doniti 日誌 (original) (raw)

歩き回るのにちょうどいい季節になった。

この夏の、焦熱地獄のときは、もしかしたら、こんないい季節は来ないのではないかとも考えたが、季節というのはシンヨーして待っていれば、必ず巡ってくるものだと、シカと分かった。だから散歩に行くことにした。

いつもなら田舎を目指していくのだが、今回は街の中だ。とはいっても、人がごっちゃりいる街中ではなくて、やっぱり人が少なく、場合によってはひゅーひゅーと秋風が鳴るようなところ、即ち国分寺~府中ということにした。

西国分寺駅の東に、古代の官道、東山道から分岐した「東山道・武蔵路(みち)」が通っていたという。詳しいことは知らないが、律令制で各地に「クニ」を設置し、中央のエライ役人がクニの長官として赴任するに際し、五畿七道というものを整備したらしい。

七道のひとつに東山道があり、これは都から山を踏み倒し、野を切り裂いてひたすら真っ直ぐに栃木へと通じていた、が武蔵国国府に通じる道が必用で、群馬あたりで分岐道をつくった、それが武蔵路だ。(信じられない! ウソじゃないだろうか! )

で、西国分寺駅の東へ行ってみたら、あった! このあたりを再開発する際に武蔵路が見つかり、発掘調査をしてその道の一部を、柵とガラスで覆い、当時の路面が見えるように保存してある。(こういう証拠があったんじゃあ、信じてもいいかなあ! )

そして武蔵路を被覆するに際して、その舗装面に武蔵路の側溝部分などを表示して、ここに古代官道の一部があったのだゾ、と明示してある。更にその先の小学校近くに武蔵路の幅(12m)や構造などを表示して、公園として残した。その地面の下には、紛れもなく武蔵路が埋まっている。(もうダメだ! 信じるしかないなあ! )

それを見てふと思った。この時代、我がご先祖も必ずどこかに生きていたはずだ。もしかしてこの道の工夫だったりして、「こき使われて、安賃金でやってらんねえ! 」なんて愚痴をこぼしていたかも。とんでもなく遠い人とのつながりを思い、呆然となった。

坂を下りて、武蔵野線の線路わきに「国分尼寺」、つまり尼さんのお寺跡がある。地図を見ると、武蔵路と(伝)鎌倉街道に挟まれた位置になる。男女七歳にしてナントやら、お坊さんになっても離されていたのだナ。

土盛りした基壇だけが残っている。草ぼうぼうで周りの草原と見分けがつかないほど。しかし基壇だけといえども、よくぞ保存されてきたものだと思う。新田義貞が焼いてしまって誰も見向きもしなかっただろうに、発掘調査し、確定して基壇を整備。エライ!

国分寺(男僧)の方へ行ってみる。広~~い地面が公園として整備されている、その一角に上面を色煉瓦(瓦?)で装飾された金堂跡がある。びゃ~デッカイなあ、と思った。絵面を見ると、これほどデカイとは思えないが、横幅30mは優にありそうだ。

柱を建てた礎石も人をコばかにしたように大きい。なんでも昔の人が造るものは、ドデカイ。今の人がぶっ魂消るほどのものを、平気で造っていた。出雲大社奈良の大仏・・・。気宇壮大の人物が多かったんだろうか。

金堂の奥に講堂跡がある。こちらは基壇の上が草ぼうぼう、遺跡としてみれば、こちらの方が、なにやら当時を思い起こさせるような気がするけれど、それはつまらない感傷というものなんであろうか。~草むして古代遺跡に秋の風~

国分寺関連の最後に七重塔跡に行く。ちょっと離れている。こんもりと木が茂る中に大きな礎石がドデ~ンと転がっている。朱に塗られた高い塔は、今この景色の中でどんな按配に見えるのだろうか。とても見ごたえがありそうだなあ。

(ネット画像)

いやともかく広い公園、秋の日を浴びながらあちらこちらと見て歩くのは楽しかった。この広い国分寺の跡を立体化したジオラマがあるらしく、ネットから画像をお借りした。下手な写真や動画を苦労惨憺してみたが、とてもこれには及ばない。

さて、これから国府の跡を目指すのだが、往時の道は今はなくなった。しばらくの間、街中を歩かねばならない。いくら何でも一つも街を歩かずに、とは参らない。途中、府中刑務所の脇を通り、三億円事件を偲んでみたが、もはや誰も知らないか?

それから東京農工大学にお邪魔し、くったりと休憩した。木陰に座って眺めると、向こうの方で、ワゴン車から何やら食べ物を買うために学生たちが並んでいた。意外なことに女子学生が多い。昔の「農業! 」というイメージはもう古いのだナ~。

そんなことで、大國魂神社への真っ直ぐなケヤキ並木へ突入。高いケヤキが陽を遮って涼しい。府中のメイン通り、人がわらわら歩いている。大國魂神社の境内の東北隅にひと区画があり、国府の中心、国庁建物跡がある。

発掘された柱の跡に、朱塗りの円柱を建て往時の国庁建物を偲ばせる。国分寺の壮大な建物跡を見た目には、意外や小さく見えるけれど、周りにいっぱい関連した建物があったらしいから、これで十分なのだろう。

やはり、朱塗り柱というのが往時を偲ばせる。柱は掘っ建てだったのだそうだ。国分寺はドデカイ礎石だったが、こちらは掘っ建て、なんだか国分寺の方がエラそうに見える。どっちがどうエラかったのかわからないけれど。

これで古代探訪はひとまずお終いだけれど、ここまで来たからにゃあ、大國魂神社へも行こうと思う。考えれば、大國魂神社主祭神大國主命、この方もまた古代人である。遺跡ではないが古代繋がりで充分資格ありなのだ。

わらわらではないけれど、お参りの人が途切れない。買い物帰りにちょっと立ち寄って拝んだ、という姿の主婦などもいて、やっぱり日本は神道の国なのだなあ、と思わせられた。そうだよなあ、お寺は仏事にしか用がないからなあ。

古代の人々はみな、あの神社の屋根の上の空に登ったのだろう。

まだせいぜい午後2時ころで、早いといえば早いが帰ろう。

総距離約10㎞の軽い散歩。

(画像はスマホ撮影の切り抜き)

動画練習:第2弾 (スマートフォン撮影)

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お彼岸はとっくに過ぎてしまったけれど、巾着田に行ってみようと思う。

巾着田ヒガンバナの群生地として名が知れているし、ついでに、そこらあたりの里道をぶらりぶらりと歩きたい。今まで何回も訪れたところだが、ちょうど彼岸花の季節だし、動画撮影の練習もコトのついでにしてこようと思う。

動画撮影はどうもなかなか難しい。今回はデジカメ2号を使うが、どうしても画像がぼやけてしまう気がする。試みにスマホで撮ると、意外や、これがなかなか綺麗に撮れる。そんな筈はないと頑固だ。なぜなら静止画はやはりデジカメがいいのだから。

巾着田の最寄り、西武・高麗駅で下車。20人ほどの老齢者が一緒に降りた。今日は平日だから少ないのだろう、人がわらわら混まないからいい按配だ。駅の名物、赤い柱(御柱? トーテムポール? )が目をむいて睨んでいる。

このあたり一帯は、昔の武蔵国高麗郡。歴史的な土地柄だが、その説明は、日高市のwebサイトを抜粋して、手抜きをしちゃうのだ。

高麗郡は「高句麗」という国から日本に渡って来た人たち(「高麗人」と呼ばれる渡来人)によってつくられました。その高句麗は、唐(今の中国)や新羅と戦っていましたが、戦いにやぶれ、668年(天智7年)にほろんでしまいました。

国がなくなってしまったため、高句麗から海を渡って日本に来る人たちが多くいました。その人たちを日本では「高麗人」と呼びました。

716年(霊亀2年)(今から1300年前)に、関東各地(当時の7カ国)に住んでいた「高麗人」1,799人が武蔵国に集められ、「高麗郡」ができました。

さて、巾着田に着いた。高麗川の清流が、どういうわけかグイイ~ンとひん曲がって、田んぼをぐるりと囲み、流入口の近くから流出しているという珍しい地形だ。囲まれた中は、かって田んぼだったが、今は畑、荒地、牧場、草原などになってしまった。

なんてったって、農業人口は激減の一途、地に這いつくばって米なんぞ作るより、手っ取り早く金を得る方法を考える、これ当然のこと。自ら百姓をやりもせず、あーだ、こーだ言っても仕方がない。なるようになっていくのだろう。

川沿いに歩いてみた。なんだかまだ蕾状態のような気がする。今年の夏は何時までも暑かったからなあ、彼岸花だって嫌気がさしたかもしれない。それでも満開の株もあって、奇妙な形の精細な花びらが風に揺れるさまは、なかなかどうして。

しかし彼岸花の葉っぱというのは、どうしてしまったんだろう。いつも葉っぱを着けないで、のっぺらぼうの茎にあっけらかんと花だけ咲いている。葉っぱがない花は、寄生しているものだけだろうから、密かにどこかで葉を出しているのだろうなあ。

疎林の中に入ると、蕾が多いながらも意外と咲いていた。人が狭い通路に群れて歩きにくいけれど、その言葉はすっかり自分に跳ね帰ってくるはずだから、黙って脇を通りぬける。ペット(犬)同伴のご婦人方もおられる。

ここは本来、地面が見えないくらい真っ赤かに咲くのだけれどなあ。今回はぱらぱらという感じだ。残念だがしかし、”花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは” ということもある。これでいいことにしよう。

今回(動画切り抜き) 数年前の盛りの時期

これで彼岸花はおしまい。巾着田の正面の道路沿いに、まるで城郭のような建物が見える。旧家、お大尽のお屋敷だった建物だそうだが、国の文化財とのこと。高台から睥睨するような建物だから、巾着田なんぞ目の前に見下ろせる。電車賃いらず。

ああ! 一度でいいから、こんな家にふんぞり返ってみたかったなあ、たぶん、コメがない、トイレペーパーがない、なんて大騒ぎしなくて済む。ただゆるゆる座っているだけで、よろしきように事が運ぶに違いない。

さて、朝鮮からの渡来人の王様が「若光」だが、その菩提寺の「聖天院」に向かう。途中に日和田山登山口があるが、そこへ登る5,6人のグループが、畑の中の真新しい石碑を見付け、ほう~~などと、大いに感心して眺めていた。

覗いてみたら、田部井さんの碑である。「日和田山からエベレストまで」と刻んである。そうなのかあ、と思う。最初は日和田山程度に登り、だんだん高くに登って、そしてついには、エベレストとなる、なるほどなあ、いい言葉だなあ。

そうして里道を歩いて、若光の菩提寺聖天院へやってきた。丘の中腹に大きな伽藍が見えている。1300年前の王様の威光はいまだ冷めやらず、ということなのだろうか。それとも日高市あたりが糸を引いて、ともかく観光で人を集めにゃ、ということなのか。

堂々たる楼門があり、これは古色に染まって江戸時代の建築らしい。楼門の階段を登った奥が境内となっている。ずう~っと昔に来たときは、小さくて可愛らしい古びた本堂だったが、すっかり改築され威風堂々になってしまった。近寄りがたいゾ。

楼門の手前に若光の廟がある。お寺には登らないが、ここだけは参拝することにした。簡素な小屋の中に、砂岩(と思う)の石碑が鎮座している。もう回りが欠けてまん丸くなってしまっている。歳月は何ものも容赦せず。

でもまあ、これが1300年も前のものだとすれば、奇跡的、と言っていいのではないかと思う。雨風もあれば、戦乱もあったはず、こんな柔らかそうな石碑がよくぞ持ちこたえたり、と思わずにはいられない。

さて次は「高麗神社」。若光を祀っている。神社の建物はこじんまりと可愛らしいけれど、境内は広く、休憩所、ベンチ、狂言舞台などを備え、常の神社と少し色合いが違うようだ。これも若光の威光なのか、渡来人子孫であろう住民の意向なのか。

おもしろいのは、門に掲げられた扁額に「高麗神社」とあり、「高」と「麗」の間に「句」の文字が小さく入っている点だ。高麗もまた朝鮮の古い国らしいが、高句麗とはまったく別物、混同しないように? しかし高麗というのは日本名だろうになあ。

神社の裏側に、若光のご子孫、高麗家の古い家が保存されている。江戸時代ごろの建築だろうか、思ったよりもこじんまり。その横に現代建築の大きな家があり、表札を見ると「高麗」とある。現在までご子孫が続いているのだろうか。

と思って、AIに聞いてみたら、高麗氏は永々、現在まで高麗神社の宮司を務めておられるのだそうだ。1300年、60代にわたり、と書いてある。驚き為五郎だ。せいぜい3代、100年、と思っているととんでもないことになる。

さてさて、これで武蔵国高麗郡の関連はおしまいにして、せっかくここまで来たからにゃあ、「新しき村」まで足を延ばしてみようと思う。ここも何度か訪れてはいるが、その後どうなっているだろうか、という思いがする。

「かわせみ街道」をずんずん(ヨタヨタ、かな)北に向かう。畑の中に続く細道は特に気分がよろしい。道っぱたの彼岸花や栗のイガ、背がぐんと高いコスモスなどを打ち眺め、こころが自然の中に溶け込んでいくような気さえする。

そうして「新しき村」に着いた。し~~んと静まり返っている。畑の陰にソーラーパネルがやたら目に付く。村の中心部へ行ってみると、かって家があったところがむき出しの草地に変わっていた。村の住民が減ってしまったのだろうか。

美術館はかってと同じように存在していた。中に入ってみたら、以前と同じ絵が以前と同じにように壁に掛けられていた。新しい絵は見当たらない。もう絵を描く人もいなくなってしまったのだろうかと思う。

美術館の前のベンチに長い時間座っていた。周り中が森閑と静まり返って人の気配がない。車が置いてあったりするから、たしかに誰かしらが住んでいるはずだが・・・目の前の、桜の枯葉が、あるかなきかの微風にくるくる舞っているばかり。

(帰宅後調べたら、”2023年2月時点では3人へと減った”とのこと。)

村の後ろの方へ行ってみると、もとは鶏舎だったのか、長い建物が崩れるままに放置され、なすすべもなく赤さびににまみれていた。

この村は一体何だったんだろうか。

さあ、もう帰ろう。

砂利道を歩いて八高線、茂呂駅に向かう。

だだっ広い休耕田を横切って駅に着いた。

15㎞、疲れたなあ!

動画練習・その2

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ほんと~に長い間、熱中症警戒アラート継続の本年。

この日もNHKが、今日こそ死ぬほど暑い、年寄りは表に出るんじゃあねえ!! と言っていた。正真の年寄だから今日もクーラー部屋に隠れていようと思ったら、10時になってもまだ、なんだか涼しい。NHKウソこいたり! と思った。

空を見ると分厚い雲が垂れている、気温は低い。ならば、ちょっくら散歩でもしてみっか、と思ってしまった。表はちょうどいい塩梅の気温で、雲が8割がた空を埋めている。お~し、よし、これならいけるじゃないか。

久しぶりの散歩だが、戸外を歩くのはやはり何ともいい気分だ。風がなんとなくひんやりと感じられる。気色の悪いあの殺人猛暑は過ぎ去ったのではなかろうか。なんだってかんだって、今年はひどすぎた。

川の土手に上がってみると、いつの間にか草っぱらに秋の野草の花が咲いている。こういうときでも、概ね植物は着々と季節の準備をするものらしい。律義なものだなあと感心した。自分だけがへたり込んでる場合じゃない。

調子よく土手道を歩いていると、小さなバッタみたいな虫がわらわらと飛び出してくる。虫の世界もまた、季節によって入れ替わりがあるんだろうなあ、その辺りの変化を何も考えず、あ! バッタだ、カマキリだ、などと言ってるだけだもんなあ。

土手の斜面の草原では、小さな黄色い蝶、もう少し大きな斑模様の蝶、ごく小さい青みがかったのなどが、ひらひらぐるぐる、乱舞している。蝶といえば春! と短絡しているけれど、秋でも蝶々は意外と多いらしい。

堰があるところまできて、やっと川面が見えた。昨夜の山の方の雨で濁っているかと思ったが、あんがい綺麗に澄んでいた。普段より水量が多いようで、離れたここでもごうごうと堰音が聞こえる。

桜の木があるちょっとした広場で大休憩している間に、あらら! 向こうの空の雲に隙間ができてきて、ぐんぐん青空が広がっていく。と同時にお天道様が顔を出し(出さなくていいって言ってるのに)もの凄い陽ざしが照り始めた。

あぢ~、あぢ~、NHKごめんなさい! 当たっていたわ、予報。歩き始めたら、たちまち汗が噴き出す。陽ざしがグワシャと頭にのしかかる。急いで公園の広場を抜け、もうやってらんない、帰ろう、倒れないうちに。

帰り道は街の中、一気呵成に帰れる元気はなさそうだ。なにも急ぐことはないのであって、日陰で休みやすみ、ゆっくりのろのろ帰ればいい。なんだったら、木陰でゆるりと昼寝などしてもいいが、それもなんだか暑そうだ。

で、帰りがけにお寺にお邪魔して大休憩。木陰から空を眺めるとピカピカに光って凶暴そうな顔をしているが、境内の木陰は風が通って救われた気分。観音様のお慈悲にすがって、南無~、熱中症から救い給え。

昼日中の3時間、8.5㎞の小散歩。クーラーはやっぱり涼しいなあ。

動画練習の撮影を兼ねた散歩。

ふたを開けてみれば、ボケボケのなんじゃらほい。むずかしいなあ!

「川辺のさんぽ」(BGMあり)

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