inquirenda inquiremus (original) (raw)

このあいだスミスの『道徳感情論』を読もうと、翻訳を見ていたら、とにかく意味がわからない。原文に照らしたところ、翻訳に多くの間違いがあることがわかった。ツイッターでしらべると、職業哲学者数人のアカウントによって「わかりやすい」とか「直訳」とか評価されている*1。わたくしがよくないと評価するものを、どんな評価基準によってか人々は、よいと評価する。こんなことばかりである。

とはいえ、とりあえずごく一部の切片だけれど、哲学書、あるいは思想書のなかでもとりわけて理論的なものを訳す(というより、その前段階、前提として、読む)ときに、どういうことに気を配ってほしいかを示すのに、よい例と思った。とりあげさせてもらう。つぎは、高哲男訳『道徳感情論』(講談社)の30–31頁から引いている。番号はわたくしが振った。

[1]他人が何を感じているか、我々はそれを直接体験することができないから、他人が心を動かされる仕方を知る方法は、同じ状況にあれば自分が何を感じるかを想像する他にない。兄弟が拷問台にかけられていようと、我々自身が安楽でいるかぎり、彼の苦しみが何であるか、我々の感覚器官がそれを教えてくれることはない。[2]感覚器官が、自分の身体と離れて作用することはなく、またできるはずもない。兄弟が抱いている感覚がどのようなものかをめぐる観念は、もっぱら想像によるものである。感覚器官の機能は、もし我々自身がその立場にあった場合、我々の感覚器官が感じるようなものを我々に想像させる、という仕方に限られている。我々の想像力が察しとるのは、兄弟の感覚器官に生じる印象ではなく、自分自身の感覚器官に生じる印象だけである。[3]我々は、想像によって自分自身を彼の立場に置き、同じ拷問のすべてに耐えると思い浮かべ、それをまるで彼の身体であるかのように理解し、こうして或る程度まで彼と同じ人物になる。その後で、彼が感じていることについて一定の観念を形成し、程度こそ劣りはするが、多少とも彼が感じ取っているものに似た何かを感じさえする、というわけだ。彼が味わう死の苦しみは、こうして自分自身によって痛烈に感受され、我々がこのように受けとめて自分のものにしたとき、我々の心を最終的に動かし始める。そのとき我々は、彼が感じているものを思い浮かべて身震いし、身の毛がよだつのだ。というのは、いかなる種類の苦痛や苦悩であれ限りない悲哀を呼び覚ますように、そのような状態にあると思ったり想像したりすることが、理解の鈍さに応じて、ある程度までは同じ情動を引き起こすからである。

番号の箇所ごとに原文と照らしながら検討したい。原文は Knud Haakonssen編 The Theory of Moral Sentiments (Canbridge University Press) からである(訳者が参照したのは Glasgow 版の第6版とのこと、そちらも確認したけれどもとくにテクストに差異はない)。わたくしの訳文ものせよう。多少文章スタイルがつたないのは許してもらおう。今回そこに力点はない。その後に高訳にコメントしてゆく。こういう結構である。

[1]について

原文

As we have no immediate experience of what other men feel, we can form no idea of the manner in which they are affected, but by conceiving what we ourselves should feel in the like situation. Though our brother is upon the rack, as long as we ourselves are at our ease, our senses will never inform us of what he suffers.

私訳

わたくしたちは、他人が感じることをじかに経験するわけではないから、おのれなら同じような状況におかれたら感じるはずのことを思念するよりほかのやりくちでは、当の他人が感受するしかた、の観念を形成できません。わたくしたちの兄弟が絞首台にかけられていようにもせよ、おのれが安穏の境涯にあるあいだはずっと、わたくしたちが、おのれの感覚の報せによって、彼の苦しむところを知る、ということは決してないのです。

コメント

1/(1.1)全体を通して、conceive や conception の訳語がぶれている。ここでは「想像する」としているけれども、あとには「観念」とか「思い浮かべ」るとか「理解」とか、ずいぶん自由に訳されている。(1.2)これらの語がそれほど重要でないならともかく、(術語かどうか、ということは気にしていないので注意せよ)、スミスのここの議論にとっては重要だから、一貫した訳にしてもらわないと読者は混乱しやすい。じっさい、訳し分けられているせいで、スミスの議論は不明瞭になってしまっている。(1.3)というより、訳者はここでの議論を理解できていないから、このように自由に訳してしまえるのだろう。とくに、ここで「想像」と訳すのは、スミスの議論が理解できなくなるから、やめてほしい。このしだいは追って述べる。(1.4)私訳では「思念(する)」で通した。

2/(2.1)ここではまず、経験と思念が対比されていることを掴むべきだ。つまり、他人が感じていることをじかに経験はできない、他人が感じているとおりにそれを感じることはできない。どんなしかたで他人が感じるかの観念 idea を得るには、他人と状況がひとしい際のおのれの感じを思念するしかない。(2.2)おのれの兄弟の例は、きわめて身近な人物のきわめて切迫した感じ方を論じて議論のポイントを明確にしている。どんなに身近な他人の感じ方でさえ、なるほどじかに感じることはできない。つまり、感覚という能力によって、当該の思念を形成することはできない。そのようなことが可能だとしたら、それは感覚によるのではない、ということだ。これが次につながる。(2.3)以下続けて、感覚は(経験の範囲、その限りの思念についてはできるかもしれないにせよ)経験の範囲を超えた思念はつくることができない、ということが論じられてゆく。感覚は経験!想像は思念!のような言葉のイメージの対応を教えているのではなく、スミスはきちんと事柄を論じている。それがわからないひとはこういう難しい文章を読んでも無駄であろう。

[2]について

原文

They never did, and never can, carry us beyond our own person, and it is by the imagination only that we can form any conception of what are his sensations. Neither can that faculty help us to this any other way, than by representing to us what would be our own, if we were in his case. It is the impressions of our own senses only, not those of his, which our imaginations copy.

私訳

感覚はわたくしたちを、わたくしたち自身の身柄を超えては決してゆかせませんし、決してゆかしえません、それで、わたくしたちが兄弟の感応の何ぞやの思念を形成しうるのは、ひとり想像力によるというわけです。この能力も、こういう向きにむけてわたくしたちにとり役立つのは、もしわたくしたちが兄弟の立場にあったなら、わたくしたち自身の感応は何であったろうか、をわたくしたちに表象する、というより他のいかなしかたでもありえません。わたくしたちの想像力が写しとるのは、ひとりわたくしたち自身の感覚の印象であって、兄弟のそれではないわけです。

コメント

3/(3.1)その点の理由が記されている。感覚はわたくしたち自身の身柄 person を超えてわたくしたちをおもむかす carry ことがない!(3.2)これを「感覚器官が、自分の身体と離れて作用することはな」いとお訳しになる。「自分の身体を離れて作用する」とはどういうことか? 感覚器官が自分の身体に備わっている以上、よほどおかしく極端な立場をとらないかぎり、作用するのにおのれの身体を離れないことは自明だろう。(3.3)思うに、carry us beyond our own person といわれることの意味が、お分かりでない。感覚では、他人の感じ方は兄弟のそれでさえ知ることができない。それはなぜか。感覚は、おのれの身柄のおかれる境遇の外にはつれていってはくれないから、というのだ!感覚の作用のしかたの話などではない。感覚が何を教えてくれないのかにかかわる話である。

4/(4.1)感覚ではないなら何によって知るのか。それは想像力によるのだ、とスミスはいう。(4.2)先に(1.3)で予告したのはこの点である。わたくしたちは、他人の感じるところを経験することはできない。だから他人の感じるところを知るには、それにつき何らかの思念を形成するのでなければならない。しかし、感覚は、おのれを超えて、いうなら経験を超えて何かを思念させるわけではないから、これではない。そういう思念 conception を可能にするのは、想像力 imagination だ、というのである。conception を想像と訳したのではこのとおり意味がわからなくなる。

5/(5.1)that faculty を imagination ではなく senses を指すものと訳している。何もわかっていない証拠であろう。(5.2)つぎの文で、想像力の参照先が他人の感覚印象ではなくおのれの感覚印象に限られる、ということの意味が、これではわからなくなる。あくまで想像力の話をしている。(5.3)感覚は他人の感じるところを教えてくれない。想像力がそれを可能にする。ざっくりとはこういう文脈である。ここでは想像力の知らせ方に留保をつけているわけだ。つまり、想像力も、他人の感じるところを直接知らせるのではない。この点は感覚と同じである。そうではなく想像力は、もしおのれが他人の状況におかれたら、おのれはどう感じるだろうか、という、条件文の構造をもった思念をかたちづくり、あくまで、他人と状況が同じときにじぶんの感じるだろうところ、を知らせる。(5.4)というか faculty を「機能」と訳しているのであれば、それは正直やめてもらいたい。機能ではなく、能力 (facultas) である。とくに近世のころの認識論というのは、大筋、能力論として展開された歴史がある。理性というのはあれからこれへの推論をつかさどる、想像力というのはイメージを切り貼りして何かをあらわしかたどる、知性というのはものごとの本質をきりだすようなしかたでそのものごとをとらえる。ざっくりとはこういうように能力のはたらきを分類し、詳解し、その組み合わせで認識の成り立ちや導き方を論じる分野がかつてあった。ここで指されているのは、心の能力という独特の存在者であって、その能力の機能や総体としての心の機能(といえるなら)のことではない。

6/(6.1)copy を「察しとる」と訳す。なぜこんな訳にするのかがわからない。近世までの霊魂論(あるいは、それにかかわる、或る種の能力論として展開された認識論)の基本的なところがわかっていないのではないだろうか?(6.2)想像力は、文字通りコピーし、写しとるのである。おのれの感覚印象を呼び起こすといえど、感覚器官が直接に何かを受容して何かを感覚するのとはわけがちがう。感覚器官の得てきた印象を原本として、それを写して表象 represent する、そういう役割がイマーギナーティオにはあてがわれている。このくらいのことはこの時代の哲学者の書いたものを訳すようなひとには、ごく当たり前に知っていてもらいたいのだけれど……

[3]について

原文

By the imagination we place ourselves in his situation, we conceive ourselves enduring all the same torments, we enter as it were into his body, and become in some measure the same person with him, and thence form some idea of his sensations, and even feel something which, though weaker in degree, is not altogether unlike them. His agonies, when they are thus brought home to ourselves, when we have thus adopted and made them our own, begin at last to affect us, and we then tremble and shudder at the thought of what he feels. For as to be in pain or distress of any kind excites the most excessive sorrow, so to conceive or to imagine that we are in it, excites some degree of the same emotion, in proportion to the vivacity or dulness of the conception.

私訳

想像力によってわたくしたちはおのれを兄弟の状況におきます、おのれが寸分違わぬ拷問を耐えしのぶ様を思念します、いわば兄弟の身体に乗りこみ、兄弟と同じ或る程度身柄になり、ここから汲んで兄弟の感応の或る観念を形成し、兄弟の感応に、比べると度合いは弱いにしても、まったく似つかないということはない或るものを感じさえするのです。兄弟の悶え苦しみの数々、これがかくてわたくしたちに切実に感じられ、かくてわたくしたちがこれを引き受けおのれ自身の悶え苦しみとなすようになると、これはいよいよわたくしたちを触発しはじめ、かくてわたくしたちは兄弟の感じるところを思うにつけわななき身を震わします。どんな種類の痛みや苦しみにせよ、そういう痛みのうち、苦しみのうちにあることがきわめて度を超えた嘆きを引き起こすのと同じく、わたくしたちがそのうちにあると思念すること、あるいは想像することも、その思念が生き生きとしているかどんよりとしているかに応じて、同じ情動を或るていど引き起こす、というわけです。

コメント

7/(7.1) conceive をこんどは拷問に耐えると「思い浮かべ」るとお訳しである。ここもきちんと同じ言葉で通して訳してくださらないと困る。(7.2)スミスはこれまでの箇所で、他人と状況が同じ場合におのれの感じるだろうところを conceive するには感覚では用をなさず、想像力こそがその役目をつとめる、と論じている。そこを論じてここでようやく「想像力によって (by imagination) という書き出しで、おのれが拷問に耐えるさまを conceive する、と述べることができている。(7.3)訳語を通さないと、このポイントがまったく見えなくなる。論理のはこびがすこしもわからない訳になっては困る。(7.4)最後の箇所には to conceive or to imagine といわれるけれども、これとて単純に conceive と imagine を言い換えているわけではない、ということが、ここまで読んできた方ならおわかりだろう。スミスは、あくまで、わたくしたちが他人と同じ状況、つまり拷問の場合には痛み苦しみ、のうちにある、と思念する、というケースを問題にしているから、ここではその役目を果たす唯一のものが想像力であるということを前提に、安全に、想像する、と言い換えることができている。こういう繊細な論述がわからないようでは困る。訳者は多分わからず、ここを単純な言い換えととったのではないかしら?それで、冒頭の、conception を想像と訳してしまう事態になったのではなかろうか。

8/(8.1) in proportion to the vivacity or dulness of the conception を「理解の鈍さに応じて」というのは、趣味の問題もあるかもしれないけれども、the vivacity を抜かしていて単純に誤訳にみえる。どれくらい小さいかに応じて、と、大小に応じて、では、いっていることに論理的な違いがあるかはともかく、レトリカルな違いは出てくるはずで、前者のいいまわしは小さなものをとることにこそ重点をおいた話ぶりになり、大きいか小さいかにニュートラルな語り方ではないようにみえる。それと同じことがここにもいえると思うけれど、断ったとおり趣味の部分もあるかもしれず、強く述べるつもりはない。(8.2)なおここは「理解」である。やめてほしい。

*1:直訳ということのふくみは大変微妙。しかしわたくしの思うに、直訳というのは意訳に対していわれるから、意を汲んで工夫して訳すのではなく、あくまで文法や語彙のとおりの忠実に訳す、という、そのかぎりでは肯定的意味でいわれると思われる。特に肯定的に使われない場合、否定的な文脈で使われる場合でさえ、以上の意味で肯定的に評価されるのは前提で、しかしそれでは生硬でよろしくないとか味気ないとかいろんな話が上に乗ってくる。

ホッブズは,とにかく人間が互いに互いをどう評価しあってどういう手に出るかという話を好んでする.これらは抜群におもしろい.ホッブズは論証にも熱心で,そういう面のおもしろさもあるが,やはり人間観察の秀逸さがおそろしく光るひとでもある.折に触れてちまちま紹介できたらよいと思っている.

マウンティングっぽい話をちゃんと考慮に入れている箇所をあつめてみたい.他にもいろいろあった気がするが,すぐに思い出せない.見つけたらここにリストしていく.

①武勇伝の競い合い

もし一堂に座して小咄を物語るという運びになり,うちひとりがおのれについて一発かましますと,残りのひともめいめい,われもわれもと競って,おのれについて語ります.もしひとりがなにかおどろくような話を物語ると,残りの人々もおどろくべきことを,手持ちにあれば口に出し,手持ちになければでっちあげるわけです.quod si accidat considentes historiolas narrare, vnus autem eorum de se aliquam proferat, vnusquisque caeterorum cupidissime quoque de se loquitur; si vnus mirabile aliquod narret, caeteri miracula, si habent, referunt, si non habent, fingunt. (De Cive, 1.2)

デカルトは明晰判明という標語ともによく知られています.標語そのものについてははっきりとかなり誤解されているにせよ,ともかく,明解に物事を論じるひととして知られているところがある.学生時代,夏休みの読書として『方法叙説』を読んだことがあるひとなども多いでしょう.あらためて哲学に関心をもつようになってから,『叙説』もそうだけれども,『省察』『哲学原理』『情念論』などを読んでみたひとも多いかと思います.じつは『情念論』をのぞくと,これらの主著は,日本語訳で文庫化されている部分はごくわずかなのですけれど,ともかくその抜粋の部分だけでいっても,読んだことがあるひとはそれなりの数になるはずです.

読んでみてどうでしょう.あまりにもみかけがとっつきづらいカントの『純粋理性批判』やヘーゲルの『精神現象学』よりは,読みやすい感じがした,というひとも多いでしょう.そのなかには,ずいぶんおもしろく感じた,というひともいるはずです.しかし同時に,或る程度より先はわからない,という感想をもったひとも,少なくはなさそうです.けっきょく,このひとは本当のところ何をやっているんだろう,という印象になる.

もっともこれは,デカルトが或る程度以上に分明な書き振りの著者だからこそそういう印象を与える,だいぶわかるからわからないところははっきりとわからない感じがする,という話である面も捨てきれないので,必ずしもデカルトが本当に不明瞭な哲学者というわけではないだろう,とは思います.とはいえ,もっとわかりたい,という気持ちになるのも,自然ですし,たしかではありましょう.

何かの芸事や技術に,よく親しんでいるひとには,もはや当たり前の,ことさら意識する機会もなくなった,それでも,そこを外すとすべてが台無しになる,そういうポイントを指し,「勘所」と呼ぶことがあると思います.デカルトをよく読む人間からすると,当たり前だし,専門家どうしの会話でわざわざ言挙げもしないけれど,どこか大事にされている,そういうことはそれなりにあります.デカルトのかんどころを,時折紹介していこうかな,と思います.なにも,そのかんどころを押さえれば,ただちにデカルトをものすごく読めるようになるとか,こんどは読まなくてもじゅうぶんであるとか,そういうわけではないのですけれど,押さえると押さえないとでは,読みかた,楽しみかたがずいぶん変わってくるだろう,と思います.

今回はとりあえず予告までです.予告だけで倒れないといいのですけれど……

リヴァイアサン』17章は,人々が自然状態を出て国家を形成するわけとさまとを描き出す箇所です.そのいちぶに,人間は政治的動物でない,ということの語りを含みます.つまり,人間以外の動物のなかには,国家などナシでも上手く共同生活をなしているのがあるのに,なぜ人間はできないのか,人間もできるのではないか,という想定反論をつぶしておくのです.その基調は,人間はそうした動物よりも,生半可に賢いので,いろいろと余計なことをするところがあり,それが一致団結の維持の妨げになる,というにあります.だから,そうした動物のばあいは,生来そのままでも協調してゆけるけれど,人間はそうではなく,人々の集団にたいして共通して威圧的にはたらく権力というものが必要そうだ,という結論に持っていきます.

It is true, that certain living creatures, as Bees, and Ants, live sociably one with another, (which are therefore by Aristotle numbred amongst Politicall creatures;) and yet have no other direction, than their particular judgements and appetites; nor speech, whereby one of them can signifie to another, what he thinks expedient for the common benefit: and therefore some man may perhaps desire to know, why Man-kind cannot do the same. To which I answer,

或る種の動物,たとえば蜂や蟻は,たがいどうし社会めかして生活している,そういうわけで,アリストテレスの手で,政治的動物のうちに数えられているし,それでいながら,個体個体の判断や欲求をのぞくと他には指針を持たないし,くわえて言葉も持たないから言葉をもちいて或る個体が他の個体にむけ,おのれが何を共通の便益に資すると思うか,を伝達するというもかなわない,以上はまことですし,なぜ人間のばあいは同じようにできないのか,を知りたいと思う方が万一いらしてもおかしくはありません.こちらに次のとおりお答えしておきます.

First, that men are continually in competition for Honour and Dignity, which these creatures are not; and consequently amongst men there ariseth on that ground, Envy and Hatred, and finally Warre; but amongst these not so.

一に,人々は名誉と尊厳とをもとめて絶えず競争に身をおきますけれど,件の動物にこのようなところはありませんし,そのすえ人々のあいだではこの点に根ざして嫉妬,憎悪,しまいは戦争,が生じますけれど,件の動物のあいだではそうではありません.

Secondly, that amongst these creatures, the Common good differeth not from the Private; and being by nature enclined to their private, they procure thereby the common benefit. But man, whose Joy consisteth in comparing himselfe with other men, can relish nothing but what is eminent.

二に,件の動物のあいだでは,共通善が私的善から離れることがありませんし,自然本性によっておのれの私的の便益に仕向けられており,この仕向けられるにより共通の便益を追求することになります.しかし,ひとは,といいますと,その楽しみの本然はおのれ自身を他人と比較するにあり,抜きん出ている点以外は何もおもしろく思えないのです.

Thirdly, that these creatures, having not (as man) the use of reason, do not see, nor think they see any fault, in the administration of their common businesse: whereas amongst men, there are very many, that thinke themselves wiser, and able to govern the Publique, better than the rest; and these strive to reforme and innovate, one this way, another that way; and thereby bring it into Distraction and Civill warre.

三に,件の動物は,ひとのばあいのようには,理性を用いることがありませんので,おのれらの共通の事案を実施するうちに,何か間違いをみてとることもなければ,みてとっていると考えることもありません.これに対して,人々のあいだには,他の誰より賢く,すぐれて公共を統治するに能あり,と自負するのがあまり多く,この人らは,或る者はこれのしかたで,或る者はあれのしかたで,と改造と革新とに躍起になり,かくて不和と内戦とを世にもたらします.

Fourthly, that these creatures, though they have some use of voice, in making knowne to one another their desires, and other affections; yet they want that art of words, by which some men can represent to others, that which is Good, in the likenesse of Evill; and Evill, in the likenesse of Good; and augment, or diminish the apparent greatnesse of Good and Evill; discontenting men, and troubling their Peace at their pleasure.

四に,件の動物は,おのれの欲求,その他の感情をたがいに知らせるにあたり,音声を用いることがあるにはあるにせよ,しかしながら,他人にむけ,善いものを悪のみかけで,悪いものを善のみかけで見えるようにし,善悪の一見の大きさを増やしあるいは減らし,かくて人々の不満をかきたてその平和と喜びとを乱す,こういうしごとに用いる,言葉の技法を欠いています.

Fiftly, irrationall creatures cannot distinguish betweene Injury, and Dammage; and therefore as long as they be at ease, they are not offended with their fellowes: whereas Man is then most troublesome, when he is most at ease: for then it is that he loves to shew his Wisdome, and controule the Actions of them that governe the Common-wealth.

五に,非理性的動物は,権利侵害と損害とを区別できませんし,それゆえ,安穏としているうちは,仲間に腹を立てることもありません.これに対して,ひとは,といいますと,安穏きわまるときに厄介きわまる,というのも,好んでおのれの思慮を見せびらかし,国家を統治する者の行為を操りたがるのは,まさしくこういうときだからです.

Lastly, the agreement of these creatures is Naturall; that of men, is by Covenant only, which is Artificiall: and therefore it is no wonder if there be somewhat else required (besides Covenant) to make their Agreement constant and lasting; which is a Common Power, to keep them in awe, and to direct their actions to the Common Benefit.

最後に,件の動物の一致は自然のものですけれど,人々のそれは,ひとり約定によるもの,つまり人工のもので,それゆえ,人々の一致を安定させ維持させるにあたり,約定に加えて他の要素が求められるとしても,不思議はありません.この要素は,人々を威圧し,その行為を共通の便益とみちびく,共通の権力といったものになります.

省察』はデカルトの哲学的主著になります.懐疑を主題とする「第一省察」,自己のありさまを主題とする「第二省察」に比べたとき,「第三省察」の一見の難しさはたいへんなものです.じつは「第一省察」「第二省察」についても難しさを語ることはできますけれど,多くのばあい,デカルト学を修めないひとにとって,そもそも「第三省察」は話のポイントと流れを追うだけでひと苦労,そして追えずに挫折してしまう,という感じであろう,と思います.

わたくしが学部生のときに,私家版としてつくった「第三省察」の目次を公開しておきます*1.これは,当時,卒論用の進捗報告会でお披露目したことがあるものです.今からみると,直したいところもあります.しかし,いったんこのくらいのものとして捉えて,読み手が微修正してゆく,というのでよいだろう,と思います.多少表現をなおした以外は,実質当時のままです.

なお,かっこ内は,Adam-Tannery(AT)版デカルト全集第7巻の頁番番号と行番号とを指定しています.つまり,「11, 11–22, 22」は,11頁11行目から22頁22行目までの範囲を指します*2

1 私から他の事物への道程の模索

1.1 なお規則の身分を得ない明証性

1.2 観念のはじめの道とその袋小路

1.3 観念のもうひとつの道の整備

2 私のもつ神の観念から神への道程

2.1 観念の考察から神の第一実在証明へ

2.2 第一実在証明への註釈

3 神の観念をもつ私自身から神への道程

3.1 私自身の作者の探求から神の第二実在証明へ

3.2 残余の考察と本日の省察の締めくくり

(学費値上げ 反対緊急アクション)さん発信の署名 (東大の学費値上げに反対します)に,微力ながら,賛同の署名を寄せました:

https://chng.it/2ZJkmtvRPk

コメントも寄せようかと考えましたけれど.最低限のことでも書いていたら,やや長くなりました.そう長いコメントを書いているひとは見当たらなかったので,迷惑かもしれないとも思いますから,やめました.かわりに,こちらに賛同の理由を記しておきます.枚挙はできませんけれど,一部をのべますと以下です.

1/ 今回の学費値上げ案の正当化は不十分にみえます.何かに必要なお金がある,と仮定しても,ひとりここからは,そのお金を確保するのに,他でもなく,学費を上げる,という手立てがとられるべきである,というは,出てきません.他にどのような手立てがとりうるのか,そのそれぞれの順序はどうか,等々,この点どのような考慮が働いたのか,を,大学当局は隈なく詳らかにし,それが正しい考慮である,と示すべきです.しかし,その責任が果たされているとはみえません.

2/ 今回の学費値上げ案について,当局から大学構成員へのじゅうぶんの説明が行われた,とはみえません.案の捻出までの考慮のすべてが,構成員に明らかにされたうえで,これをもとにした構成員の議論が待たれるべきです.それを欠いたまま何ごとかを決定しよう,というのであれば,構成員を含めた大学のありかたとして,理に適いません.

3/ 今回の件に限らず,学費の値上げには原則として体系的に反対します.学費を値上げすればそのぶん,入学の門戸は狭まる,と予想されます.大学の学費はすでにいま大変高価であり,つまりすでにいまかなり狭い門戸であるわけです.これを広げる向きの動きならともかく,さらに狭めかねない,となれば,とても容認できるものではありません.

4/ 総長対話後の学内抗議集会と時を同じくしての警察導入以後,このふるまいががんらいいかな由因によるのであれその後,大学当局の動きには,大学内外問わず,良識あるすべての市民の強い不安と不信と失望とを招くものが目立ちます.抗議集会への実力を伴う牽制を図った,とみられてもしかたのない,みられざるをえない,ふるまいについて,当局はその疑念を払拭するだけの,それに足りる弁明を,まだ行なっていない,と思います.その疑念が晴らされない以上,また,晴らそう,という構えを当局がなぜかとれていない現状,これは,当局の意思決定に不確かなところがある,との推測を促すに足りるのであり,もって,今回の案への反対を少なくとも目下支持する十分な理由となります.当局は,不名誉な疑惑を晴らすべく,全力を尽くして諸事象とその過程を,全容にわたり調査・公表し,学生その他市民の問いにも答えるのでなければならない,と考えます.

以下の記事がたまたま目に入ったので,これを読んだ.

東大安田講堂に学生侵入、警備員けが キャンパスでは値上げ反対デモ:朝日新聞デジタル

先日,東京大学では,学費値上げ検討に関する総長対話なるものが行われたという.オンラインで行われ, これにかんして東京大学本郷キャンパスでは学生の反対集会が開かれたという.その周りで,警官が来るだの,何だのといろいろな話が後から話題になっている.これも,表題のとおりの何らかの話を報じようとするものである.

そのなかで,つぎの一節は,特筆に値する.このような文章をさらりと挿入できるのだから,プロの新聞記者というのも舐められたものではない.

東大を巡っては、大学が学内会議で来年度に入学する学生から授業料を引き上げる案を示し、一部の学生が抗議デモを実施し、大学側と対立している。21日夜は、学生と藤井輝夫総長が意見を交わす集会「総長対話」がオンラインで開かれ、同キャンパスでは反対する学生らによる集会などが開かれていた。

「大学」という言葉の曖昧さをうまくつかい,大学と大学でない学生,という構図をつくっている.そのふたつの関係は「対立」という言葉で表され,この構図はより先鋭的に強められる.大学の決めごとにむけて一部の学生にとれるアクションの様態は対立とされる.これは「総長対話」という表現と響きあう.あくまで対話というルートを選んだ〝大学〟に対して,かの学生らは大学の構成員として同じ態度で応じるのではなく,あくまで対立というべつのルートを選んだ,という印象が読み手には植えつけられる.

抗議デモの主体を「一部の学生」と書くあたりがすさまじい.なるほど全員でないのだから自明に一部だし,さらには全在学生の1割にも遥かに満たないのだろうから割合の意味でも正しいのだろう.しかし,これが,どういう配置でわざわざ挿入された表現かをみよ.明らかに多くの学生が,デモとは無縁でも,陽に値上げに反対の声をあげている.また,沈黙している分もあわせれば本来,反対意見の持ち主は相当数いると想定されもするだろう.そういう事実や高い蓋然性で推定できることに,一言コメントさえしない,という,この巧妙な文章配置に着目するべきである.

この配置のなかで上のような表現をとると,「一部の学生」について,たんに事実を表す以外に,隠微な政治的効果をもたらす.「一部の学生」と暗に対比されているのは,とうぜん,抗議デモに参加しないほとんどの学生である.かれらは,この記者一流のレトリックによって,もはや値上げ反対の声をあげていないことになっている,ということに注意せよ.さらには,暗黙の同意の担い手にさえされている.

かくて,多くの学生は値上げの方向を暗黙に支持している,ないしはそれに反せず納得している,という印象が,つまりは,そういう支持や納得を得るだけの〝大学〟からの説明や合意形成過程が存在した,という印象が読み手の頭のなかに滑り込まされる.こういう理解のうえに,「一部の学生」が今やどう理解されるかはいうまでもない.

素直に読んでしまえば,なんてことはない.筆者が上で読んだ読み方は,たしかに穿った読みである.この読みに照らして元の文章を読むと,悪意を仮定しなければ,たんにところどころ拙く抜けがあり配慮に欠けた程度のものとしか思えないだろう.ただし,いちどこうして悪意を仮定しての読みを介さずに,ほんとうに素直に読んだとき,ないはずの(!)悪意に操作されないひとはどれだけいるだろうか,ということをまじめに考えるとよい.