)時代の1053年(天喜元年)九月庚寅には、「猟、遇三虎、縦犬獲之」とある。これは皇帝が自ら参加した大規模な狩りの際のものであり、猟犬たちに包囲されて攻撃を受けた三匹の虎はついに抵抗する力を失い、最終的に虎…

#契丹#契丹族#耶律阿保機#渤海使

関連ブログ

戦国日本の津々浦々 ライト版19日前

塩州 えんしゅう渤海国の東京竜原府に属する塩州の州城。日本と渤海を結ぶ「日本道」の起点とみられ、日本との通交の玄関口であったと推定される。ポシェット湾北岸に位置するクラスキノ古城に比定されており、現在でもその遺構が残っている。 「日本道」の起点 クラスキノ古城 城内の遺構 井戸跡と廃絶年代 契丹との交易 参考文献 「日本道」の起点 11世紀の初めに編纂された『新唐書』渤海伝には、以下の記述がある。 濊貊故地為東京、曰龍原府、亦曰柵城府、領慶・鹽(塩)・穆・賀四州。 渤海は濊・貊族の故地に東京竜原府(柵城府)を設置し、その下に慶州・塩州・穆州・賀州の四つの州が置かれたとされる。東京竜原府は渤海五京の一つで、現在…

#渤海国#渤海使#契丹

戦国日本の津々浦々 ライト版24日前

王 孝廉 おう こうれん渤海の遣日本使節の大使。弘仁五年(814)九月に日本の出雲国に着き、翌年正月に平安京にて国書と信物を献じた。帰国中に日本海で遭難し越前国に漂着するが、同地で客死した。日本の文人たちと漢詩を交わし、空海とも交流があったことが知られる。 渤海使の出雲国来着 平安京 越前国での客死 一面新交不忍聴 参考文献 渤海使の出雲国来着 812年(弘仁三年)、渤海では国王大元瑜が死去。王位は長弟の大言義に継承され、翌年正月、唐朝から渤海国王に冊封された。 kuregure.hatenablog.com 冊封の翌年の814年(弘仁五年)、前王大元瑜の死と新王大言義の即位を伝えるため、渤海は日本にも外交使節を派遣…

#渤海国#渤海使#空海

戦国日本の津々浦々 ライト版1ヶ月前

野代 のしろ出羽北部を流れる米代川(野代川)河口部に位置する港町。戦国期には檜山安東氏の外港として日本海海運の要衝を占めた。 渤海使の来航 弘治二年の町立 檜山安東氏と日本海海運 参考文献 渤海使の来航 その史料上の初見は古く、『続日本紀』には宝亀二年(771)六月に渤海使の壱万福ら325人が17隻の船で「出羽国賊地野代湊」に着岸したことがみえる。1隻あたり20人弱なので、この時の渤海使船はさして大きなものではなかったとみられるが、17隻が着岸したとすれば、すでに野代湊はそれなりの施設を備えた港湾になっていた可能性がある。 kuregure.hatenablog.com 一行のうち壱万福ら40人が翌年の正…

#出羽国#渤海使#渤海国#米代川

シン・ニホンシ1年前

168.渤海国と日本の交易高句麗の後継となった「渤海国」との交易ルートを探る。歴史を学びつつ、古代日本における日本海側、特に敦賀の可能性を探る。■白村江の戦い百済遺民の鬼室福信(きしつふくしん、扶余福信とも)から第37代斉明天皇(※)は救援要請を受ける。扶余豊璋、上毛野稚子、阿倍比羅夫らは白村江の戦いにて百済復興を目指す。日本と百済遺民、耽羅(たんら、現在の済州島)の軍は663年、白村江(現在の錦江河口付近)において唐・新羅の連合軍と戦う。しかし、唐・新羅の前に敗れることとなった。※第35代皇極天皇は一度を退位していたが、重祚、再び天皇となり斉明天皇となった ■高句麗の滅亡668年、高句麗は唐・新羅連合軍に攻撃され滅亡…

#渤海国#渤海使#松原客館#能登客院

万葉集の歌碑めぐり4年前

万葉歌碑を訪ねて(その724,725,726)―和歌山市岩橋 紀伊風土記の丘万葉植物園―万葉集 巻二十 四五一三、巻十九 四二〇四、巻二 一一一―その724― ●歌は、「磯影の見ゆる池水照るまでに咲ける馬酔木の散らまく惜しも」である。 紀伊風土記の丘万葉植物園万葉歌碑(甘南備伊香真人) ●歌碑(プレート)は、和歌山市岩橋 紀伊風土記の丘万葉植物園(28)にある。 ●歌をみていこう。 ◆伊蘇可氣乃 美由流伊氣美豆 氐流麻泥尓 左家流安之婢乃 知良麻久乎思母 (甘南備伊香真人 巻二十 四五一三) (注)大蔵大輔甘南備伊香真人(おほくらのだいふかむなびのいかごのまひと) ≪書き下し≫磯影(いそかげ)の見ゆる池水(いけみづ)照るまでに咲ける馬酔木(あしび)の散らまく惜しも (訳)磯の影がくっきり映っている池の水、その水も照り輝くばかりに咲きほ…

#万葉歌碑巡り#万葉集#紀伊風土記の丘万葉植物園#渤海使#大伴家持#僧恵行

昨日の不倶戴天の敵は 今日の刎頚の友18日前

ミサイルってネイティブの発音で聞くとミッソーと聞こえるんだが…地名が付いた味噌って色々ありますわな。 江戸味噌、京味噌、八丁味噌、会津味噌、信州味噌、仙台味噌等々。中国大陸発祥説やら日本発祥説やらあるけれども、所謂「MISO」は日本発祥だろう。中国や朝鮮半島、タイなどにおいてそれに該当するのが醤(ジャン)。 飛鳥時代には味噌の前身となるものが唐から渡ってきたので、その歴史は古い。言いようによっては、唐時代の中国はかなり国際色豊からしいことからも伺えるように、当時の交流の名残とも言える。 国際色豊からしいと書いたが、懐も深かった模様。でなければいくら科挙に合格したとて阿倍仲麻呂さんが宮廷に雇用されたりするわけない。ちなみに彼の子供達4人くらいいたはずだけれ…

戦国日本の津々浦々 ライト版1ヶ月前

高 内弓 こう の うちゆみ日本から渤海に派遣された留学生。渤海楽(渤海の音楽)を学んだとされる。天平宝字七年(763)に海路で帰国の途につくが、日本海で遭難し、妻子らを海に投げ込まれた。本人は隠岐国に漂着するが、以後の消息は不明。一方で彼が学んだ渤海楽は日本に定着し、雅楽の一つとして長く引き継がれていった。 渤海からの帰国 住渤海国、学問音声 渤海楽の系譜 参考文献 渤海からの帰国 天平宝字六(762)年十一月、日本に来航していた渤海使の王新福らを帰国させるため、左兵衛の板振鎌束が船師として同行し渤海に渡航。渤海使節を送り届けた鎌束は翌天平宝字七年(763)に日本への帰途につくが、帰国船には入唐していた学問僧快融と優婆…

戦国日本の津々浦々 ライト版1ヶ月前

上京竜泉府 じょうけいりゅうせんふ7世紀末〜10世紀にかけて栄えた渤海国の王都。忽汗城の異名でも呼ばれる。都城の遺跡は黒竜江省寧安市渤海鎮に残る。8世紀中頃に、唐の長安城をモデルとして建設されたと推定されている。 渤海の建国 渤海の北進と対唐紛争 上京竜泉府への遷都 都城の構造と宮殿群の特徴 皇城と外郭城 唐との通交ルートと渤海の特産品 日本との通交 渤海の滅亡 関連人物 参考文献 渤海の建国 渤海国は中国東北地方東部・沿海州地域・朝鮮半島北部を支配領域とした。同国に関する文献史料は周囲の国々に残されたものばかりであり、渤海国が栄えた当時の中国王朝である唐朝の正史である『旧唐書』(945年)・『新唐書』(1060年)が基本的な…

日本の隅っこの歴史1ヶ月前

刀伊の入寇 おさらい今回は、刀伊の入寇をおさらいします。 これって意外にタイムリーなお話なんですね。私、大河ドラマは見ないのですが、そういえば同じ時期のお話ですね。 さて、参ります。 「刀伊」とは、高麗の人々が彼らを指して呼んでいた「トイ」という音に漢字をあてたもので、その正体は女真族だといわれています。 女真族は後の満州族で、現在の中国黒竜江省とロシアのアムールを合わせたあたりに住んでいた、ツングース系の民族です。現在は居住地によって中国語を話しますが、元はツングース語系の女真語を本来は話していたようで、文字は、1019年当時はわかりませんが、1119年以降は女真文字を使い、その後満州語を話すようになって、明代…

坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」2ヶ月前

聖武天皇は安禄山安禄山は、国際的な国家唐にふさわしく、ソグド人と突厥人の混血である。ソグド人は中央アジアのオアシスの定住民、またはキャラバンを組んで交易に従事するイラン系の民族で、突厥はトルコの漢音読みである。後のモンゴルの後継国家で、チンギス・ハンに匹敵する大帝国を築いたティムールが都にしたサマルカンドの出身で、安禄山は彫りの深い容貌をしていたようである。 安禄山は6ヶ国語を話し、肥満体で、体重は330斤(役200キロ)あったという。この巨大で、当時の唐の皇帝玄宗の前で胡旋舞を疾風のような速さで踊ったという。後年、西郷隆盛と仲が悪かった島津久光は、西郷を「あれは安禄山だ」と言った。安禄山の肖像画があるが、目…

歴史と本マニアのための部屋3ヶ月前

第22回「越前の出会い」 第23回「雪の舞うころ」 大河ドラマのlightな感想 光る君へ目次:クリックで各項目へ飛べます 越前国司への任官 越前の国府と、越の国 松原客館に見える宋文化の影響 宋の商人 朱仁聡 劇中に登場する交易品とそれらがもたらした影響 オウム 羊 室内調度に見える宋からの輸入品=青磁 まひろの代筆 越前の和紙 流転の運命をたどる中宮定子 枕草子の一節 (次の、または未来の)春宮の座を争う人々 帝(一条天皇) 道長 居貞親王(現在の春宮) 宣孝からまひろへの求婚 おまけコーナー:宋の交易品 織物 様々な絹織物 香料 その他の宋からの輸入品 宋からの交易品の概観 さて995年4月に道隆の死、996年1月に長徳の変が起こってから月日は流れ(といっても一年経っていない…

vvzuzuvv’s diary3ヶ月前

朝からやってるはま寿司本日より滋賀〜京都の歴史を巡る旅はじめます よろしければお付き合いください まずは出発の朝🌄 6月22日土曜日 金沢市中村町 はま寿司中村店 ブロガーさんの記事を見てこの日のモーニングは決めてました 突撃だー! 朝5時半 駐車場すでに数台停まってるし 朝限定のメニュー 種類は少ないけど十分十分 ラーメンは連れ ワタシは豚汁 まだ食べたい衝動をおさえつつ この日のランチはたっぷりサラダバーの予定なので、控えめに腹八分ね あさから回転ずし。たのしっ! ご馳走さまでした 巡りあひて紫式部デジタルスタンプ、抽選で地元の特産品をもらえる、ってラリーに参加することにしました 20数個のなかから5つ集めれば…

タテよこ斜め縦横無尽4ヶ月前

紫式部が生きていた頃の日本の周辺前回のNHK大河ドラマで、紫式部が越前へ赴きそこで宋人と遭遇する場面があった。高校の世界史で中国の歴史は一応勉強したはずだが、隋、唐、宋、元 と移り変わる中国の歴史の中で、宋に関する記憶が皆無である(強いて言えば、中学歴史で習った平清盛の日宋貿易ぐらい)。今日は、紫式部が生きていた頃の東アジアの様子を調べた。 上図は、古代から鎌倉武家政権が始まるまでの東アジアの国々の移り変わりを示す。遣唐使廃止後も、藤原氏と呉越とのあいだでは外交が続いていた。中国大陸が統一されていく中で呉越が北宋に吸収され、北宋との間では私貿易が継続した(下図左は五代十国時代の呉越を示す)。 上図右は、10~11世紀の東アジ…

ken ohwada 雑記帳6ヶ月前

飛鳥時代の出来事飛鳥時代の出来事を年表にまとめた。 飛鳥時代 は 日本の歴史の時代区分の一つである。 前は 古墳時代 後は 奈良時代 関連記事 飛鳥時代の概要 飛鳥時代の外交 飛鳥時代の文化 飛鳥時代の出来事 528年 (継体天皇22年) (528年) 糟屋屯倉 設置 531年 (継体天皇25年) 安閑天皇 即位 535年 (安閑天皇2年) 屯倉 全国に多数設置 536年 (安閑天皇2年) 宣化天皇 538年 (宣化天皇3年) 仏教公伝 539年 (宣化天皇4年) 欽明天皇 即位 572年 (敏達天皇元年) 敏達天皇 即位 578年 (敏達天皇7年) 金剛組 創業 585年(敏達天皇14年) 用明天皇 即位 …

ken ohwada 雑記帳6ヶ月前

奈良時代の出来事奈良時代の出来事を年表にまとめた。 奈良時代 は 日本の歴史の時代区分の一つである。 前は 飛鳥時代 後は 平安時代 関連記事 参考 奈良時代の概要 奈良時代の文化 奈良時代の小区分 奈良時代の出来事 前史 701年 (大宝元年) 大宝律令 制定 707年 (慶雲4年) 元明天皇 即位 708年 (和銅元年) 和同開珎 鋳造 708年 (和銅元年) 私鋳銭禁止令 奈良時代 前期 710年 (和銅3年) 平城京 遷都 711年 (和銅4年) 蓄銭叙位令 712年 (和銅5年) 古事記 完成 712年 (和銅5年) 出羽国 設置 713年 (和銅6年) 大隅国 設置 713年 (和銅6年) 風土記…

日刊 おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)6ヶ月前

京都島原にある東鴻臚館跡 ~ここで渤海からの使節団をもてなしていました~京都の花街・島原周辺の街歩きをしていると、道がL字に曲がる角に、ある石碑が建っていました。東鴻臚館跡と刻まれています。 (外国使節をもてなす京都の接待施設:鴻臚館)鴻臚館は,外国使節を接待しもてなす施設のことです。平安時代には平安京、大阪難波、福岡筑紫の三カ所にその施設がありました。福岡の鴻臚館は、大陸や朝鮮半島から距離的に近いために作られたようです。この福岡の鴻臚館は行ったことがあります。 (渤海の使節団をもてなす京都の鴻臚館)平安京の鴻臚館は、羅城門北側に朱雀大路をはさんで左京と右京に対称に位置し、.左京の鴻臚館は東鴻臚館、右京の. 鴻臚館は西鴻臚館と呼ばれていました。ここで、渤海国からの…