doniti 日誌 (original) (raw)
大山街道を歩いてみることにした。
知人(今回の案内人)と一緒だから、ごく呑気でいい。
相模野に秀麗な姿で聳える大山(1253m)は、古い昔から神の宿る霊峰として人々に尊崇され、万葉集にもその姿が歌われています。江戸中期(18世紀中葉)には、庶民経済の活性化もあって、神仏参拝を兼ねた物見遊山が大流行しました。とりわけ大山は江戸に至近距離(72㎞)であることから、人気を博しました。
と言うことで、われ等も弥次郎兵衛・喜多八よろしく物見遊山の旅をしようと思う。旅の起点は、赤坂御門、と言うことは、都心ど真ん中。このど真ん中ががどうも苦手なんである。どういうわけか緊張して体がこわばる。
待合わせは地下鉄、永田町駅。初めて乗る地下鉄、始めて降りる駅、地下深くからドブ鼠みたいにおろおろ這い上がってみれば、ビルの先っぽに小さな青い空。桜の葉っぱが色づいて秋の気配は偲ばれる。
合流して赤坂御門跡へ。ここに小さな石碑があり、「大山道(矢倉沢往還)の出発点」と書いてある。律義なことに、にここから歩き始める。この道は今の国道246号線、だから車ブンスカの大通り、こんなんで大山道らしい何かがあるんだろうか。
このあたりに土地勘は全くない。いざ歩きはじめても、霧が立ち込めているように、周りが何もわからないから不安だ。そもそも都心ど真ん中は、自分の行くべきところでは決してない。まるっきり異郷に放り出された気分。
広い歩道を進んでいくと、向こうから大勢の人が向かってきた。みんながキリッとした服装をし、スキのない緊張した顔で歩いて来る。それに対し、こっちはよれよれの歩き支度に、薄らとぼけたような名抜け顔を持ち運んでいる。
キリッと集団の、硬い空気に気圧されるように、だんだん歩道の端っこを俯いて歩くことになった。何もかも緊張してスキのみられないこの都心から、速く抜け出したいと思う。にもかかわらず、よたよたの足は極めてのろくさである。
沿道の脇の、高橋是清旧居庭園に入る。居宅は小金井公園に移築されているが、広ろ~~い庭園が残って、今は公園として開放されている。ベンチに座って休んだら、ほんの少しだけ肩から力が抜けた感じがした。
ちらほらと散策する人がいる。その頭上には色付いた葉が茂り、都心にも秋はそっと忍び寄るのだなあと、改めて思う。庭の奥は深そうだが、なにはともあれ休憩する。これで小鳥の声でも聞こえれば申し分がないが、どうやらいないらしい。
ところどころに国道の脇ちょに入る道がある。旧大山街道の切れっぱしらしい。こういうところには、街道の道標があったり、古いお寺があったりする。以外にもそういうものが残っているので、何もかも踏みつぶしてしまったのではないナ、と思う。
そもそも、なんで今、旧街道など歩こうとするのか、自分で歩いていて、そこのところがちっとも分からない。なんでだ!? と自分に聞いてみても、オラあ、そんなこと知らねえだよ、ただ歩いてみたいだけだっぺ、と埒が明かない。
梅窓院というお寺に立ち寄った。郡上藩、青山家の菩提寺なのだそうだ。思い出した。昔、郡上八幡のお城に登った時、隣に立って一緒に城下を見下ろしていたおっさんが突然、郡上踊りの歌を唄い、そして、東京の青山はオラが殿さまの土地だ、と言った。
梅窓院の参道は竹林の道だったが、見たこともない竹である。節の一部分だけが青い。それがずう~っと並んで不思議な美しさを出している。なんという名の竹だろうかと思ったが、同行者も同じく直物に弱いらしい。
渋谷に入って、なんとなくあたりが田舎じみてきて、ほっとする気分になった。宮益坂を下って、道玄坂を登って、腹減ったなあ、となり、「安っす~いとこでよか」と同行者がいうから、もっけの幸い道っぱたの丸亀うどんに入る。
トレイに皿を乗せてずるずる奥に行くと、ごぼう天があったのでつまんでみたら、なんと! 15cmほどもあるデカさ、今更戻すわけにもいかず、うどんをもらって席に着く。さあ~て、どう処断すればいいのやら。
とにかく、うどんの上に鎮座せしめ、つゆを吸わしめて柔らかくし、それからゆっくり齧りつこうと図ったものの、おいそれと小さくはならぬ。面倒だ、頭っからバリバリ噛みつき粉砕せしめ、七転八倒、ようやく腹に納めた。
渋谷駅を抜けて246号を進み、「目黒天空庭園」と言うところに行った。ジャンクションの上を庭園にしたのだそうだ。いっぱしの立派な庭園であった。いろいろな木々が植えられ、ブドウの木などもあって、収穫祭を挙行したそうである。
この先で246号から離れ、旧街道はちょっと脇に入る。ぱたりと車の騒音がどこかに消えていって、秋ののどかな日を浴びた細道が続く。小さな稲荷神社があったので休憩する。静かな境内は人影もなく森閑と静まりかえっている。
隣のコンビニから安いコーヒーを買ってきて、超豪華なアフタヌーンティーである。同行者は、こちらのビンボーを気遣ってか、どんなに安っぽくても、決して嫌な顔をしない。こころの内はわからないが、平気な顔を通していて、ありがたいことだ。
そしてとうとう、三軒茶屋の大山道標にたどり着いた。陰った陽で碑面の字は読めないが、上部に大山道のシンボル、不動明王がふんぞり返っている。今日はまだ時間がたっぷりあるけれど、ここまでにしようということにした。
それで近くのキャロットタワーという高層ビルの、36階の眺望レストランへ登ってみることにした。近くに世田谷線の、昔青ガエルと言われた路面電車が装いを変えて走っている、その駅がある。懐かしく眺めた。
タワーの上はガラス張りの明るい階で、世田谷の大地がよく見える。小さな家並みが地面を埋め尽くし、道路沿いにはビルがにょきにょきと天空に伸びている。昔とはずいぶん変わってしまったなあ、と同行者がつぶやいた。昭和は遠くに行ってしまった。
時刻は早かったけれど、駅前の居酒屋で一杯やった。
歩行距離は12㎞ぐらい、ちょうどいい。
ビールが腹に沁みる。
動画練習(BGM、短い)
今月の歩く会は、飯能市をひとまわり。
山間のこの地は、幕末に「武州世直し一揆」、維新のとき彰義隊残党による「飯能戦争」、ふたつの騒乱に巻き込まれた。
飯能は今でも小さな街並みが、山ふところに沈むように存在する。そこをぐるっと回って、騒乱の面影が残っていればそれを偲ぼうという目論みだが、どうだかなあ。今回は案内役なので、写真は撮れず、下見のとき(2023年晩秋)の画像を使った。
それにしても、江戸から遠く離れた僻村にまで、時代の波は容赦なく押し寄せたものだと感慨新たなり、なのだが、街中に伝統的な建物も残っているから、それらを打ち眺めながら、ゆるゆると参ろうと思う。
街中の家並みの中に今も残る「中清米穀店」、ここが武州世直し一揆のとき打毀しにあったという。土蔵の階段の手すりに、そのときの斧の跡が残っていたそうである。その当時も米問屋だったらしいが、時代を経ても同じような商売が続いている。
幕末、安政条約によって開国すると、諸物価が急騰しました。また冷害による不作や、諸藩が万一に備え米を備蓄したことも重なり、流通が阻害され世情が不安定となって各地で一揆が頻発ました。
そのような状況の中で、飯能の奥地、山間の名栗村で一揆勢が結成されました。
名栗村は山林ばかりで耕地がなく、米は取れないので他から買っていたのですが、買占めのため入手できなくなり、餓死するよりほかありませんでした。
慶応2年(1866:明治維新2年前)6月13日、一揆勢は入間川を下って「飯能河原」に集結、飯能村の米穀商、豪商に対し「打毀し(ぼっこうし)」に及び、その勢力は瞬く間に増え、数日のうちに武蔵国西部、上野南部へと拡大していきました。
しかし、幕府陣屋において付近の農兵たちが集められ、鉄砲によって19日に鎮圧されました。発生から終結までわずか7日間の騒動でしたが、最終的に一揆勢は10万人に及んだとされています。
なお、百姓一揆にも厳格なルールがあり、ほしいままになんでもぶっ壊した、のではなく、富の偏在する不公平を糾そうとすることに同意するか否か、同意せざる金持ちだけ打毀しの対象にしたらしい。また、人を殺めることは厳禁だったようだ。
さて、それとは別に、伝統的な建物もぽつりぽつりと残っている。明治時代に作られた「店蔵・絹甚」。小さいけれど黒壁の重厚な蔵造りで、呉服などを扱っていたらしい。今は店に何もなく、ときどき雛飾りなどのイベントを実施しているとのこと。
その他にも、やはり店蔵で、今は喫茶店(カフェ)になって生きながらえている建物や、昔は料亭、いま食堂、それも休業でがらんとした大きな建物など、まるで江戸時代が今に残る、と言うような建築がある。
小さな町だから、たちまち町はずれになって、そこに観音寺がある。このお寺は明治の彰義隊残党と新政府の戦い(飯能戦争)で、焼失、後再建された。市内のめぼしい寺はこのときみな焼けてしまったそうだ。目抜き通りの民家なども全部焼失したらしい。
「飯能戦争」とは、そも何ぞや? ということになるけれど、彰義隊の本営があった、この後に行く能仁寺にその説明板があったので引用する。
1868(慶應4)年正月の鳥羽、伏見の戦いで敗れ、「朝敵」となって江戸に戻った徳川慶喜は上野の寛永寺に謹慎した。旧幕臣たちは、主君の汚名をそそがんと「彰義隊」を結成し、上野の山に入った。
しかし彰義隊の頭取であった渋沢成一郎は、副頭取の天野八郎らと対立し上野を去り、5月初旬に田無村で「振武軍」を結成する。300人ほどとなった振武軍は、田無で周辺の村々から四千両を越える軍資金を調達し、上野戦争の残党などと合流して、5月18日飯能の町に現れた。振武軍など旧幕府方は、能仁寺を本営に、智観寺、広渡寺、観音寺など6つの寺に駐屯した。
一方、明治新政府は、福岡・久留米・大村・佐土原・岡山の五つの藩に旧幕府方の追討を命じ、これらの藩は5月23日未明、笹井河原(狭山市)で旧幕府方と佐土原藩兵が遭遇して戦争がはじまり、午後6時ころには飯能の街も戦場となった。
この結果、200軒の民家と能仁寺、智観寺など四つの寺が焼失、飯能を舞台にした戊辰戦争(飯能戦争)は、わずか半日ほどで新政府の勝利に終わった。
つまるところ、飯能はとんでもないとばっちりを食った、と言うわけだ。誰も来てくれと頼んだわけでもない一揆勢は来るわ、なんの関係もない彰義隊残党は来るわ、もうほんとに、いいかげんにしてくれ~、と嘆いたに違いない。
えらいとばっちりではあるが、世のなかが不穏の雲に包まれているときには、こういうことが起こるものなのだろうか。もしかしてひょっとして、イスラエルやアラブのとばっちりが、遠いとおい日本に飛び火などしたらどうする!
それはそれとして、このあと能仁寺へ行った。飯能戦争の反乱軍本営のあったお寺で、勿論ここも焼け落ちた。が豪壮に再建され、モミジがことに美しい。今回歩いたときはまだ紅葉していなかったが、下見の去年はバッチグーであった。
境内の陽だまりで一同昼飯などお召しあがる。ウソこいたみたいな長閑な秋日和で、これでモミジが赤かったら申し分ないのだが、ま、なんでもそう都合よくいかないのが世の定め、モミジが赤かったらと頭に描いて飯を食った。
このあたりは、モミジの紅葉、イチョウの黄葉がわんわんと盛り上がって、素晴らしい秋の日が訪れる。なにも遠くに行かなければ紅葉が見られないわけでもない。都心からおよそ一時間半、点としての紅葉は十分ではないだろうか。
昼飯を終えて、裏の天覧山に登る。明治天皇が軍隊を閲兵したという、有難きお山だからこころして登らねばならない。と言ってもなんと197m、なんだけれど上りに弱い身としては、はあはあ、ぜいぜい、死ぬ思い。
あとで知ったことだが、一行の中に、驚くなかれ、90歳のおばあちゃんがいた。最初は登れるかな、と心配そうだったが、な~~に、ふたを開けてみたら、なんということでしょう、このおばあちゃんに楽々と追い越されてしまった。南無さん!
頂上からとばっちり飯能の街を見下ろす。秋の柔らかな陽ざしが燦々、気温ぬくぬく、まったく以て秋の秋らしい素晴らしい日。案外の数のハイカーがそちらこちらに陣取って、その日ざしを楽しんでいた。
さてさて、これで帰ることにするにだが、市立博物館で一揆と飯能戦争のレクチャーを受けることとなっている。また能仁寺の前に降り立って、博物館にいく。学芸員が30分ばかり説明してくれて、一同、大納得した。
最後に一揆勢が一番最初に結集したという飯能河原に行く。中州が大きく露出し、枯れ草が寝ころんでいる。なるほどなあ、これだけ広けりゃ、一揆勢の200や300、どってことないなあ、でも一揆は重罪、あとのことを考えれば、震えてしまうなあ!
そうしてまだ早い3時ころ、駅に向かった。秋の日は逆落とし、がっくりとうなだれた陽は西の方に落ちていく。それでもまあ、天気に恵まれ楽しい散歩であった。希望者が語らい、立川駅下車となって熱燗が旨い。
とでもなく短い動画練習(2023年の静止画を連結して)
忘日、「江戸文化の会」に参加。
御茶ノ水界隈を歩いた。
「江戸文化の会」は、今の時代に江戸の残り香を求め、それを掘り起こし、ゆるゆる巡るのが趣旨。今回まわった場所は、「東京都水道歴史館」「おりがみ会館」「湯島聖堂」「神田明神」「麟祥院」「湯島天神」などなど。
古いものがドシドシ消えてゆくこの東京、江戸の俤など、どこを探せばいいのやらと思う。ところがどっこい、主催者はそれを見つけ出し、なおかつその時代の有様の解説まで依頼してくれる。だから主催者はエライ! 感謝余って平頭である。
今回のその江戸らしさは、江戸の上水道、折り紙、湯島聖堂、神田明神、湯島天神などに残っていた。前回のそれは、相撲、花火、北斎だった。そういうものを探し出し、深く堀り下げ、目の前に展開してくれるのは、ほんとにありがたい。
まず「水道歴史館」へ行く。江戸時代の初めごろに、石の通水施設と木製の樋(とい)とを組み合わせ、江戸の街々に上水網を作り上げた。水を供給したのは、初期は神田川だが、後に、なんと延々45㎞に及ぶ玉川上水を完成させた。
江戸の辻々に水汲み枡を設置し、流れてきた水を使う。自然流下式だから流入口より流出口を少し高く作り、水を一定に溜め、なおかつ流出口が先へ行くほど地下深くに潜ってしまわないよう工夫されていた。う~む! これは驚きだ。
湯島聖堂は孔子を祀る廟、もともとは林羅山が像を祀ったものだが、綱吉が湯島に移したのだそうだ。幕府の公式学問は儒学、とくれば孔子であり、この地に昌平坂学問所が置かれた。それが明治政府に引き継がれ、東京大学その他の母体となった由。
だから日本の近代的学問、文化はここから始まった。大学校が発足し予備門(後、一高)に全国から俊秀を集め、お雇い外国人により教育し、そして留学させた。その俊秀を地方、下級学校に配置し文明を配った。司馬遼太郎の言う「分電盤」。
折り紙会館ではともかく驚いた。紙だけでこんな形を作り出せるとは! 人間技とは思えない。様々な動物の折り紙でさえ素朴に見える。江戸時代もおそらく、人々がこのように紙を折りたたんで、楽しんだことだろうと思う。
昼飯は御茶ノ水空シテ―という今どきの、こじゃれたお店が並ぶ場所。どうもなんだナ、自分の足が地についていないようで、そわそわするが、止むを得なければ仕方がない。悪い仲間がいてビールなどもチクと一杯。
そのあと、ニコライ堂へ行った。なあ~~にも知らなかったが、正教会の大聖堂なる由、正式には「東京復活大聖堂」と言うらしい。緑のドームと壁の縁取りがとても印象的だった。まるっきりの無知、門外漢だから信仰上のことはよく分からない。
中に入ると撮影禁止。厳粛でおごそかな静けさにに包まれていて、宗教の持つ力、みたいなものを感じた。皆はなにか説明を聞いていたが、自ら省略させてもらった。入ってくる人々は静かに十字を切り、ひっそりとたたずんでいる。
これは江戸とは無関係だけれど。
神田明神はとても美しい社であった。屋根の緑青色と壁の丹色がとてもよく調和している。境内は舐めとったようにきれいにされて、さっぱり感が充満。なにやら江戸っ子の心意気みたいなものを感じた。
さて、麟祥院には春日局の墓所があるという。山門から墓所まで矢印の案内が途切れなく、参拝者が多いことをうかがわせる。 特に女性に意人気があるようだ。なんで? と女性軍に聞いたら、そんなことも知らないの、やあねえ! と睨まれた。
なんでも家光の乳母であり、大奥を牛耳った人であるらしい。「お局サマ」という昔はやった揶揄のことしか知らない。目の前にある墓石の真中に穴が開いているように見えたが、これはなんでかな?
最後は湯島天神。梅で有名だけれど今はキクの季節、菊の衣をまとった美談美女が並んでいた。今を時めく(ときめかないかナ)、大河がドラマの流れだろうか。ただ、暖冬のせいか、菊の開花がイマイチのようで、綻びの衣装のように見えた。
秋の穏やかな一日、ゆるゆるとまわってとても楽しかった。数カ所でじっくり腰を据え、解説など聞きながら、というのは我々の身丈に合っているのだろう。「歩く会」の方は遮二無二ずんずん歩くだけだけれど、こちらの「江戸文化の会」は決して急がない。
とは言え、季節はしんねりむっつり、いつの間にか進んでしまう。時は立ち止まらない。つまり残された時が費消されていく。こうしてはいられない、淀んでいる場合じゃない、いい季節の内にどかどか出て歩かなくちゃあ!
動画練習(初めて3か月、進歩の影もなし)