神根神社 式内社 (和気郡) (original) (raw)

和気郡式内社は、1座です。神根神社(コウネジンジャ)。式内小社です。

和気郡 』は、Wikipedia では、

721年(養老5年)に赤坂郡より東部(吉井西岸地域)・邑久郡より北部・北東部それぞれ割譲し設置された藤原郡(**東野郡藤野郡**)が、788年延暦7年)に吉井川

境に西側を**磐梨郡、東側を和気郡**として分割して設置された。

当地は奈良・平安時代に活躍した**和気清麻呂**の出身地域であり、隣接する磐梨郡とともに豪族和気氏の勢力下にあった。

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岡山県神社庁』では、

社格 : 郷社

鎮座地 : 備前市吉永町神根本1147

御祭神 : 木花咲耶姫命

由緒 : 当社は延喜式神名帳(967)に神階従2位とある。

社格、郷社(郡内では1社だけ)祭神は木花開耶姫命、相殿=天照皇大神

境内末社=天神社(菅原道真)縁結成就を始め、除災招福、延命長寿、五穀豊穣、

旅行安全、諸願成就、学問、 病気平癒に霊験があらたかである。

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式内社調査報告 (皇學館大學出版部)』

( 加原耕作:岡山県総合文化センター主任 ) では、

【社名】吉田家本に「神根(カムネノ)神杜」、内閣文庫所藏本に「神根(カミネ)

神社」とあり、『大日本史』は吉田家本と同じく「神根神社」と訓んでゐる。

備前神名帳』神上金剛寺本には「正二位神根碑社」、同西大寺本・廣谷本及び

『國内神名位階記』(山本本)には「從二位神根大明神」とあり、廣谷本では

「神根(カウネ)」と傍訓(振りがな)がある。

『備陽國誌』(元文四年)、『吉備温故秘録』(寛政年中)、『東備郡村志』(天保年中)

には「神根神社」とある。現在は「神根(カウネ)神社」と称し、鎭座地の神根本も

「カウネホン」と呼ばれてゐる。

【所在地】和氣郡吉永町神根本一、一四七番地(旧和氣郡神根本村字西山、山陽線吉永駅

より四キロメートル)に鎭座してゐる。

神根本は古代の藤野郷のうちに属し(『岡山縣通史』)、中世には神根保と称した。

近世の神根本村は高二百四十八石五斗餘、田畑二十三町四畝餘、家数六十九軒、

男女三百七十五人(享保六年『備陽記』)であり、明治二十二年近隣三ケ村と合併し

神根村、昭和二十九年に吉永町へ併合された。

當社はもと現社地の東方五百メートルの字小美山(こみやま)に鎭座してをり、建久

年中に現社地に遷座したと傳へ、また「後一條天皇治安二年大覆を加へ以て今の社地に

移せり」ともいふ(文久元年「神根神祉祠官北川宗國善状」、明治四十二年『和氣郡

誌』)。

當社の氏子は吉永町神根本、今崎、高田、和意谷であり、昭和二十七年の氏子数は

一、四四二人、現在の氏子戸和は二七八戸である。

【祭碑】 『備陽國誌』には「祭開化天皇皇子大根王歟(か!)」とあるが、これに

封して『吉備温故秘錄』は「日本紀・旧紀等に開化の御子の中に大根王といふなし」と

し、古事記の若倭根子日子大毘毘命の御子に神大根王があるとして、「神大根王は

開化天皇の御孫なり。神大根の大の宇を中略して神根神社といふものならん。村名も

亦是に本づくか」としてゐる。『東備郡村志』も「所祭神神大根王なり。(中略)此王を

備陽國誌に開化天皇の皇子とするは非なり。日本紀にその名見えず。古事記・旧事紀を

考るに人皇九代開化天皇の皇子日子坐王より五世、息長宿根王第三の王子也。此神根保

に封ぜられて比地に居たまへり。其王宮の遺基此社地なりとぞ」としてゐる。

また別に、『吉備温故秘錄』には「鐸石別命を祭るといふ」とも記し、更に「或説に

云、垂仁天皇皇子大中津日子命とあり」とも記してゐる。鐸石別命は古代にこの地方に

勢力のあつた和氣氏の始祖とされてをり(続日本紀)、また大中津日子命は古事記に和氣

氏の本姓であつた石兂別公(磐梨別公)の祖とされてゐるために、和氣氏の本貫である

和氣郡藤野郷の地に鎭座する當祉の祭神とされたのであつた。

かうした近世の諸書の説に封し、文久元年(1861)に神根神杜祠官北川宗國は和氣郡

清水村大庄屋好本和七郎に宛てた書状のなかで、『民部省圖帳』に「神根神社二貢

五十八束有餘、同祭神木花咲耶姫'命……」とあるとして、祭神は木花咲耶姫命であると

述べてゐる。明治初年の『備前國式内書上考錄』その他にも、祭神は木花咲耶姫命

あると北川宗國の説を採り、近世の諸書に主張された祭神は否定されてゐる。

昭和二十七年の神社明細書には、祭神は木花開耶コノハナサクヤ)姫命、仲哀天皇

応神天呈、神功皇盾、天照大神豊受大神、素釜鳴命、伊弉諾尊伊弉冉尊

大己貴命、速玉男命、事解男命大山祇神とする。仲哀天皇以下は明治四十三年に

八幡神社等五社を合祀したため追加されたものである。

【由緒】 神根神社は三代實録の貞観七年(865)七月二十六日の項に「備前正六位

上神根神(中略)等並從五位下」とあるのが初見である。『備前神名帳』諸本及び

『國内神名位階記』山本本には前記のとほり「從二位社神根大明神」「正二位神根大明

神」とあり、『和氣郡誌』には「天正十八年十一月備前宇喜多中納言秀家卿家臣長船紀

伊守検地の節、数度の神位記、神田共悉く取り上ると云傳へ……」とある。

當杜は備前國の三宮とされ、寛文十年((1670)には岡山藩池田光政が和氣郡奉行

渡邊助左衛門に命じて社殿を改築し、社領二石九斗及び神根本村字鯉の河原の新田三反

歩を寄進したといはれる。字鯉の河原の新田は享保十三年(1728)九月の洪水によつて

流失し、そのため文久元年(1861)になつて祠官北川宗國によつて再興がはかられて

ゐる。

明治五年郷社に列し、同四十年一月二十七日神饌幣吊料供進神社に指定された。

明治四十三年五月には神根村字板屋の御崎神杜、字山津田の今伊勢神社、字門出の

八幡神社、字南谷の素蓄鳴神社、字和意谷の大山祇神社、字樫村の熊野神社を合祀して

ゐる。

備前國式内書上考錄』によると、社頭に櫻の古木があり、これを神木と云ひ傳へて

をり、そこが元の社殿のあつた跡であるとしてゐる。また、そこから凡そ二町ばかり

隔てたところに字鳥の木といふところがあり、元の鳥居の跡といひ、同所の「射場の

元」といふ田地は祭典の際に「流鏑馬の神事」が行なはれてゐた場所であると傳へて

ゐる。

現在の宮司北川正氏である。北川氏は寛文年中に北川亦左衛門が神根神社神主に

任ぜられ、以來子孫相繼(継)いで現在に至つてゐる。

【祭祀】 當社の祭日は現在、春祭五月十五日、秋季例祭十月二十三日、新嘗祭一二月

十五日となつてゐる。秋季例祭は明治七年には十一月十日であつたが、その後十月

二十三日に改められた。

古くは神輿三體があり、字鳥の木のお旅所まで御神幸が行なはれてゐたが、神輿の

喧嘩が絶えず、つひに廃止されたと傳へられる。字鳥の木には常時の輿臺と思はれる

平石がある。秋季例祭に高田地區(区)から奉納される獅子舞は十三種類の舞があり、

最近吉永町の重要民俗資料に指定されてゐる。この獅子舞は昔高田地區に疫病が流行し

たため奉納するやうになつたと傳へてゐる。昭和四十六年に神樂保存會(會長・國光耕作

氏)が結成され、獅子舞の保存につとめてゐる。

【境内地及び社殿】明治七年の『延喜式内神社取調書』によると、境内地反別は五畝

一三歩(旧境内反別二反九畝歩)であつたが、昭和二十七年の境内地面積は二、一四九坪。杉・樫・椿等の常線樹が多い。

本殿は寛文十年(1670)の建築で、間口一間・奥行一問、流造り、檜皮葺。

幣殿及び神饌所は間口四間・奥行二間、瓦甚。拝殿は問口五間半・奥行二間、瓦葺。

社務所は間口五間半・奥行三間半、瓦葺。他に随神門(O.五坪)がある。北隅には末社

天神社(祭神菅原神外十一柱)、御靈社がある。御靈祉は昭和二十五年九月に「國家公共

に盡(尽)した人の神靈」(神社明細書)を祀つたものである。

【遺物等】 一部破損があるが、江戸初期の作と思はれる木造狛犬一對と「寛文下文」

の版木一枚がある。「寛文下文」は岡山藩池田光政が神儒の興隆を説いたもので、

文久元年(1861)當社祠官北川宗國が、享保十三年(1728)の洪水で流失し放棄されて

ゐた神田の復興をはかるため、岡山藩に願ひ出て「御國中在町御免の勸(勧)化被仰

付」た際に版を起したものである。

参道の鳥居には「嘉永二年乙酉四月吉日氏子中」の銘、同所の燈籠には「天保十二年

丑十一月十日當邑若連中」の銘、拝殿前の石造狛犬には「嘉永二歳次己酉氏子中」の

銘がある。本殿正面の「神根神社」の額は和氣郡北方村(現吉永町北方)の出身で、

詩人として知られた武元登々庵(文政元年没)の筆になるものである。

以 上