つぶやきよりチョイ長め (original) (raw)

アタシは「元」歯科衛生士だ。

当時「あなた職業柄、きっと歯はキレイなのでしょうねぇ」と、何回も言われた。

ンなこたーない。オンギャーと生まれて歯科衛生士になるまでは歯科の知識なんてなかったのだ。

子供の頃、ミルキーを口に入れたままヨダレを垂らして寝ていたし。(バカ)

なので、現在も臼歯の部分は全部詰め物が入っている。そして恥ずかしいかな、片方に八重歯があって上顎の歯列はガッタガタだった。

それにより、添乗員を生業としていた頃、海外では恥ずかしくて思いっきり笑えなかった。外国において歯並びは「その人の育ち」を見られるからだ。なので八重歯や歯列の悪さが超超コンプレックスだった。

という訳で、そのコンプレックスをなくしたろうと、歯列矯正を決心したのは中年になってからだ。

ちょいと専門的な話だが、歯には番号が付いている。前歯の中心から奥歯に向けて1番2番3番...と数える。ちなみに中心から数えて3番目は犬歯、いちばん奥の歯は7番になる。(親知らずは8番)

アタシは2番が通常の歯列より奥(後ろ)に生えており、3番(犬歯)が生えるスペースがなく前の方に突出してしまい八重歯となってしまった。

さて、歯科医師と綿密なカウンセリングを行い納得するまで説明を受けた。

アタシは、審美性も求めたので左右3番~3番まで矯正し、セラミックによる被せ物もお願いした。

矯正にかかった期間、約1年ちょい。

ワイヤー矯正治療費用、自費(保険外)10万円!

前歯の被せ物(セラミック)自費(保険外) 1本10万円✕6本!

その他モロモロ、トータル80万円近くかかっている。

※美容歯科ではなく、一般歯科での料金(自費治療につき地域差あり)

タイトルの、中年が「歯列矯正とセラミック歯でキレイになれるのか」だが、

結果を言うと「なれた」。人前で口を隠すことなく思いっきり笑うことが出来る。コンプレックス解消だ。ついでに、ほうれい線も消えるという副作用もあった。(おそらく、八重歯があった方の顔の筋肉が、歯に引っ掛かってうまく使えていなかったのではないだろうか?知らんけど)

80万円はかかったのだ。元は取った!(と思いたい)

もしこのブログを読んで、自分もやってみようか、と思った方へ申し上げるが、やるには覚悟が必要だ。費用とか時間の問題ではない。

どれだけ事後メンテナンスをしっかりやれるか、という覚悟である。

メンテナンス=口腔内のお手入れのこと。歯磨きは毎食後やっているという方でも、もっと細かいお手入れが必要だ。

昭和の昔、歯磨きは3分はやりましょうと言われていたが、それだけではお手入れ不足だ。

40オーバーの方、えのき茸とかワカメとか歯に挟まりませんか?

それは、中年になったら歯ぐきが瘦せる(退縮する)から。なので挟まった部分から虫歯や歯槽膿漏になってしまう。それに加えて補綴物を被せると、歯垢が溜まりやすくなる。だから通常の歯磨きのみではお手入れ不足になる。

僭越ながら、アタシの歯のお手入れ法をお伝えしよう。

まず「スクラッピング法」という歯磨きの方法で10分は時間をかけて磨く。(※強い力で磨いてはダメ) その後デンタルフロス、歯間ブラシ、更にタフトブラシというミニ歯ブラシでお手入れをしている。就寝前はトータル20分はかかる。

ちなみに朝・昼のお手入れは、夜よりも短め。歯磨きは5分+デンタルフロス+歯間ブラシは必須で、それでもトータル10分は必要。

歯列ガッタガタというコンプレックスはなくなった!セラミックも被せて歯が白くなった!人生が豊かになった!満足満足~♪、と浮足立ってはいけない!

これをどれくらいの期間維持できるか、そしてそれを保つための覚悟があるのか。

やるかやらないかは、あなた次第・・・。

~Fin~

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髪の毛は、1か月に1cm伸びるという。

ジョギングをしているからか、納豆を毎日食べているからか知らんが、どうもアタシの場合は平均より伸びるのが早いようだ。1か月で1.5cm近く伸びているような気がする。(ちなみに爪の伸びも早い)
毛染め(根元染め)をおおよそ1か月半に1度しているが、根元部分を見ると2cmくらいは伸びているのが分かる。だいたい3か月で4cm伸びるとすると、1年で16センチ、2年で32cmという計算か。

そういうわけで、2年と4か月ほど伸ばした結果、35cmの毛束が出来た。なので2年ぶり2回目のヘアドネーションをすることとした。
ヘア+ドネーション(寄附)=髪の毛を寄附する。

癌などの病気や事故で髪の毛を失った子供達に、寄附された髪の毛を材料にして「医療用ウィッグ(かつら)」を作り、無償で提供するというボランティアだ。
この取り組みは、だいぶ世間に知れ渡っているようだし、アタシが住まう県の自治体でも推奨している。

ツチノコか?

2年チョイぶりに切った髪の毛を、手に触れマジマジと見てみる。
髪の手入れは、わりとしっかりやったつもりだった。トリートメントは欠かさず、また寝る時も髪に負担がかからないようにもした。
しかし、数年前の髪の毛と比べて、毛にツヤがない。直毛のつもりだったのが、パーマをかけていないのにうねっている。
なんか毛束が全体的にハリがなくションボリした感じ。

これって「老い」、ですか…?

NPO法人に送ってみるが、これがウィッグの材料として使われるかどうかは分からない。(お知らせとか来ない) 医療用ウィッグに使われなくても、見習い美容師の練習用にでもなればそれでヨシとするか。

また数年伸ばして寄附をするかどうかは未定だ。子供達にこんなババアのツヤ・ハリのない毛では気の毒かな~と思ったりもする。

しかし、使用する髪の毛はまだ不足しているという。そして、こちらの自己満足で髪の毛を送ったとて、ウィッグを作製する資金も不足しているそうだ。専門家による手植えでウィッグを作るので手間もお金もかかるのだろう。

2年前に贈った髪の毛が、どこかのお子さんの手に渡っているのを期待しつつ、また2度目の髪を贈る。

~Fin~

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両親が運転し、自宅がある東村山市と都心を往復する日々。

兄妹はいつも一緒で、バスの中には家族の団欒があった。

これは、1970年代に一世風靡した「フィンガー5」の元メンバーが、解散後に語るインタビュー記事の一部だ。

10月上旬、アタシはコロナ感染症に罹患してしまい、世のお決まりで1週間ほど会社を休むことになった。
外に出られないそんな時には、究極の暇つぶしYouTubeのお世話になる。そのおススメでいきなり「フィンガー5」が出て来たのだ。
懐かしさから何曲か聞いていると、ドップリ沼った。昔の歌番組やら、当時のプロモーションやら、検索するとどんどん出て来る。ステイホーム中、コロナウイルスもビックリ、もう夢中で見まくった。

見まくった後に、彼らのその後が気になった。調べてみると、この5人兄妹は解散後、大変な苦労をしていることが分かった。メインボーカルの晃は、19歳で芸能界を引退後、一般社会に出てなかなかの辛い目に遭っている。その妹、妙子は20歳という若さで結婚した。このグループの栄枯盛衰の人生込みで、更にマイブームに拍車が掛かったという訳だ。

そうは言うが、アタシはリアルタイムではこの兄妹アイドルグループをよく知らない。
微かな記憶では、アタシより少しお姉さんの女のコ、やたら歌が上手いトンボメガネをかけた男のコがセンターで歌って踊っている。そしてその二人の横で大きいお兄さん達も安定感のあるダンスをしている。いいないいないいなっ!アタシもあそこに加わりたい~、と思っていたのを覚えている。こましゃくれた歌詞の意味が分からずも、曲が大好きだった。フィンガー5が載った何かの雑誌もよく見ていた。
当時、日曜日の昼に「ロッテ歌のアルバム」という玉置 宏の司会で歌番組が放映されており、幼児期の薄い記憶ではフィンガー5もよくこの番組に出演していた(っぽい)。これが第1次マイブームだ。

フィンガー5」とはなんぞやについては、検索すると色々出て来るので端折るが、とにかくあの当時は大人気だったのは言うまでもない。
メインボーカル、トンボメガネの晃は布団で寝る時間は3時間ほどだったそうだ。食事も食べる暇はなく、食べる気も起らない状況。12~13歳で体重30㎏代、当時の動画を見てもガリガリ。1つ下の妹、妙子よりも瘦せて華奢だ。ハードスケジュールにより、何度か救急車で運ばれたそうだ。今なら労基法児童福祉法でややこしい事になる。(法令遵守、なんて言葉は平成にならないと出てこない)

そしてなんと!この晃は人気絶頂の頃、東村山市の中学校に普通に通学していたという。「東村山4中の同級生に徹底調査」という、当時の生徒数十人にインタビューをしている記事が出ている。それも個人情報丸出しで!こういうところがTHE昭和だ。当時のこの記事をコピペしたであろう、いちファンのブログで公開されてる。ファンでなくてもこのブログは読んでみる価値はある。(昭和過ぎておモロい)
この大スター達は、東村山市の自宅から都心へと、両親が運転する車で通勤していたのだ。冒頭に書いたインタビュー記事は、その車内での日常である。

ヒット曲はご存じ「個人授業」「恋のダイヤル6700」「学園天国」

今の若い子の間でも、フィンガー5の名は知らないが、曲は聞いた事があるという人も多いだろう。

今、アタシが熱中しているのは、これら定番の曲ではない。

恋のアメリカン・フットボール」「恋の大予言」「恋の研究」「バンプ天国」「ぼくらのパパは空手の先生」「気になる女の子」「華麗なうわさ」など。

要するに「じゃない方」の曲もすっごくいい!晃の変声期前のハイトーンの歌声と、そして変声期最中の何とも言えない13~14歳のセクシーな歌声もいい。

更にダンスパフォーマンスが半世紀前のものとは思えないほど見ごたえがある。一周回って古臭さを感じない。このグループは子供ではあるが間違いなくプロだ!(YouTubeへGO)

これら「じゃない方」の曲も、これまでテレビCMにチョイチョイ起用されていたり、バラエティ番組のBGMにナニゲに使われていたりする。おや?聞いた事ある、と思っていただけるだろう。

歌詞は、あの当時の「死ぬほど好きぃ」とか「会いたいぃ」といった感じでストレートかつ単純な内容のものが多い。(作詞、阿久 悠先生)昭和の歌ってこんな感じだった。最近の歌は、歌詞が斜に構えているような気がしてならない。そして歌い手の言葉がはっきりしないので外国の歌ですか?っていうのが多い。(それはそれで良さはある。知らんけど)

さて人気というのは、オンナの花の盛りと同じく続かないものだ。人気ガタ落ちのキッカケは、絶頂期に渡米したことであろう。渡米の理由は「留学」

でもホンネは、「_逃げた。あのまま日本にいたら確実に僕は死んでいたと思う。_」と、晃は後日談としてインタビューで述べている。

帰国後、いろいろ試行錯誤するも以前のようなヒットに恵まれず、最初の大ヒット曲「個人授業」から5年後となる1978年解散。

後から出て来る彼らのこぼれ話には、芸能界の汚い部分が垣間見える。しかし、あの頃の動画や画像を見ても、そんなことは微塵も見せず眩しいくらいに輝いている。我らに夢を見せてくれている。

アタシは、解散後の彼らの苦労を踏まえ、改めて「フィンガー5」のファンになった。

あの輝きは50年ほど経った今、またアタシを再燃させてくれている。

~Fin~

2年ぶり2回目、まるで高校野球の甲子園出場のような表現であるが、いや~、まさかの2回目のコロナ感染だ。

症状が出始めたのが10月6日昼頃。身体がフワフワするあの感覚、最近の暑さ寒さの繰り返しで風邪だと思った。かかったかな?と思ったらパブロンでしょ、という訳で竹下景子の癒し薬を飲む(古ッ)。そして夜の10時頃、身体の火照りの奥~~に寒気を感じる。竹下景子薬が効かない?慌ててお熱を測る。アタシの家の体温計は、ピピッと鳴るやつではなく昔ながらの水銀入りのやつだ。(ちなみにこの水銀体温計は2021年から製造が終了している。)

5分経過、38度4分。へ?景子さん、なんとかして。その数字を見た途端、気絶するように眠る。

そして深夜、「う、ううぅぅ」という地獄の底から聞こえて来るような声で目が覚めた。自分がうなされている声だ。昭和の漫画に出て来る「う~ん、う~ん」の図と同じアレだ。これはあかんヤツだろと思いつつ、熱を測ってみると水銀が39度6分のラインまで達している。アタシ史上、最高の体温だ。四捨五入したら40度である。写真に残そうかとチラッと考えたが、そんな気力もない。

朝一でヘロヘロになりながらも掛かり付けの病院へ行く。検査結果、陽性。病院でもらった薬は、ただの風邪薬だ。もちろん、15000円ほど出せばナンチャラというコロナ感染症の特効薬を買える。しかし、ヘロヘロでもケチった。

症状は3日分もらった風邪薬で治った。しかし咳がモんのすごく、腹が筋肉痛だ。会社は1週間休む。

アタシが住まう県では、10月上旬のコロナ感染は下降していると出ており、流行している状況ではなかった。それまでマスクは付けずに過ごしていたが、手洗いと手指消毒は割と徹底していたつもりだった。そして過去にはワクチン5回も打ち、1回感染して自然免疫も獲得しているはずなのに、また感染してしまった。

どうやらこのウイルスというヤツは、どこにでも転がっているらしい。こやつは自分自身が繁殖すべく絶好の宿主が見つかれば、すかさず入り込んで来る。

結局、そうさせないためには、アタシ自身の免疫力を高めるしかないようだ。

~Fin~

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とうとう、実家の愛猫「ちー」が逝った。

6月25日朝、2軒隣の徳井さんから「お宅のちーがウチの庭で死んでいる」と電話があったそうだ。

徳井さんの庭はちーのテリトリーで、食後は必ず散歩に行っていた。いつものルーティンの途中で生き絶えたと思われる。

ちーは、死ぬ2週間前くらいから家の中に入らなくなった。隣の空き地の土管の中で、じっとしていたそうだ。エサや水はわざわざ土管まで父が運んでいた。食べる量も日に日に少なくなっていたそうだ。

雨の日には寒かろうと家の中に連れて帰るが、なぜか落ち着かない様子ですぐ外に出ようとしていたという。

そして2~3日姿が見えなくなり、いつの間にか帰って来ている。そんなことが2回ほど続いた。自分の死に場所を探していたのだろうか。

そして、お別れの朝をむかえた。

父は、ちーをモンのすごく可愛いがっていた。我が子のように話し掛けてやり、エサを与え、抜け毛のケアをしてやり、同じ布団に眠り、日々を穏やかに過ごしていた。

母曰く、父は誰にも告げず、ひっそりと近くの裏山にちーを埋葬したとのこと。あの昭和の俺様男が、たった独りで墓穴を掘り埋葬し、手を合わせる姿が目に浮かぶ。きっと父は、泣いている姿を誰にも見せたくなかったのだろう。

ちーは13年も生きてくれた。ずっと父の「癒し」だった。アタシら子供や孫達と違う愛し方だった。

ちー、ありがとう。

叶うなら、もっと父の傍にいて欲しかった。

Stand by 爺.

~Fin~

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昭和9年生まれの父。この夏で90歳になる。

背筋もしゃんとして、マンガに出てくるようなヨボヨボの爺さん、という感じでは全くない。高齢になると食が細くなるというが、そんなことはなく朝からご飯をおかわりする、そんな衰え知らずの父だ。まだまだ長生きしそう。

この父、ちゃっちきの大工だった。今のように建設会社に所属する作業員とは違い、父の時代は棟梁に弟子入りをしてそのまま棟梁の元で働くか、または数年で一人立ちをするかだった。父は後者だ。いわゆる一人親方であった。

昭和30年代~50年代は、建築バブルと言われる時代で父はよく働いていた。盆と正月くらいしか休んでいなかったのを覚えている。

父は、左手人差し指の第一関節より上が無い。電動ノコギリで「たたっ斬った」と言っていた。今のように労災でどうにかしようとか、そんな時代ではない。そして一人親方はそんな保障もない。子供のアタシは、この人差し指を撫でて痛かった?どのくらい痛かった?と何度も聞いた。手が荒れ、パックリ割れた指先や爪の中には松ヤニが入り込み真っ黒だった。この手でアタシは育てられたのだ。たくましく愛しい手だ。

こういう風に書くと、お涙頂戴のようになるが、いやいや全然、全く。

この父、アタシが子供の頃は酒癖が悪く、よく母に手を挙げ足も挙げていた。仕事でもこだわりが強いらしく、気に入らないと現場に行かない。更に飲酒運転で2回交通事故を起こしている。(当時、飲酒運転は一発免許取り消しではなかった)ようするにクソ親父だ。母には色々と苦労をかけていた。当時アタシは、この父があまり好きではなかった。そして、母とよくケンカをしていたし、兄もそんな父を相手にしていなかった。なので父は家の中でも、一人親方(独り)だった。

このアタシ、年齢を重ね経験とわずかな知恵が付き、(やっと)世の中が解り始めたが、この父って実は「スゴクね?」と思い始めた。

この人、自分で理想の家を設計し、働きながら資金を作り、自分でノコギリを使い、金槌で釘を打ち、マイホームを完成させた。夢を手に入れたのだ。

これって、今や死語の「男のロマン」なのではないか?一生の夢をナニゲに叶えているのだ。

今のアタシの歳には、父はすでに夢を叶えていた。それに比べ、今のアタシは何も手に入れていない。「クソ親父」なんてどの口で言うか!

この家の建設中、中学生のアタシは父の仕事ぶりを生まれて始めて見た。ちょうど二階へ上る階段を設置しているところだった。相当の力がいるのだろう。父の汗がタラタラと滴る。その汗がキラっと光った。そのキラっ、が数十年経った今も目に焼き付いている。

あのクソ親父が、自分の生業を見せてくれた。そして父はそれを当たり前とし、今も恩を着せることや自慢することは一切ない。

少し前「親ガチャ」という言葉が流行ったが、流行らせた人はきっと若い人達だろう。

アタシが「クソ親父」と言っていたのと同じように、年齢を重ねた時に親の有難みが解って来るはずだ。

お父さん、クソ親父って言ってゴメン。

~Fin~

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和解して、あれから1年が経った。

アタシら兄妹のその後を書き綴ろう。

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13年前、兄と大ゲンカをした。

「あんたを刺してアタシも死ぬ」という言葉も出た。

12年も接触を断った理由は何なのか。ここまで書いておきながら理由を避けるわけにはいかないだろう。

兄のギャンブル依存が原因だった。多額の借金を作り、両親に迷惑と心配を掛けていた。それを聞いてからの大ゲンカだった。

正直、この事はいまだに許せないし、一生許さん。

もともと、この兄という人は穏やかで優しい性格だった。こういう人は、いろいろと溜め込みやすいのだろうか、ストレスがギャンブルへ向かったようだ。弱い人だ。現在は、早くも孫が3人もおり、気持ちの行き先が孫達へと向かいギャンブルどころではないようだ。

そういう訳で、兄のいる実家には12年間全く寄り付かなかった。
親戚の葬式だろうが、姪(兄の娘)の結婚式であろうが、参列はするものの、こちらから声を掛けることは一切なかった。(両親と会う時は、アタシの自宅に呼び寄せていた。)

当時、両親は心の底からアタシらを心配していた。
両親からの泣きの説得と、そしていつ逝ってしまうかも分からない高齢の二人を安心させたいという気持ちから、アタシから譲歩した。

氷が溶けたあの日は、去年の5月連休だった。

外出先から帰ってきた兄に対し、アタシは「元気にしとったん?」と顔を引き攣らせながらも声を掛けた。(その時の周囲の張り詰めた空気感と、このセリフを言い終わった後のアタシの虚脱感はお解りいただけるだろうか・・・。)兄はアタシが帰省することを事前に聞いていたようだが、アタシが柔和な態度だったことに驚きを隠せないようだった。「お、おう・・・」と兄。

その日、12年ぶりに家族と食卓を囲んだ。その際、兄は少し酒が入ったのもあり「あの時は自分が悪かった」と、泣いて謝った。
それを聞いてアタシも猛烈に泣きそうになったが、あえて「そうね、分かってたらいいワ」とお茶らけて笑って見せた。

空白の12年が一気に縮まった。

横にいた両親もホッしたことだろう。

12年は長い。産まれた乳飲み子が中学生になるくらいの時の流れである。

兄はシワが増え、血糖値が高いだの尿酸値がどうのと、たっぷり蓄えた脂肪を撫でながら言う。アタシ自身も変わらないつもりでいたのに、当たり前だが確実に年を取った。相手を見て自分もそうなのだと感じる。

そして両親も然り。

それから、秋には母が圧迫骨折で入院。そして認知症の症状も出始めている。兄とは両親の事で話し合う機会が多くなった。

アタシは、これまでの時間を取り戻すかのように出来る限り実家へ帰省し、兄と両親との時間を作るようにしている。家族が揃って一緒に食事をする機会は、あと何回残されているのだろうか。

両親が逝った後、あれをすれば良かった、こうしてあげたかった、と後悔する時がきっと来るだろう。その中に、2人しかいない兄妹が縁を切っているという、こんな親不孝な後悔があるだろうか。

1年前に兄と和解(仲直り)して良かったとつくづく思う。

これからの残された毎日が、家族との思い出に変わるのだ。

~Fin~

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86歳の母。

少し前までは141cm、56kgだった。

片手に菓子パンを持ちつつ、痩せたい痩せたいと言っていたのを思い出す。

それがここ2年ほど、帯状疱疹・圧迫骨折により体重が10kgほど落ちて瘦せた。

食欲もあまりなかったらしい。

この体重から一気に瘦せると顔が萎んでしまう。すなわちシワが増えるのだ。

そんな落ち込んだ母を見て、父は「昔やっていた顔のマッサージをしろ」と、まるで美容部員のようなことを言ったらしい。

母は、オトコである父にそんな事を言われたもんだから、早速、お高いんでしょ?と言いたくなるような化粧品を買い、ここ数か月ほどマッサージにいそしんでいたらしい。

すると、あ~ら不思議。以前より顔にツヤが出てきたのだ。86歳にしては血色もいい。

「赤いバラのブーケ(父の日・母の日)」の写真

母は半年前からデイケア(リハビリ)に週2回通っている。行く時には、きちんと化粧をし服装も気を使い、鼻歌交じりでお迎えのバスに乗って行くそうだ。

高齢の母にとって、このような外出は非日常である。デイケアに行けば同世代の「女子」がいておしゃべりに花を咲かせている。

肌ツヤがいいのは、家からおしゃれをして外出をすることが要因で、それこそ生活に「ハリ」が出たのではないか。

アタシ思うに、

年齢を重ねても「女はオンナ」だ。89歳の父のちょっとしたひと言でキレイになれる「オンナ」なのだ。

鏡台に向かい口紅を塗る母は、子供の頃に見た母と少しも変わらない。

そんな「オンナ」である母が愛おしい。

~Fin~

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「ネコとおじいさん」

以前このタイトルで、ホームレスのおじいさんとおじいさんを慕う白いネコの話を書いた。

コレ ↓↓

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今回は、実家のネコ「ちー」と今年90歳になるアタシの父との話だ。

実家の「ちー」4回目登場!

ちーが危ない。もう13年生きているので身体が弱っている。

3月下旬、ちーが脳梗塞を発症した。数か月前からよく後ろ足で耳を掻いていたので、ノミダニの仕業と思っていた。動物病院の診察によると、そうではなく中耳炎を患っていたらしい。さらに奥の脳まで侵されてしまったらしく、そのことにより血管が詰まったということだ。

ちーは、人間の脳梗塞と同様に半身不随になり片足に力が入らない。なのでトイレに行かせるときは、父が抱き上げて連れていっている。

...と、いま普通にこれを書いているが、アタシにとっては父親が1匹のネコに対して、そんな優しさがあったのかと驚いている。

父は昭和の初期に生まれた。男ばかり4人兄弟の三男坊だ。なので甘えん坊の「オレ様」で育った人だ。世は男社会、また男尊女卑が甚だしい土地柄もあり、ようするに「自分が1番」の男だった。

そのこともあり、アタシが記憶する父はネコに対する愛情は全くなかったと言っていい。「汚い」「家を荒らす」「腐れ猫!」「捨ててこい!」こんな言葉を発しながら、ネコを足で蹴ったりする男だった。

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実家は、昔から常にネコが住んでいた。ネコと御縁があるとしか思えない。ノラが勝手に住み着いたり、人からもらったりしていた。

ちーは、保健所のネコの捕獲からギリギリに逃れたネコだった。すでに捕獲用の檻に入った状態で「ちょっと待ったーーっ!」と、それを見ていた従姉が救い出したのだ。「この猫、なんか光るものがあった。」とタレントのスカウトマンが言うようなセリフを吐いたのを思い出す。しかも贔屓目かもしれないが周りが引くほど賢かった。

過去のブログ↓↓

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そして可愛いらしさに家族全員メロメロだった。特に父はホントよく可愛がっている。

孫達が手を離れた寂しさもあり、代わりにちーを可愛がっているのかも知れない。

そしてちーも、可愛がってくれる人は誰なのか畜生ながらに解っている。

ちーは、2階の父の寝床まで片足が不自由ながらも、いつもの時間に寝に来るそうだ。ただの習慣なのか、または安心して眠れる場所が父の懐なのか...。

「ネコとおじいさん」

動物学的にも結びつかなそうな「種」の二人だが、ふんわりと平和な二人だ。

暖かな日の縁側に注ぐお日様のような雰囲気...

先のブログに書いた、ホームレスのおじいさんと白ネコのそれと同じだ。

13歳の老ネコ、そして90歳になる父。

いつまでもこの日だまりの中で過ごす日々が続いてほしい。

~Fin~

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年齢を重ねるごとに、体力も内臓の状態も段々と老いていくのが分かる。ちょっとハードな事をすると寝ても疲れが取れないし、また体力を付けようと質の良い肉なんぞ食べたら下痢する。

20歳代なんて無敵だった。

仕事終わりに飲みに行き、徹夜で遊んでそのまま出勤しても全然シンドくなかった。

二日酔いしても昼頃には回復して、普通にランチにガッついていた、あの頃...。

アタシはお酒が強い。と、言ってもオンナの肝臓の割に、である。オンナの肝臓のアルコール処理力は、オトコのそれと比べ落ちる。

だから調子に乗ると痛い目にあうのだ。

若い頃は調子に乗っていた。ビールは水だった。飲めばミルク飲み人形の如く、即シッコでジャー。アルコール分解も早かった。

さすがに日本酒を1升空けた時は、カトちゃんの酔っぱらいコントのように千鳥足になる。そして、朝には布団の上がゲ■まみれの時もあった。

それでもは二日酔いはしなかった。今のアタシなら天に召されるはずだ。

あれは、アタシが花の盛り24~25歳くらいの出来事。

ある有名な飲み屋街にオンナの友人と出掛けた。そこはナンパ通りでも有名だ。

その友人もアタシと同じ、いやそれ以上に「飲み助」だった。

その通りをそぞろ歩いていると、「お姉さん、すいませぇん」と若いオトコから声を掛けられた。ナンパか?と思いきや飲み屋のキャッチだった。

それもホストクラブだと言う。「2000円で飲み放題、無制限だけど来ない?」とチャラチャラと誘う。

田舎モンのアタシは、危険信号が点滅する。

しかし飲み助の友人は「無制限の飲み放題?行く!」と即答した。

この友人はアホだけど賢かった。「一筆書け」と証拠を残させた。そうは言うても、オンナ二人だ。そんなに飲めまいと踏んだのだろう。そのキャッチ野郎はチャラチャラと書いた。

ホストクラブ、と言っても着いてみれば、今話題になっているアレのような雰囲気ではない。現在で言うなら「ガールズバー」のオトコ版だった。

カウンター越しにホストがいて、酒を飲みつつ会話をするといったスタイル。なので、余計な会話はいらんアタシらにとっては絶好の酒飲み場だった。

まずはビールで乾杯。若い五臓六腑に沁み渡る。当時は、発泡酒第三のビールなんてなかった時代なのでモノホンのビールだ。『美味しいラガーが飲みたいです』のキョンキョンのCMが懐かしい。

2杯目も何か知らんけど祝杯。あっさり3杯目も続く。ここらでアタシらは気付く。グラスがオシャレな小ぶりサイズなのでチビチビ飲んでてキリがない。

あのう、ジョッキに入れて貰えます?

軽く嫌な顔をされる。

さあ、器が変わった、飲み直しだ!

飲めや飲めや、やんや やんや!

ちょっとほろ酔いになると、お店側は「別料金だけどシャンパンでもいっとく?」なんて営業を仕掛けてくる。「んーん、いかなーい。おかわり~♪」とビールをたて続けに飲む飲む飲む。ビールに飽きてくると、あの頃の定番、コークハイと続く。アタシにとって、このコークハイという飲み物は、それこそ箸休め的な感覚の酒だ。永遠に飲んでいられる。薄めに出されると「濃い目で」とすかさず申し出る。飲み助の友人も、チューハイやら、カクテルやらピッチが速い。

アタシら二人は、周りが引いている雰囲気をツマミに、飲む飲む飲む。

アタシは、店側が酒屋に追加の仕入れをしていたのを垣間見た。

しかしながら無制限とはいいつつ朝までとはいかない。お会計2000円をきっちり支払い、きちんと終電に乗って帰った。約4時間、飲んだ飲んだ。

さて、なぜ2000円で飲み放題なのか訊ねた。ホストらは客を入店させるノルマが迫っており、2000円の餌で釣っていたのだという。釣られたアタシら二人は、洒落たカクテルの1~2杯で顔が赤くなるようなタイプに見えたのだろう。

無事にホストらのノルマは達成した。そしてアタシらも十分に酒を堪能した。ホストもアタシらも万々歳だ。みんな幸せだ!

一番のとばっちりは、あの日赤字だったであろうあのホストクラブだ。

酒は百薬の長と言う。

でも、ほどほどに。

・・・・・・・・・

さて余談だが、本日は4月1日。アタシのブログ開設1周年だ。最初の頃の勢いはなくなったが、地味に続いている。更新が少ないのに日々アクセスして頂いている皆様。しょーもないブログなのに本当に感謝感謝!!

転職回数が多いアタシ。

アタシは、ある東北の県庁出先機関で嘱託職員として採用された。

「出先」なので東北県外での採用だ。

それは2011年1月、あの震災が来る2ヵ月前だった。

業務内容は、その東北県の観光誘致、特産物の販路拡大、情報の発信が主だった。

前職で観光に携わっており、東北にも何度も訪ねた事があったので採用されたのだろう。

あの日は突然だった。

第一報は、NHKの速報だ。

テレビの上部に「速報かなり大きな揺れ」との文字が映し出された。正直、いつものことだろうと高を括っていた。

時間が経つに連れて、尋常ではない状況が伝えられる。

県職員は、現地県庁へ状況確認の連絡を入れている。が、固定電話、携帯電話、メールの送受信、一切繋がらず。

そんな中、アタシらはただ呆然と緊迫したテレビ中継を見ているだけだ。

津波が人を襲う。

家を飲み込む。

寒さと暗闇が身体と心を切り刻む。

自然の驚異をテレビで見ているだけで、遠くにいるアタシらは何も出来ない。なす術もない。

そんな中、離れていても当事者であるこの県の出先機関にマスコミがやって来る。

と言っても、現場の状況が分からないのに、当時の所長は「心配です」くらいしかコメントしようがない。

当日のNHKのカメラには、事務所内で心配そうにテレビ速報を見つめるアタシの後頭部が映っていた。

ここにはアンテナショップがあり、東北から物産の販売に業者さん達が来ていた。

家族が心配で心配で、半泣きだ。

直ぐに帰省しようにも、公共交通機関は途中で途切れている。

そこで知り合いから車を借り、高速道路と日本海側の国道を使い(東京周辺もマヒ状態)、不眠不休で運転し翌日の昼過ぎにはなんとかたどり着けたとのこと。家は半壊、でも家族は無事だった。

ある業者さんは、自宅工場を失くした。

でも生きているだけで何とかなるんだという、この方の言葉に説得力と悲しさがあった。

アタシは、なす術もなく業務終了時間となり、後ろ髪を引かれながらも帰宅。県職員らは来るはずもない現地からの連絡を待ち、一晩事務所で過ごしたようだ。

アタシは、その日は眠れなかった。テレビを見ても人ごととは思えない。もしかしたら、この仕事に就いていなければ、この大惨事について少し鈍感だったかもしれない。

その日以降、お役に立ちたいというボランティア経験者、なんだかの宗教、寄付の問い合わせ等様々な対応をした。

直ぐボランティアに行く!と、いきごんで来た人に、自衛隊もまだ現地に踏み入れていないので暫し待ってくれ、と宥める。

現地は寒いだろうから、と古着を山ほど持参する人もいた。(まだ送る手段もないのに)

気持ちも分かるし有難いが、現時点では何も出来ない。

そう言えば、近くに事務所を構える某衆議院議員SNSで寄付を募ったが、その事務所の前には衣類や雑貨が山ほど積んであり、秘書らしき人が茫然としていたのを垣間見たが、どうやって送ったのだろうか(その費用はどうなった?)。

あの日の出来事は、13年経った今でも鮮明に記憶している。

生涯、この日を忘れない。

合掌

タイトルの件、もうね、パブロフの犬状態ですわ。

レベル50代にして、まだこれが抜けない。

アタシが住んでいるマンションは、お風呂とトイレは繋がっており、トイレを済ませて3歩で浴室に行ける構造だ。

なのに、シャワーを浴び始めるとなんだかムズムズしてくるのである。さっきしたばっかりなのに、数滴出ちゃう。

身体や髪を洗う間も、ムズムズするので出しちゃう。

一応申し上げるが「頻尿」や「多尿症」ではない。

アタシがまだ御幼少の頃、母から「アンタ、いまオシッコしたね?!」と叱られた...(遠い目)

バレると叱られると思うと、ますます我慢できなくなる。

修学旅行の時は大浴場に入るギリギリにトイレに行き、耐えに耐え2~3滴に押さえた。

添乗員時代、宿泊地が温泉だったときは夜中に大浴場へ行き、周りに誰もいないのを良いことに、、、いたしました。(お縄を頂戴します)

この国は神の国と言われている。
八百万の神々がいる国だ。
太陽も山も水も岩も木も空も、流行歌にあるトイレの神様も色々な神様が守ってくださっている。
と、いうことは「風呂の神様」も然りだ。

なので、そのお風呂の神様に粗相がないように、何気なく鼻歌でも歌いシャワーを全開に流しながら「やってません」顔で、、、やる。

ここ10年以上は、他人と風呂に入ることがなく過ごして来た。

というか、この癖が治らない限り他人と風呂に入れないのだ。

原因は何なのか?

ただの幼児性か?

パブロフの犬のように畜生に成り下がっているのか?

・・・ヒンシュク、上等。

~Fin~

韓国添乗のアナザーストーリーを軽く一つ。

👇️本編コレ

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3日間のツアー中、2日目の夕方から最終日のホテルチェックアウト時間まで、お客さん方は自由行動になっていた。こういう時の添乗員は、次回の添乗のために現地情報を取り入れる時間に充てる、ようするにお勉強の時間だ。当時はインターネットのない時代だったので、「地球の迷い方歩き方」などの市販のガイドブックや、自分の足で現場の情報を得ていた。

ちなみに、新人の頃は仕事をアサインされたらポンと放り出される(添乗に出される)。後は自分自身で現地を調べたり、先輩添乗員にレクチャーを受けるくらいで、不安なまま出発していた。でもお客の前では「何度も来てますけど、ナニカ?」という引き攣れた余裕顔でいなければならない。

さて、この時は担当の現地ガイドが街を案内すると申し出てくれた。これは嬉しい!どの国でもそうだが、現地ガイドと仲良くなるとメリットが多い!

前回のブログで書いた、歴史史料館でツアー客とケンカしたのはこのガイドである。

いざ出発♪と街を歩き始めたとたん、そのガイドがアタシの腕に腕を絡めて来た。「ひぃ、まさかのレ○?」と、全くその気のないアタシは、ガイドに失礼なほど腕をふりほどいてしまった。

違うのだ。これが慣習の違い。この国はオンナ同士でも、まるで恋人のように腕を組んで歩くのが普通なのだという。これが友情の表現なんだと。そう言われると無下に振り払うことが出来ないので、なすがままのアタシ。(ちょっとイヤ)

今回のツアーには入っていない有名処の観光地を一通り見て周り、ガイドの愚痴も聞き、最後に韓国名物「垢すり」に行こうという話になった。

現地の人が行く「本場」の垢すりだ。おしゃれなエステとかスパというものとは全然違う。日本の銭湯みたいな感じで庶民的。

まず、信じられないくらいにアッツイ風呂に入る。熱湯風呂だ。「韓国人はこのくらい普通に入るよ。早く早く!」と誘う。(押すなよ、絶対!押すよ)その後、水風呂に入る。これを数回繰り返す。そうすることで肌がふやけてくる。

そして手術台のようなベッドに真っ裸で横たわる。これぞまな板の鯉。年季が入ったおばちゃんの垢すり人が、垢すりタオルやら何やらでワシワシこすってくれる。腕も足も背中も、そして恥ずかしい部分ギリギリまでワシワシしてくれる。ちょっとだけ痛い。でもなかなかの熟練技だ。そして出るわ出るわ、消しゴムカスのような垢が。ひと皮剥けたとはこのことだ。この死んだ細胞でもう一人のアタシが出来上がるのでは。

そして最後にキュウリのすりおろしを顔に塗ったくりパックまでもやってくれた。

これぞ韓国の下町の垢すりだ。

さすがにこんだけやれば肌のザラつきがなくなり、数日は肌の艶が良かった。

確かあの当時、1000円か1500円くらいでやってもらった記憶がある。物価の違いもありお手頃価格だった。

27年前って、日本と韓国はまだまだ文化交流が今ほどは確立していなかった時代だ。

2000年以降、「冬のソナタ」あたりでソロリソロリと交流し始め、「韓流」という言葉が出始めたのもこの頃だ。そして令和の今、韓国の若者がワンサカ日本を訪れている。近所のドン・キホーテのレジや飲食店は常に行列だ。(たくさんお金使ってね♡)

逆に日本の若者もK-POPや韓流ドラマに熱狂している。文化交流バンザイだ。

嗚呼、春になったら韓国へ旅に出るか・・・。(というか、先にブログ更新せいっちゅーねん)

~Fin~

この日出ずる国に外国人観光客がワンサカやって来ている。

Nipponの文化に触れてみたい、和食を食べたい、made in Japanのアレを買いたい、と言って頂いている外国人の皆様、日本国小市民代表として御礼申し上げます。どんどんお金を落として日本経済を回してチョーダイ!

そういう観光客を目を細めて見ていると、添乗員を生業としていた時のことを思い出す。

1997年、韓国への添乗だ。

それは、某県の在日朝鮮人で形成された「同包」の団体だった。人数は妻同伴の合計40名。

なので、パスポートは日本国のものではない。

そして出入国カードには「president」と記入すべく会社経営者の集まり、いわゆる日本で成功した方達だ。

ツアーは韓国3日間。

旅行会社も添乗員も、このような一個団体のツアーは、募集型のツアーよりも3倍は気を使う。

初日、国際線ターミナルで航空券を渡す際に名前を読み上げるのだが、朝鮮名って英語で書かれると読みづらいし、舌を噛みそうだ。

出入国カードの記入について全員を前に説明をするのだが、戸惑ったのが、同行の奥様方は日本語は流暢に話せるが、漢字の読み書きが出来ない方がいたということ。

戦中戦後のあの当時の日本では、在日朝鮮人の方にとって学校で勉強をする事は二の次で、生きて行くだけで精一杯だったのだろう。

1997年の韓国は、仁川国際空港はまだ開港しておらず「金浦国際空港」へ到着。その空港は、当時の大阪伊丹空港に似た感じで、規模もそのくらいの大きさだったように記憶する。到着ロビーで日本語ペラッペラの現地ガイド(女性)と合流。

当時の韓国(ソウル)の街は、近代的で日本にもよくある「都市」の風景だ。ちょっと車を走らせると田舎の風景になる。こういうところはあまり日本と変わらない。それに顔や体系も日本人とあまり違いがないため、本当にここは外国か?と思わせる。ただ、街の看板や標識がハングルばかりであること、そして車が右左反対走行であること、こういうので異国にいるんだなぁと感じる。

ソウルの中心地に入れば渋滞がすんごいし、みんな車の運転が荒いのでいつ事故を起こすかハラハラもんだった。

さて、このツアーは「統一展望台から祖国を偲ぶ」というのがメインだった。

日本と北朝鮮は、国交がないため日本からは簡単には行けない。なので韓国側から祖国を偲ぶ。

戦後、色々な事情があり、日本で生活することを選んだ在日朝鮮人御一行は、故郷が目の前にあるのにここから眺めるだけだ。泣いている方もいる。

御存じの通り、朝鮮両国は未だに休戦中だ。同じ民族なのに。日本でいえば、名古屋あたりを国境として、東と西とで戦争をするようなもんだ。

当時の統一展望台には、露天のお土産店があり、ゴザを敷いて手作り人形や、絵葉書、キーホルダーのような土産を並べ、地元の婆ちゃん達が売っていた。

アタシは、現地ガイドに通訳してもらい、おチャらけて婆ちゃん達を笑わせた。「こんなに気軽に話した日本人は初めてだ。」と婆ちゃんが言っているとガイドが笑う。開かれた令和とは違い、当時は日本人観光客も今ほど多くはなく、ましてや露店のお婆ちゃん達に話しかける日本人は少なかったのだろう。

次の観光は、歴史史料館だ。具体的にどこの史料館かは記憶がないが、朝鮮半島における歴史的な史料を展示している史料館だ。ここでは、現地ガイドが説明をする。

・・・んで、ここでひと悶着あった。

歴史的な史料を展示している⇒ 韓国人ガイドが韓国寄りな説明をする

北朝鮮出身者がどう思うか・・・想像してほしい。御一行は、史料の説明に一つ一つ反論する。現地ガイドは涙目だ。アタシも間に入りたいが、朝鮮語が全く分からない。

改めて申し上げるが、参加者は日本で成功した社長さん達だ。苦労をして会社を築き成功した人達だ。物申し方が凄まじい。

その御一行のオーガナイザーと相談し、途中でその史料館を出ることとなった。そもそもどうして行程にこの史料館を入れたのか!(旅行会社の担当者を恨む)

ホテルへ向かうバス車内でも喧々囂々の騒ぎであった。その現地ガイドもなかなかの強気な女性だったため収まらない。間に立つ添乗員(アタシ)も頼りないこと(トホホ)

帰国後、旅行会社の担当に報告(苦情)を申し出たのは言うまでもない。

当時、アタシもまだ若く、そして知識が不足していたのもあり、日本、韓国、北朝鮮の複雑な関係を理解しないまま添乗していたが、この年齢になってあの添乗の難しさを感じ入ることができる。

ツアーの参加者は、良い人がほどんどだった。奥様方も豪快で優しい(けど気が強い 笑)。今思い出してみれば、みんな凛とした人が多かったな。

あの当時、殆どの方は60歳代だったが今もお元気だろうか。

~ Fin ~

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夏なのか秋なのか分からない日々が続いた。

雨乞いが必要か?と思わせるほど雨に恵まれず、お肌は乾燥でバリバリ。こうなると、間違いなくアレが流行り出すだろう。

一世風靡した「新型コロナ感染症」だ。

と、思いきや3年以上の無菌状態であったニンゲン界ではそれだけではなく、いろんな感染症が流行しているらしい。

とりあえず、両親が高齢であるため、帰省した時に都会からコレを持ち帰ってはいかんと思い、5回目のワクチン接種(全ファイザー製)をした。

11月1日 朝1番に予約が取れたのはラッキー。朝食はいつも通り、納豆ご飯に具沢山みそ汁を食し、水分もたっぷり目に補給してお注射に備えた。

9:15頃 60歳代前半、白髪の優しそうなセンセーと軽く会話をしている約3秒で接種終了。針刺さった?というくらいに肌感覚が全くない。なかなかの熟練だ。

その日は通常勤務、ワクチン打ったよ~、と聞かれてもいないのにわざわざ話題を持ち込む面倒なヤツを演じた。

夕方16:00頃、注射した方の肩が軽くだるさを感じる。このだるさは時間が経つに連れてジワジワ痛みに変わる。筋トレをした次の日に出る筋肉痛にも似た痛み方だ。

帰宅後、夕食 この日は焼きそばとビールという、大阪に赴任していた時と同じメニューだ。いつも通りうまい!半熟卵を乗せるのがたまらなく好き。マジ好き。

22:00頃 風呂に入ろうと、Tシャツを万歳する体制で脱ごうとすると、左腕がかなり痛い。この痛みは、自分では完治したと信じ切っている「五十肩」と少し似ている。風呂上りは水をたっぷり目に飲む。

23:30頃 ベッドに入る。ワンツースリーで寝付く。

01:00頃 体の異変に気付き、目が覚める。異変とは「寒さ」だ。このガタガタ震える寒さは「お熱」が出る前兆だ。

ワクチン接種をして16時間後にこの副反応が出始めた。熱を測ると、7度9分。まだこれから熱が上がるのだろう。また、腕の痛みもMAXで寝返りができない。(やはりこの痛みは五十肩に似ている)それから自宅にあった「カロナール」を水多めに飲む。

飲んで安心したのか、はたまた発熱による体力回復のために身体が休息を求めているのか、またもや3秒で寝付く。

朝、いつもの時間にアラームが鳴る。

熱は? ない。

むしろ、空腹さえ感じる。寝ている間に、身体が熱に耐えワクチン反応に耐え、頑張った証だろう。まさしく、アニメ「はたらく細胞!!」の世界だ。

ワクチン接種して熱出た、だけのブログが1000文字を超えてしまった。

~Fin~

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